神に仕える者
マルバルク城の
その報せを、レオンは
とくにリオーネは嫌がった。彼女は、滅多なことでは、
いまも離れた馬房で、リオーネが
気になる話だった。レオンは水の入った桶を置いて、男たちに近づいた。
「ここから西にあるという、
「そうだけどよ。なんだ、あんた」
修道院でレオンのような部外者を見たからか、男たちは少し驚いたようだった。
「ただの客さ。それよりその話、教えてくれないか」
「なに、そこの城主が死んだって話だ。軍人が大慌てでな。俺たちもすぐに追い出された」
「城にも
「御得意先よ。馬の数が、こんなところとは違うからな。だが、それもどうなるか分からねえ。指揮官様が死んだんじゃな」
そこにいる男たちは、皆一様につまらなそうな表情になった。
エベネの街の近くに
「病か、何かか」
「さあな。だけど、病なら俺たちも聞いてるはずだろ。なんてったって、月に何度も、あそこには出入りするんだからな」
男たちも詳細は知らないようで、レオンの質問に鬱陶しそうな顔をした。何人かの男は、荷車を
「あんたが誰か知らねえが、客なら早く街を出た方がいいかもな」
最後の男がそう言い残すのを、レオンは黙って聞いていた。軍が混乱しているとき、大抵近隣の治安は悪くなる。男はそのことを言っているのだろう、と思った。
馬房に戻る。今の話が、どこか引っ掛かる。軍の指揮官が死んだと言っても、自分たちにそれほど影響はない。この街にも、いつまでもいるわけではない。別に、気にしなくてもいいようなことなのだ。
リオーネの声が聞こえた。誰かと話しているような声である。
あの、ルカという少年だった。レオンは一瞬身構えた。しかし、彼がすぐにリオーネに背を向けるのを見て、僅かに緊張を解く。そのまま、ルカは馬房を出て行った。
リオーネが、レオンの視線に気付いて、駆け寄ってくる。
「あの少年と話していたのか」
「いけないことでしたか」
リオーネはレオンの表情を見て、慌てているようだった。
「いけないことだとは、言わん」
「ほんとうに、声をお掛けしただけです。それで、すぐに行ってしまわれました」
「しかしな」
街で後を
「先に
リオーネは、困惑しているようだった。馬のせいにするつもりで言っているようでもない。自分が過敏になっていることに、レオンは気付いた。ふと視線を上げる。
「いや、いいのだ。もう少し、ここで馬と一緒にいるといい。俺は、そこに出ているから」
言い終えてから、レオンは軽く息を吐く。リオーネは、まだ不安げに自分を見つめていた。レオンは無理に笑顔を作ると、彼女より先に
彼女に何をぶつけようとしていたのか。呆れるような気持で、自分の頭を掻いた。神経質になるな。自分に言い聞かせた。楽な旅ではない。リオーネに何があっても、護れるのは俺しかいないのだ。わかっていたことではないか。
あの少年にせよ、司教にせよ、考えを聞いたわけではない。危害を加えるつもりなら、とうにそうしているだろう。もう何日も、ここにいるのだ。
空を見上げた。雲が漂っている。快晴である。レオンはまたひとつ、溜息が出た。
長居をしすぎた。はっきりとそう思った。調べられる限りのことは、調べた。新たな発見はない。この修道院には世話になったが、もう居座る理由もなかった。監視されるほどに自分たちが警戒されているというのなら、こちらから早く出て行った方がいい。
次はどこに行くべきか、レオンは考えた。さらに別の教会か、学者のいるところを尋ねるべきか。それとも、軍か。荷の中にはハイデルの
マルバルク城の
何かを思い出しそうになったとき、視線を感じた。
「すこし、話そうではないか」
レオンは、あえて明るい調子で声を上げた。リオーネに言ったわけではない。それを察したのか、建物の陰から、ルカが音もなく姿を現す。
「安心しろ。今日は、
距離を保ったままの少年は、何も言わない。風で髪が揺れる。切れ長の眼だけは、こちらに向けている。年の頃は、リオーネとそう変わらないように見えた。
「体術をやるのだろう」
その問いかけに、ルカが表情を変える。身のこなしがずっと気になる少年だった。豹か猫のようなしなやかさがある。剣を遣う者や弓を遣う者の動きとも違う。
「誰に教わった。僧兵のなかに、体術に長けた者がいるのかな」
「院で、体術を教わることなどありません。私が、一人で身に付けたものです」
「ほう。何のために?」
「司教様を、お
言葉から、強い思い入れが感じられた。頑なと言ってもいいくらいで、彼と出会った数日の間では、聞いたことのない語調だった。饒舌になるのも、それなりの思いがあるからなのだろう。
「いつから、従者を?」
「生まれたときより」
「それは、また」
レオンは、思わず声を大きくする。あまりの口ぶりに驚いただけだったが、ルカはそれを馬鹿にしているかのように感じ取ったらしい。眼が鋭くなった。レオンが肩を
「司教殿に、お会いしたい」
「どのような御用ですか」
「我々は、ここを出ようと思う。たいへん世話になった、そのお礼を申し上げたいのだ」
ルカが足を止めた。振り向きはしなかった。ただ、感情の読めない声だけが返ってくる。
「司教にお伝えします。暫く、お待ちを」
そして、足早に去っていく。それとほとんど同時に、リオーネが
「さっきは、すまなかった。あの少年と話した。俺も同じだ」
レオンが言うと、リオーネは表情を
「冷たい
「いや、それは違うと、俺は思う」
