折れたもの、生まれたもの
方々に人が散っていた。
統率を執る者も執ろうとする者もおらず、ただ逃げ惑っている。いくつかある出口に殺到した人は、そこからなだれ込んできた赤い鎧の兵に斬られた。逃げ場を失くした人々はその場で命乞いをするか、逃げようとして斬られる。それでも逃げようと、上階だというのに窓から飛び降りる者もいた。
マルバルクの城の中は、鎧の赤と、人の血の赤で
レオンは武器を持って立ち塞がった者を、
逃げられるとすれば、今しかない。これから、きっと敵の数が増える。この城は
鎧の兵士。赤の国の兵士だろう。気付いた城の守備兵が騒いでいるうちに、戸口の一か所を破って侵入してきていた。ひとつが破られれば、あとは防ぎようがない。瞬く間に、城の中には敵兵が入り込んでいた。
敵兵が来る。リオーネを背後に
「応援を呼べ。妙なやつがいる。手練れだ」
兵士たちが周囲に呼びかけるのが聞こえた。相手にせず、リオーネの手を取って走った。
出口。どこかにないのか。レオンは
リオーネの小さい声も聞こえた。見ると、女が兵士に斬られている。瞬間、かっと熱いものが弾けた。跳躍した。次に、敵の兵士が民にかけようとしていた手を、レオンは肘の上から斬り飛ばした。兵士は茫然とした表情で自分の無くなった腕を見て、叫び声を上げる。周囲にいた他の兵士が三人、斬りかかってきたが、瞬く間にレオンは全員を斬り伏せた。
「行け。とにかく、走れ」
民が、レオンを見て、剣を見て、そして倒れた赤の国の兵士を見た。すぐに走り出す。
また、剣を持った男たちが向かってきた。六、七人。いや、もっといそうだ。しかしその向こうに、外の明かりが見えた。
「壁に向かって走り、そこから動くな」
言ってから、レオンはリオーネの背を押した。地を蹴り、跳躍する。敵の中央に斬り込んだ。着地と同時に、一人の首から血が噴きだすのを、視界の端に捉える。回転し、さらに二人の喉を斬った。
まだ、来た。下から一人を突き、その
目の前に立っているのは、あと二人だった。背後に迫る剣の気配。もう一人いた。振り向いて受け止める。体重を乗せた斬撃だった。全身に力を込めた。押し返す。ここで圧し負けるわけにはいかないのだ。敵の体勢が崩れる。斬った。
二人。怯えた眼。そんな眼で、俺を斬れると思うな。レオンは再び地を蹴り、同時に二人を背中から斬り倒した。
敵の指揮官だ、という声がして、閉じていた正門が開いた。兵士たちが、外へと赤い雪崩のように出る。スヴェン・ベンゲルの顔が、レオンの頭を
「兄上」
途端に、周囲の喧騒が耳に入ってくる。自分を呼ぶ声で、意識が現実に引き戻されたようだった。リオーネが蒼白な顔で駆け寄ってくる。
「血が」
リオーネは悲鳴に近い声で言ったが、どれが自分の血で、どれが敵の血なのか分からなかった。
「行くぞ。今しかない」
呼吸が、落ち着いてきた。走り出す。戸口から、外へ出た。馬が何頭か繋がれている。
「
レオンがそれだけ言うと、彼女は懸命な様子で辺りを見回す。そしてすぐに駆けだす。レオンは後を追った。敵の姿がない。指揮官とやらを追っているのかもしれない。
リオーネが声を上げる。馬の名を呼んでいた。そしてまた駆けだす。レオンは、ただ妹を信じた。リオーネならば、すぐに馬の居所を見つけるはずだった。
城の外壁から飛び出したように設置されている、小屋のようなところ。その前に馬がいた。リオーネの声に反応していたのか、自らを繋いでいた縄を、ほとんど引き
すぐに
馬蹄の音。自分たち以外に、まだあった。近くに、誰かがいる。レオンは馬上でまた、剣を抜いた。音が近付いてくる。
樹の陰から、飛び出してきた。剣。相手も抜いていた。
「スヴェン殿」
レオンは、思わず声を上げた。馬に乗っていたのは、青い鎧を付けたスヴェン・ベンゲルだった。
スヴェンが、また打ちかかってくる。肌に
スヴェンの眼に、おかしな色の光があった。自分を捉えているようで、捉えていないのが、それでわかった。何度も呼びかけるが、スヴェンは呼気荒く剣を向けてくるだけだ。レオンは、名を呼ぶのを諦めた。
