第5話②

 ***


「あれ……?」


 シロウの手が触れたと思った瞬間、彼の姿は目の前から忽然と消えてしまった。

 代わりに、世界は色を取り戻す。

 いつの間にか、森の中にいた。ぼんやりと遠くにあった景色の中にいる。


「シロウ?」


 呼びかけてみるも、返事はない。わかっていたことだ。先に行ってしまったとか、離れたところにいるとか、そういうことではない。


「まさか……」


 制服姿のままだけれど、あたりはアリスの世界の森のように見える。つまり、ルイの夢の庭に戻ってしまったということだ。

 それなら、シロウは異物として弾き出されてしまったのかもしれない。庭の主であるルイには、そういうことができるのだとシロウが言っていた。


「何で……もう、何でこんなこと……」


 たったひとり取り残されて、アリサは何だか泣けてきてしまった。

 悲しいとか寂しいとかではない。もっと複雑な感情だ。眠ってから――夢の世界に来てからいろいろありすぎて、キャパシティを超えてしまったのだ。

 この涙は言ってみれば、子供の癇癪に近いのだろう。眠たい、疲れた、まだ遊びたい、何もしたくない、などなど。両立しない様々な思いがせめぎ合ったとき、子供は泣く。

 アリサも頭の整理と感情が追いつかず、ゴチャゴチャになった状態で泣くしかなかった。

 アリスの物語に迷い込んで、植物に襲われて、シロウとはぐれて、子供の姿にされて、新女王として担ぎ出されそうになって。それから普通の高校生になって、授業を受けたり友達と遊んだりして。そしてシロウと再会して、またはぐれてしまった。

 わけがわからないまま流されているときはそんなに感じなかったけれど、それが夢だとわかるとどっと疲れる。夢なのに、どうしてこんなに目まぐるしいのだろうと言いたくなる。夢とは、こんなにも目まぐるしいものだったろうか。……長いことあまり夢も見ないで暮らしていたから、夢を見るという感覚を忘れてしまっている。

(それにしても、リアルだったな……)

 チカとホナミのことを思い出して、アリサの胸は少し痛んだ。申し訳ないという気持ちと、もっと一緒にいたかったという気持ちで。

 あの夢が何だったのかいまいちよくわかっていないけれど、妙に現実味があった。それに、ああして同年代の女の子たちと過ごすのは楽しくて、これが現実だったならと思ってしまった。

 シロウは、どこに行ってしまったのだろうか。まだ夢の中にいるのか、それともまた目覚めてしまったのか。もし目覚めたのなら、再び夢の世界にちゃんと戻ってきてくれるのか。

 このままシロウがいなくなったままで、ひとりになったらどうしようと考えてしまう。

 アリサのために頑張ってるくれていると知っているから、そんなことはないとわかっている。

 それでも、もしも……と考えてしまうのだ。もしもシロウがこのまま戻ってきてくれないのなら、夢の中に取り残されてしまうのなら、アリスの世界ではなくチカとホナミがいる世界がいい、と。

 あそこでなら、思い描いていた“普通”の高校生活を送ることができるから。

 ユウダイがアリサのために用意してくれた世界だ。だから、どこまでもアリサが望んでいたものに近いのだろう。

 でもきっと、それゆえに足りないと折に触れて思い知らされるに違いない。

 シロウがいないと、シロウがここにいればと。

 再びチカとホナミがいる世界で過ごすことを想像してしまったから、あのとき感じた以上の寂しさがどっと押し寄せてきてしまった。


「やだ……シロウがいないと嫌だ……何でまた、私をひとりにしたの……」


 しみ出るようだった涙が、堰を切って溢れ出す。もう、止めることはできなかった。

 泣いているうちに心細さは増していき、涙がポロポロこぼれるごとに自分の身体が小さくなっていく気がする。

 自分という存在が涙になって、どこかへ流れていってしまうような感覚。その涙で、そのうちに沈んでしまいそうだ。


「……え!? ……うっぷ……!」


 それは、気のせいではなかった。

 いつの間にか、アリサは水の中にいた。流されている。

 慌てて何かに掴まろうと周囲を見回せば、森の木々が見たこともない巨木に変わっていた。でも、しばらく流されているうちに気がついた。木が大きくなったのではなく、自身が小さくなったのだと。

(どうして? どうしよう? ……アリスの物語では、アリスは涙の川を泳いで渡るんだったよね?)

