記憶

 瞳が、深く、澱んだ沼を覗き込んだときのような色をしていた。


 形相が、レオンが最後にルカを見たときとは、まるで違っている。そしてそれは、外見だけが変わっているのではなさそうだった。


 ルカの瞳の奥にあるものは見えない。彼のなかで、あらゆるものが混ざり合って、濁っているのだ。それはレオンへの殺意でもあるだろうし、リオーネに対するものでもあるだろう。もしかするとそれが何なのかすら、彼自身もわかっていないのかもしれない。


 衝動だけがある。それだけで、ここまで来た。しかし、ここに至るまでに何をしてきたのか。そう問いたくなる眼だった。


 そのルカが、動いた。ふらりと、風に吹かれたような感じだった。しかしレオンの眼前には、瞬く間に拳が迫る。身構えていたにもかかわらず、気付いた時には懐に飛び込まれていた。かわすともなく躱す。短剣の切先。逆の腕の方、下からくる。仰け反った。顎の先を、斬られた。


 さらに剣がくる。逆手に握られた短剣の、先。執拗に顔を狙ってくる。レオンは、大きく三歩ほど退がった。剣を左の、片手に持つ。地を這うようにして、ルカが追ってくる。短剣の握られた相手の右手だけに意識を集中した。繰り出されてくる。靴の裏で、踏みつけるように蹴った。


 ルカの手から剣が落ちる。顔面が空いていた。レオンはそこに右の拳を突き出した。


 手応えがない。交差させるように腕を絡め取られていた。


 自分の右腕に、妙な方向から力が入ったのがわかった。折られる。瞬時に悟った。レオンは剣を捨て、ルカの胸ぐらを掴んだ。力の限り相手のからだを引き寄せる。右腕に入った力は、僅かに弱まる。背中から、もろとも地に倒れる。雄叫びをあげ、レオンはそのままルカを投げ飛ばした。


 相手の受け身は速い。レオンが起き上がった時には、もうルカの脚が飛んできていた。側頭。脳が揺れるような衝撃だった。こらえ、次の蹴りを腕で受ける。地面を転がって、何とか距離を空けた。


 ルカが、長い息を吐く。体術の技倆うでは、本物だった。よくもこれほど、という速さである。しかしレオンは、人と向き合っている、という感覚を、どうしても持てなかった。眼が、人のそれではない。


「けものに身をとしてはならん、ルカ」


 声の返事はない。ただ、跳びかかってくる。組み合った。力では負けない。しかし、その力の差を埋めるだけの技術が、ルカにはある。関節の力をうまく入らないようにされている感じだった。顔がすぐそこにある。女かと見紛うほどだった顔は、その面影もない。


 声を失ったことは聞いていた。口から洩れ出てくるのは荒い呼気だけである。それがいっそう彼をけものであるかのように思わせた。


「おまえ、俺を殺して何とする」


 唸るような音が、ルカの喉から出てくる。眼光は、いよいよほとばるようだ。


 脚で、ルカのからだを跳ね上げた。異様に軽い感触である。自分で後ろに跳んで、蹴りを受け止めたのだ。着地も見事なものだった。けものとしてではなく、一人の男として身に付けた技に違いなかった。