スヴェンの剣。受け止めず、頭を下げてそれを
馬が
馬は半狂乱になって、駈け去っていく。落ちたスヴェンは動かない。レオンは下馬し、そこに駆け寄った。リオーネが、
「この方は」
「スヴェン・ベンゲル殿。この城の指揮官だ」
脈はある。頭を打ったのか、気を失っただけのようだ。棄て置く、というわけにはいかなかった。
リオーネに下馬させ、
まだ、あちらこちらで怒声と悲鳴が聞こえる。レオンは
かなりの間、駈け続けた。
岩壁が見えてきて、レオンはその周囲を馬でゆっくりと
跡を辿る。果たして、小さい洞穴がその先にあった。周囲に草が生えていて、僅かに隠れている。獣は、中にはいない。戦の気配を感じ取り、逃げたのかもしれない。
リオーネと二人で中に入る。スヴェンの
洞穴の周囲で、適当な草や枝を集める。それで、洞穴の入り口はできるだけ隠しておく。火は焚かない。リオーネは洞穴の奥の、風の入らないところに行かせた。
視界が暗くなっていく。横たわったままだったスヴェンが、俄かに起き上がった。叫び声が、洞穴の中で反響する。薄暗い中で、彼はレオンに掴みかかってきた。レオンはその肩を掴み返す。スヴェンの唸る声。獣のようだった。
「スヴェン殿。私です。レオン・ムートです」
地の上で組み合いながら、レオンは語りかけ続けた。唸るような声は、まだ止まない。相手の鳩尾の辺りを、レオンは力の限り打った。短い声がして、スヴェンの
リオーネが、じっとその様子を見ていた。怯えているようでもあり、また異なる感情でスヴェンを見ているようでもあった。心配ない、ということを手振りで示し、レオンはまたスヴェンを横たえさせる。
正気に戻るまで、どれくらいかかるのか。何度も、こうして呼びかけるほかない。もしほんとうに駄目なら、別の手を考えるしかなかった。レオンは剣を鞘から抜いて、自らの傍に置いた。
再び、スヴェンが眼を覚ます。組み合う。押さえつける。呼びかける。駄目なら、気を失わせる。何度もできることではない。三度目で元に戻らないなら、殺すしかないとレオンは思い始めていた。
スヴェンが眼を覚ますのが分かった。跳び起きることはない。
「私がわかりますか、スヴェン殿」
「レオン殿だな。ここは?」
声は、弱々しいが、落ち着いたものだった。
「森の中の洞穴です。逃げている途中に方角が分からなくなったので、一度ここにお連れしました」
「水を」
リオーネが、すぐに水の入った袋を持ってくる。スヴェンがそれを飲む間も、レオンの手は剣の
「俺は、何をしていた?」
「剣を振るっておられました」
水を飲み干すと、スヴェンは疲れ切ったように、洞穴の壁に背を預けた。
「負けたのだな、俺は」
「私にはわかりません。ただ、城は敵の手中に
「民は逃げたか」
「走れる者は」
大きな溜息が、レオンの耳にも聞こえてきた。
そうか、と呟いたスヴェンが、
「レオン殿、頼みがある」
スヴェンはレオンに背を向け、その場に座り込んだ。俯くと、首筋が露わになる。それが何を意味するのかは、すぐに理解できた。レオンは、抜いていた剣を
「できません」
「頼む。負けた惨めな軍人の、最期の願いだと思って」
「できません」
「なぜ、できぬ。軍人ではないからか」
声は、苛立っている。
「軍人でなくとも、おぬしは立派な戦士だ。戦士に首を打たれるなら、俺はそれでもいい」
スヴェンは振り返らず、まるで地面に向かって話しかけているようだった。
「できません」
「なぜだ」
声を荒らげ、スヴェンが立ち上がった。レオンも立つ。暗闇の中で、向き合った。肩を、スヴェンに掴まれる。レオンはそれを振り払わず、真直ぐに相手の眼を見つめ返した。スヴェンの眼は、暗いままだった。洞穴の中が暗いせいではない、とレオンは思った。
「俺の首をもって、マルバルクへ参れ、レオン・ムート。城主の首だ。首と引き換えに、残った民の安全を約束させるのだ。頼む」
できない。レオンは眼を逸らさず、断言した。
「スヴェン殿の兵士は」
懇願するような表情に変わった彼の肩を、レオンは逆に掴んだ。スヴェンが身を震わせる。眼の暗い光は、今にも消え入りそうなほどに弱い。
