虎の牙

 快晴で、風もない。


“青の道”を背にする形で陣取る。広く見ると、左手には森、右は丘がある。


 赤の国の軍――国境の向こうの言葉では赤竜軍レギオというらしい――が前方で展開している。気を張りつめさせているのが、ここからでもわかる。その張りつめたものを解き放つときを、今か今かと待っているように見えた。


 五万と聞いていたが、三万ほどと見える。誇張であったか、とスヴェンは僅かに気が楽になった。


 敵は騎馬中心の部隊である。ここまでの進軍速度を考えても、歩兵がほとんどいないことは予想がついていた。だからスヴェンは、騎兵の勢いを殺すことに、まず守備の重きを置いた。


 馬止めの柵と防塁の二段構えにした。その後方に弓兵、さらにその側面を武装させた歩兵で固めている。後列にも歩兵がいて、スヴェンは馬に跨ってそこにいた。


 右手の丘に、騎馬隊を待機させている。敵の視界からでは、ちょうど見えない角度にいる。側面を回ってくる敵の騎馬隊を、こちらの騎馬隊が迎え撃つ。不意打ちが決まればこちらのものだと思っていた。


 指揮官らしき者がどこにいるのか、スヴェンは見極めようとした。視界は良い。赤い旗が立っている辺りか。


 敵の先頭。剣を振りかざし、声を上げる男がいた。男の声に兵が応じる。およそ三万の大音声が、スヴェンたちのところまで届いてくる。祈りの声だ。スヴェンは剣を抜き放ち、馬上で掲げた。


「青の竜よ。最後の子たる我らに加護を。森よ、大地よ、我らを守りたまえかし」


 こちらでも声が上がる。三万の声は、こちらも同じだった。しかし地の利と加護を得た三万である。スヴェンの血も沸き立った。


 騎馬が突進してくる。地が水分を含んでいるから、土煙はそれほど立たない。ただ、雄叫びに威圧してくるものがある。そして何よりも、速い。この地面で、よくぞこれだけと思えるほどの速さであった。


「弓だ」


 想定しているよりも早く、スヴェンは弓兵に矢をつがえさせた。五千の弓兵を用意している。とにかく騎馬の勢いを殺すことだ。


 敵の表情。猛っているその表情が見えるほどに引き付けたところで、一斉に矢を放たせた。敵は、剣や槍、盾で防御しながら進路を変える。馬止めの柵が、敵の進路を限定する。進むのは右だった。左手、森の方向へは行かない。騎馬兵なら当然の判断である。先頭がそうすることで、あとに続く兵も皆、右手を迂回しようとする。


 丘の上で喊声かんせいが上がった。青揃えの騎馬隊が斜面を駆け下りてくる。騎馬隊同士が、ぶつかった。互いを削り取るように、青と赤の騎兵が交差する。斜面は緩いが、逆落としになった。勢いは青竜軍にある。


「前進」


 歩兵に告げた。角笛ホルンが四方から鳴る。防塁の後ろから歩兵が突き進む。二段目に控えていた歩兵が防塁の裏に入る。敵の側面を、槍を持った歩兵が突こうとする。


 敵の騎馬隊はその場で旋回するようにけ、騎馬と歩兵からの攻撃を受けて立っていた。槍を横に突き出してけ回る。馬の蹄が泥を弾くのもあって、歩兵たちは容易に近づけないでいるようだった。


 騎馬隊も側面から繰り返し突撃を試みる。旋回により作られる壁は、もう崩せそうだった。


 別の方向で声が上がる。味方の弓兵が、次々と矢を放っていた。敵の歩兵が来ている。馬止めの柵が引き倒される。押し包まれそうな騎馬隊を援護する部隊だった。その楯を持った歩兵がじりじりと迫る一方で、騎馬隊は距離を取って後退しはじめた。


