修道院
野営だけは、徹底して避けた。黒い化物が、いつ現れるか知れないからだ。
必然、集落に宿を借りることになる。しかし、だからといって安心しきれるわけでもない。夜は、常に気が張る。レオンはこの数日、ほとんど眠っていない。楽な旅ではなかった。
自分のことより、妹のリオーネのことが、レオンは心配だった。何日も旅をしたことなどない。それどころか、故郷のノルンの街を出たことすら、ほとんどないのだ。実際、馬に乗れなくなるときがあった。街を出て三日目の昼のことだ。馬を乗りこなすこと自体は難なくやってのけるが、何日も
ただ、僅かに安心できるのは、“声”というものを、妹が聞いていないことだ。これまで、黒い獣が現れたときには、必ず彼女がその声を聞いている。だから、それがないということは、近くにはあれがいない、ということと同じである。
声というものが、そもそもよく分からない性質のものだから、これも信じ切るわけにはいかない。しかし気持ちの寄る辺となるものが、他にない。信じるしかないのだ。
山をひとつ越えるだけ。レオンは自分に言い聞かせたし、リオーネにもそう言い続けた。地図には多く“
越えるのに、丸四日かかった。山道がかなり整備されているのだけが救いで、馬に乗ることもできた。中途に粗末だが山小屋もあったから、寝食はそこでなんとかなった。それでも、四日である。
“
エベネの街を見下ろせる位置に着いたのは、出立から七日後であった。見晴らしのいいところで、二人とも下馬する。リオーネは小さく声を上げ、その場にへたり込んだ。
「あれが」
銀の髪が汗で額に張り付いている。それも厭わず、彼女は眼下の街を見つめていた。安堵のせいか、眼も潤んでいる。
「すこし、ここで休む」
「下りましょう、兄上。街です」
返答があまりにも早く、レオンは笑ってしまった。
「いや、見える位置に街があるといっても、まだ歩かねばならん」
レオンは馬を樹に繋ぐ。屋敷にいたものの中では、最も良い。眼が青白いので、
レオンは食糧に口を付けながら、ノルンの街のことを考えた。領主が街を棄てたようなものだ。自分で決めたことでもある。しかし、ふとしたときに、気にはなった。残した使用人たちは、うまくやっているのか。自警団の友はどうか。食い物は、サントンらが
水を口に含み、腰を上げる。リオーネも立ち上がった。
銀の髪は頭の後ろで纏め上げている。腰には、隠してあるが短剣が
稽古は何度かつけたものの、実際に剣が扱えるかというと、微妙なところだ。剣の扱い方というより、
レオンは手早く荷を包むと、手綱を引いて妹を待った。リオーネも、支度は早くなっている。すぐに、歩きだせた。気持ちのせいか、下山にはそれほど時を要しなかった。
陽が沈む前に、エベネの街に入ることができた。リオーネには、頭から布を被らせる。
巨大な塔が
夕刻になってもこれほどの
馬を
レオンは立ち止まり、左胸に手を当てる。そして二度拝礼した。青竜教の簡易的な礼である。
「旅の方かな」
僧兵のひとりが同じように礼を返す。声には、僅かな警戒の色を含んでいる。レオンの腰に
「ムート領より参った、
身分を証明する書類は、用意している。僧兵はそれを検分し、レオンに返した。表情は、変わらない。
「よくぞ参られた、
「神の教えを、請いたいことがあるのです」
「まずは入られよ。青き竜の
ただし、と兵は手を挙げる。すぐに、同じような白い衣を
「供の方の、お顔を拝見したい」
僧兵がさらに言う。リオーネは布を被ったまま、すこし身じろぎした。レオンは、彼女を
「病の妹なのです。陽に当たることもできぬ病で、こうして布を被せてあります。ここに伺ったのも、その病のためなのです」
「顔も出せぬのですか」
「ええ。どうしても仰るのであれば、もちろん布を取ります。しかし、今は西の陽が強い。もしものことがあれば」
二人の僧兵が、互いに顔を見合わせる。レオンは、眼を二人から離さなかった。
「宜しい。おい、この方々をお連れせよ」
