第88話 安寧を覆すもの。

 目の前に、幻覚かと思う者がいた。

 久しぶりとも、最近出会ったとも取れない忌まわしい相手。ニヤニヤと歪んだ笑みをたたえて、それはこちらに歩いてくる。メド君とジィドはただそれに警戒しているだけのようだったが、俺はそれを知っていた。


「やぁやぁ、久しぶりですねぇ、御神託くん」


 コツコツと明瞭に足音を立て、声を張ってこちらに声をかける。それは明らかに以前より悪意に満ち満ちていた。


「……こいつ」


 メド君はその顔を見て、何かを思い出したのか眉をひそめた。しかし、俺はそれに構ってはいられなかった。何かが向かってくるような気配がして、それは肩をそらす。

 案の定、俺に向って刃が飛んできていた。


「見切ったのかぁ、ぁあ。」


「……ッ」


 それはこちらに突進してくる。刃をもって、俺に突き刺そうとしている。俺はそれを自らの脇差で受け止め、回避する。

 が、それ――――あのレカルドは余裕そうに笑みを浮かべている。もう片手に、ナイフが握られていたのだ。俺はそれを受け止めることができないと悟り、さらにレカルドと距離を詰める。


「……ジィド、下がって援護を!」


「わかった!」


 ジィドは俺の指示に飛び退り、レカルドに射程を合わせて弓を引く。


「そうか、……レカルド・キラー。禁忌を犯したが故に王宮から追い出された、

 元・魔導士団団長か。……お前がなぜここに」


 メド君は思考から我に返り、レカルドに怒りの視線を向ける。すると、レカルドは一気に冷めたような色を浮かべる瞳を見せた。それは、やはり依然あった時に俺も見たもので、恐怖を心の中に植え付けるようなものであった。

 レカルドはメド君に視線を向け、忌まわしいものを見たような顔をした。


「貴様は、あの騎士団長の息子か。……ワタシをあの場所から追い出した男の息子

 か。あぁ、今でも覚えている、あの時の屈辱を!」


 レカルドは牙をむくようにかッと両の目を見開いた。おぞましいほどの殺気が肌を焼くようだった。

 メド君はレカルドのその殺気に硬直してしまう。

 俺はメド君を背にかばい、レカルドを睨みつけた。彼は怖くて仕方がない。水晶の迷宮で対面した時から、何を考えているか全く理解できなくて、理解したくもない。

 

「はぁ、ご神託君も、相変わらずつまらない。……?」


 不意にレカルドがしゃべるのをやめて、首をかしげた。その真顔が、誰かに似ているような気がした。それはよく見知った、どこかで見たことのある顔だ。思い出せそうなのに、レカルドのやや老けた顔が邪魔をする。


「つまらないのはお前だ」


 ふいに、どこからか声が聞こえた。


 それはレカルドのすぐ後ろからだった。その声はすぐさまレカルドを突き刺し、あたりを血に染めていく。レカルドは前方に倒れ、声の主の姿があらわになる。桃色の髪の毛は血に濡れ、瞳は霞んだように虚ろ。

 

「お前のせいで、一族は裏切りのレッテルを張られた。母は、いつまでもお前を信

 じて待っていた。……お前こそ、つまらない」


 血に濡れた頬を彼はぬぐう。

 俺は目を見開いた。こうもあっけなく、終わってしまうものだったのか。いや、彼は何が目的だったのかと。

 彼は。


 彼は、――グランだった。


 明るい笑顔ではなく、怒りと憎悪におぼれた顔。 

 その空虚な視線と目が合った。すると、グランは首を傾げ、にこりと笑った。ぎこちない、どこか人形じみた歪んだ笑みだった。

 その、見慣れない表情に鳥肌が立つ。


「……ハル、メド、ジィド。いつからいたんだい?」


 きりきりと首を動かすグランは、不思議そうな表情を浮かべていた。熱に浮かされたように、感覚がマヒしているのかグランはふらふらしている。

 それもそのはずだった。

 グランは数多の傷を負っていた。浅いものから、止血はしているが裂傷のものまで。


「ゔぅ、……グラン貴様。ヴッ……!」


 レカルドは痛みを耐えるように起き上がろうとしたが、グランがとどめとばかりにもう一度彼の背中を突き刺していた。


「母の悲しみの分、地獄で償っていろ愚図が」


 蔑むようなグランの瞳に、ほんのわずかに悲しみが垣間見えた。それは母に向けたものなのか、亡き者に向けられた瞳だった。俺は止めることができなかった、金縛りのようにその場で硬直するしかなかった。

 グランがこちらを向く。

 口元だけに笑みを浮かべて、こちらに歩いてくる。


「ねぇ、ハル。おれは、どう、すれば、よかった、の、だろう、ね、ぇ」


 ツギハギしたような言葉に背筋が冷える。

 彼の瞳に涙の幕が張っていた。彼の手から血液が滴っている。それは彼の頬に伝う涙と同じように見えた。


「ねぇ、こたえ、て、くれな、い、の?」


 グランはふらふらと俺に近寄ってきたが、不意にぴたりと止まった。グランはぐらりと傾いだ。

 俺にグランが倒れこんでくる。俺はかかった重さを支えるように、とっさにグランに手を伸ばした。傷が至る所にあるせいか、体中に凹凸がある。俺はグランを抱えて、庇っていたメド君を振り向く。


「メド君、ジィド、一回拠点に戻ろう」


「だが、……ロウドをつれていくのは危険だ」


「でも、このままだと死ぬかもしれない!」


 メド君に俺は反論する。

 人を殺したグランをかばうのはおかしいのかもしれないけれど、グランはただ母親が大事だっただけだ。その悲しみまで見捨ててしまうのは、俺にとって家族を捨てることみたいに悲しいことだ。


「俺は、……グランの気持ちがわからなくもないから、……確かに殺すのはよくな

 いけど。でも、」


「わかった。そのあとは処分になるんだ、手当てしてからだ」


 メド君が怒ったように言った。学籍処分、そのあとはどうなるのかわからないけれど、俺はうなずいた。

 ひとまず彼が死んでしまうのは避けたかった。

 彼は少しでも同じクラスにいたのだから。

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