大熊はまだ死なぬ

 向き合っているのが、木の的から人に変わった。


 それだけだが、レオンの中には驚くほど気がちていた。自分自身でも、よく分かる。剣を持って向き合うのは、やはり人でなければならないのだ。剣とは、人を斬るための道具である。父の言葉が脳裏をよぎった。


 ハイデルに戻ってから、さらに十日ほど経ってのことだ。腕だけは、まだ全快とはいえないが、もうからだが、よく動くようになった頃である。養生所の裏で相変わらず棒を構えていたレオンに、アルサスから声が掛かったのだ。軍服に身を通したアルサスの周囲には、部下のと思われる男たちが何人もいた。


 この男たちと、立ち合ってみろ。アルサスは言った。自分がそのとき、どういう表情をしていたのか、レオンには分からない。ただ、アルサスは面白いものでも見たような顔をしていた。兵士たちは、みな薄ら笑いを浮かべていた。


 兵のひとりが、棒を持って歩み出てくる。構えは、緩い。レオンは同じ棒を持って、兵士と向き合った。


 棒を、剣だと思う。剣の先に、気を集中させる。数日前まで気が散ってできなかったことが、そのときにはできた。父に、初めに教えられたことだ。からだが軽くなるような感覚がある。それで、自分が集中できているかを測る。できないとき、父は自分に稽古けいこをさせなかった。


 向き合っている兵士の表情が、おかしなものになる。相手が、棒を持つ手に、力を込め直す。レオンも、さらに気力を込めた。


 先に、兵士が声を上げて、棒を振るってきた。動きは、緩慢に見える。受けることはせず、棒を持っている手首を、打った。擦れ違う。相手の棒が、地面に落ちる音がした。


 拾え、と誰かの声がした。アルサスである。淡々とした口調で、兵士に命じている。兵士は顔を歪ませながら、またレオンと向き合う。気迫を感じた。しかし、圧し負けるほどのものではない。


 棒が振るわれる。今度は、打ち合った。相手の棒が飛ぶ。何人かの兵士たちが、声を上げるのが聞こえた。


「もういい。下がれ」


 なおも、飛んだ棒を拾おうとする兵士に、アルサスが言った。


 僅かに高揚している自分に、レオンは気付いた。からだが、熱を取り戻している。木の的に向かい合っていたときには、感じることのなかった熱だ。その熱は、レオンの心臓から、全身を熱くさせていく。


 兵士は、あと六人いた。アルサスを除いて、である。ひとりが出てきた。先刻の兵士よりも、からだは大きい。しかしそれでも、圧倒されるようなものはない。


 熱が、からだを動かした。対峙した瞬間に、大きく数歩踏み込む。相手の反応は鈍い。横薙ぎで、また棒を飛ばした。兵士が腕を押さえる。対峙してから棒を飛ばすまで、ほんのわずかなあいだであった。


「下がれ」


 アルサスがまた言うと、入れ替わるようにして次の兵が出る。残っている兵士は、五人である。みな、もう薄ら笑いは顔から消えている。


「五人」


 気付いたときには、口走っていた。


「五人、同時に」


 それを聞いたアルサスが、にやりと笑った。残った五人の部下に、一斉に打ちかかるよう命じている。兵士たちは、顔を赤らめ、眉根を寄せた。


 呼気を荒らげた男が五人、レオンを取り囲んだ。レオンの血は、まだふつふつとたぎっている。打ちかかってきた。


 ほんとうに、同時だった。からだを、すばやく一人に寄せる。棒の間合いの内側。腹をぐ。一人、倒れた。背中を、何本かの棒がかすめる。姿勢を低くしたまま、横にいた男のすねを打つ。転がる。起き上がったところに、棒が振り下ろされる。正面から受け、力任せに押し上げる。兵が眼を見開いたまま、からだを仰け反らせる。腕を打つ。棒が飛ぶ。立っているのは、二人になった。左右から、同時にくる。二振りの棒を同時に受けて、斬り払った。相手の姿勢が崩れる、その間を駆け抜けた。


