神に仕える者

 マルバルク城の指揮官コマンダントが死んだ。


 その報せを、レオンはうまやで聞いていた。修道院にまぐさを運び込む男たちの話だった。


 青灰ヘルブラウからだを洗っているときだった。うまやは修道院の北の外れにあって、レオンらの馬も、そこに入れられている。世話も係の者がすると言われたが、レオンもリオーネも、それは断った。


 とくにリオーネは嫌がった。彼女は、滅多なことでは、雪風ヴァイゼンの世話を人にさせない。糞の始末まで自分でやりたがるのだ。人間の友以上の関係を結んでいる。レオンにはそう見えた。


 いまも離れた馬房で、リオーネが雪風ヴァイゼンからだを磨いている。まぐさの業者たちの声は、彼女には届いていないだろう。


 気になる話だった。レオンは水の入った桶を置いて、男たちに近づいた。


「ここから西にあるという、青竜軍アルメの城のことか?」


「そうだけどよ。なんだ、あんた」


 修道院でレオンのような部外者を見たからか、男たちは少し驚いたようだった。


「ただの客さ。それよりその話、教えてくれないか」


「なに、そこの城主が死んだって話だ。軍人が大慌てでな。俺たちもすぐに追い出された」


「城にもまぐさを届けているのか」


「御得意先よ。馬の数が、こんなところとは違うからな。だが、それもどうなるか分からねえ。指揮官様が死んだんじゃな」


 そこにいる男たちは、皆一様につまらなそうな表情になった。


 エベネの街の近くに青竜軍アルメの駐屯している城があるというのは、レオンも知っている。この街の治安を担っているのもその城の軍だという。城は、ここから歩いても一日ほどで行ける距離にある。


「病か、何かか」


「さあな。だけど、病なら俺たちも聞いてるはずだろ。なんてったって、月に何度も、あそこには出入りするんだからな」


 男たちも詳細は知らないようで、レオンの質問に鬱陶しそうな顔をした。何人かの男は、荷車をいてうまやを出ようとする。


「あんたが誰か知らねえが、客なら早く街を出た方がいいかもな」


 最後の男がそう言い残すのを、レオンは黙って聞いていた。軍が混乱しているとき、大抵近隣の治安は悪くなる。男はそのことを言っているのだろう、と思った。


 馬房に戻る。今の話が、どこか引っ掛かる。軍の指揮官が死んだと言っても、自分たちにそれほど影響はない。この街にも、いつまでもいるわけではない。別に、気にしなくてもいいようなことなのだ。


 青竜軍アルメ指揮官コマンダント。前触れもなく、死んだ。なにが引っ掛かっているのか、レオンは自分でも分からなかった。


 リオーネの声が聞こえた。誰かと話しているような声である。雪風ヴァイゼンのいる馬房の方をうかがった。


 あの、ルカという少年だった。レオンは一瞬身構えた。しかし、彼がすぐにリオーネに背を向けるのを見て、僅かに緊張を解く。そのまま、ルカは馬房を出て行った。


 リオーネが、レオンの視線に気付いて、駆け寄ってくる。


「あの少年と話していたのか」


「いけないことでしたか」


 リオーネはレオンの表情を見て、慌てているようだった。


「いけないことだとは、言わん」


「ほんとうに、声をお掛けしただけです。それで、すぐに行ってしまわれました」


「しかしな」


 街で後をけられたのは、昨日のことだ。今日も、これまでと何ら変わらない目を向けてきたが、レオンは無視していた。あの少年が、レオンらに監視の目を向けているのは、リオーネももう分かっているはずだ。警戒するべきだと言うと、リオーネは頷いた。


「先に雪風ヴァイゼンのほうが、ルカ様を気にして。あの子は、あまり人間に興味を持たないのですが」


 リオーネは、困惑しているようだった。馬のせいにするつもりで言っているようでもない。自分が過敏になっていることに、レオンは気付いた。ふと視線を上げる。雪風ヴァイゼンが、こちらを見つめていた。気のせいかもしれないが、それで自分の中の尖っているものが、ほぐれるような気分になった。


