面影
リオーネの
鞍の前に彼女を乗せていたレオンは、落馬しそうになる
眼の焦点が、合っていない。浅い呼吸を繰り返し、頭を抱えている。まるで、ひどい頭痛か、熱に苦しむようである。
「しっかりしろっ」
レオンは彼女の
さらに、彼女の
「休ませたい。適当な場所を探してくれ、スヴェン。街の中でもいい」
「それはいいが、これは」
「とにかく、頼む」
脈と熱を測る。高熱、というわけでもなさそうだ。呼吸も確認できる。何が起こったのか、レオンにも分からない。ただ、同じようなことが、かつてあったことを思い出した。ノルンの森の広場で、若者たちと剣の稽古をしていたときだ。
レオンはすぐさま剣を抜いた。辺りに意識を巡らせる。“
集中しても、生きているものの気配は感じ取れない。死んでしまった街の中で、何かが音を立てているだけだ。しかしそれも乾いた音で、獣が迫るようなものではない。やがて、レオンは剣を納めた。
馬蹄の音。スヴェンが、
「病か。それとも、疲労か」
「いや、そういうものではない、と思う」
スヴェンの問いに、レオンは簡単に答えることしかできなかった。寝台があって、その上には木片が散らばっていた。それをすべて払い、リオーネはそこに寝かせる。布団のようなものも、破れているがあった。
気づくと、戸が吹き飛んで空いている窓のそばに、ルカがいた。何をするでもなく、茫然と外を見ている。レオンが
炉を、レオンとスヴェンは二人で囲んだ。部屋の隅で、ルカは逃げずに
「金持ちだったのだろうな、この家の主は」
ぼんやりと、スヴェンが言う。たしかに、炉や調度品を見ると、壊れたものもあるが、それなりの造りのものが多い。
「ここの
「明日、軍営のあった場所に行こうと思う。誰も生きてはいないだろうが」
彼の表情は、沈鬱だった。もともと、ここで軍に合流するつもりだったのだ。行く当てがなくなった、ということになる。レオンにしても、寝食の世話を受けられるかもしれない、と踏んでいたところがある。旅の目的、“
「おぬしの村、ブロームと言ったかな。他に、“
「ない。これで二度目ということになるな。なぜだ?」
「いや、これまでに生きていた者はいたかと、聞きたかっただけだ」
「いるわけがない、そんなもの」
スヴェンは鼻で
「やはり、そうか」
「なにか、気になることでもあるのか。いや、そんなことばかりかな」
レオンは、細い木の板を割り、炉に放り込んだ。火の勢いは強い。火花の爆ぜる音がした。
背後の寝台で、かすかな物音がした。
リオーネが身を起そうとしていた。レオンは、すばやく駆け寄ると、額や頬に掌を当てる。脈拍におかしなものはない。眼を覗き込んでも、しっかりとレオンを見つめていた。ただ、言葉は口から発せられない。水を差し出すと、それは口に含んだ。
「何があった」
レオンは、かつてリオーネをウルグからノルンに連れ帰ったときのことを思い出した。あのときも、何の記憶も残っていない彼女から話を聞き出そうと必死だった。
「兄上」
リオーネはうつむき、それだけを言って黙り込んだ。もどかしい沈黙だった。
次に彼女が口を開いたのは、もう一度、炉の中から木の爆ぜる音が聞こえたときであった。
「あの村であったこと、私は、思い出したのかもしれません」
「なに?」
「暗い、洞窟のようなところ。私は、私の周りにいる人も、皆同じ白い服で。風が吹く音も、何かが壊れるような音も、私は」
話しているうちに動揺してきたのか、次第にリオーネの口調は早くなる。
「私は、祈っていました。風が吹かぬように。魔物が現れぬように」
青い瞳が揺れ動く。
「皆、風に吹かれた。声が。血が。でも私は。私は、誰かに」
はじめて、彼女は顔を上げた。
「兄上、私には、母が」
「母だと」
レオンは、絶句した。
失われた記憶が、いつか戻ることを願っていた。しかし同時に、恐れてもいた。“
それで、最初に思い出したのが、母とは。リオーネは自分で発した言葉に驚いているかのごとく、小さく口を開けたままレオンを見つめている。
