雪の獅子
ノルンの街から、領地をひとつ跨いだ、さらにその南の果て。“
三百名の兵士である。戦では、いかにも少ない。しかし、一年をかけて鍛えぬいた精鋭であった。民兵の集まりといってもいいが、かつて
騎馬隊の数も、五十が限界だった。これは、ほんとうに物の数にもならないかもしれない。国境では荒れ地での騎馬戦が多いという。自分を含めた、この騎馬隊もよく調練しているが、戦力として扱われるかは、微妙なところだろう。
青天の下を進んだ。アイリーン領に入り、国境も近づいてきている。ノルンからここまで四日かかっているが、荒れた天候になることはなかった。夜は野営を主にしたが、街に宿を借りることが、一夜だけあった。街道沿いの小さなところで、民は物珍しそうに自分たちを見ていた。
まだ、戦争の音はここまで届いていないのか。レーヴェンはぼんやりと考えていた。男たちが戦に取られているようでもない。本当に厳しい戦になると、
街道を直進し、南へ。部隊の後列にまで伝えさせた。ここまで進んできたということは、もうあと三日ほどで、国境の“
息子たちのことは、考えないようにしても、心に浮かんでくる。しかも、街から離れ、何日経っても、浮かぶ顔はいつも違っているのだ。かつての自分とは変わってしまっていることに、レーヴェンは驚いた。子を想う気持ちなど、自分には無縁だと思っていたからだ。
二人とも、血は繋がっていない。それなのに、こうも自分の中に大きく存在している。
レオンは、もう二十歳で、何もかもひとりで、できるはずだったし、妹のリオーネは、その兄が護っている。だから、何も心配はいらない。そう思って街を出たはずが、今頃は何をしているのだろうか、などと考えてしまうのだ。
戦地に向かう男ではないな。
自嘲するような笑みが、自然とレーヴェンの口元に浮かんだ。雲が穏やかに流れていく。
空気が変わったのは、その後、
「何者か」
「レーヴェン・ムート殿ですか」
男は息を荒らげ、その乗っている馬も、落ち着かぬ様子で激しい呼吸を繰り返している。
「いかにも。
「“
傍らの、自分の副官が、
「東より敵襲の可能性あり。レーヴェン殿には、これよりポルトの街の
敵襲、という言葉に、レーヴェンの耳はすぐに反応した。頭が、急速に
「東だと。海ではないか。なにゆえ、
レーヴェンは、平静を失わないようにしながら、言葉を返す。
「
「“
「国境は、すでに敵国の攻囲を受けております」
兵士たちの間で、どよめきが起こった。副官が、馬首を返し、それを鎮めに向かう。
「開戦の
「
「ファルク殿の容体は?」
「すでに回復し、陣頭で指揮も取られています。しかし、
レーヴェンは、すばやく思考を巡らせた。伝令が確かならば、国境から派兵するより速く、自分たちがポルトの救援に向かえるかもしれない。攻囲されている中から、東の海岸線までさらに軍を割く余裕は、ないのだろう。出方が読めないということは、敵の動きに何か複雑なところでも、あるのだろうか。東からの攻撃というのは、その動きから何かを読み取ったのか。
自分が部隊を率いて戦に出ていたときにも、何度かそういう経験はあった。下手に動けば、敵の罠に乗るような場合だ。それなら、現状、最も速く、自由に動けるのは自分たちの隊であるということにも、得心がいく。ポルトの街ならば、ここから半日で到着できる。
「状況次第では、南からも兵は出されるおつもりでしょう。しかし、“
すでにレーヴェンが考えていたことを、兵士は繰り返した。
東の海から敵軍が現れるとして、それが何日後なのか。現れたとしても、僅かな騎馬隊と歩兵だけの部隊では、海戦などには対応できない。それとも、すでに敵が上陸してくることまで考えて、
次々と湧いてくる疑問を、レーヴェンは一度大きく息を吐くことで、整理した。
「軍令、ということだな」
「ファルク殿は、すでにレーヴェン・ムート殿を、戦力のひとつとして、考えておられます」
それ以上、兵士の言葉は必要なかった。
「伝令を承った。我ら三百の微力ではあるが、これよりポルトに向かい、
伝令兵は、大きく頷いた。それから、周囲の兵に水場の位置などを聞いている。馬を休ませたら、すぐに南へと引き返すのだろう。
副官を呼び、決定を伝えた。副官は一度驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。その副官の声で、兵は一度に静まり返る。その前に、レーヴェンは向き合うように馬を並べた。
「予定を変更する」
全員が、こちらを見つめている。
「これより進路を東に変え、東の街、ポルトの応援に向かう。皆も聞こえたと思うが、すでに国境は開戦を迎えたようだ。我らがこれから向かう街にも、敵の軍隊がやってくるぞ。心して向かおう」
皆が声を上げた。それを背に、進発する。分かれ道を、東へ。伝令の兵が、早くも南へ向かって駆け去るのを、目の端で捉えた。
ポルト。東の海岸線にある、漁村だという記憶がある。
断崖地帯に差し掛かったのは、日が暮れてからのことだった。崖の間を、縫うようにして道が通っている。崖のあちこちに
空が、明るい。
陽の沈んでいった方角とは別に、明るい空がある。時刻を考えても、これだけ明るいはずがない。崖の向こうに隠れているが、何かが空の下で光っているようだ。この辺りだと、ポルトの北東側になる。そこには海しかないはずだ。胸騒ぎがした。
やがて、二騎の斥候が駆け戻ってきた。表情に焦りが見える。
「海に軍船。敵襲と思われ、その数は膨大であります」
「ばかな」
レーヴェンは、思わず口にしていた。
「この明るさは。何だ」
「船が、燃えています」
「敵の軍船か」
「判りません。しかし、向きから考えると、
自分の眼で、確かめるしかない。
崖の先に出た。海を見下ろせる位置である。
間に合わなかった。はじめに考えたのは、それだった。
海が燃えていた。伝令通り、船が燃えているのだ。しかしその勢いが激しすぎて、ここからでは海が赤く染まったようにしか見えない。そして見る限り、燃えているのは、街から出た船、つまり
「隊長、これは」
傍らで、副官の男が息を呑んでいた。
風が流しているのか、それとも潮が流しているのか、海を燃やす火は南へと遠ざかっていく。海の東側には、
水面に油を流し、燃やしたか。すぐに、それは思いついた。油が流れてしまえば、あの船は大挙して、その先にある港や街を襲うのだろう。ポルトの街の
「水軍の様子があれでは、ポルトは敵軍に耐え得ぬであろうな」
そして、多くの兵、多くの民が死ぬ。それも、容易に想像がついた。そして想像した瞬間には、もうレーヴェンは馬首を返していた。
兵の前で、レーヴェンは剣を抜いた。
「皆。あの空の明かりが見えるか。ポルトが、海が、燃えている。敵の攻撃により、
兵は何も言わず、レーヴェンを見つめている。
「敵は、ポルトに上陸し、民を襲うだろう。逃げる者もいれば、殺される者もいる。戦とは、そういうものだ。あの数では、我らにできることなど、ほとんど無いかも知れぬ。しかし我らは、ポルトの応援を頼まれてもいる」
自分の隣で、副官が同じように剣を抜くのがわかった。
「難しい戦いになるが、私はここで、民を見捨てて“
兵の中から、声が上がり始めた。口々に、なにかを叫んでいる。その中に、反対するような声はない。
「愚かな隊長だと
全員が、
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