第5話①

 失敗した、とシロウは思った。

 夢の世界――現実ではないところへ意識を繋げることはできたけれど、今度は何もない虚空に放り出されてしまったようだ。

 暗い。真っ暗だ。目は開けているはずだから、ここには光がないのだということがわかる。

 どんな闇の中にあっても、多少は何かを感じるはずだ。意識して目蓋を閉じれば、開けているときの違いを確かめることができる。

 でも今は、瞬きを繰り返そうとも、何の変化もなかった。


「クソッ……だめなのか!」


 腹立ち紛れに叫んでみて、声が聞こえたことにほっとする。これが音すら飲み込む空間だったと考えると、全然笑えなかった。


「……やっぱり、アリサがいないとだめなのか……」


 一度めに夢の庭へと入れたのはアリサのおかげだったのだろうかと、シロウは考えた。

 一度めの侵入のときは、まずアリサを眠らせてから――つまり先に夢の庭へ送り出したあとだった。

 アリサの居場所がルイの夢の中に確保されているだろうと思っていたから、昔と同じように“呪文”で眠らせれば向こうに行けると踏んでいたのだけれど、果たしてそれは正解だった。

 アリサの存在が確定したことで、シロウも彼女と同じ方法で夢の庭へ飛ぶことができた。

 でも今は、どこでもないところを彷徨うことになってしまった。もしかすると、夢の庭の主であるルイに拒まれているのかもしれない。

 運が良ければアリサを避難させた場所に飛べるかと考えていたものの、やはりそんなに甘くはなかったということだ。

 ゲームでいうなら今の状態は、ログインできていないということだろう。というより、今アリサがいるところへ行くためのアカウントやデータがないといったところだろうか。

 シロウはアリサに付き合って、オンラインのゲームをいくつかやっている。そういったゲームはまず始めるときに、アカウントを取得し、それに紐付ける形で名前や容姿などの設定をサーバー上に保存するのだ。そこにアクセスすることで、ゲームの世界へ行くことができる。

 つまり、ルイの夢の庭には幼い頃に作ったアカウントが残っていたからアクセスできたということなのだろう。そして、今アリサがいる場所へ行けないのは、アカウントがないからに違いない。


「アリサが気づいてくれたらなあ……」


 言ってから、シロウはふと不安になった。

 今いる夢が心地よくて、アリサが目覚める気にならなかったらどうしようと考えてしまったのだ。

 ユウダイがアリサのために用意したものは、彼女が生きるための第二の世界だ。どんなところかはわからないけれど、娘がそこで生き直すことを想定しているなら、楽しくない場所にするわけがない。

 楽しいところなら、もしかしたら夢だと気づかないかもしれない。気がついても、目覚めたいと思わないかもしれない。

 そうなったとしたら、もしアリサが目覚めなかったら、シロウはどうなるのだろうか。……自力で目覚めることができずアリサの病室のベッドの下から昏睡状態で目覚めるなんてのは、勘弁願いたい。


「あいつの制服、見たかったな」


 生き直しの世界ならきっと、アリサは学校に行っているだろう。元気であれば、シロウと同じ高校に行きたかったとよく言っていたから。

 そのことを思い出して、アリサの制服姿を想像して、シロウは何だか悲しくなった。

 このまま何もない虚空に浮かび続けることよりも、アリサの姿を見られないことのほうがつらい。アリサがシロウを忘れて、夢の中で暮らしていくことがつらい。

 そんなことを思ってしまう自分に気づいて、シロウは悲しくなった。

 病気を治してやるために、何でもすると決めたのではなかったのか。一瞬でも、自分も一緒にいられるのなら夢の中でもいいんじゃないかと思ったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。