 重装備の歩兵を前進させた。ぶつかり合う。敵味方とも、さすがにその圧は強い。押し負けるな。スヴェンは何度も叫び、後方から戦況を見守った。


 騎馬隊が、相手を追いはじめていた。しかし敵の殿しんがりの兵士たちが巧みに全体を操作している。歩兵は守備の構えを取ったまま後退していく。こちらも頑強で、なかなか潰走させるところまで押せない。


 ほどほどのところで、追撃を止めさせた。武器と武装、馬などを回収する。集まったものはそれほど多くない。敵は最初に陣を敷いたところから、わずかに後退したように見えた。


「もう一押しでは。なぜ追撃をお止めに」


 小隊長の一人が馬を寄せてきて言った。


「われら、この道を守るための軍と城ではないか」


 スヴェンは剣で、後方にあるはずの“青の道”を指した。


「敵の撤退のさまは見事。下手に追い打てば、こちらが呑まれるやもしれぬ」


 機はまだある。スヴェンは、自分にも言い聞かせるように呟いた。赤竜軍レギオから闘志は消えていない。必ず、再びの攻撃がある。何度でも撥ね返し、闘志をしぼませたところで、徹底して追い込めばいいのだ。スヴェンもほんとうのところは、押し込みたかった。ただ、機というものがある。自分を抑えたことを後悔はしていない。


 陣は敷いたままにさせ、隊長ほか数名が森の中の城に帰投した。城の守りに残っていた兵士たちが、声を上げる。敵を退けた報が、伝令によって伝わっていたらしい。


 初戦は勝ったと思っていい。そう思い具足を脱いでいたところに、また別の隊長たちがやってきた。年嵩の隊長たちだった。


「次こそは、徹底した攻撃を、スヴェン殿」


「わざわざ、そのようなことを仰るために参られたか」


「ここという機を逃せば、兵の士気にも関わりますぞ」


「この私を、臆病者とそしるおつもりか」


「そのようなことは」


「この城の主は私だ。おぬしらが選んだ城主だ。機は、私が見定める。おぬしらには、そのとき存分に腕を振るってもらう。黙して待たれよ」


 隊長たちは互いに目を見合わせ、気まずい表情のまま立ち去った。スヴェンは、脱いだ具足を床に叩きつけた。


 勝ったのだ。それは間違いないではないか。それなのに、なんなのだ、あの言いようは。


 勝利の余韻など、もう心のどこにも残っていない。自分は、追撃の、勝利の機を逃したとでもいうのか。面白くなかった。酒を、スヴェンは従者に命じた。


 夜になると、自室で、運ばれてきた酒を飲んだ。一人である。誰も、部屋には入れなかった。杯を重ねているうちに、思考は緩慢になる。それでも、次々に飲んだ。いつもこうしているわけではない。ただ、今夜はそうしなければ眠れない気がしたのだ。


 卓の上に、一枚の紙が置かれたままになっている。持ち上げると、それはあのレオン・ムートという青年の持ってきた書簡であった。


 信用に足る者。指揮官コマンダントベイル・グロースの書いた文字が目に留まる。あの猛者にそう言われるだけの若者。眼光の強さを、スヴェンは思い出し、また酒をあおった。自分より齢若い男が、どういう人生を送れば領主レンスヘルになり、一軍の指揮官に認められるのか。


 怪物を斬ったと言っていた。殊更ことさらに威張るようでも、誇るようでもない。それが今になって鼻に付いた。数十人の兵士を殺した怪物である。どれほどの剣の技倆うでだというのか。


 夜の森は静かで、その向こうで大きな動きもなさそうである。敵は、夜の攻撃は仕掛けてこないらしい。敵陣は後退し、こちらの陣は敷いたままだ。夜襲に対しても、十分に警戒させている。


 次のぶつかり合いは明朝といったところだろう、とスヴェンは思った。今度こそ、叩き潰してくれる。地図を見た。ここから南下すれば、赤竜軍の越えてきたザラ川がある。そこまで、押し返してやるのだ。そうすれば、自分のことを軽視する者もいなくなる。