 ネズミと並んで泳ぐ挿絵を思い出して、アリサは悲しくなる。こうして物語の中に放り込まれてすら、ひとりぼっちだ。一緒に泳いでくれるネズミはいないし、岸にたどり着いてもコーカス・レースをして身体を乾かす仲間もいない。

 わけがわからなくなって泣いてしまったのに、身体が小さくなってその涙で溺れてしまうという、さらにわけのわからないことになってしまった。もう、正直言って泣いてしまいたい。でも、泣けば水位はさらに増すだろう。

 だから、アリサは泣くのを我慢した。ただ流されているままなのは癪だから、泳ぎの真似事もする。

(もう、泣かない。泣けばもっと溺れるし、シロウが見たら驚くだろうし。シロウは優しいから、私の涙が嫌いだもの)

 幼馴染の少年と再び出会うため、アリサは必死で手を動かし続けた。体育の授業などほとんど出たことがないから、泳ぎ方なんて知らない。でもそれは、泳がずに流されるままになって溺れる理由にはならなかった。

 シロウが今どこにいるのかわからないけれど、必ずもう一度会うのだ。

 シロウは、アリサのためにいろいろしてくれた。同じ夢に入るために、病室のベッドの下に身を隠すなんてことまでしてくれた。ユウダイの研究論文なんかだって、おそらく普通に手に入れたわけではないだろう。きっと、アリサには到底思い至らないようなことを、たくさんしてくれたに違いない。

 アリサの病気を治すために、こんなにも必死になってくれるのはシロウだけだ。そんな人の手を離してはいけない。

 今度こそシロウと手を繋ぐために、アリサはひたすら手を動かし続けた。


「う、わ……!」


 落ち葉に押され、小枝に引っかかり、それでも何とか泳いでいたところ、突然何者かに腕を掴まれた。

 アリサの身体は、ざぱりと水の中から引き上げられた。そして、気がつけば小舟の上にいた。


「……ルイ……!」

「待って。警戒しないで。大丈夫、君を傷つけたりしない」

「……」


 紳士然としたフロックコートを身に着けたルイが、焦ったようにアリサを引き留めた。ルイが焦るのなんて珍しい。たぶん、初めて見る姿だ。その物珍しさから、アリサは小舟を下りるのを思い留まった。


「……傷つけたりしないって言っておきながら、こんなことするんだ」

「こんなことって、着替えさせただけじゃないか。濡れたままでいるわけにはいかないでしょ」

「……まあ、そうだね。ルイとコーカス・レースをすることもできないし」


 シンプルで可愛らしかった制服は、真紅のベルベットのワンピースに変わっていた。襟や裾、袖口にいたる様々な場所にアクセントとして黒いレースが施されている。少し大人っぽい雰囲気の、でも堂々たるロリィタファッションだ。

