青竜軍
束の間、すべてを忘れ、瞳に目を奪われた。
ぞっとするほど美しいが、何の感情も感じ取ることができない。それを探ろうとして、そのまま、呑み込まれてしまったかのようだった。どういうわけか、躰が動かない。無理に引きはがすようにして、レオンは視線だけを、その青の瞳から逸らす。少女はただ寝台の縁に腰かけ、こちらを向いているだけだ。レオンの様子に、何の反応も見せることなく、ただそこにいる。
暖炉の火が爆ぜて、音を立てる。それで、ようやく躰に感覚が戻ったように感じられた。少女の眼の高さと合うように
この娘は、なんだ。この眼は。
初めにかける言葉を、頭の中で探し回った。
「話せるか」
おまえは、誰だ。本当はそう聞きたかったのかもしれない。しかし口をついて、ようやく出たのは、そんなことだった。
ややあって、少女が首を、僅かに上下に振る。
「名は?」
今度は、首を左右に振った。
「知らない? 憶えていないのか?」
またその口が、僅かに開く。
「あなたは、誰?」
問われて、初めて少女の声を聴いた。滑らかだが、随分、ゆっくりとした調子である。眠りから覚めたばかりだからか。やはり、この部屋の空気と合わない。レオンはなぜか、またそんなことを考えた。
「レオンだ。レオン・ムート」
「“
「そうだ。おまえの名は?」
「わからない」
少女の透明の表情に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。本当にわからないと言うのだろうか。
「ウルグの村を知っているか?」
「ここはウルグというの?」
「ここはノルンだ。ウルグは」
ウルグは。そのあと、何を続けるべきか。あの村は、もうないのだ。
「なにか憶えていることはないか?」
逡巡したが、結局、尋ねることを変える。足元や壁に視線を彷徨わせている間も、少女の眼が自分から離れることはない。
「父や母の名は? 何でもいい、友の名でも──」
「あなたは誰?」
青い瞳が揺れていた。
怯えか、恐れか、なにかが彼女の中にあるのを、レオンは感じた。我が名、父の名、母の名。かつて住んだ場所、その名がわからないことの恐怖か。俄かには信じがたいが、瞳は嘘を言っているようなものではない。
扉の音。少女が、身を震わせる。
レーヴェンが入ってきた。寝台に座る少女に硬直する。慄いていると言っていい。父のこんな顔を、レオンははじめて見た。
レオンが立ち上がり場所を空けると、父は静かに、
「父上?」
思わず、呼びかけた。放心したように、レーヴェンは少女を見つめている。
「名をなんというのだ」
少女も、レーヴェンを見つめていた。戸惑っているようだが、レオンのときのような、怯えはないように感じた。ただ、返事はない。忘れている。
「記憶がないようです」
レオンが、代わりに答える。父はちらりとこちらを見遣ると、また視線を少女に戻した。
「おまえのいた村のことを、いつか話そうと思う。今は、思い出せないだろうが」
少女の小さな頭に、レーヴェンは掌を置いた。
「おまえは、生きている。大丈夫だ。怖がることはない。ここは安全だ。約束する」
何度も、静かに繰り返す。少女が頷き、表情にも微かな安堵のようなものが浮かんだ。それを見てから、レーヴェンは立ち上がった。
「もう、
レオンに耳元で囁く。
「では、彼女は?」
「誰かに、任せておくしかない。ここにいることがわからないようにな」
すぐに戻る、と少女に言い置いて、父が部屋を出ていく。レオンも後に続いた。
自室に戻り、正装を身につけていく。頭にあるのは、あの少女のことだった。
名も知らぬ場所、名の知らぬ男に、怯えている。それは、当たり前だと思った。レオンの脳裏に、雪の下にあった瓦礫と屍体の光景がよぎる。その事実を、いつ言うべきか分からないが、今ではない。少しずつ、心をほぐすしかないだろう。
同時に、ほとんど言葉を交わせなかった自分を、自嘲するような気分になった。子どもだ。それも、おそらく身寄りをすべて亡くし、記憶まで失っている。もっと、かける言葉があったはずだ。
父の姿がない。もう出て行ったらしい。レオンも自室で鎧を身に付け、裏口から、屋敷の外に出た。