 ハイデルのベイル・グロースが着到する前に、決着をつけてしまう。スヴェンは、それを考えた。不可能なことではない。今日のぶつかり合いで、敵の力量は分かった。


 自分の力で勝つ。眠りにつくまで、心中でそればかりを繰り返し続けた。


 明朝、城を出た。城に残っていた兵士のほとんどを引き連れている。守りに専念することはもうない。持てる兵力をつぎ込んで、勝ち切るつもりだった。剣を二振り、腰から下げた。


 斥候が次々に伝令を寄越す。敵は、昨日に見た陣形から、僅かに変わっていた。騎馬が前面に出ているのに変わりはないが、横に長い三段に組み直しているという。前日、一点が突出した攻撃を行って、反撃を受けたことを踏まえているのかもしれなかった。


「今日こそ、あの赤い陣を払わせるぞ」


 スヴェンは先頭に立って、剣を振りかざした。


「昨日の戦いを思い出せ。地の利はわれらにある。南方人ズートどもにザラ川の水を飲ませてやろうではないか」


 雄叫びが上がった。敵もそれは同じで、赤い部隊が迫ってくる。横に広い陣は、威圧的だった。怯むことはない。弓の攻撃から、騎馬での決着まで、スヴェンの頭の中にははっきりと絵図があった。


 敵の第一段が来た。矢を射かける。楯をいくつも持った騎馬隊だった。矢の攻撃を受けながら左右に分かれる。こちらも騎馬隊で受けて立つ。後ろから、第二段が来る。


「慌てるな。勢いを殺すことに変わりはない。矢を雨のように降らせてやれ」


 敵の楯の部隊は有効だが、その分、機動力に劣るようだ。こちらの騎馬隊の方が優勢だった。左右に回った敵の、さらに内側と外側に分かれて締め上げていく。


「槍部隊、前進」


 長槍を持った歩兵部隊が、喊声とともに突っこむ。敵の二段目が中央を突破しようとしていた。これも、楯を持っていた。馬止めの柵が引き倒されていく。ただ、矢を受けて敵の勢いは明らかに衰えていた。弓の部隊と槍の部隊がすばやく入れ替わる。


 ちょうどそのとき、三段目が来た。二段目の崩したところを越えるように、騎馬が突っ込んでくる。最後の三段目の攻撃は、強烈だった。歩兵だけでは止められそうになかった。両翼の騎馬隊の争いは、押している。ただ、相変わらず敵の退却の舵取りが巧みで、中央への応援に向かえない。スヴェンは本陣の最後列の部隊だけを残し、残りをすべて中央に密集させた。


 歩兵の脇を駆け抜けて、騎馬隊が後方から敵に攻撃する。敵の三段目に、動揺が走るのが分かった。


「押せ。押しまくれ」


 スヴェン自身も馬腹を蹴り、け込んだ。中央の敵に斬りかかる。二つ、三つと首を飛ばす。両側から囲まれる。手綱を離す。二本目の剣を抜いた。抜き放ったときには、敵は馬から落ちている。味方の高揚した声が飛ぶ。“猛牛”スヴェン。二振りの剣を扱う自分に、いつの間にか兵士たちがつけた綽名あだなだった。


 溜めていたものを、ここでぶつける。スヴェンは雄叫びを上げ、さらに斬り込んだ。突き出されてくる槍を跳ね上げる。剣は弾き飛ばす。相手の態勢が崩れると、もう一振りの剣で斬る。自分の駆け抜けたあとに、武器を持って立っている敵はいないのだ。


