海上、赤い壁

 敵襲を知らせる角笛ホルンは鳴らない。物見の兵が、殺されていたからだ。


 物見やぐらの上で死んでいる兵を見たとき、ラルフは“青の壁ブラウ・ヴァント”からの急使が言っていたことを、確信していた。


 内通者。軍の中に、赤の軍の来襲を招いた者がいる。半端な数の船ではない。海面を覆いつくすかというほどの船団に思えた。それを、哨戒しょうかいの兵がいずれも見逃すことなど、ありえない。内通を図った者は、たしかにいるのだ。


 やぐら梯子はしごを下りて、飛ぶように駆けた。脚は、勝手に動いている。海に向かって走った。月のつくる船の影を、見つめ続けた。ののしりの言葉が、自然と口から出た。なぜ、こんなことになったのだ。


 兵士が、次々と兵舎から出て、駆け回っていた。船が出ていない。微動だにしていないのだ。明らかに様子がおかしかった。兵たちは駆け回っているが、それには気付いているのか。誰かを呼び止めるよりも、自分が行ったほうが速い。ラルフは、停泊中の軍の船に駆け寄った。何名かの兵士が、海面を覗き込んでわめいているようだった。


「おい、なんだ」


 船に乗り込んでいた兵も、下りてきていた。服を脱いで、何名かの兵が海に飛び込んでいる。


いかりが、上がりません。それに、船どうしが、繋ぎ止められているようです」


「そんなもの。いつも船を、繋いでいる鎖だろう」


「その鎖は、外しました。しかし、船が動かないのです」


「そんな、ばかなことがあるか」


 ラルフも海面を覗き込む。頭上から、兵の持った松明たいまつが照らす。水面の下に、黒いものが見える。それは、船底を通って隣の船に続いている。その先を追った。次の船からも黒いものが伸びていて、停泊している軍船の下をすべて通っているようだった。


「鎖です。いかりも絡まっている」


 海面から顔を出した兵士が、大声で報告している。


「外せ。潜るのが得意な者を呼べ」


 言いながら、ラルフも状況に頭が追いついているわけではなかった。海中で、船底に鎖を打ち付けるなどということが、できるのか。同時に、それができた者が誰なのかも、考えていた。自分がこの街に戻ったのは、昼だ。見廻りでも、そんなことをしている様子は見られなかった。今朝までに、いったい何があったというのだ。


 泳ぎの得意な者が何名も、海に飛び込んでいく。火の明かりで水面を照らし、水中から取り外しにかかる。ラルフは顔を上げ、暗い海の向こうを見た。敵の船影は近付いている。間に合わない、と直感は告げていた。海上での戦では、出遅れる。兵たちが、混乱しかかっていた。小隊長たちが、あちこちで怒号を上げている。


「投石機」


 傍にいた兵士に指示を出した。


「こちらの船に、当たります」


「いいから、石を準備しろ。それから、楯と長弓ちょうきゅう、火矢。他の隊長に、すべて伝令せよ」


 船どうしのぶつかり合いになれば、勢いを止められないだろう。最悪のときは、自分たちの船ごと潰すか、燃やすしかない。他の隊長たちが、自分と同じ判断をするとは、思えない。しかし、それ以外に打てる手はないのだ。


 迎撃の兵器が整えられはじめ、楯も大量に運び込まれてきた。遅れたものは、取り戻せない。いまは、ここをどう乗り切るかだ。ラルフは、頭を切り替えた。船は、いかりを上げていた。鎖が解けたらしい。しかし、もう敵の船影は、はっきりと目視できるところまで来ていた。帆は張っていない。


「すべての船を出します」


 兵の報告に、ラルフは頷いた。船の戦のことはよくわからないが、水軍の指揮もやりたいくらいだった。軍船に乗り込み、あの敵船に乗り移って、すべての敵を斬ってやりたい。


 味方の船団が、港から離れていく。総櫓そうろである。出遅れてはいるが、海上で迎え撃てる。海での戦は、この街の兵といえど、訓練はしてあった。船はすばやく、敵船団に向かっていく。さすがに、速い。


 小さい影が、いくつも海上に現れた。ごく小さい舟だ。今までどこにいたのか、突然出てきたようだった。小さすぎて、見えなかったのだろうか。接近していく味方船の前方を、不自然に動いている。そして、それはすぐに味方の船団から逃げるように離れていった。まだ、敵の船団まで、もう少しある。