 そんなことはだめだ。だめに決まっている。

 ユウダイもルイも、現実の世界でアリサを助けてやる気などない。現実で活路を見出すことなどとうにあきらめて、夢の世界に救いを見出そうとしている。

 それなら、誰がアリサを現実につなぎ留めてやれるのだろう。誰が現実で彼女を救ってやれるのだろう。シロウがあきらめたら、誰もいなくなってしまう。


「――アリサ、俺を呼べ! そしたら、どこへだって飛んでいってやる!」


 虚空に向かってシロウは叫んだ。

 半分は本気、半分は虚勢だ。

 でも、叫んでいるうちに、本気の度合いが増してくる。本当に、アリサのところへ飛んでいけそうな気がする。


『シロウ』

「――!?」


 どこからか声が聞こえた気がした。あまりにもアリサのことを考えすぎたせいで聞こえた幻聴かもしれない。

 それでも、シロウは耳を澄ます。


『シロー!』


 間違いない。アリサの声だ。

 アリサの声は、さほど遠くないところから聞こえてきた。それによってわかったのは、シロウはだだっ広い虚空に浮かんでいるのではなく、どこか狭い、限定的な空間にいるということだ。

(それなら)

 シロウは声がしたほうへ、思いきり身体をぶつけてみた。

(ここから)

 手応えがあった。

(出ればいいだけだ!)

 何度かぶつかっているうちに、唐突にその硬い障壁にひびが入り、綻びが生じ、崩れ落ちた。

 そこから射す光めがけて、シロウは飛び出していく。


「アリサ!」

「シロウ!」


 光の向こうに、驚きに目を見開くアリサを見つけた。彼女をやや見下ろす高さにいることから、宙に空いた穴から飛び出したことがわかった。

 アリサが呼んだからか。どこへだって飛んでいってやると言ったからか。

 シロウの身体はアリサへと引き寄せられた。アリサもまた、シロウのもとへと走り寄ってきていた。

 ふたりの手と手が触れ合う直前、アリサが背後を振り返った。


「……またね」


 そこには、シロウの知らない少女が二人。誰だろうと思う間もなく、アリサと手が触れ合った瞬間、光に包まれた。


「うわっ……と」


 今度は、真っ白な空間だ。そこへ移動した直後、浮遊感がなくなり、シロウの身体は落下しそうになった。何とかアリサが受け止めようとしたけれど、細くか弱い少女の腕ではかなわない。

 ふたりまとめて、真っ白な地面に転がってしまった。


「……制服、似合ってるな」


 慌ててアリサの上から起き上がったシロウは、少し悩んでから言う。

 本当は、もっとたくさん言いたいことがあった。けれども、いざアリサを、紺のブレザーとチェックのプリーツスカートに身を包んだアリサを前にしたら、まず似合っていると言わなければと思ったのだ。

 それを聞いたアリサは、恥ずかしそうに笑う。


「何かね、夢……だったのかな。さっきまで夢を見てて、いきなり教室の中で目覚めたの。制服着て高校なんて行ったことがないのにね、目が覚めたら制服着てて、友達がいて、授業受けてて、放課後はショッピングモールに行ってたの。さっきまで、クレープ食べてたんだよ」

「お前……そういうことやりたいって、言ってたもんな」


 嬉しそうに、はにかみながら言うアリサに、シロウは胸が少し痛んだ。余計なことをしてしまったのではないかと、そんなふうに思ってしまう。

 でも、そんなシロウの思いを察したのか、アリサは笑顔で首を振る。


「楽しかった。すごく憧れてた、普通の高校生活だったから。でもね、ずっと足りないなって気持ちもあった。シロウがいなかったから。……私、シロウとそういうことしてみたかったんだ」

「アリサ……」


 アリサの言葉は、シロウの不安を溶かすには十分だった。そして、決意を新たにさせる。


「それなら、用事を済ませて帰ろうな。アリサはここで、病気を倒して帰るんだ。元気になって帰って、たくさん遊びに行こう」


 勢いよく言うシロウに、アリサは感激したように何度も頷いたけれど、少しして困ったように首を傾げた。


「あのさ……ここはどこなの? 私たち、寝てるの?」

「ここは……どこだろうな。寝てるのは確かだ」

「もしかして、シロウが催眠術をかけたの?」

「催眠術といえば、催眠術だな。ほら、小さいときにルイの夢の中に入るときにあいつが唱えてた呪文みたいなの。あれが夢の中に入るためのキーだと思って、やってみたんだ。あいつみたいな能力ないから、アリサのオヤジさんの研究を利用したんだけど……」


