面影

 リオーネのからだから、唐突に力が抜けるのが分かった。


 鞍の前に彼女を乗せていたレオンは、落馬しそうになるからだを慌てて抱え上げる。


 眼の焦点が、合っていない。浅い呼吸を繰り返し、頭を抱えている。まるで、ひどい頭痛か、熱に苦しむようである。


「しっかりしろっ」


 レオンは彼女のからだを支えながら、何度も呼びかける。下馬すると、リオーネは両膝から崩れ落ちた。スヴェンが色を変えて走ってくる。


 さらに、彼女のからだの重みが増した。頭を押さえていた手も、だらりと下がる。地に横たえた。気を失ったようで、彼女は眼を閉じていた。息はある。からだは冷たいが、それはこれまでと同じだ。額や首筋には汗がにじんでいる様子もない。


「休ませたい。適当な場所を探してくれ、スヴェン。街の中でもいい」


「それはいいが、これは」


「とにかく、頼む」


 わずかな逡巡しゅんじゅんも見せず、スヴェンは馬に飛び乗り、街中へけていった。縛られていたルカは、黙ってリオーネを見つめている。逃げ出すかもしれないとは思ったが、レオンはそこに構っていられなかった。


 脈と熱を測る。高熱、というわけでもなさそうだ。呼吸も確認できる。何が起こったのか、レオンにも分からない。ただ、同じようなことが、かつてあったことを思い出した。ノルンの森の広場で、若者たちと剣の稽古をしていたときだ。


 レオンはすぐさま剣を抜いた。辺りに意識を巡らせる。“死の風エンデ”のあと。リオーネの反応。以前も気を失いはしなかったが、同じことが起こった。そして、黒い獣が現れたのだ。


 集中しても、生きているものの気配は感じ取れない。死んでしまった街の中で、何かが音を立てているだけだ。しかしそれも乾いた音で、獣が迫るようなものではない。やがて、レオンは剣を納めた。


 馬蹄の音。スヴェンが、青灰ヘルブラウに乗って戻ってきた。損傷の軽い家屋がいくつかあったという。ただ、屍体したいのないものは僅かだったという。そのうちのひとつに、ルカもともなって四人で入った。どこまでも、ルカは静かに従っている。いまは、それがありがたかった。


「病か。それとも、疲労か」


「いや、そういうものではない、と思う」


 スヴェンの問いに、レオンは簡単に答えることしかできなかった。寝台があって、その上には木片が散らばっていた。それをすべて払い、リオーネはそこに寝かせる。布団のようなものも、破れているがあった。


 気づくと、戸が吹き飛んで空いている窓のそばに、ルカがいた。何をするでもなく、茫然と外を見ている。レオンが一瞥いちべつしただけでも、そこからいくつもの屍体したいが見えた。


 煉瓦レンガで作られた炉は、まだ使えた。陽が暮れてしまってから、スヴェンがそこらにある木を使って火を焚いた。皮肉なことに、燃やすものはいくらでもある。暖を取るのに支障はなかった。


 炉を、レオンとスヴェンは二人で囲んだ。部屋の隅で、ルカは逃げずにうずくまっている。暗がりで、どんな表情でいるのかはわかりづらい。


「金持ちだったのだろうな、この家の主は」


 ぼんやりと、スヴェンが言う。たしかに、炉や調度品を見ると、壊れたものもあるが、それなりの造りのものが多い。


「ここの青竜軍アルメが動かなかった理由が、わかったな、スヴェン」


「明日、軍営のあった場所に行こうと思う。誰も生きてはいないだろうが」


 彼の表情は、沈鬱だった。もともと、ここで軍に合流するつもりだったのだ。行く当てがなくなった、ということになる。レオンにしても、寝食の世話を受けられるかもしれない、と踏んでいたところがある。旅の目的、“死の風エンデ”や黒い獣についてすることもできたかもしれない。まさか、その“死の風エンデ”によって何もかも崩れ去っているとは思いもよらなかった。


「おぬしの村、ブロームと言ったかな。他に、“死の風エンデ”のあとを見たことはあるか」


「ない。これで二度目ということになるな。なぜだ?」


「いや、これまでに生きていた者はいたかと、聞きたかっただけだ」


「いるわけがない、そんなもの」


 スヴェンは鼻でわらった。


「やはり、そうか」


「なにか、気になることでもあるのか。いや、そんなことばかりかな」


 レオンは、細い木の板を割り、炉に放り込んだ。火の勢いは強い。火花の爆ぜる音がした。


 背後の寝台で、かすかな物音がした。


 リオーネが身を起そうとしていた。レオンは、すばやく駆け寄ると、額や頬に掌を当てる。脈拍におかしなものはない。眼を覗き込んでも、しっかりとレオンを見つめていた。ただ、言葉は口から発せられない。水を差し出すと、それは口に含んだ。


