大熊はまだ死なぬ
向き合っているのが、木の的から人に変わった。
それだけだが、レオンの中には驚くほど気が
ハイデルに戻ってから、さらに十日ほど経ってのことだ。腕だけは、まだ全快とはいえないが、もう
この男たちと、立ち合ってみろ。アルサスは言った。自分がそのとき、どういう表情をしていたのか、レオンには分からない。ただ、アルサスは面白いものでも見たような顔をしていた。兵士たちは、みな薄ら笑いを浮かべていた。
兵のひとりが、棒を持って歩み出てくる。構えは、緩い。レオンは同じ棒を持って、兵士と向き合った。
棒を、剣だと思う。剣の先に、気を集中させる。数日前まで気が散ってできなかったことが、そのときにはできた。父に、初めに教えられたことだ。
向き合っている兵士の表情が、おかしなものになる。相手が、棒を持つ手に、力を込め直す。レオンも、さらに気力を込めた。
先に、兵士が声を上げて、棒を振るってきた。動きは、緩慢に見える。受けることはせず、棒を持っている手首を、打った。擦れ違う。相手の棒が、地面に落ちる音がした。
拾え、と誰かの声がした。アルサスである。淡々とした口調で、兵士に命じている。兵士は顔を歪ませながら、またレオンと向き合う。気迫を感じた。しかし、圧し負けるほどのものではない。
棒が振るわれる。今度は、打ち合った。相手の棒が飛ぶ。何人かの兵士たちが、声を上げるのが聞こえた。
「もういい。下がれ」
なおも、飛んだ棒を拾おうとする兵士に、アルサスが言った。
僅かに高揚している自分に、レオンは気付いた。
兵士は、あと六人いた。アルサスを除いて、である。ひとりが出てきた。先刻の兵士よりも、
熱が、
「下がれ」
アルサスがまた言うと、入れ替わるようにして次の兵が出る。残っている兵士は、五人である。
「五人」
気付いたときには、口走っていた。
「五人、同時に」
それを聞いたアルサスが、にやりと笑った。残った五人の部下に、一斉に打ちかかるよう命じている。兵士たちは、顔を赤らめ、眉根を寄せた。
呼気を荒らげた男が五人、レオンを取り囲んだ。レオンの血は、まだふつふつと
ほんとうに、同時だった。
背後で、二人の倒れる音がした。浅く、レオンは息を
手を打つ音が聞こえた。アルサス。薄く笑みを浮かべている。
「おまえたちは、こんな青年にも負けるほど、弱いのだ。分かったら、練兵場に行け。走り続けるのだ」
兵士たちは俯いたまま、養生所から駆けていく。レオンのほうは、見もしなかった。アルサスが、まだ笑ったまま、レオンに近づいてくる。
「調練で、手を抜いていた者たちだ。あんな言い方をしたが、おぬしのことを
とくに、言うことが見当たらなかった。レオンは、手に握った棒を見つめる。無心で、動けた。
アルサスが自分を見縊ってなどいないことは、言われずともわかる。罰を与えたいというのに、彼らより弱い男を、手合わせの相手に選ぶはずがない。だから、悪い気もしない。
「
先刻の者はともかく、他の兵士も同じように気が抜けているとは、レオンには思えなかった。顔つきにも、油断したところは、なさそうに見える。そう言うと、アルサスは首を振った。
「百人の内、ひとりでも気が抜けていたら、そこから崩れる。陣形を組んだところなどを、思い浮かべればいい。ひとつが崩れれば、他も巻き添えになる」
そう言われると、レオンにも分かる。自分が指揮していた、村の警備兵などとは違うのだろう。
「リオーネは、どうしているかな」
アルサスは、ちょっと辺りを見回す。二人で共に過ごした時間があったせいか、なにかと、この男は妹のリオーネを気に掛けてくれていた。
「ドミニク先生が、」
レオンが言いかけたときには、アルサスはもう話を察したように吹き出していた。
リオーネがこの軍営にいることを知っているのは、アルサスほか、一部の人間だけに留まっている。医師ドミニクは、そのうちのひとりであった。しかし、彼のリオーネに対する興味が、尋常でないのだ。旅の中で熱を出していたと聞いていたから、ドミニクの診察を受けさせたのだが、間違ったかもしれない、とレオンは思い始めていた。
「あの医者は、自分の知らないことになると、ああなのだ。普段は口の悪い、ただの親父だが」
あの眼に、あの髪だ。さらに低すぎる体温などを考えても、並の人間でないことは、リオーネを知っている者なら、誰でもわかる。ドミニクは、さらにその変わった部分がどこからくるのかを、知りたがっている。
「それで、あの娘は、怯えているというわけか」
「怯えているなどと。それどころか、ひどく
それで、アルサスはさらに口を開けて笑った。