 離れていった小舟のあとを、ラルフは眼で追っていた。随分と速く走る舟だ。どこか、見たことのあるような形の舟だった。数人が乗っているのが見えた。


 味方の船が、動きを緩めていた。もう声が届かないようなところにまで進んでいたが、何も聞こえなくても、急激に速度を落としているのがわかった。まだ、敵船まで距離がある。何をしているのか。


 その敵船から、何かが飛び出すのが見えた。夜の空に、赤い点が浮かぶ。一度にすべての船から、その点は打ち上がった。空が、その赤いもので覆いつくされたのかと思うほどの数だった。何も聞こえない。だが、ラルフは全身が総毛立つのを感じた。


「引き返せっ」


 気付けば、大声で叫んでいた。


 膨大な数の赤い点が、空から海の上に落ちていく。それが、やけにゆっくりに見えた。


 次の瞬間、黒い海面が一度に赤く燃え上がった。


 視界が、海が、すべて火の色に変わった。おかの兵士たちも、それを見て、叫んでいた。ラルフは、言葉を失った。


 火は海面を走り、味方の船を呑み込んでいく。速度を緩め、進路を変えようとしていた船は、完全に動きを止めた。並走していた船どうしで、ぶつかりあっているものもある。ぶつかり合うことで、火は船の上でさらに勢いを増す。前を走る船がそうなっていることで、後列からの船も反転が遅れている。火はそうしているうちに、前列の船を燃え上がらせ、後列にまで手を伸ばす。


 海の上に、赤い壁ができ上がったようだった。


「落ち着け。慌てるな。迎撃の準備を進めよ」


 港に残っていた兵には、ラルフと数人の隊長で声を掛け、鎮めて回る。内心は、ラルフも動揺していた。心臓は早鐘を打っている。油だ、と思った。あの小さい舟が、油を水面に流していたのだ。しかし、なぜ軍船は気付けなかったのか。気付いたにしても、矢などで追い払えなかったのか。おかからでは、なにも分からない。ただ、船が燃え上がった。それだけが事実である。


 火の壁の向こうの敵船団は、進んでこない。しかし、どうやら船の上から、水面を矢で射ているらしかった。あまりにも巨大な火のつくる明かりのせいで、その様子も眼で見て取れる。船が燃え、海に飛び込んだ兵を、ああやって射殺すのか。


 周囲の兵士が、悲鳴を上げた。味方が殺され尽くす姿を見たからではない。火の壁が、少しずつ動き始めていた。想像を絶する光景だった。赤の国の人間は、魔術でもつかうというのか。


 しかし、ラルフはすぐに違う、と思った。潮の流れだ。油が流されているのだ。しかも、東から来た敵の軍船のほうには向かわず、少しずつ南に流れていく。火の壁も南に移動していくのだ。つまり、海流の速いところを選んで、油を流したということになる。信じられない思いだった。この近海の潮の流れなど、ラルフにも分からない。それを知っている者が敵軍にいるということなのか。


 炎の壁が消えた後に、敵の船団がある。あれがすべて流れ去ったあと、大挙して敵がやってくる。


 逃げ去った小舟のことを、今更ながらラルフは思い出していた。海の潮の流れを知っている者。まさかとは思うが、あの舟の主は、敵の兵士ではない者なのか。また、脳裏に伝令の言葉が蘇る。


 内通とは、どの程度までを言っているのか。指揮官コマンダントファルクは、どこまで考えているのだろうか。少なくとも、自分などに想像できる規模より、ずっと大きな何かが、裏でうごめいているのではないか。くらくらと頭が揺れる感じがした。


 辺りを見渡した。隊長らしき、指示を出している者が数名いる。ここではないどこかで指揮に当たっている者もいるに違いない。しかし、この場にいるべき人間が、どこを見渡してもいない。


