森の中で

 座り心地の悪い椅子だった。以前の指揮官が使っていた椅子である。


 スヴェンは腰を上げ、部屋の中をぐるぐると歩き回った。落ち着かない。この椅子もそうだが、この部屋も、そこに置かれている何もかもが、自分を落ち着かせない。今そこに迫ろうとしている赤の国の大軍もだ。


 上官で、指揮官コマンダントの地位にいたカイト・ゼリヒが死んだ。暗殺だった。


 マルバルクは小さな城だ。しかし、湿地と森に囲まれた天然の要害の中に建っているから、国の中部を守ることに関しては重要な役割を持っている。カイトは長年に渡ってここをよく治めていた。その指揮官が、死んだ。


 唐突すぎる襲撃だった。いったい何が彼の命を奪ったのかも判らない。


 死んだのはカイトだけではない。兵士も小隊長も死ぬか、負傷した。スヴェンは夜間の警邏けいらのため森に出ていて、何も見ていない。


 怪物が襲ってきた。生き残った兵士たちは口々にそう言った。黒い風、と言う者もあれば、獅子か狼かと言う者もいた。


 スヴェンがいれば、という兵士たちもいた。剣の腕は、それなりだという自覚はある。この城にいる兵士の中では、自分が一番強いことも分かっている。しかし積み重なった屍体したいを見てスヴェンは、自分であればどうにかできていた、とは全く思えなかった。


 立て直しについては、繁忙を極めた。死者を含めた損害を都に報告しなければならならない。それぞれの役職について後任を選定し、人員の補充の要請を行わなければならない。そしてそれらには、金が掛かった。城に関わりのある業者との連絡も行き届かなくなったし、管轄下にあった街の治安には綻びが出はじめた。


 スヴェンは何も考える暇なく、ただひたすらに仕事をこなした。指揮官の後を継ぐことになったのが、なぜか自分だったからだ。大隊長が負傷したということもあるが、小隊長でしかなかった自分が、いきなり城の頂点に立つことになったのだ。こんなことがあっていいのか、と思う。


 俺に、そんな器はないのだ。スヴェンは窓から森を眺めた。深い緑色の高い木が並ぶ。城を守っているのは自分などではなくこの森だという気がする。まだ、二十五になったばかりだった。軍では、同じ齢で城の責任者になっている者など、いないだろう。しかも、まもなく数万の敵軍が攻めて来る城の、である。


 赤の国の軍隊が迫っている。報せは、南部の各所からやってきた。ただ、報せを飛ばした街は、すでに敵の手中に落ちている。ありえない速さだった。


 スヴェンは、また歩き回る。なぜ今なのだ。こちらは指揮官も兵も失ったばかりであるというのに。城の指揮を執る俺だって、まだわからないことばかりだというのに。不意に、大声を出したくなるような衝動に駆られる。すべてを放って、剣も放って、この森から逃げ出したい。森の中なら、敵の大軍も自分を見つけられないかもしれない。


 扉を叩く音で、スヴェンは身を震わせた。兵士が入ってくる。瞬間、情けなさが込み上げてくる。それを気取られないように、スヴェンは背筋を伸ばした。


 周辺の街に関する報告だった。敵の斥候など、紛れ込んでいる人間はいないか。不審な動きはないか。毎日、騎馬隊の調練も兼ねて偵察させている。今のところ、そのような気配は無かった。


 ただ数日前に、エベネの街で騒ぎがあったというのは、気にしていた。ウォルベハーゲンという修道院で、刃傷沙汰があったのだという。司教含め数人が死んでいた。


 不審な怪物に襲われたという、この城であったのと同じような話を聞いている。強力な僧兵の軍団を有している修道院だったが、もし、この城を襲った怪物と同じなら、手も足も出なかったはずだ。軍人ですらことごとく殺されたのだ。


 しかし、意外な報せは、その後にあった。その怪物をたおした者がいる、というのだ。旅人で、修道院には所縁のない者だという。


 そんな人間がいるのかというのが、スヴェンの正直な思いだった。しかも軍人でもない、ただの野にいる男だというではないか。だとすれば、指揮官も兵士も殺された我らは、なんだというのだ。


