episode1 水の季節

雪の中から

 真白な地を駈けた。


 馬上から白い息が流れていく。凍りついた大地を疾駆する。目に映るものはすべて白い。通り過ぎていく木々などは、斜めに生えた氷柱のようであった。雪に覆われているそれらの木や、馬蹄で踏み越えていく草からは、生命を感じない。


 風、それも恐ろしく強い風の過ぎた跡である。


 顔など、厚い布で覆っていても、受ける風は肌に刺さるように冷たい。レオンは、寒さに抗うように、馬の腹をさらに締めた。馬が速力を上げる。


 十人でノルンの街を発ったのが今朝である。陽が昇るのと同時に村を発ち、そこから半日、ほとんど休まず駈け通しであった。出立して数時間経った辺りから、周囲の風景に白いものが混ざり始め、さらに数時間経つころには、今のような景色になっていた。


 さらに幾分か駆けたところで、丘を登る道に入った。一気に駆け上がる。天辺まで登ると、視界が開けた。


 灰色の空の下に、小さな集落が見える。数十人の小集落だと聞いていた。建物の屋根は捲れ上がって剥がれかけているもの、すべてないものまであり、もとは櫓のようなものであったのか、高い木の柱が、折れたまま転がっているのも見える。あちこちに板材の割れたようなものが散らばり、また積み重なって山になっているようなところもある。そして、それらはすべて雪で覆われているのだった。壊れた集落は、ここからでは雪原の上の小さな隆起のように見える。


 レオンの後ろに続いてきた何名かが、背後で息を呑むのが分かった。一騎が自分の横につける。同じように眼下の光景を見つめる馬上の男が、落胆とも感嘆ともつかない息を吐いた。


「父上」


「“死の風エンデ”だな」


 父レーヴェンは、断言するように言い切ると、丘を駈け下りた。レオンも後に続く。集落の前まで馬を進める。


「下馬」


 レオンが命じ、全員が下馬した。三名が馬の手綱をまとめて適当な場所に留める。


 顔を覆っていた布を取った。冷たい空気を感じる。集団が身じろぎする音が、妙に大きく聞こえる。それほどの静けさであった。生きものの気配を、まるで感じない。


 レーヴェンが、何も言わず先に踏み入っていった。


「陽が地平にかかる頃に、またここで集まろう。俺は、父上と行く」


 レオンは薄雲に覆われた陽を指さした。短く指示を出すと、全員が無言で頷き、散開する。


 数名が声を上げ、手近な家屋の跡に入っていく。それを横目で見ながら、レオンも集落の奥へ歩く。父は、瓦礫の向こうに消えている。足跡を追いながら、周囲にも目を配った。耳には、新しい雪を踏みしめる足音と、湿った木を踏む音、鎧の金具がたてる音だけが入ってくる。注意してそのほかの音を拾おうとしたが、他の者が生存者に向けて呼びかける声以外、何も聞こえない。


 目に映る建物はことごとく、何らかの損傷を伴っていた。たとえば、丘の上から見たように、屋根が風にあおられて剥がれ、吹き飛んでいる。その木材が突き立った窓が割れている。木棚や篝火台が粉々になって飛散している。巨大な何かが、家屋の外壁を突き破っている。おそらく集落の外縁にある櫓の柱だ。ある家の扉は木枠が変形し、開けられない。


 あちこちに、白く覆われた、ずんぐりしたものが、折り重なっている。一目見て、それが人であったものだと分かった。レオンは素早く近づき、折り重なったものを地面に下ろす。氷を触ったときのような硬さと冷たさだった。雪を払うとその顔が見える。目を見開いたままだった。息はしていない。


 自分を呼ぶ声がした。レーヴェンが手を振っている。駆け寄った。途中、何かに足が当たって、躓きそうになった。見ると、それは人であった。子どもと、それを抱きかかえるようにして背中を丸めた大人だ。思わず、呻き声が出た。


「行くぞ」


 父の指さす方には、山へ向かう小道があった。並んで歩を進める。


「現実とは思えません、父上」


「“死の風”に、雪か。たしかに、現実だとは思えん」


「本当に、“風”なのでしょうか」


 レオンの言葉に、レーヴェンは鼻を鳴らした。


「それを、調べに来たのさ」


 小道は集落から山を周る様に登っていく。周辺はやはり、風に吹かれた跡が残っている。巨大な何かに撫で付けられたような、木々の倒れ方だった。もし本当に“死の風”だとしたら。レオンは暗い気持ちでそれを考えた。“死の風”は、いつ起こるか分からない。伝説なのか、まことなのか、誰も知らない。だが目の前で起こっていることは、およそただの突風や雪崩によるものとは考えられなかった。“死の風”はいつ吹くか知れず、どこに吹くかも知れない。だからこれが“死の風”の仕業だというなら、自分たちはまた、いつ来るか知れぬ恐怖に怯えなければならない。この村を見て、誰が楽観的でいられるだろうか。


