銀の髪 青の瞳

父と交代で、時々寝台の横に腰掛けた。


 眠っている少女に変化はない。呼吸は浅く続いている。寝返りを打ったりすることがなく、汗もかかず、死んでいると言われても、頷いてしまいそうな様子であった。暖炉に火を入れ続け、毛布をあるだけ使った。しかしどれだけ温めても、白い肌は、崩壊した集落から運び出した時と変わらない。


 自室の一角である。洞穴から出て七日、少女はここで眠り続けている。これがどういう状態なのか、医者でないレオンには、判らない。その医者も、なぜ目を覚まさないのか、何をすべきなのか、わからないのだという。身体が、生きているにしては冷たすぎる、とだけ言っていた。


 椅子から立ち上がり、窓を開け、上体だけを外に出した。


 陽が昇っている。穏やかな風が吹き込んで、レオンの黒髪を撫でた。水の季節フリーレの空は、いつも薄い雲がかかっているが、今日はその雲間から陽光が漏れている。


 眼下の街を、ノルンという。南部の国境に近い山間の集落で、山から下ってくる小川に沿うようにして人が集まっている。この季節は寒く、昨晩の雪は樹上にも地面にも残り続けている。大人たちが水を汲み、火を焚いて朝餉の準備をするのが見える。林では、雪を投げて、子どもが遊んでいた。


 その北端、家が並ぶ通りから少し離れたところは、小高い土地になっている。父と、ここに暮らしていた。父レーヴェン・ムートは、この街と近隣の集落を含む一帯を治める男だ。父の名を取って、ムート領という。ここは領主(レンスヘル)の邸宅、ということになるが、大きくはないし、生活に贅沢などない。どこかの領主は巨大な城を持っている、という話も聞いたことがある。しかしレオンは、何も気にしたことはなかった。父が偉大であることに疑いはない。窓から見下ろした先に見えるノルンの街と人は、質素で、優しい。それだけで、領主の息子であることに十分誇りが持てた。


 レオンは寝台に目を向けた。動かない少女。銀の髪。汚れた毛布が、あまりにも似つかわしくない。


 どこか知らない場所から来た娘のような気がする。あの崩壊した村、ウルグにこんな人間が生まれて、暮らしているものなのだろうか。人の数も疎らな寒村だったという印象しかない。


 その村が、禁忌を犯そうとしていた――あるいは、犯してしまった――ことも驚きではある。そして、“死の風”が吹いたということも。父が何と言っても、未だに、レオンはそのことを信じきれていなかった。


 扉が開き、レーヴェンが入ってくる。レオンは窓を閉め、寝台の傍に戻った。


「よく眠る子だ。こんなにいい天気なのにな」


 薄く笑う父に、レオンも頷く。


「もう七日です。体温も低いままだ」


「だが生きている」


「齢は十二か、十三くらいだろうと、医者が。こんな娘は見たことがない、とも」


「そうだろうな」


 大きな身体でゆっくりと椅子に腰かけながら、レーヴェンは少女の顔から視線を外さない。その哀れみとも慈しみともいえぬ感情を映す眼の色が、レオンにとっては見慣れないものだった。


 束の間、沈黙があった。


「ハイデルから使いが来る」


 その街の名に、レオンは俯けていた顔を上げる。


「ハイデル?」


「ウルグを見たいと。小隊で来るそうだ。大袈裟なことだな」


 ハイデルは、ここから川を跨いで東の領地にある、大きな都市だ。ムート領からも、作物や毛皮を売り出る者がいる。人は多く、この近辺では最も栄えた街といえる。“青竜軍アルメ”と呼ばれる国軍も常駐していて、父について何度か訪れたこともある。使いというのは、その国軍から使者が来るということだ。


「街の準備は?」


「すでに、行わせている。連中が着いたら、お前も顔を出せ」


 そう言われたのは初めてだった。しかし考えてみれば、領主レンスヘルの息子として、それは当然のことのように思えた。レオンが頷くと、父は苦笑した。


「この子を見せるわけには、いかんな」


「なぜです」


「なぜだって? 銀の髪に、青い瞳だ。何を言われるか」


「青の瞳?」


 レオンが訊き返したときには、レーヴェンの表情は一変していた。ぎくりとしたような表情が、こちらを向いている。


「瞳が青い? なぜお分かりに?」


 その表情の意味が解らず、さらに尋ねる。父はほんの一瞬目を逸らし、ぎこちなく口角を上げた。


「医者が、瞼を指で開けて診ていた。おまえ、見なかったのか」


 珍しく手振りを交えて、レーヴェンが言う。それは知らなかった。初め、医者がこの娘を診ていたとき、レオンは寝床の準備のために、部屋を出たり入ったりしていたからかもしれない。首を振る。