 兵が運んできたもう一つの報告は、民のことだった。城に入れられる数に限界が来ているという報告である。入城する者を限りたい、と兵士は言った。


「馬鹿者。敵はそこまで迫っているのだぞ。助けを求める民を放逐ほうちくするなど、おまえ、それでも軍人か」


 かっとなって、スヴェンは兵士に怒鳴った。民を見殺しにする。それだけは、どれだけ苦しくても、やってはならないことだと思っていた。兵は、露骨に不満そうな表情を見せる。その横面を、スヴェンは張り飛ばした。


 赤の国が軍を仕向けてきたというのは、当然、民も知るところである。不安になって、城に保護を求めてくる者もいる。すべて受け入れよ、と言い続けていた。場所は狭いが、食うものはまだ余裕がある。それを出し惜しんで民を裏切ることは、したくなかった。


 城には、これまでも様々な民が出入りしている。税も徴収している。軍人だけで城が成り立っているわけではないのだ。だから、助けるのは当たり前だ。前任の指揮官、カイトもそう言っていた。


 そんなことを考えていると、兵士は知らぬ間にいなくなっていた。退室の許可も得ずに出ていった。それが、かんに障った。


 兵士に、舐められている。信じたくないが、それは肌で感じた。剣の腕というところでは、この城の誰もが自分を認めているだろう。しかし、指揮という面ではどうだ。何もできずにいる自分を、陰で嘲笑わらっているのではないか。スヴェンはまた、部屋の中を歩き回った。


 やはり、指揮官など俺にはできない。同じことばかりを考えた。


 翌早朝、兵士が部屋を訪ってきた。民の中に、気になる男がいるという報告だった。エベネの街からやってきて、行くあてもないのでここで匿ってほしいというのだ。書簡のようなものを持っていて、見てもらえればわかると言ったらしい。それを受け取り、スヴェンは眼を通した。


 ベイル・グロースという名が、すぐに眼に飛び込んできた。ここから南方にあるエーデルバッハ領の一帯を治める指揮官コマンダントである。何度も合同演習をしたことがあり、誰もが認める男だった。青竜軍アルメの信用に足る者であるから、軍営への通行を許可してほしい、という旨が書かれている。


 書簡の検分を命じる。兵士は退室したが、偽書ではないだろうというのは、なんとなく判っていた。青竜軍アルメの内だけで用いられる符号が、文書の各所に用いられていたからだ。


 通されたのは、若い、黒髪の偉丈夫であった。さすがに佩剣はいけんさせることはできないが、気配そのものが剣のような鋭さを持った男である。スヴェンが何か言うより先に、男は左胸に掌を当てる軍式の敬礼を見せた。


「レオン・ムートと申します。入城の許可をいただけたこと、心より感謝します」


「スヴェン・ベンゲルである」


 静かな口調だった。ただ眼の光が強く、スヴェンは自然と自分の声が硬くなっているのに気付いた。相手の背も高く、自然にこちらが見上げるようになっている。


 ムートという姓には、どこか聞き覚えがあった。


「書簡を確認した。指揮官コマンダントベイル・グロースとは?」


「父よりの縁です」


「というと、ハイデルの出身かな」


「いえ。その西に、ノルンという街がございます。小さな街でありますが」


 ハイデルの西。それで、スヴェンは思い当たるものがあった。あの辺りは“竜の爪ドランゲール”と呼ばれる高山の麓で、小さな集落がいくつかある。ハイデルの青竜軍アルメとの演習で、近くを通ったことがあるのだ。たしか、一帯をムート領というのではなかったか。


「失礼だが、父君は」


領主レンスヘルでありました。いまは、私が後を継いでおります」


 そういうことか、とスヴェンは内心で頷いていた。ただの旅の者という感じを受けなかったことにも得心がいく。軍と繋がりがあるというのも、領主レンスヘルという地位を考えれば不思議なものはなかった。


「妹とともに、旅をしております。青竜軍アルメの城で一時いっときでも休ませていただければと」


「旅とは。領はいま、どうなされた」


「他の者に預けております」


 若く、地位のある領主レンスヘル。しかしその領を離れて旅をする男。スヴェンは、目の前の男の話を聞いてやろうという気になっていた。自分の出自と比べてしまったからかもしれない。この男と違い、自分など、この近くの小さな村の百姓の家に生まれた男だ。