ルカの
そのルカが、一人ですぐに戻ってきた。司教ファナティカが、レオンらを呼んでいるという。あちらから呼び出されるのは、初めてのことだった。
馬の掃除で汚れた衣服を着替え、すぐに教会へと向かう。リオーネの衣服の下には、短剣を身に付けさせた。レオンの剣は、まだ武器庫にしまわれている。敷地内にいる限り、手に持つことは許されそうになかった。
教会は、修道院と廊下で繋がっている。空へと突き抜けるようで、レオンのいた街には決してない高さの建物だった。
リオーネが、一歩後をついてくる。教会の最奥に、司教ファナティカが
長椅子の間をぬって、司教と向き合う位置まできた。
「もう発たれるそうだな、レオン殿」
殺気は、司教から放たれているものではない。ならば、どこからくるのか。頭も眼も動かさず、レオンは全身で気配だけを感じ取ろうとした。左右の扉。いくつもある。そこに、何かを感じた。
「様々なものを見せていただきましたが、これ以上は、修道院にご迷惑をかけられぬと思い」
「迷惑など。まだ何日でもいればよいのだ」
「何日も、監視には耐えられませぬな」
レオンは、言葉の上で一歩踏み込んだ。司教の表情は、相変わらず分からない。自分たちを取り囲む殺気が強くなったように思えた。
「神の眼は誰しもに向けられるもの」
間があって、ファナティカが呟くように言った。
「神ではない。その少年を差し向けたのは、司教、貴方であろう」
「石と思え。はじめ、そなたらにそう言ったのを、憶えておられぬようだ」
「私は、司教殿のお考えを
「ただの娘だと」
司教の語気が強くなった。リオーネが
「そなたらは、何も知らぬだけだ。神も、この世界のことも。この国が
話が突飛な方向に向かっている気がして、レオンは何も言い出せなかった。神や国のことが、この際何に関係するのか。竜のことをなぜ彼が口にするのか。
「ここに留まりなさい、レオン。そして、リオーネ。さすれば全てを教えてくれる。そなたらを救えるのだ。ここに来たのも、導きであるのだぞ」
「それは神の意思という意味か。それとも、貴方の考えか」
「無論、神もそう言っておられる」
司教が何かを知っていて、隠しているのは、もう疑いようがなかった。それはリオーネに
ただの娘ではない。司教の口から聞くまでもなく、分かっていた。ただの娘だと思いたかっただけだ。ひとりの少女でしかないと。自分の傍らで今震えているのは、レオンからすれば小さな、ひとりの妹なのだ。
司教が教壇から一歩、こちらへ踏み出してくる。ルカは動かない。殺気は周囲から漂ってくる。レオンは、リオーネの肩を抱き寄せた。
「妹が何であろうと、ここで貴方がたの言いなりになるつもりはない。我らを救うおつもりなら、監視など付けぬ。我らは、貴方を信じることはできぬ」
「私への不信は、神への不信と同じであるぞ」
「妹を護ろうとするだけの男を、神は罰しない」
司教は首を振って、掌を掲げた。左右の扉が開いて、僧兵が何人か出てくる。手には槍を持っていた。
レオンはリオーネの腰に手を回した。硬い感触がある。
「俺の傍から離れるな」
呟いた瞬間、リオーネが息を呑んだ。
「兄上っ」
突然の声に、僧兵たちが槍を構える。レオンも、彼女の腰の短剣を抜き放った。
「あれがいます。黒い魔物が」
そのとき、司教の背後にあった
闇を凝縮したような漆黒の体躯。赤い閃光が眼から
黒いものは、司教ファナティカに飛び掛かる。呑まれる。レオンが足を踏み出そうとしたとき、その司教の
獣は、壁際を走り、唖然とする僧兵のなかへ飛び込む。悲鳴が上がる。僧兵が次から次へと襲いかかっていくが、人の悲鳴だけが止まない。
レオンは、倒れたルカに駆け寄った。首から上が、血で赤く塗られたようだった。掠れるような呼吸で、何度も呟くような言葉を発している。リオーネも、駆け寄ってきた。
「司教様、司教様は」
レオンは、司教ファナティカの転がったほうに目を
「司教殿は生きてらっしゃる。おい、死ぬな。おぬしが死ねば、誰が司教殿を護るのだ」
呼びかけながら、レオンの脳裏には剣のことが過ぎっていた。父の剣。この短剣で、どうにかなるような相手ではない。
「ルカ。剣だ。武器庫を開けねば」
ルカは目を閉じ、浅い呼吸を繰り返すようになった。汗が引いている。まずい、と思った。彼の首筋から顔面まで、顔を近づけて見る。血がどこから出ているのか、見極めようとした。顎の下。右目の上。特にひどいのは、そこだった。首筋の、太い血が通っているところは避けている。
リオーネが、被っている布を差し出す。それを破って、ルカの額と顎の辺りに、強く巻く。すぐに、布は赤く染まった。
「リオーネ。布を換えられるな」
妹が頷くよりも先に、レオンは布をリオーネに預けていた。ルカの着物の至る所を
「兄上。私が」
リオーネが手を突き出していた。手は、ルカの血で赤くなっている。
「何を」
「剣は、私が」
レオンは鍵を、リオーネの手に握らせた。彼女が、駆け出していく。
僧兵の中から、黒い風が飛び出してきたように見えた。見えたときには、レオンはその風に横から短剣を突き出していた。
眼が合った気がした。真紅の中に闇があった。レオンを敵と認めたらしい。
柄を握る手に力を込めた。
リオーネが剣を持って戻ってくる。疑ってはいない。
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