「何があった」


 レオンは、かつてリオーネをウルグからノルンに連れ帰ったときのことを思い出した。あのときも、何の記憶も残っていない彼女から話を聞き出そうと必死だった。


「兄上」


 リオーネはうつむき、それだけを言って黙り込んだ。もどかしい沈黙だった。


 次に彼女が口を開いたのは、もう一度、炉の中から木の爆ぜる音が聞こえたときであった。


「あの村であったこと、私は、思い出したのかもしれません」


「なに?」


「暗い、洞窟のようなところ。私は、私の周りにいる人も、皆同じ白い服で。風が吹く音も、何かが壊れるような音も、私は」


 話しているうちに動揺してきたのか、次第にリオーネの口調は早くなる。


「私は、祈っていました。風が吹かぬように。魔物が現れぬように」


 青い瞳が揺れ動く。


「皆、風に吹かれた。声が。血が。でも私は。私は、誰かに」


 はじめて、彼女は顔を上げた。


「兄上、私には、母が」


「母だと」


 レオンは、絶句した。


 失われた記憶が、いつか戻ることを願っていた。しかし同時に、恐れてもいた。“死の風エンデ”の中で何が起こったのか、彼女が思い出すことにもなるからだ。“死の風エンデ”を生き延びたものはいない。すべての命の灯を吹き消す風である。つまり、彼女の周りにいた者は、たとえそれがどれほど大切な者であっても、皆、死んでいるということなのだ。


 それで、最初に思い出したのが、母とは。リオーネは自分で発した言葉に驚いているかのごとく、小さく口を開けたままレオンを見つめている。


 確かな感情が、その瞳にはあった。ただそれは、混乱だった。いまにも、彼女の瞳の奥から溢れ出しそうになっている。溢れ出したとき、彼女の中で何かが弾けてしまいそうだった。


「リオーネ。俺を見ろ。この、兄を見よ」


 レオンはかつてそうしたように、彼女の両肩を掴んだ。震えていた。震えているのは、自分の手のほうだった。


「俺はここにいる。父上も、遠い戦地でお前のことを想っておられる。おまえはいま、リオーネ・ムートだ」


 彼女がそうしたのか、レオンが揺さぶっていたからなのか、リオーネは何度も頷く。抱き締めると、彼女もレオンの背に手を回した。鎧の上から、しっかりと抱かれるのが、レオンにも分かった。おまえはここにいるのだ。耳元で、何度も繰り返す。


「母のこと。風のこと。聞かせてほしい。しかしおまえの心が何よりも大事なのだ。その、誰かの娘でもあるが、おまえは俺の妹なのだ」


 リオーネは、今度ははっきりと首を縦に振った。


 視界の端に手が突き出されてきた。スヴェンが、眼は外に向けたまま、片手の指を口に当てている。レオンも瞬時に、自分の肌に触れてくるものを感じた。


 スヴェンの目配せ。炉の火を消している。レオンはすぐ立ちあがった。


 瞬間、窓の外から大量の石が飛来した。リオーネを抱きかかえ、レオンは部屋の戸を蹴り開ける。そうしている間に、レオンの肩や背にいくつもの石が当たった。


「スヴェン。ルカを」


 部屋の隅で頭を伏せていたルカを指さす。スヴェンは怒鳴り上げるように答えた。


「おまえ、この期に及んで」


わっぱだ、スヴェン」


 スヴェンは苦い表情を見せる。石の飛来が止んだ。ルカを縛る縄をスヴェンが掴み取ったのを見て、レオンは屋外に駆け出す。


 裏口。石の飛んできた方角とは逆にあった。飛び出す。四人。行く手を遮るように出てくる。宵闇の中で判断しづらいが、全員が男だと見た。応援を呼ぶ声。子どもだ、女だという声も聞こえてくる。


 立ち止まったレオンの背後から、スヴェンが飛び出してきた。剣を抜いている。瞬く間に、四人を斬り倒した。レオンも剣を抜いた。リオーネがルカとともに、どうすればいいのかという表情でいる。


