episode13 リューネブルク
復讐
深い緑の草原を駈けていた。
曇天だが視界は開けていて、一面の草と、人が通行に使っているような小路が見て取れる。
マルバルクの森を出てから五日、東に向かって
リューネブルクまでは、もう五、六日ほどというところまで来ているらしい。国の東海岸と、マルバルクのちょうど中間点といえる場所にある街だ。小さいが城もあり、千人規模の
そういう情報はスヴェンがよく知っていた。レオンにとって、この近辺はもう未知である。地図などもない。彼の知っていることがすべてなのだ。旅の中途でこの男と行動を共にできたのは
ただ、足に問題があった。三人に、馬が二頭。長距離を移動するためには、もう一頭馬を確保したいところである。
ただ馬など、そう簡単に手に入るものではない。結局、
スヴェンはリューネブルクの街で
彼はレオンらを先導するように、
今のところ、彼がおかしな気を起こしそうな様子はない。そも、レオンもリオーネも、ほとんど何も持っていないのだ。マルバルク城から逃げたとき、武器以外の荷物のほとんどを捨ててきている。森を通ったときに、食うことのできそうな山菜や木の実を採りはしたが、それでも空腹は誤魔化せないほどになっていた。
「川だ。水を汲もう」
スヴェンが声を上げた。俯いていたリオーネがぱっと顔を上げる。彼の指差す方向は草原がなだらかに傾斜していて、先が見えない。しかし少し馬の歩を進めると、たしかに小川が流れているのが見えた。蛇行するように北から東へと流れているらしい。
水は、清らかだった。三人ともそこで馬から下りて水を飲む。二頭の馬は、馬具をすべて解いて草を
「記憶が合っていて、よかった。道が見えてきたら、川があると思ったのだ。この川を東に
「それは、ありがたい。馬の疲労もそろそろ溜まってきているであろうし」
「いや、
スヴェンが見つめる先で、リオーネが二頭の馬に何か話していた。もう、自分の空腹のことなどは忘れているのだろう。いつもの、穏やかな表情である。
「リオーネも、
その言いように、レオンも思わず笑った。
「あの子は、ほんとうに強くなっているのですよ、スヴェン殿。故郷を出てまだ
「そうだろうな。おぬしがいかに剣技に優れているといっても、二人旅など」
スヴェンは、素直に感嘆しているようだった。行動を共にして分かってきたが、この男は、実によく感情を表に出す。自分とは性格の向きがまるで逆のようだ、とレオンは思っていた。先の敗戦で鬱屈したものを抱えているのは間違いない。ただ、それは努めて見せないようにしているのだろう。
リオーネが馬から離れて戻ってくると、スヴェンは乾燥させていた木の実を持ってきた。三人で分け合う。果実を乾燥させたものである。甘みが強くなっていて、食べると力が湧く。空腹を満たすほどではないが、これのおかげで歩き続けられていると言ってよかった。
「なぜ旅を?」
スヴェンの問いは、何気ないものだった。
「知りたいことがあるのですよ」
答えてから、そういえば一度も、自分たちの旅の目的については尋ねられていなかったことに、レオンは気付いた。
「いや、ちょっと、待ってくれ。俺が、
リオーネを見た。彼女はレオンの視線に気付くと、手元に視線を戻し、小さく頷いた。青い瞳に、拒絶するような色はない。
「スヴェン殿、知りたいことというのは、このリオーネの周りに起こっていることで」
「スヴェンでいい、レオン。腹を割って話そうというのだ」
そう言って彼はリオーネにも同じように笑いかけた。リオーネは、照れたように少し目を泳がせる。
「では、スヴェン。マルバルクを襲った黒い化物がいた、と言っていたな」
「そうだ。おぬしはウォルベハーゲンで斬ったと言っていた」
「黒い化物と戦うのは、あれが二度目だった。そして二度とも、やつらの狙いは、リオーネだった」
スヴェンがリオーネを見つめる。彼は、自分の短い金の前髪をちょっと触った。
「それに、リオーネにはあの化物の気配がわかるという。なにより」
