episode2 南の砦 青い壁
青の壁
灯りが、点在している。
はじめ、一つだった灯りは増え続け、すでに荒野のあちこちで、火と煙が視界に入るようになった。柵が立てられ、堀が掘られ、陣幕がひとつ、ふたつと増えていく。二年かけて、何もなかった荒野に、
肝心の、攻撃だけが、何一つない。それが、ギルベルトを苛立たせた。
矢の一本も射かけてはこない。伝書を持たせた
つまり、開戦に踏み切るきっかけがないのである。一度始まってしまえば、戦には終わりの目途を付け難い。とくに、大陸を二分する大国が相手となれば、なおさらである。軍の上層部は――国境線から遠く北にいる者たちは――それを嫌っている。
赤の国には、こちらに侵攻する目的がある。しかし、こちらにはない。戦争を仕掛けても、得るものがないからだ。痩せた土地、開拓されていない山、荒れた海など、たしかに欲しいとは思わない。
しかし、ならば、攻められてもいいのか。似合わぬ軍服を身に付けたやつらに、ギルベルトは言ってやりたかった。
彼らの曰く、永い歴史の中で、青の国から戦を仕掛けたことは、一度もない。曰く、常に、戦いとは侵略者から民を守るためにある。曰く、敗れず、跳ね返し続けることが
そしてその象徴が、この砦――
「
傍らの男が、不意にそう言った。端正な顔立ちの
「肉でも焼いているのかな。ここを自分の家だと思っているらしい」
「矢でも降らせてやりますか」
「そうしたいのだがな」
冗談のようなやり取りも、もう何度も交わしている。
物見の塔から見える光景は、見るたびに変化している。その三年の内では無かったほどの緊張が、国境に満ちている。肌で感じるのだ。風は、南からこちらに吹いている。荒野の砂と匂いを運ぶ風だ。不快さに、二人は眉を顰めた。
「俺は、北の連中を一度ここまで連れてくるべきだと、思いますがね。やつら、自分たちが豪勢な生活を送っているのは、すべて神の加護のおかげだと思い込んでる」
もとは傭兵だった。学問など知らず、剣の腕だけで生きていたころがあった。そうして北で適当に仕事を受けていたところを、この男に拾われたのだ。ファルクは、
若いが、才覚はありすぎるほどだ、とギルベルトは思っていた。とくに用兵と人事の術については、舌を巻くほどである。
国軍の誇りなど感じたことはないが、軍服は身に付けている。ただ、この若き才能と仕事ができるのが楽しいだけなのだ。
兵の一人が、来客を知らせにきた。塔から橋を渡り、砦の中に戻る。城砦の内でも、鎧を付けたままの者が行き来している。その数は、数年で増えているが、これでも少ないのだ。ファルクが国軍の中枢に要請している増員の数は、こんなものではない。あと二倍、いや、三倍と要請しても、返ってくるのはいつも同じ返答ばかりである。何を渋るものがあるのか、と鼻で
軍議を行う
「お出迎えもなく、大変な失礼を致した。有事の備えのため、ご容赦願いたい」
「構わん。蛮族どもの相手は、大変だな」
ファルクが頭を下げる。鎧からはみ出しそうな腹を揺らし、男が笑った。
「蛮族ではなく、人間です、ハンス殿。我々の壁と領土を侵そうとする、知恵のある人間です」
「その奸智も、若き英雄ファルク・メルケルの前ではすべて暴かれよう」
ハンス・ヴルストは鼻を鳴らす。いやな笑みだった。傍の男は、何も言わず、表情も変えない。浅黒い肌のせいで、本当に影のように見える。
ここアイリーン領の北東に、ポルトという港町がある。そこに駐留する
「音に聞く騎馬隊も、先程、城外を駈けているのを見た。素晴らしい動きだった」
「
無論、平時なら、頻繁にすることではない。それほどの臨戦状態だ、ということを、ファルクは言外に伝えている。ハンスはそれに気付いていない様子で、曖昧に頷いている。
物資が、ポルトから、この国境の砦まで輸送されている。この男たちは、その護衛を務めていたのだった。この周辺は土地が痩せ、農耕地にすることは難しい。海路と陸路で、豊かな土地から糧食などを運び込んでいる。時も労力もかかるが、国土の南の果てでは、こうするしかないのだ。
「道中、賊などは無かったか、ラルフ」
褐色の副官の男が、静かに頭を下げる。階級で言えば、
ハンスは副官の答えに鼻を鳴らすと、再び口を開く。