 敵が崩れ出した。退却していく。ここだ、と思った。


「行くぞ。追撃」


 騎馬隊が全速で敵を追いはじめた。いかに退却が巧みといえど、限界がある。押し切れる。勝ち切れる。


 スヴェンは一心に敵の背を追った。反撃は受けても、すべて斬り倒す。いつの間にか、スヴェンは先頭でけていた。後にも騎兵がついてくる。振り返らなかった。勝ちを逃さない。逃げる敵を斬り、落とし、踏みつけ、叫んだ。二本の剣の前に、敵の屍体したいが積み重なる。地が揺れた。


「隊長」


 自分を呼ぶ声があった。なんだ。気勢を削がれた気がして、スヴェンは舌を打つ。誰だ、こんなときに俺を呼ぶのは。馬の速度を緩め、はじめて振り返った。


 戦場に、嵐が起こっていた。


 味方の兵士が、突風でも受けたように吹き飛ぶのを、スヴェンは信じられない思いで見た。


 青い鎧をつけた味方の歩兵たちに、何かが襲い掛かっていた。陣など、とうに崩れ去っている。とくに、真中まんなかが凄まじい。兵士のからだが棒きれか何かのように宙に舞い上がる。首が嘘のような勢いで飛ばされる。叫び声がスヴェンのところまで届く。


 なんだあれは。口にすることもできなかった。全身の毛穴が開くような感覚。すぐさま、スヴェンは馬首を返す。しかし、今まで追っていた敵が反転してきた。慌てて、そちらの敵と斬り結ぶ。そうしている間に、とてつもない圧力が後方から迫ってくる。


 どこから湧いてきた。必死で考えた。


 五万。スヴェンの脳裏に、その数が浮かぶ。あれは、誇張ではなかったのだ。自分たちと対峙していた三万が敵のすべてだと思い込んだ。二万は、どこかに潜んでいたのだ。そして、自分たちが追い討ちに向かうのを待っていた。三万の退却は、仕組まれたものだったのだ。


 スヴェンは唇を噛んだ。敵の血ではない、自分の血の味だ。追いすぎた。突っこみすぎたのだ。勝ちが見えたところから、判断を誤った。


 敵を追っていた騎馬隊を集結させる。


「斬り抜ける。味方を救うぞ」


 再び先頭に立って、駈け出した。遮る敵を二振りの剣で斬り、猛然とけた。しかし近づくほどに味方の状況がよく見えるようになる。恐怖がスヴェンの中で急速に膨らんでいく。何しろ、この世のものとは思えぬ轟音とともに味方が吹き飛ばされるのだ。


 雄叫びを上げ、味方の中へ突っ込んだ。見えた。敵の姿。身の丈ほどはあろうかという大剣を振り回す、巨躯の男。大剣に触れた兵士は両断され、潰される。


「何者か知らぬが、その首、貰い受ける」


 恐怖を打ち払うように声を上げた。眼がかち合う。大剣。受け止めた。剣が一本、手から飛んだ。尋常でない力だった。また来る。受ける。剣は飛ばされなかったが、頭が揺れるほどの衝撃がくる。次の一撃。馬から叩き落とされそうになった。


 男は、片手で大剣を扱っていた。なんという剛腕だ。スヴェンは戦慄と、感嘆すら覚えていた。力では敵わない。何者だ、この男。


退けっ」


 痺れの残る腕で手綱を取った。もう片方の腕を何とか勢いよく頭上で回す。退却の合図。一度、城に戻るしかない。


 角笛ホルンが鳴る。一斉に、兵士が退却を始める。スヴェンもけた。


「追い討て」


 背から、あの男の声が飛んできた。逃げろ。スヴェンも叫んだ。森に、城に戻るのだ。


 負けた。どうしようもないほどに、負けた。しかも、人間とは思えぬほどの戦士が、向こうにはいる。あの大剣を受けた感触が、まだ腕に残っている。剣も一振り、失った。今まで、俺の二振りの剣の前に立っていた者などいなかったのだ。


 城が見えた。城門。閉まっていた。なぜだ。


 開門、とスヴェンが叫んだとき、城から旗が上がった。


 赤い旗だった。

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