「そこにいろ」


 人が集まってくる。統率された動きはない。手に持つ武器も、銘銘めいめいで違う。賊、という印象を受けた。火を焚いたのが、彼らを呼び寄せたか。頭数だけは揃っている。暗くて顔まで判別できないが、眼に見えるだけでも二十人ほどはいた。


鼠賊そぞくめ」


 レオンが何か言う間もなく、スヴェンが敵中に斬り込んでいた。剣を振るうと、首が宙を舞う。その背中に、レオンは猛烈な殺気を感じ取った。初めて見る姿であった。


 レオンの方にも五、六人が向かってくる。剣を持つ者もいれば、棒を振り回す者もいる。剣を弾き飛ばし、棒は叩き折り、瞬時に二人の喉をき斬った。残りの者が、その場に硬直する。二つの屍体したいが地に崩れ落ちる。


「まだ向かってくるなら、斬る」


 静かにレオンが言うと、賊は背中を見せて逃げ始めた。武器なども放り出している。


 スヴェンの様子が、異様だった。すでに十人以上を斬ったようだ。レオンに襲い掛かった賊と同様に、周囲の者も悲鳴を上げて駆け去ろうとしている。ただ、逃げ惑う相手も、彼は追っていた。


「スヴェン、もういい」


 次々と賊が斬り棄てられるのを見て、レオンは男の肩を後ろから掴んだ。スヴェンが振り返る。顔面が血で真黒まっくろに見えた。身に付けているものも、返り血で染まっている。肩で息をしていた。からだは、湯気が立ち昇るのではないかと思うほど、熱くなっていた。


「逃げる相手だ」


「情けなど」


「落ち着け」


「賊だ」


「おまえも同じになる」


 言われて、スヴェンははっとした表情に変わった。肩から力が抜ける。剣を持つ手が下がった。猛りが収まれば、そこにいるのは普段のスヴェン・ベンゲルである。ただ、先刻の表情が、レオンの眼に焼き付いていた。


 不意に、彼は転がっている屍体したいの身に付けていた布を剥ぎ取った。剣身を擦るように、それで血を拭っている。言いようのない不気味さに、レオンは声を掛けずにはいられなかった。


「もういい。もう、大丈夫だ、レオン」


「なんだと言うのだ、スヴェン。おかしいぞ」


「やめてくれ。わかっている。自分でも、止められなかったのだ」


 布を地に叩きつけ、スヴェンは頭を掻きむしった。


「だめだ、俺は。おまえの言う通り、おかしいのだ。やつらを斬ったとき、何も考えられなくなった。なぜだか、俺にも分からんのだ」


「スヴェン、おまえ」


 レオンが口を開いたとき、何かが聞こえた。それで、二人とも押し黙る。また、聞こえた。人の声のようだ。まだ、賊が残っていたか。レオンとスヴェンは、同時に駆け出す。


 身を潜めていた家屋の表。声は、そこからだった。


 妙な風体の者が、地面で身をよじっている。二人は思わず足を止めた。


「ああ、神はわたくしをお見捨てにならなかった。お助けを。わたくしは、賊ではありません」


「なんだこれは。女か」


 スヴェンが、頓狂な声を上げる。たしかに、声色は女だった。しかし乱れた髪で顔がまったく見えない。ほとんど襤褸ぼろのような衣服を身に付けている。そして、手足を縛られていた。


「どちら様かは存じませんが、この縄を解いていただけませんか。そちらの、背の高いお方。何卒なにとぞ


 あちらからは、レオン達の容姿は見えているらしい。背の高い方といえば自分のことだが、レオンも動けずにいた。女の奇妙さに言葉も出ない。なにしろ、これ以上ないほど乱れた身形みなりであるのに、声だけは澄んだように髪の奥から聞こえてくるのだ。


「とにかく、縄を解いてやれ、レオン」


「俺が」


「背の高い方、と言ったではないか」


 恐る恐る女に近づき、レオンは手足を縛っていた縄を剣で斬った。女はゆっくりを身を起こすと、大きな溜息をひとつ吐く。


「賊を、追い払ってくださったのですね。なんとお礼を申し上げればよいか」


 女に害意がないのが分かって、スヴェンが駆けていく。リオーネたちを呼びに行ったらしい。レオンと女だけが残る。暗闇のせいで、未だ顔が判然としない。レオンは片膝をついて、何とかその眼を見ようとした。


