episode6 海が燃える
ポルト
荒れた路面を進んだ。
ポルトの
隊は静かに進んでいる。
国境の砦“
自分が殺したようなものだ。ラルフの心中から、その考えだけは全く消えなかった。
夜襲のあったとき、指揮官は二人いた。殺気を背後に感じ振り返ったときには、もうハンスの首から血が噴き出していたように思える。それとほとんど同時に、もう一人の
ただ、心のどこかに、護る人間を選んだのではないか、という疑念もあった。自分に対する、疑念である。ほんとうに、ハンスを護ることは、できなかったのか。剣が振るわれたのが同時だったのなら、自分が、どちらの首を護るかを選んだのではないか。
日が経てば経つほど、その疑念は何度も浮かぶようになった。指揮官の亡骸を車に載せるとき、その眼が自分を訴えているような感じすらした。
暖かい風が吹いて、ラルフは一度考えを
断崖地帯を抜け、一気に視界が
ポルトではないが、同じような海沿いの街の出身である。自分にとっての“青い壁”は、この海と空だった。仕官し、軍に身を置いてからも、海の見えるところでいれば、自然と心は落ち着いた。
坂を下ったところに、広く、休めるところがある。ラルフはそこで、部隊に休息を命じた。ハンスのいない今、全体の指揮を
朝から休みなく駆け続けてきたおかげで、全体の行軍は非常に速い。ここで少し休んでも、夕暮れのころには、ポルトに帰投できる。兵たちには、さすがに疲れが見えていた。口には出さないが、不満そうな者がいるのも、見て分かった。ラルフは、思わず溜息が出た。こんな兵に命を預けるのか。南の砦で、
少し高いところにある岩の上に、腰を下ろした。肌は陽に焼けて黒くなっている。海の照り返す光と、風のせいだ。幼いときから、こうして海を眺めているのが好きだった。父は軍人で、自分もそうなるのだと疑うことなく育ってきた。実際、父が退役するのと時を同じくして、自分が青の軍服に身を通している。ポルトに赴任したのは、二年前だ。
二年で自分にできたことといえば、気概のあるほんの数十人を、並の兵より強く育てたくらいである。彼らは、他の兵と違って、今ももう進発の準備にかかっている。ほかは、ギルベルトの言う通り、戦では使いものにならない。そんなことは、ラルフもよく分かっていた。
北と東を海、南と西を断崖に囲まれたポルトの街には、外敵らしい外敵は現れたことがない。軍の仕事といえば、民の
ラルフはひとつ大きく息を吐き、立ち上がった。兵たちの所に向かう。部隊は、もう整列していた。疲れた表情である。自分の鍛えた兵だけが、先頭で表情を変えずに立っている。こういう兵士を増やすことが、今の自分にできる唯一のことだ、と思い直した。
軍のすべてを、一度に変えることはできなくても、少しずつ変えていけばいい。
進発した。遅れそうなものは、
想定していた通り、夕暮れの前には、街に到着した。港に面した軍営に向かう。兵たちにそれぞれの役目を伝え、ラルフは
「ずいぶんと、早く戻ったのだな、
ここは
「
「ハンス殿のことは、惜しかった」
「私が、護らねばなりませんでした。どのような罰でも、受ける覚悟でおります」
リューゲンは、ラルフの言葉に首を振った。
「おぬしの剣の腕は、私もよく知っている。それでも護れなかったことを、責めはせぬ」
肩に手が置かれる。ラルフは、死んだ
「ハンス殿の
報告を終えると、ラルフはすぐに退室しようとした。あまり、長く話している気にならない。リューゲンも、任せた、と言うだけである。遺族の者には、すでに報せが届いているという。自分が遺骸を届けることも了承済みで、ラルフのことを責める言葉もなかったらしい。それでも、気は重いままだった。
「後任は、決まっているのですか?」
退室する直前、ラルフは気にかかっていることをリューゲンに尋ねた。
「後任?」
「ハンス殿のあとでございます。大隊長殿が、継がれるのですか」
何気ない、質問だった。指揮官がいなくなったからには、後任を探さなければならないだろう、と思っていたからだ。
「まあ、そうなるだろうな」
リューゲンの返事は、
もう少し尋ねようか迷ったが、結局、ラルフは何も訊かず退室した。どうせ、
軍営から、聞いていたハンスの屋敷に向かった。数名の兵士が、遺骸を載せた車を
浜の近くを歩いた。このくらいの時間であれば、魚を獲る者がいるはずだが、今日は姿が見えなかった。舟が浜に上げられている。釣りをしている者もいない。代わりに、数名の兵士が浜からこちらに歩いてきていた。ラルフの姿を認めると、一瞬、
漁師たちは、浜から離れたところで