 なぜか父も、溜息とともに、僅かに頭(かぶり)を振った。すぐに立ち上がると、扉から出て行こうとする。後を追おうとすると、人差し指を立ててこちらを振り返った。


「若造どもが、来ているぞ。稽古をつけてやれ」


「これから、でしょうか?」


「ああ、そうだな。これからだ」


 その返事も曖昧な気がした。どうも様子が落ち着かない。こんな父は見たことがなかった。


 しかし、かける言葉を探しているうちに、レーヴェンは部屋を出て行ってしまう。釈然としないまま、レオンも寝台の少女を一瞥し、部屋を出た。


 簡単な防具と分厚い毛皮の外套を身に付け、剣を模した木の棒をいくつか持った。外に出る。冷気が肌を撫でた。吐く息は白い。陽射しは、まだそれほど空気を温めてくれてはいないようだ。


 積もった雪を踏みしめながら、レオンは丘を下った。斜面が急に下がる坂があり、石と太い木の枝で階段が造ってある。そこからさらに下へ降りる。


 坂道を下った木立の中に広い場所があり、そこで四人、男が屯しているのが見えた。それぞれが脛当てや胴着といった簡単な装身具を身に付けている。降りていくレオンの姿を認めると、立ち上がった。


「あの娘は、目が覚めたのか?」


「いいや」


「“奇跡の子”は、朝に弱いらしい」


 レオンは持ってきた棒を、それぞれに一本ずつ投げてやった。共にウルグの村まで行った、若い男たちだ。自分も含めた十数人で、この街の警備兵として務めていた。皆、ここの生まれである。二十歳になるレオンと歳は似たようなものだが、躰は自分のほうが一回りほど大きかった。領内でなにかあったときには、この者たちを含めて警備兵団が組織され、有事に備えることになっている。調練はレーヴェンが行うが、数名はここで毎日のように、レオンが剣の稽古を付けていた。


「“奇跡の子”?」


「俺たちで、そう呼ぶことにした。七日も眠り続けられるなんて、奇跡だろ」


 笑いが起こる。呑気なものだ、と思った。いつ死ぬか知らない人間の傍で七日座っていた気持ちは、この者たちにはわからないだろう。


 木の剣先をゆっくりと四人に向け、レオンも薄く笑う。


「それで? 今日の“名誉負傷兵”は?」


 男たちの顔色が変わる。各々が顔を見合わせ、一人が前に歩み出た。四人の中でも、一番大柄といえる男だ。レオンと向き合って、剣を構える。


「お前から打って──」


 レオンが言い終えるか終えないかというところで、もう相手は剣を突き出してきていた。上体だけを動かし、躱す。二度、三度と空を切らせてから、はじめて打ち合った。離れる。じり、と男が距離を詰めようとする。だが、飛び込んでは来ない。来ないような間合いをとっている。


 剣先を少し動かし、誘い込むようにした。打ち込んでくる。剣を弾き飛ばす。木が地面に落ちる音がするころには、レオンは剣を相手の眉間に突きつけていた。


「次だ」


 口を歪めた男が退がり、二人目が出てくる。剣を構えた。レオンは、だらりと腕を下げる。今度は構えることもせず、男が打ち込んでくるのを待った。声を上げて、男が踏み込んでくる。上段に振り上げた剣。腕から下が隙だらけだ。薙ぐようにして、胴を払った。男が膝を折って踞る。


「次」


 そこから残りの二人も出てきて、向き合ったが、先の二人と同じようになっただけだった。若者たちは悪態をついたり、呻いたりしている。


「おまえ、何をしたんだよ。息ができん」


「何も」


 わざと煽るようにして言う。一度倒れただけでやめるような者たちではない。また全員が立ち上がって剣を構える。レオンも少しだけ、気分が高揚した。


「四人で、打ちかかってこい」


 男たちが、声とともに剣を振りかざす。


 一人目の足を殴打し、動きを止める。右から来た二人目の剣をかわして、肘で顔面を叩いた。後ろから三人目。剣を受け止めて弾き、胴を突いた。四人目も剣を弾き飛ばす。立ち上がった一人目の男が目の端に映る。地面に落ちた相手の剣を、そちらに投げた。それが男の額に当たるのと、飛びかかってきた四人目の男を投げ飛ばすのが、同時だった。


「ずるいぞ」


 一番細身の男が非難がましい声を上げる。


「何が?」


「剣を遣わなかった。殴るなんて聞いてない」


 思わず、レオンは吹き出した。


「子どもにもそう言うのか? 『剣を持て、卑怯だぞ』と?」


「もう一度だ」


 腹を突かれた大柄な男が、絞り出すように言った。鋭い目で、こちらを睨んでいる。一方でレオンは頬を緩ませた。腕の差は誰にも明らかだが、闘志はある。それはいいことだった。