「いや、いいのだ。もう少し、ここで馬と一緒にいるといい。俺は、そこに出ているから」


 言い終えてから、レオンは軽く息を吐く。リオーネは、まだ不安げに自分を見つめていた。レオンは無理に笑顔を作ると、彼女より先にうまやの外に出た。


 彼女に何をぶつけようとしていたのか。呆れるような気持で、自分の頭を掻いた。神経質になるな。自分に言い聞かせた。楽な旅ではない。リオーネに何があっても、護れるのは俺しかいないのだ。わかっていたことではないか。


 あの少年にせよ、司教にせよ、考えを聞いたわけではない。危害を加えるつもりなら、とうにそうしているだろう。もう何日も、ここにいるのだ。


 空を見上げた。雲が漂っている。快晴である。レオンはまたひとつ、溜息が出た。


 長居をしすぎた。はっきりとそう思った。調べられる限りのことは、調べた。新たな発見はない。この修道院には世話になったが、もう居座る理由もなかった。監視されるほどに自分たちが警戒されているというのなら、こちらから早く出て行った方がいい。一所ひとところに留まりすぎると、獣の手が迫るかもしれない。


 次はどこに行くべきか、レオンは考えた。さらに別の教会か、学者のいるところを尋ねるべきか。それとも、軍か。荷の中にはハイデルの青竜軍アルメから預かった書簡がある。ベイルの名で記されていて、軍の記録や書物の閲覧を許可するというものだった。それがあれば、またどこかで調べ物もできる。


 マルバルク城の指揮官コマンダントが死んだという話を、レオンはまた考えた。なぜ、こうも気にかかるのか。


 何かを思い出しそうになったとき、視線を感じた。


「すこし、話そうではないか」


 レオンは、あえて明るい調子で声を上げた。リオーネに言ったわけではない。それを察したのか、建物の陰から、ルカが音もなく姿を現す。


「安心しろ。今日は、飛礫つぶても遣わんし、剣もない」


 距離を保ったままの少年は、何も言わない。風で髪が揺れる。切れ長の眼だけは、こちらに向けている。年の頃は、リオーネとそう変わらないように見えた。


「体術をやるのだろう」


 その問いかけに、ルカが表情を変える。身のこなしがずっと気になる少年だった。豹か猫のようなしなやかさがある。剣を遣う者や弓を遣う者の動きとも違う。からだの軸が通っているのが、一目見てわかるほどだ。


「誰に教わった。僧兵のなかに、体術に長けた者がいるのかな」


「院で、体術を教わることなどありません。私が、一人で身に付けたものです」


「ほう。何のために?」


「司教様を、おまもりするためです。私の技は、神と司教様のためにあります」


 言葉から、強い思い入れが感じられた。頑なと言ってもいいくらいで、彼と出会った数日の間では、聞いたことのない語調だった。饒舌になるのも、それなりの思いがあるからなのだろう。


「いつから、従者を?」


「生まれたときより」


「それは、また」


 レオンは、思わず声を大きくする。あまりの口ぶりに驚いただけだったが、ルカはそれを馬鹿にしているかのように感じ取ったらしい。眼が鋭くなった。レオンが肩をすくめると、彼はもう背を向ける。


「司教殿に、お会いしたい」


「どのような御用ですか」


「我々は、ここを出ようと思う。たいへん世話になった、そのお礼を申し上げたいのだ」


 ルカが足を止めた。振り向きはしなかった。ただ、感情の読めない声だけが返ってくる。


「司教にお伝えします。暫く、お待ちを」


 そして、足早に去っていく。それとほとんど同時に、リオーネがうまやから顔を出した。ルカの背を眼で追っている。


「さっきは、すまなかった。あの少年と話した。俺も同じだ」


 レオンが言うと、リオーネは表情をほころばせた。


「冷たいかたなのでしょうか」


「いや、それは違うと、俺は思う」


 ルカのかもし出すものは、冷たさとはまた違うものだ、とレオンは思い始めていた。司教の従者であること、監視役であることがそうさせているのか。それともまだなにかあるのか。生来のものではないような気はしていた。