「私のような男に、貴方の首を打たせるため死んだのではない。私はそう思う」
スヴェンの眼が、これ以上はないというほどに見開かれるのが分かった。喘ぎのような、叫びのような何かが口から洩れる。彼は地に膝を突き、
追い込むつもりで言ったのではない。ただ、この男が死に向かうのを止めたかった。レオン自身がかつてそうだったように、いま彼は、身を裂くほどの苦しみを味わっているはずだ。仲間を
レオンには、それがよく分かった。そして、自分が死ぬことで解決されるようなことではないことも、よく分かっていた。
死は、背負わねばならない。背負って生き、戦い続けねばならない。
スヴェンがどう答えを出すのか、後は任せるだけだった。呻く彼を、レオンは黙って見つめ続けた。
リオーネが、離れたところで同じようにスヴェンを見つめていた。レオンは荷から薬を取り出し、リオーネの傷を調べる。いくつか、擦り傷のようなものがあるだけで、他はなにもない。それが、レオンを僅かに安堵させた。あの争闘の中で、なんとかこれだけの傷で逃げ切ることができたのは、奇跡とも思えた。
リオーネは自分で、薬を塗っていった。軟膏で、扱い方も心得ている。ハイデルのドミニク医師から譲り受けたもので、よく効くのだ。
夜は更けていったが、赤の国の兵士が洞穴の外を通る気配はなかった。スヴェンが眠る様子もなかった。
翌朝、彼は陽が昇る前に起き出し、ふらふらと洞穴の外へ歩いていった。微睡んでいたレオンは、慌てて起き上がり、洞穴から駆け出す。霧が濃く、足元は湿っている。
スヴェンは、洞穴のすぐ前にいた。大きな岩の上にただ座して、森を見つめている。
レオンは、声を掛けなかった。小さく何かを呟いている気がしたが、それは聞かない。リオーネが、足音を聞きつけたのか、同じように洞穴から駆け出してきた。何かを言おうとしたが、スヴェンの様子に、口を噤む。
「放っておくしかあるまい」
レオンが言うと、彼女も頷いた。
洞穴に戻り、持ち込んだ僅かな荷をまとめる。リオーネと、残っていた食糧を分け合った。塩が少しだけ入った袋を、身から離していなかったのが良かった。舐めると、それだけで体中に力が満ちるような気がする。リオーネの顔色は良くなかったが、まだ疲労でどうしようもない、というほどではなさそうだった。
「あんなに、人が」
水を飲んで一息ついたところで、リオーネがぽつりと呟いた。彼女の言葉は途切れたが、後に続くのは何か、分かる気がした。
「戦だ」
レオンは彼女の頭を撫でようとして、自分がまだ血に
「行こう。どこかで水を見つけたいな」
二人で、洞穴の出口に向かう。早く血を落としたかった。自分のではない。自分が血に塗れることなど、今更どうとも思わないのだ。
スヴェンは体勢一つ変えず、陽が昇って霧が晴れるまで座り続けていた。
「行くのか」
「我らには、我らの目的があります」
「目的。目的か」
スヴェンが振り返る。陽光が斜めから差して彼の横顔を照らした。
「考えた。おぬしの言ったことをな」
眼には光がある。ただ、それが陽の光なのか、彼の発するものなのか。レオンには判断できない。
「生きて、やらねばならないことがある。死ぬのはそれからだ」
死ぬことを、考えなくなったわけではない。ただそれは、指摘するべきでもないと思った。
「おぬしらは、どうする。また、
「それは何とも。しかし、旅は続けます。ひとまず、マルバルク城からは離れなければ」
「とすれば、東か」
スヴェンが岩から降り、微かに笑った。声は落ち着いている。
「東の軍は海を統べる精強な軍だ。あそこには、まだ無傷の城もある。そこまで行くというのなら、道案内くらいはできる」
リオーネが、またスヴェンを見つめていた。その眼差しは、昨晩から変わらない。何か、彼の内側にあるものを見るようでもあった。
陽の差し掛かる木々の向こうを見た。城は
まずは血を落とさねば、とレオンは思った。
(マルバルク 了)
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