「俺のような男を殺すための技か、それは。誰かを護るためのものだったのだろう」


 いつの間にか、スヴェンが茂みの向こう、ルカの背後に立っていた。レオンと挟み撃つような形を取っている。


「手は出すな、スヴェン」


 レオンが言うと、ルカがその場から跳び退いた。ちょうど、レオンとスヴェンが視界に入る位置まで駆ける。


「馬鹿を言うな。おまえを殺そうとしているぞ、こやつ」


「それよりも、リオーネを」


 さらに何か言おうとしたスヴェンが、すぐに駆け出した。ルカは、それは追おうともしなかった。リオーネのことは後でいいと思っているのか。


 足下に、ルカの短剣が落ちている。血の固まったようなものがこびりついていて、手入れなどまるでしていないのがわかった。レオンはそれを拾い、ルカの足下の地面に投げた。


「俺を殺して、死んだ司教殿が戻ると思うのなら、そうすればよい。だが、俺はいま、ここでは死なないだろう。けものには負けぬ」


 短剣を拾って、ルカはほんの僅か、その切先を見つめた。まだ眼の光が戻らない。濁った眼が、レオンを捉えた。


 自分の剣が離れたところに落ちているのを、レオンはわかっていた。取りに走り、ルカを斬る。容易くできそうなことだった。ただこの少年を殺すだけなら、それでいい。


 音もなく、ルカは一足飛びに向かってくる。


 脚。そして拳が先にくる。それも、これでもかというほど、顔面を狙ってくる。それから剣が、からだの陰から出てくる。それが、ルカの技だと分かった。レオンも拳を握る。やはり、脚がきた。風を切って顔面を襲う足先を、腕で受ける。何度もくる。受け続ける。腕の筋肉を強張らせ、レオンはただ蹴りを受け止めた。


 ほんの一瞬の間隔。連続していた打撃が、ふっと止まった。剣がくる。思ったときには、ルカがからだを回転させていた。右からだった。反転した勢いで、剣先が出てくる。


 レオンは、そこだけを狙っていた。手首の内側を手刀で打った。短剣が宙に飛ぶ。


 踏み込まない。ルカが、体勢を立て直す間も、レオンは拳を打ち込まなかった。体勢が崩れたところであえて、相手を誘い込む。それもルカのやり方だと思った。


 拳。逆に、ルカの方からきた。レオンは咄嗟に、それをかわさず受けた。顔面。分かっていた。


 打ち込まれた腕を取り、その腕と交差させるように、拳を相手の頭に打ち込んだ。ルカは、そのまま仰向けに倒れて動かなくなる。そこでようやく、レオンは大きく息を吐き出した。声が上がって、振り返るとスヴェンがいた。


「殺していないな」


 座り込んで呼吸を整えるレオンに、手を差し出してくる。その手を借りて立ち上がり、レオンは気を失ったルカを見下ろした。


「甘いと思うか、スヴェン」


「思う。まあ、好きにすれば良いとも思うが。それで、どうするのだ、このわっぱ


「わからん。とりあえず、身動きは取れぬようにせねばならんな」


「まったくだ。俺のことも殺そうとしたぞ、こやつ。こんな齢で、よくも」


 リオーネが、レオンの剣を抱えて歩み寄ってきた。倒れたルカを見て、寂しそうな表情になる。


「俺を、殺したくて仕方ないらしい。復讐など、何の意味もないというのに」


 言いながら、レオンはスヴェンを見た。彼は、何の表情も浮かべていなかった。


「待っていろ。あの家に、縄か何かがあるかもしれない」


 スヴェンが立ち去る。レオンは剣をさやに納め、ルカのそばに片膝をつく。


「ほとんど、何も口にしていないのだろうな。それにしても信じがたい動きだった」


「兄上だけではありません。きっと私のことも、恨んでらっしゃる」


 修道院での騒動のあとすぐに街を出たとしても、ここで自分たちに追いつくには相当な距離を走りつづけねばならなかったはずだ。ましてここ半月ほどは、レオン達も自身で行先を決めて旅しているわけではない。それをどうやって追ってきたのか、執念を考えるとうすら寒くなる。


「この村にて置くというわけにもいかん。どこかに預けたいな」


「それなら、リューネブルクの青竜軍アルメがいい」


 戻ってきたスヴェンが、手に何か持っていた。


「縄はあったが、襤褸ぼろだ。これではすぐに引き千切るだろう。俺が別に、縄を作っておく」


「そんなことができるのか」


「林の中にいい草があれば、の話だが。それなりに時間はかかる。見張りはおぬしに任せるぞ、レオン」


 古い縄で、たしかに心許こころもとなかったが、スヴェンはそれでルカの手首をきつく締めあげた。


「このわっぱをどう思う、おぬし」


「どう、とは」


「復讐を遂げるために、おぬしらをここまで追ってきたのだろう。そういう人間を、おぬしはどう思う」


 どう答えたものか。レオンは考えあぐねた。様々な意味の籠った質問だと思ったからだ。


「寂しくなる」


 ほんとうは、もっと思うところがある。ルカの無念も理解できるし、こんなふうになる以前のルカを思い出すこともできる。ただ口に出して言えるのは、そんなことだった。


「寂しいか」


「ウォルベハーゲンの修道院で、この者の師を死なせることになった。守り切れなかった。だが、俺が死んでもその師は戻らぬ。だから、どう思うかとかれたら、そんなふうにしか答えられない」


