北へ
鞍を、
アルサスが、旅の途中で出会った
軍馬の多くいるこのハイデルの
ノルンに帰る。ドミニク医師から、もう自分が診る必要はない、と言われたからだ。実に
そのドミニクは、出立の準備をするレオンを、座り込んで眺めている。頬杖をついて、眼は開いているのかいないのか分からない。よほど忙しいのだろう。何か問いかけても、ほとんど答えになっていない声が返ってくるだけである。
「あの娘のことだがな」
欠伸混じりの声である。レオンが、支度をすべて終えたときだった。
「いろいろと
眼を閉じたまま、ドミニクが言う。まるで寝言のようであった。
「
「そうですか」
「しかし、
それこそ、ひやりとするようなものの言い方である。レオンには返す言葉がない。
「医学書を読み漁っても、なにもわからん。こんなことは初めてだよ」
「彼女を
「その辺の医者と、俺を一緒にするな」
少し眼が開いて、ドミニクはレオンを睨んだ。
「まあ、そう言ったところで、わからんのだが。このところ、医では説明のつかんことばかり起こる」
ドミニクが頭を掻く。歯切れの悪さが、彼らしくない。悔しさも少し混じったような口ぶりだった。医者として、不明なことをそのままにしておくのに、抵抗があるのだろう。アルサスは、薬草を煎じたものでリオーネの熱が引いたと言っていた。それが本当なら、レオンらと何も変わらない。それならそれでいい、という思いもあった。どこかで、彼女も自分たちと同じ人間であると思いたいのかもしれない。
養生所のほうから、リオーネがやってきた。頭からすっぽりと布をかぶっている。傍には、アルサスがついていた。二人で言葉を交わしている。アルサスが、何かを彼女に手渡すのが見えた。
さらに後ろから、巨躯の男が現れる。
リオーネが彼の躰に触れて起こったことは、誰にも明かしていない。ドミニクが不可解に思うのも当然と言えた。
「教会に行ってみろ、坊主」
ドミニクがぽつりと言った。眼は、地面を見つめていた。
「医で解けんことには、神の意思を仰ぐしかない」
教会。それなら、故郷ノルンにもある。ここハイデルにもある。彼が言いたいのは、もっと大きな規模の教会のことを言っているのだろう。
リオーネが何者であるのか、いつかは解き明かさねばならない。家族として彼女を迎えたからには、当然、それが義務だとも思っている。しかし一方では、知らぬままでいい、とも思うことがある。
そしてそれはときどき、知らぬ方がいい、という考えにもなるのだ。
「あの娘には、きっと何かあるぞ。放っておくには、危ういほどのものがな」
レオンの心の内を見透かしたように、ドミニクは言った。眼はレオンをしっかりと捉えている。はっとするような眼だった。
リオーネがいつの間にか傍に来て、レオンを見つめていた。青い眼。その奥にあるもの。眼を逸らしそうになる自分に、レオンは気付いた。
見定めねばならないときが、きているのか。
ドミニクが
「先生。治療をしてくださり、有難うございました」
なぜか舌打ちをして、ドミニクが立ち止まる。
「俺の方こそ、礼を言ってやる。ようやく、裏庭で
「それだけ、動き回れるようにしていただいた。先生にも、竜の加護がありますように」
また、彼が舌打ちをするのが分かった。嫌味が通じないと思われたのかもしれない。彼の物言いに慣れきってしまった自分に、レオンは苦笑した。
「二度と来るなよ」
面倒そうに手を挙げ、今度こそ彼は養生所のほうへ消えていった。一度もこちらを振り返らなかった。それこそがドミニクという医者だった。
その背を同じように見送っていた二人の軍人も、笑みを浮かべながらレオンに向き直った。
「おぬし、先生に気に入られたな」
「どういう意味です、アルサス殿?」
「あの人が、見送りなどすると思うか」
アルサスは愉快そうに言う。
「レオン。レーヴェンの息子よ」
ベイルが、前に進み出た。大きな掌が差し出される。レオンがそれに応えると、そのまま手を引かれ、抱擁された。
「美しく、不思議な娘だ。俺は、知らぬということにする」