 そのルカが、一人ですぐに戻ってきた。司教ファナティカが、レオンらを呼んでいるという。あちらから呼び出されるのは、初めてのことだった。


 馬の掃除で汚れた衣服を着替え、すぐに教会へと向かう。リオーネの衣服の下には、短剣を身に付けさせた。レオンの剣は、まだ武器庫にしまわれている。敷地内にいる限り、手に持つことは許されそうになかった。


 教会は、修道院と廊下で繋がっている。空へと突き抜けるようで、レオンのいた街には決してない高さの建物だった。人気ひとけはない。ただ、あるかないかの殺気を、レオンは感じていた。殺気は、教会の中から洩れてくる。説教のために呼ばれたのではなさそうだ。レオンは気を静かに、教会の中に踏み入った。


 リオーネが、一歩後をついてくる。教会の最奥に、司教ファナティカがたたずんでいた。硝子ガラス窓の外は明るい。逆光で、表情も何も見えない。ルカがその脇に控えている。


 長椅子の間をぬって、司教と向き合う位置まできた。


「もう発たれるそうだな、レオン殿」


 殺気は、司教から放たれているものではない。ならば、どこからくるのか。頭も眼も動かさず、レオンは全身で気配だけを感じ取ろうとした。左右の扉。いくつもある。そこに、何かを感じた。


「様々なものを見せていただきましたが、これ以上は、修道院にご迷惑をかけられぬと思い」


「迷惑など。まだ何日でもいればよいのだ」


「何日も、監視には耐えられませぬな」


 レオンは、言葉の上で一歩踏み込んだ。司教の表情は、相変わらず分からない。自分たちを取り囲む殺気が強くなったように思えた。


「神の眼は誰しもに向けられるもの」


 間があって、ファナティカが呟くように言った。


「神ではない。その少年を差し向けたのは、司教、貴方であろう」


「石と思え。はじめ、そなたらにそう言ったのを、憶えておられぬようだ」


「私は、司教殿のお考えをきたいだけです。なぜ、我らをそれほど恐れるのか。ただの男ひとりと、娘を」


「ただの娘だと」


 司教の語気が強くなった。リオーネがからだを強張らせるのが分かった。


「そなたらは、何も知らぬだけだ。神も、この世界のことも。この国が如何いかにして成り立っておるのか。我らの信じる竜が何を生み出したか。知らぬだけだ」


 話が突飛な方向に向かっている気がして、レオンは何も言い出せなかった。神や国のことが、この際何に関係するのか。竜のことをなぜ彼が口にするのか。


「ここに留まりなさい、レオン。そして、リオーネ。さすれば全てを教えてくれる。そなたらを救えるのだ。ここに来たのも、導きであるのだぞ」


「それは神の意思という意味か。それとも、貴方の考えか」


「無論、神もそう言っておられる」


 司教が何かを知っていて、隠しているのは、もう疑いようがなかった。それはリオーネにまつわることであり、そして、神と国に繋がることなのかもしれない。頭が揺れるような心地だった。


 ただの娘ではない。司教の口から聞くまでもなく、分かっていた。ただの娘だと思いたかっただけだ。ひとりの少女でしかないと。自分の傍らで今震えているのは、レオンからすれば小さな、ひとりの妹なのだ。