確かな感情が、その瞳にはあった。ただそれは、混乱だった。いまにも、彼女の瞳の奥から溢れ出しそうになっている。溢れ出したとき、彼女の中で何かが弾けてしまいそうだった。
「リオーネ。俺を見ろ。この、兄を見よ」
レオンはかつてそうしたように、彼女の両肩を掴んだ。震えていた。震えているのは、自分の手のほうだった。
「俺はここにいる。父上も、遠い戦地でお前のことを想っておられる。おまえはいま、リオーネ・ムートだ」
彼女がそうしたのか、レオンが揺さぶっていたからなのか、リオーネは何度も頷く。抱き締めると、彼女もレオンの背に手を回した。鎧の上から、しっかりと抱かれるのが、レオンにも分かった。おまえはここにいるのだ。耳元で、何度も繰り返す。
「母のこと。風のこと。聞かせてほしい。しかしおまえの心が何よりも大事なのだ。その、誰かの娘でもあるが、おまえは俺の妹なのだ」
リオーネは、今度ははっきりと首を縦に振った。
視界の端に手が突き出されてきた。スヴェンが、眼は外に向けたまま、片手の指を口に当てている。レオンも瞬時に、自分の肌に触れてくるものを感じた。
スヴェンの目配せ。炉の火を消している。レオンはすぐ立ちあがった。
瞬間、窓の外から大量の石が飛来した。リオーネを抱きかかえ、レオンは部屋の戸を蹴り開ける。そうしている間に、レオンの肩や背にいくつもの石が当たった。
「スヴェン。ルカを」
部屋の隅で頭を伏せていたルカを指さす。スヴェンは怒鳴り上げるように答えた。
「おまえ、この期に及んで」
「
スヴェンは苦い表情を見せる。石の飛来が止んだ。ルカを縛る縄をスヴェンが掴み取ったのを見て、レオンは屋外に駆け出す。
裏口。石の飛んできた方角とは逆にあった。飛び出す。四人。行く手を遮るように出てくる。宵闇の中で判断しづらいが、全員が男だと見た。応援を呼ぶ声。子どもだ、女だという声も聞こえてくる。
立ち止まったレオンの背後から、スヴェンが飛び出してきた。剣を抜いている。瞬く間に、四人を斬り倒した。レオンも剣を抜いた。リオーネがルカとともに、どうすればいいのかという表情でいる。
「そこにいろ」
人が集まってくる。統率された動きはない。手に持つ武器も、
「
レオンが何か言う間もなく、スヴェンが敵中に斬り込んでいた。剣を振るうと、首が宙を舞う。その背中に、レオンは猛烈な殺気を感じ取った。初めて見る姿であった。
レオンの方にも五、六人が向かってくる。剣を持つ者もいれば、棒を振り回す者もいる。剣を弾き飛ばし、棒は叩き折り、瞬時に二人の喉を
「まだ向かってくるなら、斬る」
静かにレオンが言うと、賊は背中を見せて逃げ始めた。武器なども放り出している。
スヴェンの様子が、異様だった。すでに十人以上を斬ったようだ。レオンに襲い掛かった賊と同様に、周囲の者も悲鳴を上げて駆け去ろうとしている。ただ、逃げ惑う相手も、彼は追っていた。
「スヴェン、もういい」
次々と賊が斬り棄てられるのを見て、レオンは男の肩を後ろから掴んだ。スヴェンが振り返る。顔面が血で
「逃げる相手だ」
「情けなど」
「落ち着け」
「賊だ」
「おまえも同じになる」
言われて、スヴェンははっとした表情に変わった。肩から力が抜ける。剣を持つ手が下がった。猛りが収まれば、そこにいるのは普段のスヴェン・ベンゲルである。ただ、先刻の表情が、レオンの眼に焼き付いていた。
不意に、彼は転がっている
「もういい。もう、大丈夫だ、レオン」
「なんだと言うのだ、スヴェン。おかしいぞ」
「やめてくれ。わかっている。自分でも、止められなかったのだ」
布を地に叩きつけ、スヴェンは頭を掻き
「だめだ、俺は。おまえの言う通り、おかしいのだ。やつらを斬ったとき、何も考えられなくなった。なぜだか、俺にも分からんのだ」
「スヴェン、おまえ」
レオンが口を開いたとき、何かが聞こえた。それで、二人とも押し黙る。また、聞こえた。人の声のようだ。まだ、賊が残っていたか。レオンとスヴェンは、同時に駆け出す。
身を潜めていた家屋の表。声は、そこからだった。
妙な風体の者が、地面で身を