囁く声が、レオンの耳に届いた。
「おまえを迎えたとき、レーヴェンは
北へ行け。彼はそれだけ言って、
「いいか、とにかく、北だ」
「ベイル殿、それは」
「ただ幸運を祈る。獅子の子よ」
ベイルが身を翻し去っていく。言葉の意味を少し考えたが、結局、何も分からずやめた。リオーネは俯いている。アルサスは、レオンらの話していた内容には、特に触れてこなかった。黒い怪物のことだけが不安だ、と彼は言った。
「また、現れるという気がする。どうするつもりだ、レオン殿?」
「リオーネのいる場所は、すでに割れています。それを、どうするかですが」
どうすればいいか、などと言ったが、ほとんど選べる道はないように思えた。
乗馬する。リオーネもレオンの懐に乗る。アルサスが、見上げていた。リオーネが、被っていた布を取った。
「アルサス様」
「また、いつか」
リオーネが伸ばした手を、アルサスが優しく取った。
「礼は、言い尽くせないほどに。アルサス殿」
「おう。戦が終われば、また会おう、レオン殿。おぬしの屋敷で、肉の鍋でも食わせてもらおうではないか」
思わず、レオンは笑みをこぼした。アルサスも笑っている。彼がリオーネの手を離すのと同時に、馬を走らせた。リオーネが、たびたび後ろを振り返っていた。
ノルンへの道を、ゆっくりと
「戦が、始まったのですね」
リオーネの言葉に、レオンも頷く。
「父上も、南の方で戦われている。“
連絡は、ハイデルの軍営に届いたものを、聞いていた。開戦とともに、南の港町が
父が戦い、人を救っているのだ。自分も、戦わねばならない。
レオンは馬の脚を速めた。
「ノルンの街は好きか、リオーネ?」
呼びかけると、妹が胸元で頷くのが分かった。
北のほうに、巨大な山が見える。かつて、リオーネと二人で、街の近くからあの山を眺めたことを思い出した。
「あの山を越えた先に、また別の領地が、街がある。どんなところなのかは、俺にも分からない」
橋を渡る。山を背に、街道を南へ
「兄上」
ノルンの林が見えてきたところで、今度はリオーネがレオンを呼んだ。
「兄上の考えてらっしゃること、私にもわかります。私は」
「言うな、リオーネ」
自分の考えていることは、すでに妹には分かっている。そして、それを受け入れてもいる。しかし、彼女が決断したことだと、思わせたくなかった。リオーネには、何の罪もないことなのだ。
「俺が決める。すべて、俺の決めたことだと思うのだ、リオーネ。おまえは、ノルンの街を愛している。それでいい」
愛しているがゆえの決断だったとしても、妹の口から、言わせたくはない。何かの責任を背負わせるには、この少女は幼すぎる気がした。それに、彼女はすでにもう、いくつもの荷を背負っている。尋常でない髪、瞳の色。不明なままの己の出自。得体の知れぬ怪物につけ狙われる恐怖。そして、自らの中に潜む何かの力。
レオンは、懐の少女を撫でた。決断のひとつくらい、自分が背負わなければ。彼女が重荷で潰れてしまう。
街に入った。馬上のレオンを認めると、街の民は沸いた。しかし、懐のリオーネを見た途端、道を大きく開ける。声を掛ける者は、ほとんどいない。顔を背ける者もいた。
「災厄め」
どこからか、そんな声が聞こえた。レオンは、リオーネに布を
屋敷には、サントンとハイネがいた。レオンらの帰ってくるときが、わかっていたかのようだった。他にも、使用人は皆、揃っている。ゲラルトが、その使用人たちに次々と指示を出していた。
居室でいるようにと、リオーネには言ったが、彼女は首を横に振った。
レオンは、サントンとハイネを客間へ呼ぶ。ゲラルトと、主立った仕事を分担している者も、数名呼んだ。使用人たちは、なぜ自分が呼ばれたのか分からない、という顔をしていた。ハイネも同様である。サントンだけが、じっとレオンの眼を見つめていた。全員が集まったとき、ようやく、リオーネが被っていた布を取った。
レオンは地図を長机の上に広げる。
「戻ってすぐに済まない。おまえたちに、俺の考えを聞いてほしかった」
全員が、レオンに注目する。
「黒い獣が現れた。この街にも、北のウルグにも。獣だけでなく、人のようなものもいた。俺の掌を貫いたのも、それだ。大勢が死んだ。責任は、俺にある」
誰も、何も言わない。外の林が揺れる音すら聞こえそうな静寂だった。
「やつらは、はっきりとした狙いを持っている。リオーネだ。これは、否定しようがない。街の者も、きっと分かっているだろう。リオーネがいる限り、あの化物が現れて街を襲うと。そしてそれは、近いうちにまた、必ず起こる」
使用人の何人かが、リオーネを見つめた。少女はただ俯いている。
次に継ぐべき言葉を、レオンは迷った。しかし、回りくどく話すことに意味は無いとも思った。
「俺たちは、街を離れようと思う」
皆が、息を呑むのが分かった。リオーネですら、眼を見開いてレオンを見上げていた。サントンだけは、やはりわかっていたのか、眼を閉じていた。
「永遠に、というわけではない。やつらとの戦いに決着がつけば、必ず戻る。しかし、やつらが何なのか、なぜ妹を狙うのか、まだ解らぬことだらけだ。ここにいるだけでは、何も解決しない。だから、街を出る」
「兄上」
リオーネの声が上擦っていた。
「なぜ、兄上まで」
「おまえひとりを、街の外に出すわけにはいかぬ。当たり前のことを
「でも、私は。兄上は領主です。私ひとりが」
レオンは、手を挙げてリオーネの言葉を遮った。
「俺の決めたことだと言った」
リオーネが、涙を流し始めた。レオンはそれを無視し、他の者に向き合った。いまは、それに心を動かされているときではない。
他の者たちも、それぞれに思うところがあるようだった。互いに密やかな言葉を交わしている。ゲラルトは、長い溜息を
「出ると言っても、どこへ」
サントンが、落ち着いた声で言った。騒然としていた場が、しんと静まる。
「北へ」
そこで初めて、レオンは地図を指差した。
「北の山の向こう。エベネの街に、ウォルベハーゲン修道院がある」
エベネ。この辺りでは、最も大きな教会と、それに併設された修道院のある場所だ。ウルグの村、北の山をさらに越えなければならないが、遠すぎる場所でもない。
「ハイデルの軍医が、リオーネのことを様々に
教会や修道院には聖典があるはずだ。学問のための書物も、数多あるだろう。
「ここにリオーネがいないと分かれば、獣どもも手出しはしないだろう」
サントンが立ち上がった。
「俺も行く」
「ならん。おまえには、この街を護って貰わなければならない」
「おまえと、リオーネを放っておけと」
「そうだ。おまえにしか、頼めない。ほかに、警備兵をまとめられるものはいない。おまえを信用しているからこそ、頼んでいるんだ」
「あの化物から、ひとりでリオーネを護れると?」
「サントン」
剛直な男だ。だからこそ、街を護る役目を任せられる。レオンは、それを理解してほしかった。
「
だが、とレオンはリオーネの肩を抱いた。妹は、まだ眼に涙を
「妹を護れぬ領主など、いない。そう思うのだ」
妹ひとり護れずして、なにが
レオンは机に手をつき、頭を下げた。
「皆には、大変なものを押し付けることになる。しかし、わかってほしい。どうか」
サントンが、椅子に腰を落とした。ハイネは、口を堅く結んで頷いた。もう、使用人たちも、何も言わない。
「旦那様」
静寂の中、口を開いたのは、ゲラルトだった。
「剣を、
レオンは、腰の剣をちょっと手で触れた。佩剣したままだったことを、思い出した。
「その剣を
ゲラルトは、目を伏せたままだった。
「領のことは、ご心配召されるな。貫かれよ、
そして、静かに拝礼した。周囲の者も、それに続く。サントンとハイネが、レオンを見据え、頷いた。
レオンは、傍のリオーネを見た。涙で潤んだ瞳は、しかし澄んだ光を放っている。
北へ。レオンの心は、定まった。
(花の季節 了)
(PART 3 に続く)
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