北へ


 鞍を、雪風ヴァイゼンの背に載せた。


 アルサスが、旅の途中で出会った女性にょしょうから譲り受けたものらしい。どこにもほつれなどのない、よい馬具だ。レオンは、そこにいくつかの荷をくくりつけた。雪風ヴァイゼンは、おとなしく待っている。


 軍馬の多くいるこのハイデルのうまやでも、雪風ヴァイゼンの体躯は見劣りしない。いま考えてみれば、ノルンの街にいる馬は、良い馬が多かった。ほとんどは父が出兵の際に率いていったが、戦場でも他の軍馬に負けることはないだろう。


 ノルンに帰る。ドミニク医師から、もう自分が診る必要はない、と言われたからだ。実に半月はんつき以上、ここにいたことになる。


 そのドミニクは、出立の準備をするレオンを、座り込んで眺めている。頬杖をついて、眼は開いているのかいないのか分からない。よほど忙しいのだろう。何か問いかけても、ほとんど答えになっていない声が返ってくるだけである。草臥くたびれた雰囲気が、余計に濃くなった気がした。


「あの娘のことだがな」


 欠伸混じりの声である。レオンが、支度をすべて終えたときだった。


「いろいろとからだを見たが、不調はもうない」


 眼を閉じたまま、ドミニクが言う。まるで寝言のようであった。


しんの音も正常だし、脈もいい」


「そうですか」


「しかし、からだは、いやに冷たい。まともな人間なら、死んでいるような体温でな」


 それこそ、ひやりとするようなものの言い方である。レオンには返す言葉がない。


「医学書を読み漁っても、なにもわからん。こんなことは初めてだよ」


「彼女をた医者は、皆そう言います」


「その辺の医者と、俺を一緒にするな」


 少し眼が開いて、ドミニクはレオンを睨んだ。


「まあ、そう言ったところで、わからんのだが。このところ、医では説明のつかんことばかり起こる」


 ドミニクが頭を掻く。歯切れの悪さが、彼らしくない。悔しさも少し混じったような口ぶりだった。医者として、不明なことをそのままにしておくのに、抵抗があるのだろう。アルサスは、薬草を煎じたものでリオーネの熱が引いたと言っていた。それが本当なら、レオンらと何も変わらない。それならそれでいい、という思いもあった。どこかで、彼女も自分たちと同じ人間であると思いたいのかもしれない。


 養生所のほうから、リオーネがやってきた。頭からすっぽりと布をかぶっている。傍には、アルサスがついていた。二人で言葉を交わしている。アルサスが、何かを彼女に手渡すのが見えた。


 さらに後ろから、巨躯の男が現れる。指揮官コマンダントベイル・グロースである。


 リオーネが彼の躰に触れて起こったことは、誰にも明かしていない。ドミニクが不可解に思うのも当然と言えた。


「教会に行ってみろ、坊主」


 ドミニクがぽつりと言った。眼は、地面を見つめていた。


「医で解けんことには、神の意思を仰ぐしかない」


 教会。それなら、故郷ノルンにもある。ここハイデルにもある。彼が言いたいのは、もっと大きな規模の教会のことを言っているのだろう。


 リオーネが何者であるのか、いつかは解き明かさねばならない。家族として彼女を迎えたからには、当然、それが義務だとも思っている。しかし一方では、知らぬままでいい、とも思うことがある。