「ゲラルト」
戸口で、薪を抱えて歩いている老人を呼んだ。
「これは、坊っちゃん」
「いい加減、坊っちゃんはよせ」
白く長い髭の奥で、黄色い歯が見える。父のもとに使える使用人の中で、最も長く仕える男である。未だに薪を運び、雪をかき、屋敷の綻びも直してしまう。老いていることを感じさせない男だった。
「父上は」
「表にいらっしゃいます」
「そうか。あの少女のいる部屋に、下女をやってほしい。それから、なにか温かいものを」
「信頼できる者を、行かせましょう」
街の中であの少女の存在を知っている者は、そう多くない。父があえてそうしていると、レオンは分かっていた。口の固い者だけに伝えていて、屋敷の中でも、知らない者がいる。
「目覚めたようですな。旦那様から伺っております。医者は、とうに諦めておりました」
「話し相手を。俺では、怖がらせてしまう」
老人、と言うにしては広いその背中を見送り、レオンは屋敷の面に向かう。
それの何倍も、大きな背中があった。父が、丘の下、遠くを眺めている。その隣にレオンは立った。眼下に見えるノルンの街並みと小川は、いつ見ても変わらない。ただ、青竜軍の宿を準備しているのか、朝に見たときよりも慌ただしく人が行き交いしている。
「あの娘をご存知なのですか、父上?」
「いや」
レーヴェンの視線は、
「似た者を知っている。それを、少し思い出した」
「似た者ですか」
あの容姿に似た者、とは。疑問が浮かんだが、レオンは聞かずにおいた。
「しばらくは、屋敷に置くことになるだろう。
「他にも、あの場にいた者が」
「すでに、同じことは言いつけてある。とにかく、話さないことだ。とくにこれから来る
強い調子があった。レオンは、黙って頷いた。
「なぜ私と
話題を変える。父は、ようやく視線をこちらに向けた。
「嫌なのか?」
「いいえ。ただの疑問です」
父の髭を蓄えた口元が歪む。互いに低く笑う。
「ハイデルの“
「“
ハイデル領に駐屯する
数年前に一度、その姿を見たことがあるだけだが、それを忘れてはいない。“大熊”とよく言ったもので、小山のように巨大で立派な体躯の大男だった。自分や父も躰は大きいが、それよりも一回りか、それ以上に大きいのだ。その外見だけで、人の印象に残る男だと思える。
「やつが、まもなく来る」
「指揮官自ら?」
言ってから、しかしそれほどのことではあるのだ、とレオンは思った。村ひとつが、潰れてしまったのだ。隣接する領地、その最大の街ハイデルから、軍の指揮官が視察に来る。それは、おかしなことではない。
「おまえを、見せておきたいと思った。軍人だ。次にいつ会えるかもわからん」
「南は、また戦の気配があるとか」
レーヴェンは黙っているが、それはレオンも噂で聞いていた。
赤の国。
国境の山脈をまたいだ、その向こうにある国。伝説でも、そして現実にも、この青の国に侵略を謀る異国である。
南の国境を護る砦は、レオンの知る限り、破られたことがない。だからレオンは、赤の国の民の姿も、見たことがない。何代も前の王の時代から、青の国はその国境を維持している。もし、赤の国が侵攻してくるのであれば、それは何十年振りかのことであった。
「かの国は、いつでも侵略の機会を窺っている。壁を越え、山を越え、都を陥落させる機会をな」
父の言葉を聞きながら、国の軍隊がまた防備を強化するのだろう、とレオンはぼんやりと考えていた。このムート領は国境に近い。しかし、自分が生まれる前から堅牢を誇る国境の砦である。それを越えて敵が攻めてくることを、レオンは想像できなかった。
馬の隊列が見えたのは、そのあとすぐだった。
この街では見られないほどの馬と、それに乗った鎧の男たちが丘を目指してやってくる。だんだんと大きくなり、先頭の男の大きな躰がはっきりと分かるようになった。その男が、躰に見合う大きな声で父の名を呼んでいた。レオンは父と二人で、左胸に掌を当てる。軍の鎧の左胸には青の竜紋があるが、自分たちのものには、それはない。軍式の礼を見せた二人に、下馬した男たちは同様に返した。
「出迎えがわずか二人とは。国軍の
「領主と、その息子ではご不満でしたかな、指揮官殿」