「踏み込むことに気持ちが向きすぎだ、サントン。それからハイネも。我慢だ。大事なのは間合いだ」


 大柄なサントンと細身のハイネは、剣を振るう速さや一振りの重さに違いはあれど、本質が似通っていた。二人は顔を見合わせて、ばつが悪そうにする。


「マルセルとマルコ。お前たちは双子だからって、剣まで同じように振るうのか?」


 顔のよく似た二人が、同じ笑顔を見せる。背の高さまで同じだから、ときどき見分けがつかなくなる。


「剣は腕の一部だと前も言った。別々の動きをさせていては、ただの重りにしかならん。重りを飛ばすことは、簡単だ」


 また、それぞれが剣を構える。


 それから何度も打ち合い、稽古を続けた。寒空の木立の中で、木がぶつかり合う音が響く。


 陽が天辺に昇るころには、四人ともその場から立てなくなっていた。雪の地面は、もう黒くその下の色を現している。レオンも、上がった息を整え、背の高い木の下に座った。結局、一打ちも受けなかったが、四人相手に動き続けると、疲労はある。


 双子が、水を汲みに行った。この木立の先に井戸がある。


「うまくならない」


「うまくなろうと、思っているからだ」


 サントンは、度々こういうことを言う。それに、レオンはいつも同じように返すのだった。


「俺を殺す気でなければ。剣とは、人を殺す道具なのだから」


「説教臭いな。誰の言葉だ?」


「父の教えだよ」


 かつて、そう言われた。俺を殺せと。道具には、つくられた目的がある。殺すための道具は、殺すことにしか使えない。だから、剣を持ったときは、向き合ったものを殺す気でいなければならない。


「俺たちに、稽古をつけてくれるのは、おまえしかいない。だけどおまえは、そうじゃない。俺たちが勝てるわけないんだ」


「そうだな。俺には、父上がいる」


「父上? 誰の父だ? おまえのか?」


 言われた瞬間、レオンの中に小さな黒い火がついた。


「そうだ。レーヴェン・ムート。“雪の獅子”。そして、俺の父だ」


 立ち上がった自分を、サントンが茫然と見上げている。ハイネが、その脇を突き、ようやく口を開いた。


「おい、悪かった。冗談だよ」


 男が何か言うのを無視し、レオンはそこから立ち去った。水瓶を持ったまま、目を丸くしている双子の肩を弾いて擦れ違い、木立を抜ける。背後から自分を呼び止める声が聞こえたが、応えることはしない。猛然と石の階段を上り、丘の小道に出たところで、一度立ち止まった。大きく息を吸って、吐く。


 この街で生まれ、この街で育った。言い聞かせた。自分に、である。父がいて、家がある。あの程度の冗談、聞き流せばよかったのだ。怒りはすでに、それができない自分に向いていた。


 ハイデルと同じ領内に、ロストックという、小さな村がある。生まれたのは、そこだった。


 実父は、記憶にもない頃、流行り病で死んだ。母にそう教えられたのが、齢七つか、八つになるときであった。その母も、十歳になる前に、名も知らぬ男に殺された。物取りだった。自分が、小川に水を汲みに行っていたときのことだ。


 母を守れなかった自分を責めた。悔いて、三日三晩、母の亡骸の傍にいた。それから、母を殺した男のことを考えた。自分がその男を殺す夢を、何度も見た。


 数日後、空腹感も感じなくなっていた頃、ある男が、自分を尋ねてきた。黒髪で、剣を佩き、立派な身形をした偉丈夫だった。おまえの母を殺した男を殺した。平坦な声で、男はそう言った。


 そのとき、自分が何をしたのかは、よく憶えていない。気が付いたら、まったく知らない大人たちのいる、知らない場所で寝かされていたのだ。あの男が、寝ている寝台の傍に腰かけていた。わけのわからぬことを叫んで、俺に掴みかかった。そして、気を失ったのだ、と言われた。


 それから男はこう尋ねた。父はいるか、と。首を振ると、男は続けた。いないのならば、俺のところに来い。父の代わりにはならないが、共に生きよう。母のような人間を護れる力を身に付けるのだ、と。


 汗が、躰を冷ます。もう、心は落ち着いている。


 この街に生きて十年になる。二十歳になり、人並みの力と知識は、身に付けることができた。母の敵を討ち、自分を養ってくれた男は、父になった。代わりではない、本当の父になったのだ。自分が今ここにいるのは、レーヴェン・ムートが息子として育ててくれたからだ。誰に何を言われようと、それが自分にとっては真実である。


 あの上にあるのが、自分の家だ。それを確かめるように、レオンは丘の上にある邸宅に目をやった。そして、目が離せなくなった。


 銀の風だ、と思った。


 銀の髪が輝きを与えるように靡き、風に色をもたらしている。その風の向こうから、二つの眼が、自分を見つめていた。ここからでも判る、鮮やかな青。


 父の言ったとおりだ。レオンはどうしてか、そんなことを瞬間、考え、直ぐに駆けだした。


 窓に、あの少女が見える。

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