 スヴェンはうつむき、何か考え込んでいるようだった。それから、そうかとだけ言って林の奥に姿を消した。


 翌朝になって、まだ村人たちが外に出るより早く、レオン達は村を出た。


 ルカは目覚めるなり身を捩って暴れたが、スヴェンの縄で腕だけでなく足も縛られているために、それ以上のことは何もできなかった。口にも縄を嚙まされている。もともと口がきけないのだから必要ないのではと言うと、スヴェンは軍人らしく首を横に振った。軍では、罪人には何をしてもやりすぎということはないのだという。


 リューネブルクへ急いだ。馬は早足で順調にける。川に沿って駆けるだけでいいというのが、楽だった。人の通行があるのか、確かに道もできている。ただ、人通りは全くない。


 ルカは、青灰ヘルブラウの鞍の後ろに縛り付けられていた。馬の尻に跳ね上げられ、土煙が顔に浴びせられている。村を出て三日目、あまりに気分が悪くなったのか、馬上でうめきも上げなくなった。川までスヴェンが連れていき、そこで吐かせた。嘔吐おうとする時だけ、草の縄が外された。


「これでは、ほんとうに罪人だ」


 レオンが言うと、スヴェンは眉根を寄せた。


「俺たちを殺そうとしたんだぞ」


「しかし、死んでしまう」


「おまえなあ」


 スヴェンは、呆れているようだった。気付けば、リオーネがルカに寄り添っていた。草の上で横たわるルカは、傍にいるリオーネに気付いて首をもたげた。しかし、もう力が湧かないのか、萎びたようにまた倒れる。顔は砂にまみれて、蒼白なのか土気色なのか、よく分からない色になっている。


「スヴェン様、せめて、何か食べさせてあげても」


 リオーネの懇願するような調子に、またスヴェンが頭を掻く。


「まあ、いいさ。俺だって、馬を借りている身だしな」


 そう言うと、彼は馬に付けた袋から干した木の実を一握り、ルカの眼前に置いた。レオンが口の縄を外す。すぐに、ルカはい寄るようにして果実に口を付けた。レオンが口に果実を運んでやると、それを素直に咀嚼そしゃくする。


「水を汲んでこい、リオーネ。この砂も落としてやろう」


 スヴェンが、先に小川で水を汲んでいた。リオーネもそこへ駆け寄る。二人で、何か話しているようだった。ルカは木の実を食べ終え、じっと顔を伏せている。レオンが傍にいても、暴れる気力はまだ戻っていないのだろう。


「おまえ、俺を殺して、リオーネも殺せば、そのあと死ぬつもりだったのではないか?」


 レオンは、ルカが聞いているとは思っていなかった。それでも、独り言のように話し続ける。


「しかしな、ルカ。おまえが死ねば、司教殿のことを思い出せる人間がひとり減るのだぞ。おまえにとって司教殿は父親か、それ以上のお人だったのだろう」


 リオーネとスヴェンは、随分話し込んでいるようだった。レオンの視線の先で、二人とも背中を丸めて話している。旅の中で、はじめて見る光景だった。


「スヴェンも俺も、親を亡くしている。リオーネに至っては、親の顔も思い出せぬ」


 ちらと目を向けると、ルカはレオンに背を向け、丸くなっていた。ただ、なぜかレオンは彼が言葉を聞いているような気がした。


「俺のせいで死んだ部下もたくさんいる。だが俺は、死ねない。彼らのために生きて、戦い抜くと決めたから。死んだ者を忘れないためにも、俺は生きている」


 おまえはどうする。心中で問いかけた。無論、ルカの答えなどない。それでも、どこかで彼が自問してくれるよう、願った。心に傷を負っている。しかしそれは、ルカだけではない。スヴェンもそうだし、リオーネも自分も、何かを失っていま、生きているのだ。失ったあと立ち上がる、最後のところは、どうしても自分の力でなくてはならない。