僅かな間があって、男たちが抱擁した。鎧の感触を確かめるように、何度もお互いの肩と背を叩く。レオンは、少し安堵した。整列した兵からも笑いが漏れる。
「息子か、これが。なんと立派になったのだ」
「レオンと申します、
レオンは、ベイル・グロースの体躯に圧倒されながら、はっきりと名乗った。ベイルは笑みを絶やさない。
「この男が子を育てると言ったとき、俺は神に懺悔したよ。罪なき子をひとり死なせてしまう、とな」
「父は、私に様々なことを教えてくれました」
「で、あろうな。良い顔をしている。将来は有能な領主か、勇猛な戦士か」
「早く中に入れ、ベイル。外は冷える」
「なんだ、その顔は。わが友レーヴェン」
顔を顰める父の肩を、ベイルはまた叩いた。
「兵たちを休ませたい。あの村を見てきた後でな。心まで冷え込んでいるのだ」
「屋敷の者が案内する。申し訳ないが、私の屋敷はおまえが入ってしまうと、それで一杯なのだ」
「まったく、減らず口は変わらん」
「お互いな」
父に連れられ、ベイルが屋敷に入る。ついて入ろうとした供の者は、レオンが案内した。残りの兵は、使用人たちが休ませるだろう。父の冗談は半分真実で、百名以上いる兵士たちを入れられるほどの屋敷ではないのだ。こういうところで、領主としては劣っている、と言われることもある。
レオンと、国軍の供の者が二名、同席した。席について、父とベイルは様々なことを話し始めた。ウルグの村や、周辺の地域のこと。ハイデルのこと。国軍の様子。あの少女のことは、やはり言わなかった。
「おまえの言うことを、信じたくはないが」
「あれは“
レオンに向かって言ったのと同じように、父は断言していた。それを聞いた大男が、大きな手で額を覆う。
「ありえない」
「ありえない。そうだ。だが、あの村を、洞窟を見ただろう」
「“死の風”とは。何十年も起こっていなかったのに。俺は、伝説だと思っていた」
「赤の国の人間は、これを“神の風”と言うらしいな」
「南は、このところ緊張が続いている。やつら、国境に櫓などを築き始めたようだ」
「壁の
「ファルク・メルケル。これが切れ者だ。まだ若いのだが」
レオンは、二人の会話を、不思議な心持ちで聞いていた。青竜軍に旧友がいること、赤の国や、伝説に見識があることなど、気にはなっていた。こうして、軍の指揮官を相手に話す姿は、まるで父ではないようでもある。
「俺はこのことを、都に報告せねばならん。何と言ったものかな」
「伝説は事実であったと」
「自分たちのこしらえた伝説に生きるので精いっぱいの連中に?」
ベイルが卓上の酒を呷るのを見て、レーヴェンが笑う。
「実は、南の砦から、要請が来ているのだ」
「ハイデルからも出兵するのか?」
「勿論だ。しかし、もっと大規模な徴兵を行うという気配もある。戦の匂いがするのだな」
徴兵。心に、ざわめくものがあった。ベイルが自分の視線に気付いて、少し頷いた気がした。その言葉の意味するところを、レーヴェンも察したらしい。
「国難とあれば、もちろん兵は出す。しかし、あまり頼りにはするな。こんな辺境の領地にできることなど限られている」
国軍の駐留地も、ないのだ。だから警備兵団を作り、自警している。徴兵となっても、派遣できる数は、無いのと同じだ。レオンは自らも所属している兵団を思い浮かべた。戦場に行ける者が、どれだけいるか。
「兵は集められる。若い者は、都にも、余計なほどにいるからな。どうしようもないような連中も、そこで使える」
「北のほうでは、また賊が増えてきたそうじゃないか。長い平和というものの弊害だな」
「そのとおり。あの無能どもは、何をしているのか──まあ、それはいい」
気を取り直すように、ベイルは首を振った。
「壁の指揮官ファルク・メルケルが必要としているのは、ただの兵卒ではない。指揮官たりうる者を欲しているようでな」
この男は、この領地の若い兵を欲していたわけではない。レオンは、先程のベイルの頷きに含まれた意味を理解した。その視線は、父を捉えて離さない。
「“雪の獅子”レーヴェン・ムート。
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