黒の渦 赤の瞳
闇が、降りてきていた。
目の前には、黒い森。木々を覆う、暗い空。そこに目を向けて、レオンは一瞬、ここがどこであったか、解らなくなった。思えば、こんなに、暗いはずがない。洞穴に入ったときは、まだ陽の光があったはずなのだ。
洞穴から同じように出た者たちが、レオンの周囲に散開する。前に立った者の後ろで、灯りを準備する者たちがいる。その灯りを頼りに、周囲を見渡した。岩壁が火の色を跳ね返す。
そこに、座り込む男。見張りに残した者であった。脚を押さえ、眼を見開いて震えていた。灯りで、黒く見えるもの。血である。負傷は大きく、すぐに手当てがなされている。
音。右の
「隊長」
兵の一人がレオンを呼んだ。傷ついた兵を介抱していた男だ。
「獣のような何かがいると、言い続けています。それから、ひとり、森に引き摺り込まれたと」
それを聞いて、レオンの心は固まった。
「助けに行く」
「本気で言っているのか、レオン」
「俺たちの仲間だ」
「あの街道の、
まくし立てるようにしながら、サントンが森の方を指差す。
「殺される」
「仲間だ。部下だぞ。俺と、おまえの」
そのとき、黒い木々の向こうから、声がした。長く、尾を引くような、いやな叫び声であった。大声で周囲を警戒していた兵たちが、静まり返る。レオンとサントンも、閉口した。次にサントンが口を開きかけたとき、もうレオンの足は地を蹴っていた。一瞬だけ遅れて、サントンと他の兵たちも続いてくる。
深くなるばかりの闇の中を、松明の灯りで進む。足元の、草が不自然に折れている跡。その跡を、追う。木々の太い幹の、根元を縫うようにして、その形跡は続いていた。恐怖はある。しかし追うことに、躊躇いはない。少なくとも、自分は、だ。誰も言葉に発することはしないが、周囲の兵たちが恐れに呑まれそうになっているのは、レオンも感じていた。自分だけは、そうであってはならない、と思った。獅子の勇気。自分に、言い聞かせた。
瞬間、目の前で黒い突風が吹いた。
そう思ったときには、その風がレオンの頭上を越えていた。思わず身を
剣を抜け。叫んだが、それが兵たちに届いているかは、わからない。それを確認するいとまなど、ないのだ。風は渦を巻き、やがて輪郭を見せはじめる。自分だけを見据えている、
また、風がきた。剣で、その風を断ち割った。そう思ったが、感触がない。目の前には、また渦がある。肩に、痛みが走る。レオンは目を凝らし、闇に慣れさせようとした。色のついた風にしか見えないのは、この闇のせいだ。
再び、迫ってくる。次は、眼で
その獣が、唸り始めた。気付かなかっただけで、はじめからそうしていたのかもしれない。唸り声は不規則に続く。飛び掛かっては、こないようだ。仕掛けるか、迷った。
それで、反応が遅れた。横から、巨大なものが迫ってくる感覚。気付いたときには、
立ち上がろうとした。その視界を、黒いものが遮る。不意を
自分の呼吸と、獣の呼吸の音が重なって聞こえた。赤い眼。動く左手で、地面を
死ぬ。はっきりと、感じた。仲間を助けられず、死ぬ。
そのとき獣が、なにか喋った。そう思った。言葉のような何かが、聞こえたのだ。音ではなく、言葉として、レオンの耳に入った。意味はあるのだろうが、それを理解できないような、声。自分が発したものではない。森の音か。しかし、獣は動きを止めている。
また、聞こえた。今度も、言葉だった。そしてまた、意味はわからない。おまえが、喋っているのか。獣を見たが、黒い塊は、ゆっくりとレオンの視界から離れていく。呼気が感じられなくなる。眼だけを動かし、その動きを追おうとした。離れた獣の後ろから、また黒いものが現れた。影のように、ぼんやりとしている。人の