「街道は、安定しているな。北とは違うようだ」
「ここ
「指揮官たちが、苦労している。いくつか、村も襲われたそうだ」
「兵の数は、こちらなどと比べれば、余りあるはず。賊に後れを取るとは」
「まあ、獣どもが、街を襲うこともあるようだ。それも、かなりの数だというぞ。賊だけではないのだ」
話を聞きながら、ギルベルトは
「獣が増えている。季節外れだな」
「
一年の内で最も寒い季節、
彫像のように動かなかったラルフが、ちょっと視線を窓の方に向ける。まもなく日暮れだった。今晩から二日は、ポルトの兵士たちもこの砦に宿泊をすることになっている。兵たちに、合同での訓練をさせたいと言ったのは、ファルクだった。戦時になれば、同じ領内の兵士は、戦場で命を預け合う者どうしになる。
ギルベルトは、衛士を呼んだ。すぐに数名が現れ、客間へと二人を案内する。部屋を出る前に、甲冑を揺らしながら、ハンスが引き返してきた。
「
ファルクは何も返答せず、ただ頷いた。それで満足したのか、ハンスはまた戻っていく。衛士たちに、何か大声で言いつけている。どうせ酒のことか何かだろう、くらいにしか思えなかった。扉が閉まると、ファルクが小さく息を吐いた。
「ハンス殿は、何を言われていたのです?」
「くだらぬ。いつかの縁談を、まだしつこく言っておられるのだ」
「断られるおつもりなら、そう仰ればよいのでは? あの
「冗談だろう。私はいつも、なにも答えていないぞ」
「それは、肯定しているのと同じですよ。あのような方の前では」
「馬鹿馬鹿しい」
「
ファルクが嫌そうな顔をした。女にはまったく興味のない男だった。ギルベルトは、そうではない。女は何人いても困らないと思っている。酒も、
「明日の指揮は、おまえが執れ」
吐き
「よろしいので?」
「
「指揮官はともかく、あのラルフという
ファルクの整っていた顔に、苛立ちが浮かんでいる。ただ、やれ、とだけ言う。ギルベルトは首を
「それで、ハイデルのベイル殿からの返答は?」
「まだありません」
無理に話題を変えたファルクに、なおも薄ら笑いを向けながら言った。
「まだ? ムート領に行かせてから、もう一年になるぞ。“大熊”は、まだ眠っているのか」
「“大熊”ではなく、眠っているのは、“獅子”のほうですな。ベイル殿にも、一切返事はないとか」
「ノルンの“雪の獅子”。使えるかと思ったのだが」
一年ほど前から、気にかけている男がいた。
レーヴェン・ムート。かつて国軍で
ただ、使えるものは、人でも何でも使えばいい。進言したのはギルベルトで、ファルクとも、その考えは一致するところがあった。過去に何があって退役したのか知らないが、戦の場では関係ない。
すぐに、旧知だという
レーヴェンという男と、直接顔を合わせたことはない。“雪の獅子”の名が、
「
「まあ、ベイル殿には、再度書簡を送ります」
「それから、都にも」
「ファルク殿の名でよろしいので?」
「切迫していると書かせておけ。大隊がいくつあってもいいと」
「無駄だと思いますがね。ああ、それと、気になることが」
「何だ」
「西の山に、獣が増えているのです」
また獣か、とファルクはうんざりした顔で呟いた。
西の山中まで、この砦の兵で見廻ることをしていない。
「どこからの報告だ。おまえ、自分で見に行ったのか?」
「いえ。その辺にいるような、山の男どもが。初めは、まだ寒い時期なのに肉が獲れるといって喜んだそうなのですが。どうも数が多く」
そういう相手を味方に引き込むのが自分の強みだ、と思っていた。軍人よりも、猟師や
「情報としては、聞いておこう」
どうせ信用はしていないだろう、とギルベルトは思った。この男は、優秀すぎる反面、なかなか民草の言葉を受け入れない。どこかで、つまずくはずだった。
時季外れのことが、続いているという。民の言葉も、ギルベルトはなんとなくわかる気がした。
昨年の
「“
「迷信だ、“死の風”など」
独り言に、ファルクが応える。この男は、占いや迷信の類にも一切の興味を示さない。
若いのに面白くない男だ、とギルベルトはまた内心で笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます