陽射し、二人の剣士
長く歩いていると、汗が滲む。暖かい季節が、まさにやって来ているのだ。
まだ、陽は昇りきっていない。林道は、陽の光が抑えられていて涼しいが、具足など身につけていると、やがて
砦から山の麓の林道を回り、北に行ったところに、牧があった。砦からは離れており、広大で、静かな場所である。馬にとっては、よい環境と言えた。“
ギルベルトは、木立の先に見えてきた牧を、すこし立ち止まって眺めた。山並みの、ちょうど窪んだ位置にそれはある。ここからだと、やや見下ろすような位置になる。草を
大したことではないと思っていたが、居室のほかすべての場所で、傍に人がいるのは、息が詰まった。だいたい、自分より剣の腕が立つ者など、この砦にはいないのだ。護衛の者など、いてもいなくても同じことだ、と思っていた。自分を殺せる相手が現れたなら、そのときは、誰が護衛についていても、全員死んでいる。
坂を下り、開けた牧に下りた。何名かが、こちらに気付いて手を挙げている。駆け寄ってきて、敬礼などはしない。ギルベルトがそれを望んでいないのを、知っているからだ。皆、気さくな男たちで、馬の調教や体調管理においては一流の腕を持っている。牧では、自分など素人のひとりでしかない、とギルベルトは思っていた。
ここで、馬を見て回るのが、ギルベルトは好きだった。良い馬を選ぶのとはまた違っていて、ただ、眺めたり、声を掛けたりするだけだ。気になることがあれば尋ねるくらいで、ほとんど何も考えず、馬の顔を眺めて回る。なんとなく、そうしたいときがあるのだ。いまも、ここへ来てなにかをしようというつもりはない。
新しい札を掛けられた馬房の前を通った。先日、ここに入れられた馬たちである。体躯は立派で、新しい環境も、それほど気にしているように見えない。
レーヴェン・ムートの率いていた騎馬隊。おそらく、その馬だった。僅か五十騎ばかりだという。しかし、ポルトの街を占拠する赤の軍と戦い、ほとんど兵を失わず切り抜けている。
馬を見ていると、その五十騎の精強さがどこから来るものなのか、すこし分かる。これは、間違いなく軍馬だった。ここで鍛え上げている騎馬隊の馬たちと比べても
これほどの馬を、どうして手に入れたのか。ギルベルトの中で、ふと疑問が湧いた。レーヴェン・ムートは、元青竜軍ではあるが、もう繋がりは無いはずだ。馬の流通、生産に関しては、この国はかなり厳しい。ギルベルトですら、騎馬隊を強化するという名目がなければ、売り買いには口出しをできないのだ。その権限を持っているのは、
「この辺りでは、見ない馬ですな」
気付けば、傍らに男が一人、立っていた。馬医者のひとりだ。
「そうなのか?」
「
「というと、北か」
男はおそらく、と頷く。北の都付近の山々は、軍の管理する巨大な馬産地である。大柄で逞しい馬が育ち、売買の権利も、
「あのレーヴェン・ムートという
「いいや。ここから十日ほどかな。ムート領というところの領主殿だとよ。いや、元、領主だとか言ったかな」
「変なお方だ。たしか、もとは軍人でもあったんでしょう。それが領主で、今また戦場に出てくるなんて」
「あの男が軍人だったと、知っているのか?」
「もう、城の全員が知ってますよ。“雪の獅子”と聞いて、震え上がっちまうようなやつもいる」
“雪の獅子”など、大層な
厩舎を後にし、林道を戻る。陽は高く、またギルベルトは汗をかいた。砦へと戻りながら、ギルベルトは先日のファルクとの会話を思い出していた。
ドロゼルの部隊が、すでに
派兵要請のための使節を言い出したのは、ファルクだ。この一団が、都から援軍の確約を取り付けてくる。単独で、下手にポルトの街の奪回に動き始めると、砦の隙を作りかねない。港町のひとつとは違って、この“
さらに隠された目的は、動向の不明な軍本部や教会の出方を見定めることである。軍の内部に不安を抱えたまま、敵国との戦に臨むことはできない、と考えたらしい。
赤の国も、すぐには動けないでいた。国内ですべての|青竜軍(アルメ)を相手に戦をするだけの数も力も、まだ整っていないのかもしれない。
ファルクの言うように、もう何月かは、様子を見なければならないのだろう。できることは、調練と、兵を集めること。そして、新たな補給線を構築することだった。ポルトからの補給線が断たれたことで、この砦は
大きなぶつかり合いが次にあるとすれば、“
いずれにしても次のぶつかり合いで、敵を圧し潰せる力をつけておくことだ。それは兵の武力だけを指しているのではない。ここに来れば、馬匹の担当が、馬の状態を最良のものにするために動いていることが分かる。金と兵糧においても、十全なものを用意しておかねばならない。文官も今、必死になって資金のやりくりをしているだろう。砦に関わる全ての人間が、次の戦いに備えていた。
