第7話②


 冗談を言うみたいに笑って、シロウはアリサを突き飛ばした。不意を突かれて、アリサはそのままサイドカーから転がり落ちた。

 アリサが身体を立て直すのより先に、もう一度エンジンをかけてサイドカーは走り出す。どんどん速度を上げて、ジャバウォックのもとへ向かっていく。


「アリサー、光に向かって走れーつ!!」


 呆然とへたり込んだままのアリサの耳に、シロウの声が届いた。決死の覚悟で向かう彼の声に、涙を拭って立ち上がる。


「……行かなきゃ」


 光のほうを向いて、ふらりと一歩を踏み出す。本当はすごく嫌だけれど、シロウのもとへ向かいたいけれど、光へ走っていかなければならないのだ。……もしものことがあれば、シロウを目覚めさせられるのはアリサだけだから。

 走りながら、身体が少しずつ軽くなっているのを感じていた。薬が投与されたのだ。

 ウイルスが薬によって抑えられ、なりを潜めるようになるまでもう間もなく。背後のジャバウォックの咆哮は、地団駄は、小さくなってきているように感じられた。

 シロウももうすぐ最接近するのだろうか。気になったけれど、振り返ることはできない。

 アリサはとにかく走って、走って、走った。光に向かって。出口に向かって。

 ひとまずアリサが戻れば、それはシロウとふたりで成し遂げたクリアだ。


『眠り姫』


 光に飛び込む直前、そんな声が聞こえた。

 そのすぐあと、爆発のオレンジ色の炎と爆風によって生じた砂塵を見た。けれど、確認できたのはそこまでだ。

 光に包まれたアリサの意識は沈んでいた水の底からすくい上げられるように浮上していった。



 痛む腹を気にしないようにして、シロウはハンドルを握りしめていた。とはいえ、石がぶつかった衝撃で悪化した傷口は、まるでそこが心臓になったかのようにドクドクとうるさく脈打っていた。

 おまけに、一度大きく距離を開けたジャバウォックに再び近づいていくと、ヤツの動きによって生じる地響きと咆哮で空気はビリビリと震えている。傷口に響くし、ただでさえ血を失ってクラクラする脳が揺れて仕方なかった。

 それなのに、ジャバウォックはのそりのそりと動きを緩めて、その体を休めようとしているかに見えた。それが意味するところがわかって、シロウの中に焦りと同時に怒りが湧き上がった。


「何、安全圏に引っ込もうとしてんだよォッ! 体力回復して元気になったら、またアリサに悪さする気だろ!? させねぇよ! お前は、ここで、きっちり死んどけ!」


 ハンドルから手を離し、サンダー50BMGを掴むと、シロウはそれをぶっ放した。

 正面から突っ込んでいくバイクから放たれた弾丸は真っ直ぐ飛んでいき、休眠しようとしていたジャバウォックをかすめた。

 もともと重傷を負っていた体だ。怒りを鎮めてとりあえず回復に務めようとしていたところへの攻撃だったため、痛みはなくとも十分に苛立ったらしい。


「ぐおおぉぉぉ」


 不細工なネズミのような歯を剥き出し、ジャバウォックは叫んだ。窪みのような目をギラつかせ、シロウを睨んでいる。


「……いいぞ! そうやって怒ってろ! 悔しかったら、俺を仕留めてみろ!」


 さらなる怒りを誘うように、シロウは大声で怒鳴りつけた。すると、その挑発にまんまと乗って、ジャバウォックは踏み潰してやろうというように激しく何度も地団駄を踏み、のしのし巨体を揺らしながら近づいてきた。


「――それでいい。終わりにしよう」


 ジャバウォックめがけて、バイクはさらに速度を上げる。タイヤが地面を噛んで、ギャリギャリと音を立てる。

 バイクの震動が、巨竜の足音が、傷口に響いて仕方がない。そのせいで余計にドクドクと血が流れているのではないかと思えるほどだ。

 けれども、血を流しているのはシロウだけではない。相手もだ。これは、ボロボロになった人間と病竜の一騎打ち。

 もうこれ以上速度が出ないだろうというところまで来て、シロウはハンドルから手を離した。四角い爆弾を手に立ち上がり、そのまま車体を蹴って大きく飛び上がる用意をする。

 バイクは向かっている。ジャバウォックも向かってきている。

 ジャンプが届くギリギリのところまで来て、思いきり踏み込んだ。


「いっけえェェェッ‼」


 走っているバイクのエネルギーを利用して、大きく大きく跳躍する。

 目指すは、血を流す竜の胸だ。アリサが鱗を剥がし肉を抉ったその場所に、爆弾を設置してやるのだ。

 宙に放り出されたシロウの身体は、放物線を描いてジャバウォックの胸元へと飛んでいく。胸の傷を眼前に捉えた。あと少し。もがくように風をかいて、シロウの手は傷口に届いた。

(やった!)

