辿る

 廃墟を出たあとの心境がそう見えさせるのか、曇天が重くし掛かってくるようだった。


 レオンとスヴェンは、薄氷の張った川に踏み入っていた。いまだ信じられないような思いである。もう、かなり気温も上がる季節のはずなのだ。それなのに、リューネブルクの周辺はまるで、極寒の“水の季節フリーレ”かのように冷え切っている。川辺に生えたあしなども、生きているようには見えなかった。


 スヴェンがにわかに、川の中に手を突っ込んだ。何かを引きずり出す。また、魚の死骸だった。もう同じようなものは嫌というほど見つけている。


 ここもだめか、というスヴェンの呟き。レオンも頷いた。街からどれだけ離れれば、生きている命に触れることができるのか。漠然と、それを知りたくてやっていることだった。しかし街を出て一日、まだ“死の風エンデ”の痕は残っている。


 屍を投げ捨て、二人で川から上がる。靴を脱いだ足は冷え切っていた。


 土手の上、少し離れたところにルカがいて、中空の一点を見つめるようにしている。目の前の光景に、それほど心は動かされていないようだ。逃げ出す機会をうかがっているのなら、そろそろ妙な素振りを見せてもおかしくないころである。しかし、なぜか彼はそうしなかった。


 スヴェンもそれが分かり始めたのか、彼の縄を常に自分に結び付けるようなことはしなくなっていた。このわっぱが何を考えているのかわからん、と彼は言ったが、レオンも同じような思いである。もしかしたら、何も考えていないのかもしれない、とも思った。


 川辺から土手を上がり、街道の走る草原に戻る。馬が、一頭増えた。リューネブルクで打ち払った賊徒のものだ。放置されていたものを、そのまま使った。適当なところで草をんでいる。調教されていた馬のようで、指示はよく聞いた。


 リオーネが焚火のそばで、街で出会った修道女のはなしを熱心に聞いていた。修道女フリーダの知識には並々ならぬものがあって、おおよその古典や伝承、伝説には通じている。またそれを、平易な言葉で語って聞かせているようだ。リオーネは、飽くことなくはなしを聞いた。書物で読むのとは違うのだろう。


「俺が昔、長老どものはなしを聞いていたときも、あれほど熱心ではなかったぞ」


 二人の様子を見つめるレオンに、スヴェンが語りかけてきた。どこか、含みのある笑みだ。街で賊を前に見せたくらい顔は、もう消えている。


「奇妙な旅になった」


「よく言ったものだ」


「軍人がひとりに、修道士がふたりだぞ。しかも一方は短剣を振るい、一方は賊に捕らわれていた女性にょしょう


 言い終えるころには、レオンは笑ってしまっていた。そう言う自分も小領主である。加えて、妹は魔物から身を狙われている。最も奇妙だと言われるべきは自分たちなのかもしれない。スヴェンの笑みに込められた皮肉を、レオンはようやく感じ取った。


 リオーネは自分に戻った記憶に、まだ混乱している。フリーダのはなしをこれだけこうとするのも、心の中の落ち着かないものを紛らわせるためなのかもしれない。


 彼女が取り戻した記憶は、断片のようなものだった。話すことの繋がりが見えてこない部分が、かなりある。それでも大きくまとめるなら、記憶は二つに分かれていた。


 ひとつは、暗い洞窟と暴風の記憶。おそらくウルグの記憶だろう、と言うと、リオーネも頷いていた。ただ、彼女自身が祈祷を行っていたことが示す意味、つまり降竜の儀の主たる役割を自分が担っていた、ということには、表情を曇らせた。


 竜の力を求めるときに行われる、禁忌の儀式。ただの祈祷ではない。多くの場合、不老や不死を願う者が侵す禁忌とされている。青の竜は、生命いのちを司る竜であるからだ。他にも、剣に聖性を持たせるためだとか、死んだものをよみがえらせるためだとか、いわくはいくらでもある。共通して言えることは、その儀式を行うのは、たとえ聖職者であっても禁じられている、ということだ。法があるわけではなく、ただ忌むべきこととされているのである。


 そのことは、聖典を読めばすぐにわかる。だから、リオーネも気が気でならないのだろう。自分がかつて行っていたことが禁忌であったかもしれない、となれば当然である。


 もうひとつは、彼女のいわく、一面が灰色の景色。水の音。寒さ。傍らにいる、自らの母。


 こればかりは、レオンにも理解できなかった。リオーネも、一度にそれらが記憶の中から立ち昇ってきたという感じで、はっきりとした自分との結びつきは感じられないのだという。ただそこにいたのが自分の母であるというのだけは、間違いないことのようだ。