 そしてそれはときどき、知らぬ方がいい、という考えにもなるのだ。


「あの娘には、きっと何かあるぞ。放っておくには、危ういほどのものがな」


 レオンの心の内を見透かしたように、ドミニクは言った。眼はレオンをしっかりと捉えている。はっとするような眼だった。


 リオーネがいつの間にか傍に来て、レオンを見つめていた。青い眼。その奥にあるもの。眼を逸らしそうになる自分に、レオンは気付いた。


 見定めねばならないときが、きているのか。


 ドミニクがおもむろに立ち上がった。こちらに背を向け、立ち去ろうとする。レオンは、慌ててその背に声を掛けた。


「先生。治療をしてくださり、有難うございました」


 なぜか舌打ちをして、ドミニクが立ち止まる。


「俺の方こそ、礼を言ってやる。ようやく、裏庭でうるさく走り回られずに済むからな」


「それだけ、動き回れるようにしていただいた。先生にも、竜の加護がありますように」


 また、彼が舌打ちをするのが分かった。嫌味が通じないと思われたのかもしれない。彼の物言いに慣れきってしまった自分に、レオンは苦笑した。


「二度と来るなよ」


 面倒そうに手を挙げ、今度こそ彼は養生所のほうへ消えていった。一度もこちらを振り返らなかった。それこそがドミニクという医者だった。


 その背を同じように見送っていた二人の軍人も、笑みを浮かべながらレオンに向き直った。


「おぬし、先生に気に入られたな」


「どういう意味です、アルサス殿?」


「あの人が、見送りなどすると思うか」


 アルサスは愉快そうに言う。


「レオン。レーヴェンの息子よ」


 ベイルが、前に進み出た。大きな掌が差し出される。レオンがそれに応えると、そのまま手を引かれ、抱擁された。


「美しく、不思議な娘だ。俺は、知らぬということにする」


 囁く声が、レオンの耳に届いた。


「おまえを迎えたとき、レーヴェンは真先まっさきに、俺にそれを話した。嬉しそうにな。だが、リオーネのことは、何も言わなかった。ならば、俺にも言えぬというのだろう」


北へ行け。彼はそれだけ言って、からだを離す。レオンが思わず見つめると、彼は片目をつむってみせた。


「いいか、とにかく、北だ」


「ベイル殿、それは」


「ただ幸運を祈る。獅子の子よ」


 ベイルが身を翻し去っていく。言葉の意味を少し考えたが、結局、何も分からずやめた。リオーネは俯いている。アルサスは、レオンらの話していた内容には、特に触れてこなかった。黒い怪物のことだけが不安だ、と彼は言った。


「また、現れるという気がする。どうするつもりだ、レオン殿?」


「リオーネのいる場所は、すでに割れています。それを、どうするかですが」


 からだを快復させている間、考えていたことでもある。黒い獣は、リオーネだけを狙っている。しかし、街にはほかに人がいる。アルサス達ですら、街の民を護るために一度街を出るしかなかったのだ。今度は自警団しかいないが、すでに半数以上を、獣の襲撃で失った。同じてつを、二度踏むわけにはいかない。


 どうすればいいか、などと言ったが、ほとんど選べる道はないように思えた。


 乗馬する。リオーネもレオンの懐に乗る。アルサスが、見上げていた。リオーネが、被っていた布を取った。


「アルサス様」


「また、いつか」


 リオーネが伸ばした手を、アルサスが優しく取った。


「礼は、言い尽くせないほどに。アルサス殿」


「おう。戦が終われば、また会おう、レオン殿。おぬしの屋敷で、肉の鍋でも食わせてもらおうではないか」


 思わず、レオンは笑みをこぼした。アルサスも笑っている。彼がリオーネの手を離すのと同時に、馬を走らせた。リオーネが、たびたび後ろを振り返っていた。


 ノルンへの道を、ゆっくりとけた。行き会う者が何人かいて、皆、馬に乗っている。青い軍服を着た男たちだった。


「戦が、始まったのですね」


 リオーネの言葉に、レオンも頷く。


「父上も、南の方で戦われている。“青の壁ブラウ・ヴァント”には、無事に入城されたようだ」


 連絡は、ハイデルの軍営に届いたものを、聞いていた。開戦とともに、南の港町がとされたらしい。父レーヴェンは、その街の民を救い、いま国境の砦にいる。


 父が戦い、人を救っているのだ。自分も、戦わねばならない。


 レオンは馬の脚を速めた。


「ノルンの街は好きか、リオーネ?」


 呼びかけると、妹が胸元で頷くのが分かった。


 北のほうに、巨大な山が見える。かつて、リオーネと二人で、街の近くからあの山を眺めたことを思い出した。


「あの山を越えた先に、また別の領地が、街がある。どんなところなのかは、俺にも分からない」


 橋を渡る。山を背に、街道を南へける。


「兄上」


 ノルンの林が見えてきたところで、今度はリオーネがレオンを呼んだ。


「兄上の考えてらっしゃること、私にもわかります。私は」


「言うな、リオーネ」


 自分の考えていることは、すでに妹には分かっている。そして、それを受け入れてもいる。しかし、彼女が決断したことだと、思わせたくなかった。リオーネには、何の罪もないことなのだ。


「俺が決める。すべて、俺の決めたことだと思うのだ、リオーネ。おまえは、ノルンの街を愛している。それでいい」


 愛しているがゆえの決断だったとしても、妹の口から、言わせたくはない。何かの責任を背負わせるには、この少女は幼すぎる気がした。それに、彼女はすでにもう、いくつもの荷を背負っている。尋常でない髪、瞳の色。不明なままの己の出自。得体の知れぬ怪物につけ狙われる恐怖。そして、自らの中に潜む何かの力。


 レオンは、懐の少女を撫でた。決断のひとつくらい、自分が背負わなければ。彼女が重荷で潰れてしまう。


 街に入った。馬上のレオンを認めると、街の民は沸いた。しかし、懐のリオーネを見た途端、道を大きく開ける。声を掛ける者は、ほとんどいない。顔を背ける者もいた。


「災厄め」


 どこからか、そんな声が聞こえた。レオンは、リオーネに布をかぶらせたまま、屋敷へと歩いた。リオーネも、一言も発さなかった。


 屋敷には、サントンとハイネがいた。レオンらの帰ってくるときが、わかっていたかのようだった。他にも、使用人は皆、揃っている。ゲラルトが、その使用人たちに次々と指示を出していた。