 背後で、二人の倒れる音がした。浅く、レオンは息をいた。


 手を打つ音が聞こえた。アルサス。薄く笑みを浮かべている。


「おまえたちは、こんな青年にも負けるほど、弱いのだ。分かったら、練兵場に行け。走り続けるのだ」


 兵士たちは俯いたまま、養生所から駆けていく。レオンのほうは、見もしなかった。アルサスが、まだ笑ったまま、レオンに近づいてくる。


「調練で、手を抜いていた者たちだ。あんな言い方をしたが、おぬしのことを見縊みくびっているつもりはない。気を悪くしないでくれ」


 とくに、言うことが見当たらなかった。レオンは、手に握った棒を見つめる。無心で、動けた。からだの痛みを、血の熱が抑えてくれた、とでも言うのだろうか。


 アルサスが自分を見縊ってなどいないことは、言われずともわかる。罰を与えたいというのに、彼らより弱い男を、手合わせの相手に選ぶはずがない。だから、悪い気もしない。


指揮官コマンダントと、私がいなくなるだけで、こうだからな。まだまだ、鍛えねばならん」


 先刻の者はともかく、他の兵士も同じように気が抜けているとは、レオンには思えなかった。顔つきにも、油断したところは、なさそうに見える。そう言うと、アルサスは首を振った。


「百人の内、ひとりでも気が抜けていたら、そこから崩れる。陣形を組んだところなどを、思い浮かべればいい。ひとつが崩れれば、他も巻き添えになる」


 そう言われると、レオンにも分かる。自分が指揮していた、村の警備兵などとは違うのだろう。


「リオーネは、どうしているかな」


 アルサスは、ちょっと辺りを見回す。二人で共に過ごした時間があったせいか、なにかと、この男は妹のリオーネを気に掛けてくれていた。


「ドミニク先生が、」


 レオンが言いかけたときには、アルサスはもう話を察したように吹き出していた。


 リオーネがこの軍営にいることを知っているのは、アルサスほか、一部の人間だけに留まっている。医師ドミニクは、そのうちのひとりであった。しかし、彼のリオーネに対する興味が、尋常でないのだ。旅の中で熱を出していたと聞いていたから、ドミニクの診察を受けさせたのだが、間違ったかもしれない、とレオンは思い始めていた。


「あの医者は、自分の知らないことになると、ああなのだ。普段は口の悪い、ただの親父だが」


 あの眼に、あの髪だ。さらに低すぎる体温などを考えても、並の人間でないことは、リオーネを知っている者なら、誰でもわかる。ドミニクは、さらにその変わった部分がどこからくるのかを、知りたがっている。


「それで、あの娘は、怯えているというわけか」


「怯えているなどと。それどころか、ひどくなついているようでして」


 それで、アルサスはさらに口を開けて笑った。


 いやな声がしない。リオーネはそう言ったが、レオンには不気味なくらいである。それよりも、ひとときでも長くあの医者から離したい、と思っているくらいなのだ。レオンには、妹の言う“声”というものが、未だに理解できない。黒い獣のときも、そうであった。


「いや、あの娘は、実に不思議だ。あの青い眼はなにか、我らとは違うものを見ているとしか思えん。旅をして、よくそれがわかった」


 アルサスと黒い獣から逃れるときも、リオーネは獣の声を聞いていたのだという。馬の雪風ヴァイゼンとも会話をしているようにしか思えなかった、というのだ。いずれも、レオンにも心当たりのあることだった。しかし、心当たりがあるというだけで、あとは何も分からない。


「生きものの声を、聞き分ける。そうとしか、言えません」


「おぬしにも、分からぬことか?」


 レオンが頷いたとき、養生所の戸口が勢いよく開いた。出てきたのは、ドミニクだった。


「おい、小僧ども。早くこい」


 しきりに手招きをする。レオンとアルサスは、お互いに顔を見合わせた。


「先生。リオーネになにか」


「違う。目をましたのだ。指揮官コマンダントが、目を」


 ドミニクが言い終えるよりも先に、アルサスが、弾かれたように駆けだした。レオンも後を追う。養生所の中は騒然としていて、人をかき分けながら進んだ。


 寝台が一つ、隔離されたように置かれた病室がある。そこに飛び込む。寝台は、周囲を人が取り囲んでいて、よく見えない。


 離れたところに、頭から布を被った人の姿がある。小さい。リオーネだ。布は、髪と眼の色を隠して出歩けるように、与えたものだった。ただ、養生所の中を歩くときだけは、布を取っている。それを、いまは頭から被り、人の慌ただしい動きに交わらないようにしていた。


 アルサスが寝台に駆け寄る。レオンは、リオーネの傍に寄った。彼女は眼だけを動かし、こちらを見る。表情が強張っているのが、気になった。顔とからだは、寝台のほうを向いたままだ。