「漁には、出なかったのか?」
尋ねたが、男たちはあまり答えようとしなかった。今日は潮が悪くてほとんど獲れなかった、だから早く引き上げたのだという。繕ったような笑顔だ。日頃はもう少し、言葉を交わしている者たちである。付き合いは悪くない、とラルフは思っていた。
「一番のお偉い方が亡くなったってのは、本当ですかい、軍人さん」
違和感を覚えていると、漁師の一人がそう
「俺たちの魚は、またもとの値で買ってもらえるようになるんですか」
そういうことか、とラルフは苦い
ハンスがこの街を変えたことは、誰もがよく知っている。治安を取り戻し、ただの漁村だったところに商人を呼び込んだ。外敵の少ない地理的な利点を生かして、流通の拠点にしようとしたのだ。数年かけて、その
ただ一方で、漁師たちの
結局、ハンスは、商人には優しかったが、もともとの住民であった漁民には厳しすぎたのだ。
「商いのことは、今はなんとも言えぬ。おまえたちの苦労は解っているが」
ラルフ自身は、賄賂を受けたこともないし、受け取った軍人を
男たちはその答えに何も答えず、視線を逸らした。理解はされない。それは、お互いが思っているのかもしれなかった。それ以上言葉が見つからず、ラルフはその場を後にした。
ハンスの屋敷の前に着く。すでに、奥方らしき女性が、待っていた。ラルフが目を伏せて一礼すると、ゆっくりと同じように頭を下げる。
「
ラルフが告げると、奥方が棺に飛びつくようにして近寄った。
「主人の、最期は。軍人として、死ねたのですか」
ラルフは、言葉に詰まった。背後から首を
「剣を持ち、勇敢に闘い、亡くなられました」
「そうですか」
奥方が、震える手で、ハンスの亡骸を撫でていた。これでいいのだ、とラルフは自分に言い聞かせた。あとは、なるべく平坦な声で、今後のことを確認する。埋葬は、青の教会が行うという。軍での葬儀は済ませている。その後をどうするかは、遺族の決めることだった。
ラルフと部下は、屋敷を後にする。奥方は、棺から離れなかった。最後まで、自分たちへの恨み言のひとつも、言わない女性だった。
「責めてくれたほうが、有難いのだがな」
誰にともなく、ラルフは呟いた。兵たちが何か返事をした気がするが、あまり耳には残らなかった。
すでに陽は海に沈んで、あとの僅かな光を空に残していた。人の姿は、街中からほとんど無くなっている。先刻の漁師たちも、姿を消していた。ふと気になって、港のほうに向かった。船らしきものはなく、すべて引き上げられている。軍船だけが停泊している。有事にのみ
軍営に戻る。ちょうど、夜警の兵が出て行くところだった。そのほかの兵は、兵舎に戻ったらしい。
「船の数が、少ないようですが。なにかあったのでしょうか、大隊長殿」
「どういうことかな」
「漁船も早く引き上げているようでしたし、商船も今日は一
「潮が悪いのではないか?」
漁民と同じことを、リューゲンが言った。この男も、気にしていたのだろうか。
「巡回の兵が、浜まで行っていましたが、あれは大隊長殿の指示だったのですか」
「おお、そうだ。おぬしと同じように、私も気になったのでな。様子を見に行かせたのだが、とくに変わったことはなかったようだ」
リューゲンは何でもないことのように言う。兵舎に戻る前に、もう一度巡回をしておくべきかもしれない、とラルフは思った。遺骸を届けた旨だけを報告し、軍営を後にする。リューゲンは、まだやることがあるのだと言って戻っていった。
なにか、拭えないものが心の中にある。街全体から、変な感じがするのだ。ラルフは足早に街を見て回った。夜警の兵が同じように巡回しているくらいで、あとは何もない。何もないことが、またラルフの疑念を強くする。十日ほど前に街を出たときには感じなかったものを、自分は感じている。その感覚を、ラルフは信じた。
一騎、こちらに
「止まれ」
ラルフが声を上げると、相手は速度を緩めて近づいてくる。
「“
男が馬から下りる。身に付けている甲冑は、
「
ラルフは、男の差し出した文書を広げる。
「南にて開戦。東の海より敵襲の可能性。内通者に注意されたし」
同じ内容を、“
しかしその直後、ラルフの中で、何かが繋がった。今まで拭えなかったものの正体が、突如として頭を
ばかな、と思った。海を見た。目を凝らした。
海は夜の中、
船だ。信じたくないが、ラルフは眼を離さなかった。あれはすべて、船だ。
赤の国の船が、やってくる。
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