 居室でいるようにと、リオーネには言ったが、彼女は首を横に振った。


 レオンは、サントンとハイネを客間へ呼ぶ。ゲラルトと、主立った仕事を分担している者も、数名呼んだ。使用人たちは、なぜ自分が呼ばれたのか分からない、という顔をしていた。ハイネも同様である。サントンだけが、じっとレオンの眼を見つめていた。全員が集まったとき、ようやく、リオーネが被っていた布を取った。


 レオンは地図を長机の上に広げる。


「戻ってすぐに済まない。おまえたちに、俺の考えを聞いてほしかった」


 全員が、レオンに注目する。


「黒い獣が現れた。この街にも、北のウルグにも。獣だけでなく、人のようなものもいた。俺の掌を貫いたのも、それだ。大勢が死んだ。責任は、俺にある」


 誰も、何も言わない。外の林が揺れる音すら聞こえそうな静寂だった。


「やつらは、はっきりとした狙いを持っている。リオーネだ。これは、否定しようがない。街の者も、きっと分かっているだろう。リオーネがいる限り、あの化物が現れて街を襲うと。そしてそれは、近いうちにまた、必ず起こる」


 使用人の何人かが、リオーネを見つめた。少女はただ俯いている。


 次に継ぐべき言葉を、レオンは迷った。しかし、回りくどく話すことに意味は無いとも思った。


「俺たちは、街を離れようと思う」


 皆が、息を呑むのが分かった。リオーネですら、眼を見開いてレオンを見上げていた。サントンだけは、やはりわかっていたのか、眼を閉じていた。


「永遠に、というわけではない。やつらとの戦いに決着がつけば、必ず戻る。しかし、やつらが何なのか、なぜ妹を狙うのか、まだ解らぬことだらけだ。ここにいるだけでは、何も解決しない。だから、街を出る」


「兄上」


 リオーネの声が上擦っていた。


「なぜ、兄上まで」


「おまえひとりを、街の外に出すわけにはいかぬ。当たり前のことをくな」


「でも、私は。兄上は領主です。私ひとりが」


 レオンは、手を挙げてリオーネの言葉を遮った。


「俺の決めたことだと言った」


 リオーネが、涙を流し始めた。レオンはそれを無視し、他の者に向き合った。いまは、それに心を動かされているときではない。


 他の者たちも、それぞれに思うところがあるようだった。互いに密やかな言葉を交わしている。ゲラルトは、長い溜息をいた。ハイネは蒼白な顔で、地図に視線を落としている。


「出ると言っても、どこへ」


 サントンが、落ち着いた声で言った。騒然としていた場が、しんと静まる。


「北へ」


 そこで初めて、レオンは地図を指差した。


「北の山の向こう。エベネの街に、ウォルベハーゲン修道院がある」


 エベネ。この辺りでは、最も大きな教会と、それに併設された修道院のある場所だ。ウルグの村、北の山をさらに越えなければならないが、遠すぎる場所でもない。


「ハイデルの軍医が、リオーネのことを様々にたようだったが、何も分からなかった。もう、何か知ろうとすれば、神の教えを請うしかない、と思う」


 教会や修道院には聖典があるはずだ。学問のための書物も、数多あるだろう。


「ここにリオーネがいないと分かれば、獣どもも手出しはしないだろう」


 サントンが立ち上がった。


「俺も行く」


「ならん。おまえには、この街を護って貰わなければならない」


「おまえと、リオーネを放っておけと」


「そうだ。おまえにしか、頼めない。ほかに、警備兵をまとめられるものはいない。おまえを信用しているからこそ、頼んでいるんだ」


「あの化物から、ひとりでリオーネを護れると?」


「サントン」


 剛直な男だ。だからこそ、街を護る役目を任せられる。レオンは、それを理解してほしかった。


領主レンスヘルが、こんなことを言って、済まないと思う。父が知れば、きっといかることだろう」


 だが、とレオンはリオーネの肩を抱いた。妹は、まだ眼に涙をたたえている。


「妹を護れぬ領主など、いない。そう思うのだ」


 妹ひとり護れずして、なにが領主レンスヘルか。なにが獅子の子か。戦い続けると決めたのだ。


 レオンは机に手をつき、頭を下げた。


「皆には、大変なものを押し付けることになる。しかし、わかってほしい。どうか」


 サントンが、椅子に腰を落とした。ハイネは、口を堅く結んで頷いた。もう、使用人たちも、何も言わない。


「旦那様」


 静寂の中、口を開いたのは、ゲラルトだった。


「剣を、いておられますな、お父上の」


 レオンは、腰の剣をちょっと手で触れた。佩剣したままだったことを、思い出した。


「その剣をかれた時より、我ら一同、貴方の思いに従う覚悟は出来ております」


 ゲラルトは、目を伏せたままだった。


「領のことは、ご心配召されるな。貫かれよ、領主レンスヘル


 そして、静かに拝礼した。周囲の者も、それに続く。サントンとハイネが、レオンを見据え、頷いた。


 レオンは、傍のリオーネを見た。涙で潤んだ瞳は、しかし澄んだ光を放っている。


 北へ。レオンの心は、定まった。




(花の季節  了)

(PART 3 に続く)

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