視線
これはというほどの書物だった。
修道院の一室は、書物の管理のために設けられたものであるという。壁を覆うほどの書が、棚に並べられている。巻物の類があらゆるところに積まれている。管理をしているのか、年嵩の男たちが書を引き出しては棚に戻すということを繰り返している。修道士たちも学問のために多く出入りしていた。
レオンはその隅に腰掛けていた。目の前の卓には、いくつかの書物がある。その書物を挟んで向かい側に、リオーネも座っていた。
この修道院に着いて五日が経った。五日は、文字を見つめるばかりで過ぎた。
さすがに、ノルンの屋敷には無かった、見たこともない書ばかりである。埃を被ったものから、新しい紙の、美しい挿絵の入ったものまで様々ある。レオンはその一つひとつを
とくに難しいのは歴史書で、
主観と客観の入り混じったものも多い。おそらく語り部や詩人たちの言葉を遺したものであろうが、内容の一致しないこともある。たとえば、ある書物では英雄と記されている者が、別の書物では名も残っていないといった具合なのだ。
レオンは顔を上げ、さらに天井を見上げた。陽光が壁の小窓から差し込んで、光の帯を作っている。溜息が出た。
特異な容姿。青の竜。禁忌とされる降竜の儀式。人で無い魔物。死の風。どれを読んでも、不思議とそれらに関する記述は一致しているのだ。青の竜の創世から、赤の竜との対峙、訣別。赤の竜の残した死の風。黒い魔物。それを追い払った青の竜の
歴史を
なぜ、自分の身近に起こるようなことが、書に残っていないのか。レオンは、ここまで情報が不足していることに、違和感すら覚えた。誰もが体験していることなら、どこかに一冊でも書が
名家や諸侯の血統を纏めた本も読んだ。銀の髪や青い瞳の記述もない。これまでの永い歴史で、同じ容姿の者が一人も現れていないなどということがあるのだろうか。
リオーネを見た。小声で書を音読している。彼女はまだ、十分に文献を読めるほど文字を知らない。いま読んでいるのは修道士が入門の際に読む、神話を簡易な言葉で書き換えたものである。レオンの視線に気が付く様子もなく、熱中して読んでいた。
やはり、再度司教ファナティカに教えを請うしかない。レオンはそう思っていた。五日の間で、何度か説教を受けたが、どれも自分達には新しい話だった。しかし司教は多忙だった。話を伺えるとしても、それほど頻繁にというわけにはいかない。
リオーネの音読の声が止まった。レオンは、自分に向けられる視線を感じた。リオーネからではない。彼女は別の書を探すためか、立ち上がり本を持って書棚の方に歩いていく。視線は、書室の扉の傍で控える少年からのものである。レオンが手を挙げると、少年がほとんど音もなく寄ってくる。相変わらず、身のこなしに無駄はない。
ルカという司教の従者である。修道士ではあるが、それらしいことをしている様子は、ほとんどなかった。他の年若い修道士らがそうするように、祈りを捧げたり労働をしたりはしない。とにかく、レオンとリオーネの傍から離れないのだ。それは、監視されているようでもあった。
「この文字が、読めないのだが。おぬしは知っているか?」
ルカは顔を寄せ、書を注視した。
「書見などはしないのか?」
「聖典は
「司教殿や、他の方々は?」
「司教は、文字以外にもさまざまなことを教えてくださいます。
兄というのは、他の修道士のことを指しているのだろう、とレオンはなんとなく分かった。修道院での生活について、何も知らないわけではない。
それ以上は何も言わず、ルカはまた扉の傍らに立った。リオーネが、何冊かの書を抱えて戻ってきた。
朝から書見を続け、書庫を出たのは夕刻だった。
その間、水以外は何も口にしていない。食事は修道士たちと同じものが、レオンらにも与えられているが、口にするのはいつも居室であった。部屋は、レオンとリオーネで一室を借りている。食事を運んでくるのも、ルカだった。
「書を読んでいると、不思議な感覚になります」
リオーネの口調は、どこか明るかった。
夕日の射す庭を歩く。整えられた芝生の上を歩くのも、これまでにないことだった。
「なにか、忘れているものを思い出せそうな気持になるのです。私は、どこかで聖典や、書物を読んでいたのかもしれません、兄上」
「すると、どこかの教会か。あるいは、大きな街かな」
「修道士の方々が祈りの言葉を捧げている声も、なにか耳ではなく、心に響くように感じられるのですよ」
レオンは、同じような教会か修道院にいるリオーネの姿を思い浮かべた。案外、ありそうなことだと思える。なにか超然とした雰囲気を纏っているのも、それなら得心がいく。街や村で生まれ、生活しているような娘は、一目見ればそれと分かるのだ。
歩いていると、司祭と思われる男たちと行き会う。何か喋っていたようだが、レオンらとすれ違うときだけは、口を
「ファナティカ司教に、お会いしたいのだが」
すぐ後ろを歩くルカに、レオンは尋ねた。唐突な質問にも、少年は顔色一つ変えない。
「司教は、これより会議に入られます」
予想した通りの返答である。レオンは、リオーネの肩をちょっと叩いた。