声。今度こそ、声だと思った。現れた人影が、言葉を発しているのだ。自分に向けられている。それも分かった。手で何かを拾うと、さらにこちらへ歩み寄ってくる。いつの間にか出ていた月の明かりを背に、眼前に立った人影を、レオンは見つめた。
大きな影だった。自然、見下ろされるようになるが、それにしても、大きい。見下ろしてくる眼は、赤かった。光が、吸い込まれていくような瞳。赤いが、黒くも見える。その奥には、なにも見えない。
なんだ、獣と同じではないか。レオンはそんなことを考えた。
「おまえたちの言葉でなければ、理解できぬか」
「俺の剣だ」
反射的に、レオンはそう言っていた。男が、それでまた声を漏らす。
立ち上がろうとした。しかし、力が、脚に入らない。右腕は、使いものにならない。左腕。僅かに、
赤い眼が、見開かれた。突如、猛然と歩み寄ってきた男が、レオンの襟首を掴む。力の入らない
「その
男の表情が、動いた。はっきりと見えないが、それが
仰向けに倒れたレオンの頭上を、黒い獣が歩くのが分かった。ほとんど見えないが、数が増えている。男と、獣が二頭。しかし獣は、この期に及んでも、自分に爪のひとつも立てはしない。
あの、男だ。レオンは全身の痛みを気力で抑え込もうとした。あの男だけでも、
その掌に、なにかが突き立った。熱いもの。なにかが判らず、眼だけを、掌に向けた。長い、なにか。黒い。いや、白いのか。月の光。剣。剣だ。
叫び声が聞こえた。それは、自分の声だった。
「左腕だ。借りは返さなくては」
黒い男が、剣を握っていた。全身から汗が吹き出す。動かなかったはずの脚が、自分の意志に関係なく
「
レオンは
「おまえが、ここにいる。ならば、あれも、ここにいるのか?」
答えない。答えられなかった。
「知らぬ。そんなものは」
こいつは、人だが、人ではない。そう感じた。人でないものに、教えることなど、なにもない。
男が、立ち上がり、剣の柄をまた握る。刺さったままの剣を、
「もういい」
別の痛みがあった。左手から、剣が抜き取られるのがわかった。
「銀の娘を、呼んだだけだ。おまえなどに、用はない」
銀の娘。レオンの意識が急速に冴えていった。
「待て。銀の娘だと」
「もう遅い、
剣とともに、腕が振り
そのとき、怒号が、男の腕を止めた。何かがぶつかり合う音。いままで、レオンの周囲を徘徊していた獣が、揃って飛び出していく。声が、いくつも飛んでくる。足音。草木を踏み分ける音が聞こえる。自分の横たわる地面が、震えているように感じた。
風を切るような音がして、男の腕に、矢が突き立った。何本も、続けて飛来する。矢の飛んできた方向を、レオンは見た。こちらに向けて、矢を
一方で、黒い男は身を翻し、剣を
「レオン」
ハイネだった。眼が泳いでいる。蒼白な顔でレオンに触れようとし、腕を見て、息を呑んだ。あの矢は、おまえが放ったのか。
「ハイネ。すまぬ、聞いてくれ。やつは、銀の娘と言った」
「だめだ。口を開くな、レオン」
「やつら、俺たちを殺したいわけじゃない。街に戻らねば」
「頼むから、黙ってくれ。あんたにまで、死なれたく、ないんだ」
青い顔の中で、眼だけが血走っていた。それを見て、レオンの口が止まる。
「誰だ。誰が死んだ」
「何人も。俺は、臆病だ。皆を、助けられなかった」
馬蹄の音が、また近づいてきた。三頭いる。それに乗っていた人間が、下りてきた。ハイネを押しのけ、何かレオンに言ってきたが、レオンの頭の中では、死、という言葉が巡っていた。誰が死んだのだ。いや。誰が生きているのだ。何人もとは、どういう意味だ。
「レオン殿。聞こえるか」
名を呼ばれた。ハイネの声ではない。自分の
「私は、ハイデルの
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