「ああ、神は
「なんだこれは。女か」
スヴェンが、頓狂な声を上げる。たしかに、声色は女だった。しかし乱れた髪で顔がまったく見えない。ほとんど
「どちら様かは存じませんが、この縄を解いていただけませんか。そちらの、背の高いお方。
あちらからは、レオン達の容姿は見えているらしい。背の高い方といえば自分のことだが、レオンも動けずにいた。女の奇妙さに言葉も出ない。なにしろ、これ以上ないほど乱れた
「とにかく、縄を解いてやれ、レオン」
「俺が」
「背の高い方、と言ったではないか」
恐る恐る女に近づき、レオンは手足を縛っていた縄を剣で斬った。女はゆっくりを身を起こすと、大きな溜息をひとつ吐く。
「賊を、追い払ってくださったのですね。なんとお礼を申し上げればよいか」
女に害意がないのが分かって、スヴェンが駆けていく。リオーネたちを呼びに行ったらしい。レオンと女だけが残る。暗闇のせいで、未だ顔が判然としない。レオンは片膝をついて、何とかその眼を見ようとした。
「賊に、縛られたのか」
「ここに近づいてから、すぐに。街の荒れように、気を取られていたのが良くなかったのでしょう」
「その、
「ございませんわ。乱暴されそうになりましたが、これを見て、彼らも思い直したようで」
女が、懐から何かを取り出すのが見えた。レオンは目を凝らす。首から下げる装飾品だというのは
「他に、仲間などは」
「いません。ほんとうですよ」
ますます奇妙な
ただ、口調は柔和なものを感じさせる。賊に襲われ、捕らえられていたとは思えぬ口ぶりである。不思議と、警戒していたものが
灯りが近づいてきた。馬蹄の音も聞こえる。スヴェンが、リオーネたちと馬を連れてきたらしい。木片をまとめて作った松明を持っていた。
「怪我はないか、リオーネ」
「はい。兄上」
リオーネは、未だ地に座したままの女を見て、目を丸くした。
「この方は」
「賊に、捕らわれていたようだ。スヴェン、火を」
スヴェンが松明の火を
そして、首から下げた装飾品。目を奪われた。
スヴェンもその首飾りが見えると、慌てて顔を近づけた。
「そなた、もしや聖職にある
その問いに、女は頷き、またゆっくりとした動きで立ち上がった。意外と、背丈は高い。竜紋の首飾りを握りしめ、レオンらに深く頭を下げる。
「フリーダと申します。そのように、
「修行?」
フリーダは頷き、金の首飾りを大事そうに胸元にしまう。
「旅をしながら、神の教えを学ぶのです。
「聞いたことはある。ずいぶん古い習慣だというが」
スヴェンが手を打つ。レオンは、初めて聞く言葉だった。驚きをもって、もう一度彼女の容姿を眺める。旅をしていると言われると、汚れた衣服や
「しかし、失礼だが。
「
「都。そなたは、ブラウブルクから来られたのか」
レオンは、今度こそ言葉が出なかった。ここから都まで、どれほどの距離があるのか。馬で
ふと見ると、リオーネが彼女をじっと見つめていた。これまでに、見たことのない眼差しである。レオンはそれにも驚いた。羨望と言ってもいい表情だったからだ。
「こんばんは、可愛らしい方」
フリーダもリオーネの存在に気付いたようで、彼女の前に跪き、穏やかに語り掛けた。リオーネの頬が紅潮する。
「そちらの彼も」
フリーダの視線は、スヴェンの傍に立っていたルカにも向いた。ルカは顔ごと、明らかに眼を背ける。何か、受け付けられないものがあるのだろうか。それでも、フリーダの笑みは変わらなかった。
「なにかお礼を差し上げたいのですが、生憎、この身一つの旅ですので」
彼女の言葉に、レオンとスヴェンが首を振る。正直なところ、レオンは状況に感情が追いついていなかった。スヴェンも同様なのか、珍しく
「では、お祈りだけでも」
「祈り?」
また、胸元から首飾りを出し、フリーダが微笑む。
ほんとうに、修道女なのだ。その所作と笑みを見たレオンは、なぜ強くそれを感じた。
「この街で亡くなった、すべての
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