 唐突に、目の前が開けた。草木が途絶えている。人の手が入ったような場所に、むき出しになった岩壁と、洞穴が空いている。岩壁の裂け目が、突然膨らんだように口を開けている。


 立ち止まったレオンとは対照的に、レーヴェンは歩みを止めることなく洞穴の闇の中に入っていった。慌てて後を追ったが、すぐのところで父も足を止めていた。


「火が要るな」


 陽の光が、すぐに入らなくなっていた。この時間ならもう少し先が見えてもいいはずだが、もう数十歩も進めば、ほとんど何も見えなくなるだろう。レオンはもう一度外に出て、手頃な枝を探した。油を染み込ませた布を先端に巻き付け、石を打って火を点ける。レーヴェンにも手渡し、先に進んだ。火は、あまり揺れない。風は吹き込まないらしい。雪と風の外に比べ、暖かい気すらした。雪も入り込んでいない。


 奥行きがありそうではない。そして、足元も平坦に近い。人が掘削したことを感じさせた。


「おい、レオン」


 レーヴェンが火を持たない手で指し示した方には、また人が折り重なって倒れていた。それだけでない。灯りで照らしてよく見ると、食器や、そこに載ってあったような果実や何かの肉まで散乱している。岩壁に叩き付けられたようにして潰れているものもある。それは人も同じで、レオンは思わず目を背けた。


 一方でレーヴェンは、しゃがみ込んで顔を近づけたり、指で触れたりしながら、それらを観察している。歩みも、そのために立ち止まるだけで、奥に向かって止まらない。子として、たじろいでいる自分が情けなく思えた。レオンもいくつかの屍体したいをよく見るようにする。なぜか、屍体の多くが、白い衣服――血で染まってはいるが――を身に付けているのが分かった。


 また、父が自分を呼んだ。


「帯剣している者がいる。だが、腰に帯びたままだ。他の屍体にも、斬られたような痕はない」


 壁を指差す。


「擦れたように、血と肉の跡がある。衣服も、ここで擦り切れたようだな」


「強い力で押さえつけられた?」


「“風”だ、これは。この洞穴の奥まで食い荒らしたのだろうな」


 レオンは閉口した。父は“風”の過ぎた跡を見たことがあるとでもいうのか。言外に、そう思わせる言い方だ。いつ、どこで、とは思ったが、反論しようとは、思わない。これは酷い、という感情は浮かんだ。そして今ひとつ、気になることがある。


「彼らはここで何を?」


 レオンの疑問に、父は横目をこちらに向けた。考えろ、ということだ。ここまでに見たものを思い返す。父は解っている。自分には、まだ解らない。奥に行けば、解るのか。レーヴェンは後ろからついてくる。


 最奥までは、直ぐだった。


 そこには大量の岩と、いくつかの白い木片があった。雪の色ではない。塗られたような色だ。道中と同じように斃れている人。また、白い装束だった。腕や脚に、何かを描くようにして青い塗料が塗り付けてある。そういうものが、何人分かある。


「竜の儀式?」


 父は否定しなかった。


 レオンは火を高く掲げ、天井になっている岩盤を照らす。そこは青と、緑の壁だった。大地を表す緑の上から、水を表す青の雫が巨大に描かれている。雫は、中に複雑な模様を含んでいる。しかし表しているものを、レオンは知っている。頭、翼、尾、そして、纏う知恵と生命の飛沫。青の竜紋だった。


 ここに、神話の青き竜を降ろそうとしたのだ。


「禁忌では?」


「ああ、禁忌だ――我々の感覚では。だが、本当に降ろそうとしたらしい。天上の神をな」


 そして、一人残らず死んだ。死んだのは“風”のせいかもしれないが、この者たちがここでやろうとしていたことに、身が震えた。


 岩と木片は、祠というわけだ。レオンはまた、それらを灯りで照らした。


 殊更に白い布が落ちていた。僅かに、人の脚のようなものが覗いている。近づいた。


 足が止まった。


 何十と見てきた屍とは違う。


 父上、と自分でも意図しない声が口から洩れた。レーヴェンにそれが聞こえたかは、わからない。


 一歩踏み出した。もう一歩。父上。声が大きくなった。しゃがみ込んだ。


「父上っ」


 叫んでいた。声が、洞窟の暗い壁に反響する。


 これは、屍ではない。


 レーヴェンが駆け寄ってくる足音が聞こえる。レオンは、目の前の布を剥ぎ取った。


 子どもだった。銀の髪、異様に白い肌。刹那に眼を奪われた。しかしその胸が、ほんの僅かに動くのを見た瞬間、レオンはそれを抱き起していた。


「生きています、子どもが」


 すでにレーヴェンは、羽織っていた外套を外していた。小さな身体に被せる。冷たい身体だ。しかし、生きている。抱え上げた。


 レーヴェンが先行し道を照らす。走った。抱えた重さなど、まるで感じない。


 洞穴の出口。明かりが見える。


 生きている。レオンの頭の中には、それだけがあった。

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