 この赤色が意味するところを考えて、まだ油断ならないなとアリサは思った。


「もしかして、その服は気に入らない? やっぱりアリスは水色とかピンクとか、可愛い色が好きなのかな。嫌なら、別の服に変えることもできるけど」

「いい、別に。服を変えるついでに、子供の姿にされたら困るし」

「そんなことはしないよ……今のところは」


 困った顔で笑って、ルイは小舟を漕いだ。小舟は滑るようにして、小さな川を移動していく。


「シロウがどこにいるか知ってる? ルイがやったの?」

「いきなりだなぁ……僕とゆっくりおしゃべりしようとか、考えてくれないのかな」

「考えない。今はシロウがどこにいるかのほうが大事」


 正面からしっかりとルイを見据えて、アリサは言った。

 ルイのペースに飲み込まれないようにしなければと思っているのだけれど、いつも飄々としていたはずの彼は、今はなぜかうろたえている。


「はっきり言うなあ。アリスはいつも、あいつのことばっかりだ」


 ルイは目に見えてしょんぼりする。でも、アリサはそのことに心を動かされたりはしなかった。


「そんな怖い顔して見ないでくれよ。……僕は知らない。何もしてないよ。でも、今僕の夢の中にいないのは間違いない」

「そう……やっぱりいないんだ」

「それって、そんなに困ること?」

「困るよ。シロウがどこにいるのか、無事なのか知りたい。私のために頑張ってくれてるシロウが危ない目にあってるんじゃないかって思うと、すごく嫌だ」


 はっきりと、迷うことなく答えるアリサに、ルイは一瞬面食らった顔をする。でもそれは、すぐに傷ついた顔に変わった。


「頑張ってるって……僕だって頑張ってるつもりだけどな。君がいつ来てもいいように夢の庭を維持してる。ちょっと意地悪しちゃったけどさ、君がここにいることを選んでくれたら、もっと楽しませるためにいろいろする。だから、ずっとここにいてよ」


 ルイはその端正な顔を悲しげに歪めて、懇願するように言う。


「ここは、君がいないと完璧じゃないんだ。不思議の国にアリスがいないなんて変だろ? それに、僕ひとりでは維持しきれないし、これ以上の広がりがない。でも、君さえいてくれたらどんな世界にでも変わっていけるはずなんだ。またここで一緒に楽しく遊ぼうよ、僕のアリス」


 ルイの言葉から必死さが伝わってきて、アリサは苦い気持ちになった。

 年上で大人びていると思っていた彼の、この子供じみた懇願。アリサにいつまでも子供でいてほしいと願うのは、彼自身が成長できていないからではないか――そんなことを思ってしまうと、憐れにすら感じてくる。

 でも、その憐憫の情で彼と一緒にいることはできない。それは、彼の手を取る理由にはならない。


「……私は、ルイくんのアリスにはなれないよ」


 やっとのことで、アリサはそう口にした。どう伝えようかと悩んだけれど、誘いを断るのはどのみち相手を拒絶し、傷つけることになる。それなら、はっきり言うしかないと思い至った。


「アリスが嫌なら他の物語でもいい。外の世界にいるより、ここにいたほうがずっといいだろ? 病気に苦しむこともない。学校の先生とか嫌な大人にいじめられることもない。関わる価値もないような、君に悪意を向ける人間と接点を持たなくてもよくなる。ここのほうが、君にとって幸せに決まってるじゃないか! 何でそんなこともわからないんだ!?」


 小舟は流れに従って、ゆるやかに川を滑っていく。水面は日の光を受けて、金色に輝いている。

 そんな穏やかな景色の中、切実に訴えてくるルイは異質だった。

 かつてルイはこの夢の庭において、絶対的な存在で、そして唯一のものだったはずなのに。今はただ理想の少女に追いすがる、ひとりの繊細な青年にすぎない。


「ルイくんが私のことを思って留まるよう言ってくれてるのは、わかった。でも、私はここにずっといるわけにはいかないんだ。シロウのこともあるけど、私自身の気持ちとして、夢の中じゃなくて現実で生きていきたいの」


 アリサの言葉に、ルイは何も言い返しては来なかった。呆然としている。断られるとは、拒絶されるとは、思っていなかったのだろうか。

 幼いときから、ルイはアリサのことを同志のように思っていてくれた節がある。内に籠りがちなことろがある彼と病弱なアリサは、通じる部分があるのは確かだ。人間に嫌気がさしているというところは、間違いなく共通していた。

 けれども、人間に嫌気がさしつつも外の世界への好奇心を持ち続けるアリサと、自分の世界にひたすら向き合い深めていこうとするルイとでは、求めるものに決定的な差があったのも間違いない。

 アリサはそのことを早々に感覚で理解したけれど、ルイは未だに受け止めきれないのだろう。舟を漕ぐことをやめ、ただ遠くを見つめている。


「ごめん。もう、行くね」


 アリサは、ルイが握りしめたままにしていたオールを手にした。見かけより重いし、どう動かせばいいのかわからない。

 それでも何とか小舟を岸に寄せ、立ち上がった。

 同情や憐憫でルイのそばにはいられないから。止まった時の中で彼と一緒に生きることはできないから。

 アリサが行くべき場所は、シロウのそばだ。だから、シロウを探しに行くことにした。

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