 達成感とともに、シロウは気づく。

(やっべ。どうやって固定しよう!?)

 爆弾を固定する術がないことに。どうせなら、アリサを行かせる前にガムテープか何かを出してもらえばよかったと後悔するけれど、もう遅い。

(それならそれで、こうするだけだ……!)

 手が離れる前に、シロウは爆弾のスイッチを押した。直後、ボコンッという爆発音と一緒に炎が上がる。

(ここで死んだら、俺は、どうなるんだろうな?

魂は、意識は、どこに行くんだろうな……)

 爆風に巻き上げられ、熱にジリジリと灼かれ、シロウはそんなことを考えた。ボロボロだ。焼かれている。でも、自分だけでなくジャバウォックの体も同じように、それ以上に粉々になっていくのを視界の端で捉えたから、もう満足だ。


「お前と心中なんて嫌だけど……アリサが元気になるなら、いいか……」


 元気に走り回る姿、制服を着て学校に行く姿、自由にどこまでも出かけて行く姿――アリサの望みが叶った姿を想像して、シロウの心は満たされる。できればその隣に自分がいるのが当たり前であってほしかったけれど、欲は言わない。


『献身的ってやつで、何かムカつくね』

「あ"っ!?」


 痛みも熱も何もかもなくなって、意識さえドロドロに溶けてなくなってしまうのだと思っていた、そのとき。

 神経に障る声がして目を開けると、真っ白な光に包まれていた。その光の中から声が聞こえる。

 声の主を探そうと思って目をすがめて、やめた。姿を見ずとも、声でわかったから。


『現実ではないところとはいえ、死にかけの気分はどう?』


 馬鹿にするでもなく、嘲笑うでもなく、淡々とした調子でルイは尋ねてくる。そのことに、シロウはカチンとした。


「気分もなんもないな。……何しに来たんだよ?」

『助けてあげようかと思って。好きな女の子のために命を賭けた君には、そのくらいのご褒美は必要だろ』

「助けるって、ルイが?」


 ルイの登場にも、その目的にも、シロウは全く納得がいかなかった。平気で見捨てそうとまでは言わないけれど、進んで助けてくれるとは思えない。


『はっきり言って、君のためではないよ。ただ、このまま帰り道もわからないままで、そのせいで君が寝たきりになったりしたら嫌だなって。アリサはきっと、目を覚まさない君を甲斐甲斐しく看病するだろうね。ずっと、付きっきりでね。何を眠り姫ぶってんの?って感じだろ。僕ならまだしも、シロウが眠り姫? 似合わなさ過ぎる。とにかく、そんなの嫌だからとっとと目覚めてくれるかな』

「……そういうことか」


 ルイの妙なこだわりというか嫉妬するポイントに辟易して、シロウは深い溜息をついた。


「何か複雑だけど、その申し出はすげえありがたいわ。で、どうやったら帰れるわけ?」

『あの道を真っ直ぐ行けばいいよ』

「それだけ?」

『それだけって、刻一刻とかすれて細くなっていく道を見てもなお、そんなことが言えるかな?』

「……げぇ!?」


 ルイに言われて周囲を見回すと、真っ白い世界の中でさらにひときわ輝く道があった。星の砂をまいたようなそのキラキラは、風に剥がされるように少しずつ細くなっていっていた。急がなければ、じきに見えなくなるだろう。


『今は走るための身体すら失ってるから、そんなシロウにプレゼント』


 ルイがきざったらしく言って指をパチンと鳴らすと、その瞬間、曖昧になっていた肉体と外界の境界線が取り戻された気がした。――しかし、視界に入った自分の姿にシロウは叫ぶ。