 ベイル・グロースは、寝台の上で起き上がっていた。ずんぐりとした巨体は相変わらずだが、以前に見たときよりも、幾分か小さく見える。何事かを小さく呟いていて、眼はしっかりしていた。ドミニク医師が傍にいて、しきりに何かを問いかけ、からだに触れている。ひとつ離れたところから、アルサスが大声で呼びかけるのを、周りの人間が抑えている。


「アルサス。聞こえておるぞ、おぬしの声は。そう騒ぐでない」


 アルサスが、硬直した。ベイルだった。怒鳴ったわけではない。しかし、低い声は、離れているレオンのところまではっきりと届いた。ゆっくりと、ベイルは寝台に群がっている人間を見渡すようにした。レオンにも気づいたようで、ほんのわずかに眼を細めた。


「眠りすぎたようだ」


 自嘲するように口の端を歪める。それから大きな掌を、彼は左胸に当てた。


「“大熊”はまだ死なぬ」


 刹那、辺りが、しんと静まり返って、また沸いた。小さな波が広がるように、ざわめきが伝わっていく。全員が、喜色を浮かべている。誰かの、すすり泣くような声も聞こえる。ドミニクが、せきを切ったように、大声で助手へ指示を出し始める。その彼の顔も、見たことがないほど明るくなっていた。


 アルサスが、動かないまま、床を見つめるようにしている。ひとりの兵士が、その肩を叩く。アルサスはそれに応えるように、大きく頷いている。


「奇跡だ。神はお見捨てにならなかった」


 誰かが擦れ違いざまに叫んでいるのを、レオンは聞いていた。


「しかし、どうしたことだ。何をしても、目をまされなかったのに」


 ドミニクが髪をむしる。助手の医師や女たちが、せわしく歩き回っている。アルサスは、ただ俯いていた。溢れ出しそうになるものを堪えているようであった。


 ひとり、立ったままのレオンの、衣服の端が何かに引っ張られた。リオーネだった。眼を見開き、寝台のベイル達を凝視している。唇が震えていた。手だけが、レオンを捉えて離さない。


「リオーネ」


 レオンの声に、リオーネはびくりと肩を震わせた。それから上目で、窺うように見つめる。何かを求めているような眼だった。青い瞳が揺れている。レオンは、彼女を部屋の外へと連れだした。


「わたしは、わたしは何かを、してしまったのでしょうか」


 ひざまずき、彼女の眼を見る。まだ揺れていた。ただ事ではない、とレオンは思った。


「何があった」


「黒い、あの獣が、またいるような感じが」


 レオンがその言葉にいきおい立ち上がると、彼女はまた衣服の端を強く引いた。首を左右に振っている。


「この養生所に入ったときから感じていたのです。でも、消えたのです」


「消えた?」


「この部屋に、いる気がしたのです。でも、いなくて。空気だけが、漂っているような感じでした。あの方の周りに。寝台の周りに」


 レオンは、またもとの姿勢に戻って、リオーネの言葉を聞いていた。


「いけないことだと、どうしてか、思えなくて。わたし、あの方の御躰おからだに、触れてしまいました」


「待て。まさか、それで指揮官コマンダント殿は目をまされたと?」


「わかりません。でも、それであの、指揮官コマンダント様が、眼を開けられて。わたし、どうしてよいかわからなくて、ドミニク先生を」


 思わず、レオンは大きく息をいた。ばかな、という言葉が口から出かかって、止める。代わりに、もう一度息を吐いて、蟀谷こめかみを押さえる。それで、頭の中を整理しようとした。


 直後、妹の言葉を、もう信じかけている自分に気が付いた。有り得ぬと思ったことでも、リオーネが言えば、すべて現実に起こったことだと思えてしまう。この少女が関わったことで、レオンの理解を超えてきたことなど、これまでもいくらでもあった。信じられないと思っても、実際に目の前で想像だにしないようなことが、何度も起こっている。もう、信じるしかないのだ。たとえ、触れただけで病人が目醒めざめたなどという、荒唐無稽なことであってもだ。


「いいか、リオーネ。そのことは、私以外には言うな。決して」


 絞り出せた言葉は、それだけだった。リオーネが頷く。青い眼が、またレオンを捉えた。


 いったい、この瞳の奥に、何がいるのだ。


 養生所の喧騒の中で、レオンは、少女の瞳の奥のものだけを見ようとした。


 深い青があるだけで、あとは何も見えない。

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