銀の風、竜の瞳。

umi

PART1 銀の少女

Prologue

死の風

 いやに赤い空だった。


 陽が暮れようとしている。太陽が山並みの向こうに消えるまで、あと少しというところである。山のつくる陰が、麓の村を包もうとしていた。吹き下ろす風がその家々を撫でる。屋根に積もった雪が、残っている陽射しを照り返す。


 少年が、風に目を瞑った。赤い陽光も眩しい。もう帰らなければ、と思った。夜がやってくる。青い竜の時間が。


 大人たちは、帰らないのか。周りを見回した。


 皆が一様に、同じ方向を向いていた。歓声が上がった。少年は、帰ろうとしていた足を止め、精一杯に踵を上げ、その先を見た。


 そこには女がいた。


 少年は思わず息を呑んだ。彼女の髪は美しい銀色で、肌は雪よりも白い。自分や友人などは、もっと肌の色が濃いし、なにより髪は黒か赤である。陽の光を映す小川のように燦めく銀の髪に目を奪われた。


 肌と同じくらい白い、布のような、長い衣服を頭から身に纏っている。それも、足下に積もった雪より、はっきりと白い装束だった。雪の積もった村の中にあって、それ以上に白く、眩い感じがした。


 女の周りは、同じく一様に、白い装束を身につけた大人が取り巻いている。一言も発さないまま、通りを歩いていった。遠ざかる後姿を目に捉えたまま、少年は、何度も聞いた御伽噺を思い返した。



 ――青の竜が生命いのちを創り、赤き竜は生命に力を与えた。

 青の竜が息を吹きかけた地には、草木が生い茂り、森ができ、山ができた。輝く銀の翼の羽搏きは柔らかな風となり、風は雨を呼び、川ができ、それらの水は海になった。竜の飛び去った跡は雲になった。

 それから青の竜は、生命を創り出した。山に獣、海に魚、空に鳥を。そして──



 最後に竜は、人間を創ったのだ。だから人間は、青の竜の“最後の子”と言われている。そんな伝承を、彼は村の老人から幾度となく聞いていた。


 大人たちの昂奮が伝わってくる。すぐに収まりそうなものではなかった。彼には、それが不気味に映る。見たことのない容姿でも、女が一人、歩いていっただけだ。白い集団が見えなくなっても、彼らはその場を離れる気がないらしい。何かいいことがあるのかとも思ったが、しばらく待っても大人たちが口々に何かを話すだけで、何もない。少年は、集団に背を向けた。


 空が赤みを増していた。風が強くなっている。その中を、少年は駆けた。山の稜線に消えゆく陽を、背に受けて走る。消えようというのに、増すばかりの赤に、少年は気付かない。


 ふと、足を止めた。一軒の建物の前に、老人が座っている。生気の抜けたように、空を見上げて動かない。彼がよく御伽噺を聞く老人だった。


「竜の子を見ました」


 子どもの声に身を震わせ、老人は空に遣っていた眼をそちらに向けた。


「あんな髪も肌も、見たことがありません」


「どんな様子だった?」


 老人の虚ろとも見える眼が気にはなった。しかし少年は、大人たちの昂奮に少し中てられたかのように、その容姿や佇まいを話した。


 話しながら彼は、あの女はこれから何をするのだろう、と思った。自分と、ほとんど変わらぬ年齢のようだ。いつか聞いた噺には、“赤の国”と戦う正義の男たちを描いた一節があった。あれは女だが、御伽噺の中から現れたような容姿をしている。彼女もなにか、悪いものと戦うのだろうか。


「山に行ったのだね?」


「はい。たくさんの、白い服を着た大人たちも一緒でした」


 実際は、何をしているのか、少年には分からないことばかりである。山の麓には洞窟がある。ただし、決して立ち入ってはならないと言われていたから、その先で何が行われているのか、彼には知りようがない。だから、嘘のような噺でも、頭の中で思い浮かべるしかないのであった。


「そうか。ならば死の風は吹かぬな」


 老人の呟き。聞いたことのない言葉だった。ただ、空恐ろしい響きが耳に残った。


「なんですか、それは?」


「獣とともに、赤の竜が残したのだよ。火と、風の竜がな」


 それ以上、老人は語ろうとはしなかった。少年も、これまでに聞いていた伝説や御伽噺と比べて、暗い噺のような気がして、訊くのをやめた。


「でも、青の竜が世界から死を無くしてくれるのでしょう?」


「そうだ。いつか来る、その日は……」


 老人はまた眼を空に向けた。陽に照らされたような、その顔の妙な明るさに、少年は、はじめて気が付いた。明るい。もう日暮れだったはずだ。そして、赤い。老人の視線の先を追って振り返った。


 太陽はもう、その姿のほとんどを、山の稜線の向こうに隠していた。しかし、空は先刻から暗くなるどころか、赤く、赤くなっているように思える。


その赤い空に、白いものが混ざり始めた。何だと思っていると、風に乗ったそれが、顔や躰に吹きつける。


 その冷たさに、ぞわりとした。雪だ。赤い空から、俄かに雪が降っている。


 分かったときには、昂奮から一度に覚めていた。喩えようのない気味の悪さと恐怖が、全身を震わせる。


「これは」


 今度は、突風が少年の言葉を遮った。思わず顔を逸らした少年とは違い、老人は風と雪を受けるように佇み、動かない。赤い空から、山を降りて吹いてくる。木々が、葉に残った雪と水を吹き飛ばし、建物を造る壁がいやな音で軋んだ。


「早く家に入りましょう」


 少年は、家屋の中に押し入れるように、老人の背を押した。なぜかは解らないが、誰かに追い立てられるような気持になった。


 風が吹く。耳元で唸る。もう、眼には嫌でも赤色が映る。雪がその上から視界を遮る。全身が冷えていく。なんだ、これは。恐怖が、もはやとどめようもなく襲ってきて、少年は声を張り上げていた。


「ここにいちゃだめだ」


 彼の言葉が聞こえているのか、いないのか、老人は呟くように言った。


「竜の子が、役目を果たす。我々は救われる」


 風がまた吹いた。唸るようなその轟音と、自分の叫びで、少年は、老人が何を言っているのか聞き取ることができなかった。




 その日、赤い空と風が、ひとつの村を呑み込んだ。

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