 ラルフは、軍営のほうに向かった。


 次々と運び出される荷車とすれ違い、兵舎を抜けた。指揮官コマンダントの、指令室。向かうところは、ひとつだった。腰の剣を抜く。


 部屋の戸を開いた。痩せた男が、何でもない様子で、入ってきたラルフを見つめている。大隊長オフィツィアリューゲンが、そこにいた。


「敵の船団が、来ます。大隊長殿」


「わかっているよ、小隊長カピタンラルフ」


 ラルフは、柄を握る手に力を込めた。リューゲンの表情は、何一つ変わらない。薄い笑みだけがある。抜き身の剣を持った自分のことも、とがめる様子はない。まるで、そうしてやって来るのがわかっていたかのような振舞いである。指揮官コマンダントのために用意された椅子に、ただ腰掛けている。


「軍船に、鎖が打ち付けられ、出動が遅れました」


「それも、わかっている」


 ふつふつと、ラルフの中に黒く、燃えるものが湧き起こってきた。


「見張りの兵が殺されていました。角笛ホルンも鳴らなかった。我らの軍船は燃やされました。油が、潮の流れに乗った油が、燃やしたのです」


 男の顔から、笑みが消えることはない。自分は何を報告しているのだ、と思った。


 この男は、すべて知っている。


 リューゲンの眼の奥に、暗い光があった。ファルクやギルベルトといった男たちの見せる眼の光とはまったく異質なものである。それでいて激しく、あの英傑たちに決して引けを取らないものである。圧倒されそうになったが、決して眼は逸らさなかった。


「ひとつ、確認してよろしいでしょうか」


 この男はこんな眼をしていただろうか。自分の知っている男とは違う何かが、目の前にいるような気がした。


「漁民は、潮の流れが悪いと、ほんとうに言っていたのですか?」


 彼が、ちょっと眼を見開いた。返事はなかった。ラルフは、もうそれでよかった。黒いほのおが、心中に満ちた。


れ者め。裏切ったな、リューゲン」


 雄叫びを上げ、脚に力を込めた。斬ってやる。跳びかかろうとした。しかし、跳躍する直前、なにか感じるものがあった。踏みとどまる。五感のすべてに、ひりつくように触れてくる。四方しほうから感じた。窓の、とばりの裏。居室へと続く扉の向こう。自分の、背中。痛いほど、それが伝わってくる。


「おぬしは強い。そして、さとい」


 男は、面白がっているかのようにも聞こえる調子で、呟いた。


 いったい何人いるのか。気配だけでは分からないが、少なくともひとりやふたりではない。リューゲンの首を飛ばすのが速いか、自分が滅多斬りにされるのが速いか、一瞬、考えた。


 動けば、瞬時にいくつもの剣が自分に向かってくるだろう。このような殺気を、この街の兵が出せるとは思えない。だとすれば、自分は何と対峙しているのか。


 目の前の、大隊長を見た。いや、ほんとうは大隊長でも、軍人でもないのかもしれない。巨大なものが、口を開けて、自分を待っている。そんな錯覚に陥った。


「なにゆえ青竜軍アルメを裏切った」


「裏切りなどと。そんな大層なものではないよ」


 どこまでも、軽い調子だった。それが、ラルフの中のほのおをまた、たぎらせる。


「まさしく、軍人だな、おぬしは」


 リューゲンの笑みが、僅かに動いた。


ゆえなどない。あっても、おぬしには解らぬ」


 肌を刺すような殺気は、まだ伝わってくる。リューゲンはラルフを指して、軍人だと言った。その言い方は、まるで自分がそうではない、と言っているかのようだった。いま、周囲にいる者たちも、軍人ではないのだろう。もっと暗く、もっと陰気なものを感じる。


 リューゲンが、外に向けて声を上げた。兵士が数名、駆けつけてくる。ちょうどその辺にいたという感じで、部屋の二人を見ても、ただ姿勢を正すだけである。なにひとつ、気付いても、知ってもいないようだった。


「港の指揮を、小隊長カピタンラルフに一任する。おまえたちは、それをすべての隊長に伝達して参れ」


 兵士が駆けていく。リューゲンは背凭せもたれにからだを預け、ひとつ息を吐いた。


「全力でもって防衛に当たれ、小隊長カピタンラルフ。こうしているあいだに、赤の国の戦士がやってくるぞ」


 そしてまた、薄く笑った。今まで見てきたどんな人間の笑みよりも、酷薄なものだった。怖気おぞけが自分のからだを走り抜けた。


「火と、風とともにな」

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