「賊に、縛られたのか」


「ここに近づいてから、すぐに。街の荒れように、気を取られていたのが良くなかったのでしょう」


「その、からだに大事は」


「ございませんわ。乱暴されそうになりましたが、これを見て、彼らも思い直したようで」


 女が、懐から何かを取り出すのが見えた。レオンは目を凝らす。首から下げる装飾品だというのはわかるが、何をかたどったものなのかまでは見えない。


「他に、仲間などは」


「いません。ほんとうですよ」


 ますます奇妙な女性にょしょうだ、とレオンは思った。女の一人旅だとでも言うのか。それに、瓦礫と屍体したいばかりのこの街に踏み入って、何をしようとしていたのか。


 ただ、口調は柔和なものを感じさせる。賊に襲われ、捕らえられていたとは思えぬ口ぶりである。不思議と、警戒していたものがほぐされるようだった。


 灯りが近づいてきた。馬蹄の音も聞こえる。スヴェンが、リオーネたちと馬を連れてきたらしい。木片をまとめて作った松明を持っていた。


「怪我はないか、リオーネ」


「はい。兄上」


 リオーネは、未だ地に座したままの女を見て、目を丸くした。


「この方は」


「賊に、捕らわれていたようだ。スヴェン、火を」


 スヴェンが松明の火をかざす。女の相貌かおが、ようやく見えた。黒い髪。白い肌は、泥が付いて汚れている。眼の下のくまが目立った。ただ瞳は、声と同様に澄んでいる。柔らかい笑みも印象的である。おそらく、身なりを整えさえすれば、美人と言われるような容姿なのだろう。


 そして、首から下げた装飾品。目を奪われた。きんで造られている。さらに、その形。竜紋だった。汚れた身形のなか、それだけは不釣り合いなほど輝いている。


 スヴェンもその首飾りが見えると、慌てて顔を近づけた。


「そなた、もしや聖職にある御方おかたか」


 その問いに、女は頷き、またゆっくりとした動きで立ち上がった。意外と、背丈は高い。竜紋の首飾りを握りしめ、レオンらに深く頭を下げる。


「フリーダと申します。そのように、かしこまらないでください。修行中の身ですので」


「修行?」


 フリーダは頷き、金の首飾りを大事そうに胸元にしまう。


「旅をしながら、神の教えを学ぶのです。わたくしどもは、巡礼ミスィオンと呼んでおります」


「聞いたことはある。ずいぶん古い習慣だというが」


 スヴェンが手を打つ。レオンは、初めて聞く言葉だった。驚きをもって、もう一度彼女の容姿を眺める。旅をしていると言われると、汚れた衣服や草臥くたびれたような雰囲気にも得心がいく。


「しかし、失礼だが。女性にょしょうがひとりで」


わたくしの師は、男であっても女であっても、同じように学ぶべきだとお考えですから。この巡礼ミスィオンにしても、都の修道士で課されているのは、私どもだけでございますし」


「都。そなたは、ブラウブルクから来られたのか」


 レオンは、今度こそ言葉が出なかった。ここから都まで、どれほどの距離があるのか。馬でけ、何日もかかるのだ。それを、この女性にょしょうはたった一人で歩いてきたという。見たところ、馬などもない。


 ふと見ると、リオーネが彼女をじっと見つめていた。これまでに、見たことのない眼差しである。レオンはそれにも驚いた。羨望と言ってもいい表情だったからだ。


「こんばんは、可愛らしい方」


 フリーダもリオーネの存在に気付いたようで、彼女の前に跪き、穏やかに語り掛けた。リオーネの頬が紅潮する。


「そちらの彼も」


 フリーダの視線は、スヴェンの傍に立っていたルカにも向いた。ルカは顔ごと、明らかに眼を背ける。何か、受け付けられないものがあるのだろうか。それでも、フリーダの笑みは変わらなかった。


「なにかお礼を差し上げたいのですが、生憎、この身一つの旅ですので」


 彼女の言葉に、レオンとスヴェンが首を振る。正直なところ、レオンは状況に感情が追いついていなかった。スヴェンも同様なのか、珍しく口篭くちごもっている。


「では、お祈りだけでも」


「祈り?」


 また、胸元から首飾りを出し、フリーダが微笑む。


 ほんとうに、修道女なのだ。その所作と笑みを見たレオンは、なぜ強くそれを感じた。


「この街で亡くなった、すべての生命いのち。青い竜が迎えてくださいますよう、お祈りを。先程は、途中で遮られてしまいましたから」

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