「神の教えについて、またご説教を願いたかったのだが。まあ、仕方ない。ところで、外出は許可していただけるだろうか?」
「急ぎの御用でなければ、お控えを」
「申し訳ない。しかし、外出許可の刻限までは、まだ時間がある。外の店で、買っておきたいものがあるのだ」
ルカは顔を少しだけ曇らせた。この少年は、ほとんど表情を変えない。面倒ごとを言うな、とでも言いたげであった。
「失礼ですが、どのような御用でございますか」
「服を、買っておきたい。私ではなく、妹のものだ」
「院のものをお使いください」
「女のものだ。おぬしとて分からぬわけではないだろう」
傍らで、リオーネがこちらを向いた。顔を紅潮させている。ルカも面食らったようだったが、すぐに表情を戻す。しかし、すぐに言葉を返せないでいるようだった。
束の間の思案のあと、許可を得て来る、と少年は
「兄上」
リオーネは、まだ赤い顔をしていた。珍しく、
「許可するとのことです。用を果たした後、速やかにお帰りください」
戻った少年は、大きな布を一枚抱えていた。それを、リオーネに手渡す。受け取ったリオーネは、戸惑ったように布を見つめている。
「リオーネ様は、それを被って出るようにと」
リオーネが、少し肩を落とす。教会の人間は、はじめにここへ入ったときのことを、憶えていたのだろうか。レオンも同じことをするつもりだった。ただ、修道院のそれは、同じことでも配慮と言えるのか、レオンには判断がつかなかった。
当然のように
「ついて来ないのか?」
敷地の外に出たレオンとリオーネと異なり、ルカは立ち止まったままだった。
「私どもは、院の外に出ることは許されません」
レオンの問いにそれだけを答え、ルカは背を向けた。リオーネが、その背を見つめていた。
夕刻の市場には、まだ人通りがあった。ここへ最初に着いたときもそうだったが、やはり活気のある街だ。すでに何度か、市場や商店には訪れていた。修道士らと異なり、レオンらの外出は認められている。
エベネがこれだけ栄えた街だと、レオンは思っていなかった。
賑わいの中をリオーネと縫うように歩き、衣服を売る商店を見つけた。実際、服が必要だというのは嘘ではない。旅を始めて二十日ほどが経っている。買い換えられるものは、そうしておきたいのだ。銭は、まだ余裕があった。
肌に触れるような、何かを感じた。視線。レオンだけが感じていて、リオーネは商店の品物などを眺めたままだ。眼だけを動かし、レオンは周囲を窺った。姿は見えないが、どこからの気配なのかは、すぐに分かる。
品物を買い終えたリオーネが戻るのと同時に、歩き出した。早足に、リオーネも何かを察したようについてくる。路地に入った。落ちている小石を、レオンは幾つか拾い上げる。まだ、気配がある。ついてきている。人通りが閑散としてきた。まだ歩く。人家ばかりになり、炊煙と匂いが漂ってくる。まだ歩いた。リオーネは、ただついてくる。気配も、同じ感覚でついてくるのが分かる。
「見張りなのだろう?」
立ち止まり、レオンは振り返った。もう、まったく人の姿はなかった。背後で、動いたものがあった。布を被った人影だった。しかし、紛れる人混みも、場所もない。持っていた石を
相手が、駆け出した。レオンも駆ける。相手の足が速い。しかし、追いついた。布を掴む。
ルカである。布だけを残し駆け去ろうとする。身のこなしは、素早い。レオンは、さらに
ルカは苦しそうにもがきながらも、レオンから視線を逸らしていた。
「剣を、預けたままだったのでな。痛むだろうが」
リオーネが、息を切らせて駆けてくる。彼女は、ルカを見て声を上げた。
「
口を押える力を緩める。呼吸を乱しているが、ルカは口を開かなかった。少年である。レオンも、これ以上手荒なことはしたくなかった。
「おぬしの意思か、これは?」
彼は、すぐに首を縦に振る。明確すぎる反応だ。嘘だろう、とレオンは思った。何を
両腕を解く。少年は逃げる素振りも見せなかった。
「殺しますか、私を?」
「馬鹿な」
レオンは、笑いそうになった。同時に、即座に彼がそう言ったことに驚いた。およそ、ただの修道士の考えることではない。手振りで去るように示しても、ルカは僅かな逡巡を見せる。
「何もなかった。そういうことにする。ファナティカ司教には、何もなかったと言っておくがいい」
司教の名を出すと、ルカは目を見開いた。口惜しそうに口を
「こんな男と、娘ひとりに、何を恐れていらっしゃるのかな、司教殿は」
背を向けたルカに、レオンは静かな口調で問うた。
彼が世話役に付いたときから、レオンは司教の意図を察していた。そして少年も、この年齢にしては、巧みに監視をする。しかし、滲み出る警戒心を、隠しきれていない。分かっていて、そのまままにしていた。監視を受けることより、監視をさせる意図の方が気になったからだ。
「私はただ、命じられたままに」
「おぬしの意思はないのか」
「ありません。青き竜の御心が、私にとってはすべてなのです」
「青き竜が、我らを
返答は、何もなかった。また音もなく少年は歩き去って、人混みに姿を消した。
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