「おい! 何でウサギなんだよ!」

『君にぴったりだろ。ほら、早く行きなよ、シロウウサギ。君のアリスが待ってるよ』

「……っ、ありがとなっ」


 姿は見えないけれど、ウサギになったシロウを見て、ルイが笑っているのがわかった。でも、そんなことに構っている時間はないとわかるから、シロウはウサギの体で走っていく。

 シロウは走った。光の細い帯が続いていく道を。

 近づけばもっと濃く見えるかと思っていたのに、光の道は近づくほどに眩くて、走りながらも不安だった。今にも消えてしまいそうで、見失ってしまいそうで。それでももう、信じて走るしかなかった。

(アリサに看病されるとか、ちょっとおいしいけど……寝たきりになったら、絶対悲しむもんな)

 走るごとに、道はどんどん風化していく。さすがはルイがくれたチャンスなだけあって、意地悪だ。


『間に合ったとしても、目覚められるかは五分五分かな。あの子が、僕があげたヒントに気づけたらいいけど』


 後ろから含み笑いの滲むそんな声が聞こえたけれど、シロウは振り返らない。


「アリサー!」


 ただ前を見て、輝く扉に飛び込んだ。



 まるで水中から顔を出して慌てて息を吸い込むような感覚で、アリサは目覚めた。

 目に入るのは、見慣れた天井。白い、無機質な、何の飾りもない天井だ。

 起床に合わせて柔らかな明かりが灯されている室内を見回せば、ここが自分の病室だとわかる。


「服も、普通だ……」


 着ているものがいつもの水色の病衣なのに気がついて、ようやく安堵した。アリスモチーフのロリィタファッションでも、かっちりとした軍服ワンピースでもなく、よくも悪くも慣れ親しんだものだ。


「あ、シロウ!」


 覚醒して、ここが現実なのだと確認して、アリサは大事なことを思い出した。今このとき、何よりも優先しなければいけないことはシロウだ。


「お……」


 起き上がって、ベッドから足を下ろして床に足裏がついたとき、身体の軽さに驚いた。薬で痛みや怠さを取っているものとは違い、重りか何かでも取れたかのような軽やかさだ。

 その軽さこそが、目覚めるまで見ていた夢が、ただの夢ではない証拠だ。そのことを噛み締めて、アリサは急いでベッドの下を覗き込んだ。


「……シロウ? シロウ!」


 ベッドの下には、本当にシロウがいた。両手で抱えて引っ張り出して、無事なのがわかって安堵の溜息をつく。


「よかった。この身体は、傷ついてないのね」


 イヤホンを外してやり、手に持っていたタブレットも離させてから、ペタペタ身体を触って安心した。シロウは高校の制服の上にお気に入りのフライトジャケットといういつもの服装だし、血が滲んでいる様子もない。怪我は夢の中だけの出来事で、現実の身体には響いていないらしい。


「……じゃあ、どうして目を覚まさないの?」


 どこにも傷などないのに、シロウは起きる気配なく眠っている。ぐっすり眠っているというよりは意識がないとでもいう感じで、静かすぎて不安になる。


「シロウ。ねえ、起きてよシロウ」


 揺さぶっても頬を叩いても、シロウは目覚めない。瞼をぴくりとも動かさない。

 寝ているところを見られはしても、こうして寝顔を見るのなんてほとんど初めてのことだ。これがもっと何でもないときに居眠りを目撃したとかだったら、きっともっと楽しい気分になっただろうに。


「シロウ……やだよ」


 何か反応がほしくて、アリサはシロウの頬をつねった。オレンジがかった茶色の髪を引っ張ってもみた。それでもぴくりとも動かないから、悲しくなる。

 床に寝せたままなのが可哀想で頭を膝に乗せてみたけれど、整った顔との距離が近づいたぶんだけ、切なさが増した。


「起きないと、鼻つまんじゃうよ。口だって、こうやって指入れたり、いろいろしちゃうんだからね」


 言ってから本当に鼻をつまんだり唇に触れたりしているうちひ、アリサはふと、夢の世界を脱する直前に聞いた声のことを思い出した。


「……眠り姫」


 あれはきっと、ルイの声だった。そして間違いなく、何かを示唆する言葉だ。

(……これしか、方法がないのなら)