「なにか事情がおありか。しかし、レオン殿。知っているかどうか、われらもいま、大きな事情を抱えていてな」


指揮官コマンダント殿が亡くなられたとか」


「指揮官だけではない。兵もやられた。怪物がいたと皆が言っている。黒い怪物だとか」


「待ってください。いま、怪物と仰ったか?」


 レオン・ムートが目を瞠っている。予想していない反応だった。


「その怪物は、どのような?」


「俺は見ていないのでうまく言えんが、何か黒い怪物だったというぞ。獅子とか、狼とかいう者もいた。熊だとかいうのも」


 レオンは顎に手を当て、暫し黙り込んだ。


「それは、エベネの街に現れたものと、同じでしょうか?」


「なに、見たのか」


「見ました。戦い、斬ったのは、私です」


 スヴェンは驚きのあまり声が出なかった。これが、この男が。この城が襲われた夜の光景を、はっきりと思い出す。屍体したいの山。怪物をたおした者がいるというのは、聞いていた。こんなに、若い男だったとは。


 何者だ。口にしかけた言葉を、呑み込んだ。何者かは、いたばかりだ。ムート領の領主。それ以上の何かを引き出したい気持ちと、訊いてはいけないという気持ちがない交ぜになる。自分などが知り得ないようなものまで、この男は抱えているという気がした。


「敵国が迫っている。怪物のことは、気にかけていられない」


 そう言うことで、無理にでも意識を逸らすしかなかった。実際、この男が何であろうと、迫る赤の国の軍を追い払ってくれるわけではないのだ。自分にとって大事なのは何か、スヴェンはもう一度確認した。


「他にも、街からやってきた者たちが使っている部屋がある。そこは、いくらでも使ってくれ。多くはないが、妹君と食えるものも準備はできる」


 スヴェンが言うと、レオンは、はっきりと首を振った。


「この城に至るまで、幾人もの人々を見ました。ほんとうに、戦から逃れたいという思いで、ここを頼っている人々を。我々が、彼らと同じような待遇を受けるわけにはまいりません。屋根だけお借りできれば、あとは自分たちで」


 これも、予想していなかった返答である。こんなときだ。貰えるものは貰っておこうとするのが、普通ではないのか。自分のことよりも民のことを優先しようとしている。領主らしいといえば、そうなのかもしれないと、スヴェンは思った。


 兵士が扉を叩く音が聞こえる。軍議の時間である。レオンとの話は、それまでだった。もう少し話していたいという気持ちを、スヴェンは心の隅に追いやった。


 レオンが去ると、すぐに軍議だった。隊長たちが集まる。一番大きな卓に、地図を広げる。すでに色々を書き込んでいる地図だ。


 敵の進軍を遮るものはなく、あと三日もすればこの城の近辺に到達するだろう、との見立てである。それも、通常ならば考えられない速さだ。現在、敵軍の先頭はここから南方のザラ川を渡りきったところだというが、それなら五日はかかってもいい。三日という見立てをすること自体が、これまでの敵とは違うことを実感させた。


 とにかく、ここから西を走る“青の道ブラウ・シュトラーセ”に到達させない。それが作戦のすべてである。騎馬が中心の敵だというが、この辺りは土が柔らかく、勢いは削がれるはずだった。雨が降れば泥濘にもなるような地面だ。自分たちの方が慣れた戦いをできる。守りきれば勝ちなのだ。いざとなれば、森を使って戦えるのも、自分たちの強みである。


 そして、ハイデルのベイルが率いる精鋭も、南から駈けつけることになっている。これについては、ハイデルとマルバルクとの間で、長く交わされてきた取り決めである。いずれかが出動すれば、いずれかが救援の構えを取る。


 早馬を走らせている。情報がハイデルに届くまで約五日、そこから街道を通れば、この城まで十日ほどで着到すると思われた。とにかく精強である。隊長たちも、彼らが辿り着くまで守り切れば何とか、という考えがあるようだ。


 それでいいのか、という思いも、スヴェンの内にはあった。ハイデルの軍に何かあればどうするのか。なにより、自分たちの力で国を守らなければならないのではないのか。


 しかし、それを口にはしなかった。自分より年嵩の隊長もいるし、スヴェン自身も、まだ目立った戦功などを挙げたことがない。若輩者が何か言っている、と相手にされないだろう。燻るような思いがある。いまこの城の指揮官は自分なのだ。


 結局、スヴェンが何か言う間もなく、軍議は終わる。


 隊長たちが去ると、スヴェンは一人で、軍備をもう一度確認した。できることのすべてを行ったつもりでも、見直すたびに穴があるような気がする。部屋をうろうろとすることも、止められない。


 窓から森を見る。木々は夕日を受けて橙色に輝く。


 森から出て戦うのが、嫌だった。

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