 レオンがぼんやりとそのことを考える間にも、数名の旅人が連れ立って目の前を過ぎていく。


 自然の中に生命いのちは感じられないが、街道には人の移動が見られるようになっていた。レオンらを物珍しそうに見る者もいる。声を掛けてきた相手には、この先の街の現状を伝えるようにしていた。それでも街ひとつが滅んだというのを信じられずに、リューネブルクのほうへ行く旅人もいる。止めはしなかった。


「おぬしはこれからどうする、スヴェン。もはや、俺たちとともに行く必要もあるまい」


 尋ねると、スヴェンは意外そうな表情を見せた。髭を伸ばしたままになっている顎を撫でる。


 リューネブルクの青竜軍アルメは、予想していた通り、完全に壊滅していた。軍営は潰れ、その下には軍服を着た亡骸が折り重なっていた。それを確認してから、街を出たのだ。救援を求めようとしていた同朋が皆死んでいたというのは堪えたようで、スヴェンはしばらく、一言も口を利かなかった。


「変わらぬ。青竜軍アルメの他の軍営を、捜すまでだ。少し遠くなるが、東海岸まで行ってもいい」


「海か」


灰色の海グラ・ゼーに面した海岸には、城もある。赤の国の侵攻を受けていなければいいのだが」


「ずいぶん遠いな」


「仕方あるまい。俺は、それを愚痴ることができるような状況でもないし」


 マルバルクの城はもう遠くになった。今ごろは赤の国の軍人たちが、あの城や森を我が物顔で歩いているのだろうか。一刻も早く国軍の味方を引き連れ、マルバルク城を取り戻すという目的に、変わりはないらしい。


「おぬしこそどうするのだ」


 問われて、レオンはここ二月ふたつきのことを思い返していた。エベネの街でも、マルバルクの城でも、場当たり的になってしまっているのは、間違いない。行く先々で血を見るような事態になっているのにも、正直なところ、疲れ始めていた。リオーネが気丈に振舞っているのが、さらに苦しい。


「落ち着きたいな、ほんとうは。ゆっくりとリオーネの記憶に向き合いたい」


 思わず、本音が出ていた。それが表情にも出ていたのか、スヴェンには肩を叩かれた。レオンは首を振る。自分など、弱音を吐いてはならないのだ。ほんとうに辛いのは、どう考えても、妹のほうなのだ。


「どこか、街を探そう。もしおぬしらが、このまま東に向かうと言うのなら、俺も同行できる。そこで、調べものでもしよう」


 肩に置かれたスヴェンの掌に力が込められていた。


「ここまで共に旅したのだ。一緒に行く必要がないなどと、寂しいではないか、レオン」


 レオンは彼の言葉で、なにか自分の中にあるものが揺れ動くの感じた。彼が素直に思ったことを口にしているからなのかもしれない。からだは冷えているが、その内側に暖かいものが生まれたような感覚だった。


「奇妙な縁だ」


「まだ言うか、おまえは。ね者め」


ね者だと。俺はおまえほど、頭を空っぽにできぬというだけだ」


「なんだと。年長者に向かって、おまえ」


 肩に置かれた手が握られて、拳が飛んできた。レオンがそれをかわし、拳は空を切る。スヴェンは舌打ちしているが、顔は怒っているような、笑っているような、中途半端な表情だった。それが可笑しくて、レオンも笑った。久しぶりに声を出して笑った、という気がする。


「おい、俺はいいがな。あれはどうするのだ」


 道連れが、もう一人いる。レオンはそう言ったスヴェンとともに、土手に座り込んだルカのもとへ歩いた。彼は二人が近付いても、顔を向けさえしない。


「俺の命を奪おうとしたことは、許す」


 レオンは、ルカから取り上げていた短剣で、彼を縛っていた縄を切った。スヴェンの小さな溜息が聞こえる。ルカは、目を丸くしてレオンを見つめた。


「そして、おまえの生きる道を縛る権利は、俺にはない。ただし、リオーネの命を狙おうと言うのなら、次こそ斬る。行きたければ行け。わっぱひとりの旅は辛かろうが、おまえの選んだ道だ」


 ルカの視線が離れないので、レオンも彼を見つめ返した。濁った瞳に、僅かだが感情が見えた。困惑しているのかもしれない、と思った。


 話はそれで、終わりだった。短剣も、投げて彼に返した。ルカは、草の上に刺さったその剣を、じっと見ていた。背を向けても、斬りかかられるような気がしなかった。スヴェンは、度々振り返っている。なんだかんだと言っても、気になるのかもしれない。