次こそは総力戦だ。ギルベルトは男たちに声を掛けると、厩舎を後にした。
練兵場まで戻る。小隊同士が、実戦形式で調練をしている
その様子を、練兵場の端から、レーヴェン・ムートが見つめていた。周囲には誰もいない。あえて気配を隠して、じっと調練を眺めているのだというのが分かった。
ギルベルトが近づくと、レーヴェンは左胸に掌を当てて敬礼した。
「調子はどうだ、レーヴェン殿?」
軽い調子でギルベルトが
「よくしていただいております。私など、個室まで与えられました」
「それは、おぬしの立場を考えれば、部屋のひとつも与えねばならんだろう」
「立場など」
「そう
「そうですか。私は、四十になりますからな。たしかに、年長だ」
年齢を聞いて、
調練が終わったようで、兵士たちが引き上げてくる。二人を見て、慌てて姿勢を正す者もいたが、ギルベルトもレーヴェンも、とくに気にしなかった。
「ラルフ・イェーガーの最期を、見たのだろう。どんな死に様だった」
レーヴェンは、ゆっくりと頷く。
「無数の槍を受けていたが、数百の敵を前に、立ち続けていた。街の火よりも強い
ギルベルトは、ちょうどこの場所で、ラルフと模擬戦を行ったのを、思い出していた。あのときも、弱い兵を、必死に
「真面目過ぎたな」
「真面目、か。なるほど」
「
ギルベルトは、練兵場の端に重ねられている棒を、
「狂った者。楽しんだ者が、生き残る。
ギルベルトは、棒を構えた。それで、レーヴェンも察したらしい。表情が硬いものに変わった。
「ここは砦だ。
「つまらぬことを言うな、レーヴェン殿。砦はいつも、戦場にあるぞ」
立合いは、好きだ。
レーヴェンが小さく息を吐いた。向き合った。
途端に、空気が変わる。棒が、剣に見えた。ほんとうに、一瞬、そう見えた。ギルベルトは、眼を見開いて、呼吸を止めた。
僅かな対峙。一度も、息を吐かなかった。踏み出した。次の瞬間には、お互いの立ち位置が入れ替わっている。両手に、びりびりとした感触だけが残っている。向き合う。
レーヴェンの棒の先が、揺らめいた。踏み出しかかる。
一気に
レーヴェンの出す
再び、対峙する。ギルベルトは、全身から汗が噴き出るのを感じていた。レーヴェンも、
棒の先に、研ぎ澄まされた殺気だけがあった。
殺してしまう。いや、俺が殺されるのか。なんにせよ、もう一歩踏み出せば、どちらかが死ぬ。そんな気がする。
「参った」
大声とともに両手を挙げ、棒を放り出したギルベルトを、レーヴェンが妙なものでも見るようにしていた。
「参った、参った。いや、ここまでにしておこう。“雪の獅子”の剣とはどんなものか、それを見たかっただけなのだ」
立ち合うにしても、相手を間違えた。ギルベルトは、あえて大声を出して、気を発散させる。意図せず、口から笑いが漏れた。この男は、強い。冗談交じりで剣を向き合わせる相手ではなかった。
「凄まじい。実に凄まじい技をお持ちだ、ギルベルト殿」
レーヴェンも棒を置いて、その場に座り込んだ。汗が垂れて、地面に染みを作る。
「だが、もう、今後は、やめにしないか」
「おう、そうしよう、レーヴェン殿。どちらかが死ぬ、という気がする」
「死ぬとすれば、私だろうな」
レーヴェンが喘ぎながら言ったが、ギルベルトは肯定できなかった。死んでいたのは、自分かもしれないと思ったからだ。
「これほどの相手は、久しぶりだ。ギルベルト・ベルガーの名は、もう忘れないだろう」
「レーヴェン・ムートが味方であってよかったと、俺も思っているよ。まったく、あんた、ほんとうに四十歳か」
「息子や、若い兵を鍛えていたのでな。若さは、そこからもらっていたのかもしれん」
手を貸すために伸ばしたが、レーヴェンは自分で立ち上がった。
「息子がいるのか」
「血は、繋がっていないが。いつか、おぬしにも会わせてやりたいものだ。あれは、私以上の剣士を、知らんからな」
この男が鍛えたのなら、それも無理はないだろう、とギルベルトは思った。生半可な人間では、稽古相手にならないのではないか。
気付けば、周りで何人もの兵士が、声を上げていた。今まで気付かなかったのが、不思議なくらいの数だ。ギルベルトは手で、散るように示した。人の波が引いていく。
空の
「そうだな。戦が終われば、いつか」
「レオンという。私のすべてを受け継がせた、と言っていい男だ」
レーヴェンは、そこで初めて笑顔を見せた。父親とはこんなものか、とギルベルトはなんとなく思った。
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