呼ばれた少年は、そのままレオンらを案内するように歩き出す。僧兵は元の位置に戻ってしまった。リオーネが小さく息を吐くのが聞こえた。髪と瞳のことは、教会でも可能な限り伏せておきたい。リオーネと二人で、そう話した。ノルンの街であったことを考えれば、余計な注目を浴びたくはない。
少年に連れられ、教会の敷地の中を歩く。リオーネが
白い衣の人間もちらほらと見える。すべて男だが、年齢は様々であった。おそらく、皆が僧侶か、修道士なのだろう。聖職者がこれほどいるのも、見たことがない。すべてのものが新しく見え、レオンも様々なところに目を奪われた。
「司教様にお伝えして参ります。ここでお待ちください」
少年は、レオンとリオーネをひとつの部屋に入れると、一礼して歩き去った。レオンは思わず、その少年の背を眼で追った。見ただけで判るほど、身のこなしが軽やかだったのだ。それが、この修道院という場所では意外に思われた。
少年を従えた男が現れたのは、すぐあとだった。
「ムート領の主、レオン殿。よく参られた。司教のファナティカと申す。この教会と修道院を任されている」
レオンらは、立ち上がって拝礼する。司教も、柔和な顔で礼を返した。
「強い眼の光をお持ちだ。若くとも、やはり領主であるな」
「父より、まだ領を受け継いだばかりの若輩者であります、司教殿」
レオンが言うと、司教がさらに目尻の皺を濃くした。
「神の教えはどこであれ、
司教ファナティカは表情そのままに、視線を、布を被ったままのリオーネに向けた。
「病であるとか」
布の向こうにあるものを見定めようとでもするように、司教がリオーネを見つめる。
「いえ。
「ほう」
「仰るとおり、事情がございます。司教殿ほか、信の置ける方にのみ、お話ししたかったのです」
ファナティカはレオンの言葉にも、少し眉を動かしただけだった。嘘を咎めることは、しないらしい。聖職にある者への嘘で気持ちが重くなっていたレオンは、それで僅かに安堵した。
「彼を、出してはいただけませぬか」
レオンは、司教の傍らにいる少年に、ちょっと眼を向けた。
「それは致しかねる。お客人といえど、ご
司教の口調は、反論を許さないものだった。
「この者は、石と同じ。そう思われよ」
まだ、レオンの剣を携えたままの少年は、そのまま動こうとしない。従者のようで、一言も発さないままでいる。
「わかりました。リオーネ」
レオンは頷くと、傍らにリオーネを呼んだ。頭から被らせていた布を取る。銀色の髪が、夕刻の差し込む光に
「なんと。そんな」
ファナティカが、
「妹君だと、仰ったか、レオン殿」
「義妹では、ありますが。この髪と瞳のことを知りたく、ここまで伺ったのです」
「そうか。それは」
司教はなにかを唱えるようにまた小さく呟くと、左胸に掌を当て、大きく息を吸い、吐いた。
「銀の髪に、青の瞳。
「司教殿は、なにかご存知のことがお有りなのですか?」
あまりの動揺ぶりである。レオンは尋ねたが、司教は僅かな沈黙のあと、首を振った。
「分からぬ。しかし、これは。ああ、そうか」
まだ言葉が
しかし、司教の表情が元のようになったのは、そのすぐ後のことだった。
「宜しい。レオン殿、リオーネ殿。ウォルベハーゲンの修道院は、そなたらを歓迎する」
表情も声も、柔和なものに戻っている。先刻までの動揺を取り繕うようでもない。それが、
「ルカ」
司教の声に、傍らの少年が反応した。
「おまえを、この客人の世話役とする。
ルカと呼ばれた少年は、ただ拝礼し、それに応えた。司教は表情を崩さないまま、レオンらに背を向ける。
「司教殿」
思わず、レオンは声を掛けた。なにか、そうしなければならないという気がした。そのレオンの衣服の
司教は、顔だけを振り返らせた。夕刻の陽が影を作り、なぜか表情だけが、よく見えなかった。
「何日でも、滞在されるとよい。書物も、多量にある。神の言葉と古の知恵が、きっと何かを
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