 焚火のもとへ戻ると、明るい表情のリオーネがレオンらを迎えた。フリーダとの距離はより近くなっていて、姉妹か何かのようだった。


「もう行こうか、リオーネ」


「はい、兄上。ですが、これからは、どこへ」


「おまえの言った、灰色の光景というのを、探してみよう。母君に繋がる何かが、そこにあるはずだ」


 雲を掴むようなことを言っている。レオンは自分でもそう思った。ただ、思いつくことが、ないでもない。


 スヴェンの言った、灰色の海グラ・ゼーである。リオーネは以前から、海という言葉に反応を示すことがあった。もしかすると、彼女の見たものは、そこにあるのかもしれない。


「あの、兄上」


 リオーネの明るかった表情に、少し翳りが見えた。なんだと問うと、彼女は俯いたまま、少しずつ言葉を繋ぐ。


「私は、母と言いましたが、その」


 フリーダが、リオーネの手をそっと握った。


「兄上と、父上が、いまの私にはいます。ですので、どうすればよいのか」


 俯いたままのリオーネの代わりに、フリーダがレオンに向かって微笑む。その意味が、レオンにはなんとなくわかるような気がした。


「どうもしない。母君がいらっしゃれば、それはそれで、いいではないか。俺がお前の兄であることに変わりはない。あのあばで言ったことに、何一つ嘘はないぞ」


 リオーネが顔を上げ、レオンの懐に飛び込んできた。もう、何の違和も感じなくなった、少し冷たいからだを、レオンも抱きしめた。何も変わらない。レオンは、自分にも心中で言い聞かせた。


 フリーダが、相変わらずの柔らかい表情で、レオン達を見つめている。


「フリーダ殿は、いかがされる」


わたくしは、旅を続けますわ」


 リオーネが寂しそうな表情を見せた。たった二日の交流で、彼女がここまで心を開いた相手は、今までいなかった。そのことを考えると、レオンもどこか彼女と一緒にいたいという気持ちになる。


「かつて聞いた伝承に、黒き獣と戦った聖者のはなしがありました。銀の風をまとい、青い剣で魔物を祓ったと言われる聖者の言い伝えが」


 彼女は懐から、ごく小さな紙の束を取り出した。小さな紙をひもまとめた冊子である。聖典や伝承を書き写したもので、フリーダはこれひとつを持って旅を続けているらしい。


「ここで彼女と会ったのは、竜の御導きでしょう。ご一緒したいとも思いましたが、やはりわたくしには、巡礼ミスィオンが」


 フリーダはリオーネの前にひざまずくと、小さな手を握りしめた。


「こればかりのご縁ではありませんわ。きっと、また会えるはず。竜の加護を」


 きっとまた。その言葉に、レオンも頷いた。彼女とは、またどこかで会う、という気がする。それも、そう遠くないうちに。


 フリーダはスヴェンにも別れの言葉を述べると、そのまま歩き去った。振り返ることはなかった。別れだというのに、寂しさ以上の温かみが、レオンの心中には残っていた。リオーネも同じなのかもしれない。涙は見せず、ただ微笑んでいた。修道女というのが皆ああなのではなく、フリーダの持っているものがそうさせたのだろう。不思議な女性にょしょうだった。


「スヴェン様は」


 フリーダが去ると、不意にリオーネが言った。慌てたような調子に、荷をまとめていたスヴェンが吹き出す。


「一緒に行くぞ、リオーネ。どうも俺には、おまえが妹のように思えてならん。そんなわけはないのだがな」


 リオーネが、顔を一気に紅潮させた。ちらちらと、レオンの方を窺っている。それから、たまらなくなったように駆け出して、スヴェンに背から飛びついた。彼まで去ってしまう、と思っていたのかもしれない。


 振り返ると、ルカが姿を消していた。何も感じさせず、消えていた。それでいい、とレオンは思った。彼とも、いずれ再会するときがある。そのときは、またルカのほうから姿を現すのだろう。そのとき、彼がどう変わっているのか。彼を変えるものは、この国にきっとある。それは、自分ではない。


「おい、行くぞ、レオン。手伝え」


 スヴェンの声が飛んでくる。リオーネがすでに馬をいていた。三頭の馬。三人の旅になった。


 記憶を辿る。


 途方もない旅だが、しかし前には進んでいるはずだった。




(リューネブルク   了)

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