 何をすればいいのか理解して、アリサはそれを実行に移そうとした。けれども、それと同時に「でも」とか「まさか」という言葉が浮かんでくる。

(これやって起きなかったら、私、ただの変態じゃん。痴女じゃん)

 想像するだけで顔から火が出そうなほど熱くなってしまって、恥ずかしくてたまらなくなる。しかし、それとは対照的に触れているシロウの頬の冷たさが、アリサを冷静にさせた。


「ごめん。こんな形で、キスして。でも、起きてほしいの」


 意を決して、目を閉じた。それから、手探りで顔を近づけた。

 それは、不恰好なキスだった。目を閉じているから、自分の唇で探るようにしてシロウの唇を探し当てなければならなかった。端で見ている人がいれば、さぞ滑稽と思われただろう。

 でも、それはまさしく目覚めのキスだった。


「んっ……」


 唇が触れ合った瞬間、シロウの身体に熱が戻った。ぴくりと、指先が反応する。まるで、魂が今しがた帰ってきたかのように。


「シロウ!?」


 ゆっくりと薄目を開けるシロウに気づいて、アリサは飛び跳ねんばかりに驚いた。その驚きは、すぐに喜びに変わる。


「シロウ、大丈夫?」

「……アリサか。俺、帰ってきたの?」

「うん。……シロウのおかげだよ。身体、治ったよ!」


 シロウが目覚めたことで短くも長い夢の中での大冒険が無事に終わったことを実感して、アリサの中にじわじわと喜びが湧き上がってきた。嬉しくて、くすぐったくて、どこかに走り出してしまいたくて、その気持ちを抑えられなくてシロウに抱きついた。


「シロウ、ありがとう! 何度お礼を言ったって足りないよ!」

「わかったわかった。苦しいって」

「でも、いっぱいありがとうって言いたいんだもん!」


 ギュウギュウとしがみついてくるアリサの腕を、シロウは降参だというようにタップした。それからその腕を解かせ、なだめるように髪を撫でた。


「そんなにお礼がしたいって言うならさ、さっきの、もう一回してくれよ」

「さっきのって?」

「……ほら、さっき、キスしただろ? お礼なら、もう一回」

「え……」


 シロウにいたずらっぽい顔で見つめられて、アリサは顔を真っ赤にして固まった。眠っているときにキスしたのばかり思っていたのに、知られていたと思うとまともに顔を見ることができない。

 そんなアリサを見て、シロウも頬を染めながらニヤニヤした。

 しばらくすると、顔を上げたアリサと見つめ続けていたシロウの視線が交わった。

 照れたように目を合わせるそんなふたりの間に甘い空気が流れ始めた、そのとき――。


「グッモーニン! マイドーターアーンド、幼馴染のシロウくん!」


 病室のドアがスパーンと開いて、けたたましい挨拶とともユウダイが入ってきた。思わぬ人物の登場にアリサもシロウも驚いた。

 その驚きが収まり、頭が冷静になったところでシロウは慌てて荷物をまとめて病室から出ていこうとしたけれど、笑顔のユウダイがそれを許さなかった。


「ダメだよ、シロウくん。何を帰ろうとしてんの。今からキミ、検査だよ」

「えっと……あの、何というか夜通し大冒険してたんで、寝てたのに眠いっていうか。家に帰ってちょっと寝たいなあ……なんて」

「うちのアリサちゃんにチューをねだる元気があるなら大丈夫!」

「……はい。すいません」


 逃げようとしていたシロウの首根っこを掴んで、ユウダイは満足そうに笑った。ただの研究馬鹿になっているときのハイな様子とは違う黒い笑みに、アリサは苦笑いで返す。


「それじゃあ、シロウくんを連れて行くよ。アリサもあとで脳波とか測りにくるけど、先に担当の先生の診察を受けてね」

「うん、わかった」


 シロウを引きずって病室を出ていくユウダイが、ふと足を止めて振り返った。顎をさすり、何を言おうか考えているようだ。

 少しの間考えて、ユウダイは笑って口を開いた。


「とりあえず、お疲れ様。それから、おかえり」

「……ただいま」


 ユウダイに言ってから、ああ帰ってきたのだとアリサは思った。思えば、出かけることなどないから久しく口にしていなかった言葉だ。

 けれど、これからはたくさん言う機会があるだろう。この病室を出て、どこへだって行けるのだから。

 そんなことを考えて、アリサは笑った。

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