 リオーネとスヴェンが水を汲んできた。それで、ルカの顔や髪に付いた汚れを落とす。そうされている間も、ルカは黙って下を向いたままだった。汚れが取れると、白い顔や落ち窪んだ眼がよく見えた。眼の光は、戻らない。レオンは、すぐでなくていいから、いつか修道院で見たときのように戻ってほしかった。


 また数日、けた。騎乗しているとき、スヴェンは自分と背中合わせになるようにルカを縛り付けた。彼なりに、思うことがあったのかもしれない。


 リオーネが、小川でスヴェンと話したときのことを聞かせてくれた。ほんとうは、子どもを縄で縛るようなことなどしたくない、と言っていたようだ。彼のうしなった家族には兄妹がいて、それを思い出してしまうのだとも言っていたらしい。心の底のところは、やはりレオンらの思っている通りの素直な男だった。


 景色に異変が出はじめたのは、川に沿って北上しはじめた辺りからだった。


 青く茂っていた草むらが、あるところを境に、色を失っていたのだ。何かに踏み荒らされたか、押さえつけられたように横薙ぎになっている。風も冷たい。


 小川の様子もおかしかった。ここまでで、水を汲んだときに感じた印象と、何か違う。虫や小魚のような生命いのちの気配もない。そして明らかに、水温が下がっていた。


「北上しているからなのか。この辺りは、これまでもこんな風景ではなかったのか、スヴェン?」


「いや、妙だ。たしか、まもなく“火の季節ブレンネ”だろう。こんなに風や水が冷たいことなど」


 あらゆる生きものが、もっとも力を漲らせる季節。それが“火の季節ブレンネ”だ。一年の内、最も短く、暑い時期である。しかし周囲の風景は、それとは真逆の――まるで、あらゆる生きものが生命いのちを終えていく“風の季節フォーレ”の――印象だった。


 胸騒ぎがした。レオンだけでなく、スヴェンもリオーネも感じ取ったらしい。


 馬の速度を速めた。この先に行けば、リューネブルクだ。それはわかっている。しかし、なぜか一刻も早く、そこに行かなければならないような焦りがあった。


 風景はどんどん移ろっていく。草はいよいよ枯れ果てたような色になる。遠くに見えてきた木々が、葉を落としていた。


「だめだ。これは、だめだ」


 そしてその木々が、同じ方向に傾いているのを見たとき、思わずレオンは口走っていた。これは、だめだ。この光景は。俺は、知っている。見たことがある。この先にあるのは、まさか。


 川に沿った地平に、何かが見えてきた。街だ、と思った。街だ、あれは。街じゃないか。それなのに、なぜ誰ともれ違わない。よく考えればおかしいのだ。ここへ至るまで、まったく誰とも行き合わなかった。


「リューネブルク」


 スヴェンの声は弱かった。街が見えてきた、と言えない。スヴェンも、もう分かっている。レオンもスヴェンも、一度だけ見て、記憶から離れない光景があるからだ。


 リューネブルクの街。その手前で、馬を停めた。踏み入ることができなかった。


 眼に入った何もかもが、崩れ去っていた。家屋、壁、柵。飛散した壁や柱がそこここに突き立つ。色を失った木々や草花が倒れ、散っている。それからあちこちに、ずんぐりとした塊。塊が何なのか、近寄って確かめずともわかった。


 街だったもの。そして生命いのちのあったもの。目の前で、すべてが風に吹かれていた。


“死の風エンデ”だ」


 スヴェンが、ぽつりと言った。


 そこに、もう二度と見たくなかった光景があった。

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