 司教が教壇から一歩、こちらへ踏み出してくる。ルカは動かない。殺気は周囲から漂ってくる。レオンは、リオーネの肩を抱き寄せた。


「妹が何であろうと、ここで貴方がたの言いなりになるつもりはない。我らを救うおつもりなら、監視など付けぬ。我らは、貴方を信じることはできぬ」


「私への不信は、神への不信と同じであるぞ」


「妹を護ろうとするだけの男を、神は罰しない」


 司教は首を振って、掌を掲げた。左右の扉が開いて、僧兵が何人か出てくる。手には槍を持っていた。


 レオンはリオーネの腰に手を回した。硬い感触がある。


「俺の傍から離れるな」


 呟いた瞬間、リオーネが息を呑んだ。


「兄上っ」


 突然の声に、僧兵たちが槍を構える。レオンも、彼女の腰の短剣を抜き放った。


「あれがいます。黒い魔物が」


 そのとき、司教の背後にあった硝子ガラスの大窓が、音を立てて砕けた。その破片と轟音とともに、黒いものが聖堂の中へ侵入はいってくる。レオンの全身が粟立った。


 闇を凝縮したような漆黒の体躯。赤い閃光が眼からほとばしっている。窓からの光を、呑み込むかのようだった。


 黒いものは、司教ファナティカに飛び掛かる。呑まれる。レオンが足を踏み出そうとしたとき、その司教のからだが横へと弾かれた。ルカだった。黒い渦に呑み込まれるように、ルカのからだが床に叩き付けられる。


 ようやく、レオンの足が動いた。短剣。逆手さかてに持つ。振りかざし、突っこんだ。獣が飛び退すさって剣先をかわす。ルカのからだを跨いで跳び越え、さらに壁まで追い込む。


 獣は、壁際を走り、唖然とする僧兵のなかへ飛び込む。悲鳴が上がる。僧兵が次から次へと襲いかかっていくが、人の悲鳴だけが止まない。


 レオンは、倒れたルカに駆け寄った。首から上が、血で赤く塗られたようだった。掠れるような呼吸で、何度も呟くような言葉を発している。リオーネも、駆け寄ってきた。


「司教様、司教様は」


 レオンは、司教ファナティカの転がったほうに目をる。腰を抜かしているのか、這いずるようにしているが、生きている。危ないのは、この少年のほうだった。


「司教殿は生きてらっしゃる。おい、死ぬな。おぬしが死ねば、誰が司教殿を護るのだ」


 呼びかけながら、レオンの脳裏には剣のことが過ぎっていた。父の剣。この短剣で、どうにかなるような相手ではない。


「ルカ。剣だ。武器庫を開けねば」


 ルカは目を閉じ、浅い呼吸を繰り返すようになった。汗が引いている。まずい、と思った。彼の首筋から顔面まで、顔を近づけて見る。血がどこから出ているのか、見極めようとした。顎の下。右目の上。特にひどいのは、そこだった。首筋の、太い血が通っているところは避けている。


 リオーネが、被っている布を差し出す。それを破って、ルカの額と顎の辺りに、強く巻く。すぐに、布は赤く染まった。


「リオーネ。布を換えられるな」


 妹が頷くよりも先に、レオンは布をリオーネに預けていた。ルカの着物の至る所をさぐる。鍵。あった。


「兄上。私が」


 リオーネが手を突き出していた。手は、ルカの血で赤くなっている。


「何を」


「剣は、私が」


 躊躇ためらった。しかし、他にどうしようもない。獣はまだ、僧兵が相手している。狙いはリオーネだ。それは、直感していた。彼女の瞳には、強い光がある。信じるか、この妹を。


 レオンは鍵を、リオーネの手に握らせた。彼女が、駆け出していく。


 僧兵の中から、黒い風が飛び出してきたように見えた。見えたときには、レオンはその風に横から短剣を突き出していた。行手ゆくてを塞がれた形の獣は、姿勢を低くしてレオンと向き合う。レオンは、リオーネの去った扉を背にして、剣を片手に構えた。


 眼が合った気がした。真紅の中に闇があった。レオンを敵と認めたらしい。


 柄を握る手に力を込めた。


 リオーネが剣を持って戻ってくる。疑ってはいない。

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