レオンは以前から気になっていたことを、口に出した。
「化物はリオーネを
ウォルベハーゲンの修道院で、彼女がレオンの剣を持って構えたとき。黒い化物はあれだけ猛っていたにもかかわらず、リオーネに手を出せないでいた。彼女を狙っているのは確かだろうが、
「髪や瞳のこともある。とにかく、あの獣から逃げたいということもあった。それで、ノルンの街を出てきたのだ」
「不思議な話だ。化物や、気配などと」
腕を組んで、スヴェンが唸る。
「あまり驚いているようには見えぬな」
「わからん。これでも驚いているのかもしれん。昔聞いた
「
「俺が生まれたブロームという村で聞いた
竜の子。思わぬ言葉がスヴェンの口から出てきて、レオンは一瞬、閉口した。ウォルベハーゲンの司教ファナティカも同じことを口走った。獣から姿を変えた赤い眼の男も、その言葉を口にして死んだ。竜の子とは、なんなのだ。
「その村へは、ここから行けるだろうか」
「行けるが、行っても仕方ない」
スヴェンの口調が、唐突に暗いものに変わった。レオンがその反応に何も言えないでいると、彼は乾いた笑みを浮かべた。
「もう無いのだ、ブロームは。風に吹かれて消えた。三年前だ」
リオーネが目を
「“
レオンが問うと、スヴェンは何を思ったか一瞬だけ、驚いたような表情を見せた。
「ああ。俺はそのときもう軍に籍を置いていて、マルバルクにいた。報せを受けて飛んでいったよ。家族も、友もいた村だったが」
自分が昨年、“
「なんと言えばいいのか」
「いや、人の不幸な身の上など、聞かされたくはあるまい。俺も腹を割ってみたくなっただけだ。すまん」
「そういうわけではないが」
「しかしレオン、“
「それは」
レオンは、ウルグに吹いた“風”のことを話した。スヴェンは知らなかったらしい。この戦時下にあって、山ひとつ向こうの領地で起こったことは、流されてしまったのかもしれない。レオンにしても、三年前に村が一つ消えたことを、今になって知ったのだ。不思議なことではなかった。
「“
スヴェンは立ち上がり、衣服に付いた草と泥を払った。
「失ってばかりだ。家族も、村も、城も、仲間も。俺ひとりが
腰にひとつ差した剣の柄を、スヴェンは握っていた。そのまま何も言わず、休んでいる馬のほうへと歩いていく。
「復讐など」
レオンの呟きに、リオーネが頷いた。
「スヴェン様の中には、燃えているものが。それが、復讐なのですね、兄上」
「このところ、じっと彼の顔を見ていたな。それが気になっていたのか?」
「きっと、お優しいのだと思っていました。だから、亡くなられた方のために戦おうとなさるのだと」
それはきっと的を射ているのだろうと、レオンは思った。
「しかし“
「私は、まだよく分かりません。思い出せなくて」
「スヴェンの大事なものは皆、吹き飛ばされてしまったはずだ。ウルグもそうだった」
「どうして、私は」
リオーネは、困惑しているようだった。“
「青き竜の思し召しだ」
もしかすると、彼女も風の吹いた
スヴェンが二頭、馬を曳きつれてきた。リオーネを乗せ、レオンも
リューネブルクには、川を辿っていけばいい。また、
いよいよ夕闇の中、視界が怪しくなってきたころ、集落らしき影が地平に見えてきた。しかしレオンは近付くにつれ、その村に異変を感じはじめた。スヴェンも同じように考えていたようで、手振りで警戒せよ、と合図してくる。レオンは、リオーネに頭から布を
「なんだ、これは」
スヴェンとレオンは、ほとんど同時に声を上げていた。集落に入った途端だった。村人なのか、
村の中央で、馬を停めた。下馬する。人が、何人かいた。暗さではっきりとは分からないが、十数名はいる。皆、レオン達を見て離れていく。スヴェンが女の一人を呼び止めようとしたが、悲鳴を上げて逃げられてしまった。
男が、五人出てきた。手に、何かしらの棒や、長いものを持っている。武器のようだ。
「出て行け」
「待ってくれ。俺たちは旅の者だ」
「もう、この村には何もない。出て行け」