いやな声がしない。リオーネはそう言ったが、レオンには不気味なくらいである。それよりも、ひとときでも長くあの医者から離したい、と思っているくらいなのだ。レオンには、妹の言う“声”というものが、未だに理解できない。黒い獣のときも、そうであった。
「いや、あの娘は、実に不思議だ。あの青い眼はなにか、我らとは違うものを見ているとしか思えん。旅をして、よくそれがわかった」
アルサスと黒い獣から逃れるときも、リオーネは獣の声を聞いていたのだという。馬の
「生きものの声を、聞き分ける。そうとしか、言えません」
「おぬしにも、分からぬことか?」
レオンが頷いたとき、養生所の戸口が勢いよく開いた。出てきたのは、ドミニクだった。
「おい、小僧ども。早くこい」
しきりに手招きをする。レオンとアルサスは、お互いに顔を見合わせた。
「先生。リオーネになにか」
「違う。目を
ドミニクが言い終えるよりも先に、アルサスが、弾かれたように駆けだした。レオンも後を追う。養生所の中は騒然としていて、人をかき分けながら進んだ。
寝台が一つ、隔離されたように置かれた病室がある。そこに飛び込む。寝台は、周囲を人が取り囲んでいて、よく見えない。
離れたところに、頭から布を被った人の姿がある。小さい。リオーネだ。布は、髪と眼の色を隠して出歩けるように、与えたものだった。ただ、養生所の中を歩くときだけは、布を取っている。それを、いまは頭から被り、人の慌ただしい動きに交わらないようにしていた。
アルサスが寝台に駆け寄る。レオンは、リオーネの傍に寄った。彼女は眼だけを動かし、こちらを見る。表情が強張っているのが、気になった。顔と
ベイル・グロースは、寝台の上で起き上がっていた。ずんぐりとした巨体は相変わらずだが、以前に見たときよりも、幾分か小さく見える。何事かを小さく呟いていて、眼はしっかりしていた。ドミニク医師が傍にいて、しきりに何かを問いかけ、
「アルサス。聞こえておるぞ、おぬしの声は。そう騒ぐでない」
アルサスが、硬直した。ベイルだった。怒鳴ったわけではない。しかし、低い声は、離れているレオンのところまではっきりと届いた。ゆっくりと、ベイルは寝台に群がっている人間を見渡すようにした。レオンにも気づいたようで、ほんの
「眠りすぎたようだ」
自嘲するように口の端を歪める。それから大きな掌を、彼は左胸に当てた。
「“大熊”はまだ死なぬ」
刹那、辺りが、しんと静まり返って、また沸いた。小さな波が広がるように、ざわめきが伝わっていく。全員が、喜色を浮かべている。誰かの、
アルサスが、動かないまま、床を見つめるようにしている。ひとりの兵士が、その肩を叩く。アルサスはそれに応えるように、大きく頷いている。
「奇跡だ。神はお見捨てにならなかった」
誰かが擦れ違いざまに叫んでいるのを、レオンは聞いていた。
「しかし、どうしたことだ。何をしても、目を
ドミニクが髪を
ひとり、立ったままのレオンの、衣服の端が何かに引っ張られた。リオーネだった。眼を見開き、寝台のベイル達を凝視している。唇が震えていた。手だけが、レオンを捉えて離さない。
「リオーネ」
レオンの声に、リオーネはびくりと肩を震わせた。それから上目で、窺うように見つめる。何かを求めているような眼だった。青い瞳が揺れている。レオンは、彼女を部屋の外へと連れだした。
「わたしは、わたしは何かを、してしまったのでしょうか」
「何があった」
「黒い、あの獣が、またいるような感じが」
レオンがその言葉にいきおい立ち上がると、彼女はまた衣服の端を強く引いた。首を左右に振っている。
「この養生所に入ったときから感じていたのです。でも、消えたのです」
「消えた?」
「この部屋に、いる気がしたのです。でも、いなくて。空気だけが、漂っているような感じでした。あの方の周りに。寝台の周りに」
レオンは、またもとの姿勢に戻って、リオーネの言葉を聞いていた。
「いけないことだと、どうしてか、思えなくて。わたし、あの方の
「待て。まさか、それで
「わかりません。でも、それであの、
思わず、レオンは大きく息を
直後、妹の言葉を、もう信じかけている自分に気が付いた。有り得ぬと思ったことでも、リオーネが言えば、すべて現実に起こったことだと思えてしまう。この少女が関わったことで、レオンの理解を超えてきたことなど、これまでも
「いいか、リオーネ。そのことは、私以外には言うな。決して」
絞り出せた言葉は、それだけだった。リオーネが頷く。青い眼が、またレオンを捉えた。
いったい、この瞳の奥に、何がいるのだ。
養生所の喧騒の中で、レオンは、少女の瞳の奥のものだけを見ようとした。
深い青があるだけで、あとは何も見えない。
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