村人の眼は、必死だった。スヴェンが両手を挙げて話し続ける。レオンはリオーネを背中に隠し、いつでも剣を抜けるよう身構えていた。
「
「よその国のやつらさ」
男が、吐き棄てるように言う。
「戦なんだろう。ここを通っていきやがった。それで、この有様さ」
「人を殺していったのか」
「はじめは、食い物だと言われた。それから、女。護ろうとしたやつらが、殺された」
男たちは、もう手に持った武器を下げていた。肩が落ち、気力は
赤の国の軍隊だ。レオンは改めて、村を見回した。家々から人が顔を覗かせている。怯え切ったようにして抱かれる子どももいた。どの家も灯りが消えている理由が、レオンにはわかる気がした。
「軍は。リューネブルクの軍隊は」
「何が軍だ。やつら、十日経っても来やしない。税を取るだけ取って」
「そんなはずは」
食い下がろうとするスヴェンを、レオンは止めた。これ以上言うと、彼自身が軍人と
「大変なところに、申し訳ない。どうか、屋根だけでもお借りできないだろうか。この夜に、子どもを一人抱えているのだ」
レオンが言うと、村人たちは布を被ったリオーネに目を
「誓って、我らは賊などではない。旅の護身のため剣など提げてはいるが。水も、食い物もくれとは言わない。なにか、力になれることがあれば、手伝う」
また、村人たちはリオーネを見た。子どもがいる、ということが、彼らを迷わせているようだった。五人の男のところに、また別の村人が集まってくる。彼らが
「はずれに、空いている家がある。何もかも盗られてしまった家だが。村の連中には、関わらないと約束しろ」
頷くと、男たちは早く消えろ、とでも言いたげに手を振った。馬を曳いて、村のはずれまで歩く。小さな家のひとつに、入り込んだ。
「軍が十日経っても出動していないなどというのは、おかしい」
スヴェンは床に腰を下ろすなり言った。
「敵軍が来たというのなら、応戦していたのではないか?」
「いや。リューネブルクに何かあれば、マルバルク城に早馬が来ることになっているのだ。それに、
束の間、沈黙が下りた。レオンもリオーネも、スヴェンの疑問に対する答えは持っていない。
「こんな有様になっているというのに。俺は、恥ずかしい」
「おい、スヴェン」
「俺たち軍人は、民のためにあるのに。その民が、何が軍だ、などと言っている。いや、言わせているのだ。力が足りぬばかりに」
それから彼は、黙り込んでいた。かと思うと、俄かに立ち上がる。
「風に当たってくる」
戸を開け、スヴェンが外へ消える。リオーネが、小さく息をついた。
「もう眠れ、リオーネ。明日早く、ここを出よう」
「スヴェン様は」
「まあ、話してみる」
リオーネの言ったスヴェンの優しさというのが、レオンには熱さのように思えてきた。責任感が強く、自分を責めようとするところがあるのかもしれない。見れば、彼の剣も置かれたままになっている。レオンはそれを拾うと、外に出た。
戸のすぐ近くにあると思ったスヴェンの姿は、見えなかった。ここへ来た
空き家に戻ると、リオーネが戸口から頭を出していた。
「兄上、音が」
彼女が指差したのは、村を出た先にある林だった。月がその林の向こう側にある。それで夜の林は、月下の黒い幕のように見えた。耳を澄ます。たしかに、聞こえた。人が走るような、がさがさという音が続く。
レオンは眼を凝らして先を見ながら、ゆっくりと林のほうへ歩く。途中、一度振り返ると、リオーネがこちらを心配そうに見ていた。それを確認すると、さらに歩を進める。音は続いている。
その音が、急速にこちらに向かってきた。間違いなく、何かが駆けてくるような音だ。構えた。
「レオン。気を付けろ」
スヴェンの声。同時に、暗闇の中から、人影が飛び出してきた。月を背負うように、跳躍する。瞬時に数歩下がって、レオンは抜剣した。
「おまえ」
思わず、声を上げていた。
汚れきった
復讐の徒がここまで来たか。
レオンは剣を構え、ルカと向き合った。
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