 アリサの顔がどんどん困ったものになっていくのに気づいて、シロウは悩んだ。

 本当だったら詳細を伏せて、まるでゲーム感覚で事を済ませるつもりだったのだ。

 夢の世界はRPGのフィールド、アリサはプレイヤー、そしてシロウはナビゲートキャラとしてアリサにストーリーを追いかけさせ、道なりにミッションをこなしてラスボスを倒して現実ひ戻ればいいと、そう考えていた。

 でも、思いのほかイレギュラーばかり起きているし、懸念していたとはいえルイの妨害も激しい。アリサが夢の世界に少し不満を持っただけで異物として弾き出そうとしたのなんて、予想外だ。


「……そうか。ここなら話せるのか」


 このまま事情を伏せたままなのは無理で、どうアリサに説明したのかと考えたとき、シロウはひとつのことに思い至った。

 アリサに事情を話せなかったのは、ルイの夢の庭でそんな会話をすれば異物として弾かれると考えたからだ。それに、ルイはアリサのことは歓迎しても、シロウに対してはそうではないとわかっていたから。

 でもおそらくここは、ルイの夢の庭ではない。ユウダイがアリサのために作っている世界のまだ未開発な部分か、ゲームでいうところのコリジョン抜けした状態なのだろう。


「実はさ、俺たちが一番最初にいたとこ、あれはルイの夢なんだよ。あいつの夢の中って現実と違って望めばある程度のことはできるから、そこでならお前の病気を治せるんじゃないかと思って……」


 シロウは順を追って説明した。

 ユウダイの夢の領域についての研究の話に始まり、その中でルイの能力の利用や研究の目的、意義、そしてそれを横から拝借してアリサの“治療”に役立てようという今回の計画について。

 シロウも畑違いだし、アリサにとっては全く未知の領域だ。だからところどころ話はボヤッとしたものになる。その上、シロウの悪事と変態行為については伏せているため、時々アリサは解せないという表情をする。

 それでも、何とか大体の事情を理解してもらうことはできたようだ。


「あの……じゃあ、夢の中で会ったルイは本物なの?」

「ああ、本物だ。あいつは俺たちのように夢の中で意思を持ってる存在だ。というより、俺たちより強いだろうな。意思も、力も」

「そっか……」


 ルイにされたことを思い出したのか、アリサは不安そうに自分の肩を抱いた。何をされたのかシロウは知らないし、聞く気にもなれない。でも、八歳くらいの姿にされたのを見るだけで、十分すぎるほどルイへの嫌悪は募る。


「それで、この夢から自主的に出る方法っていうのはあるの? ほら、ゲームでいうところのログアウトみたいな」

「……いや、ない。俺はさっき、ルイに弾き出されて一旦目が覚めたけど、別に目覚めるための手順とかはオヤジさんの研究に書かれてなかったな。普通に目が覚めるもんだと思ってたんだけど……」

「ルイが私たちを夢から弾き出せるなら、逆にずっと閉じ込めておくこともできるのかなって……」

「それは……」


 思ってもいなかったことを指摘され、今度はシロウが不安になる番だった。

 ルイのことだから、シロウをとっとと夢から追い出してしまうだろう。でもアリサのことは……きっと手放したくないと思っているに違いない。そう考えると、ゾッとする。


「で、でもさ、アリサの場合は朝になったら検温とかで看護師さんが来るだろ? そのとき起こしてもらえるだろうし、もし起きなかったら家に連絡が行くだろ。そしたら、オヤジさんがどうにかしてくれるんじゃないか」

「そっか、お父さんなら気づくか」

「問題は……俺だな」


 アリサを安心させたものの、シロウは自分の状態を思って頭を抱えたくなった。昏睡状態になるのも恐ろしいことだけれど、それよりも自力で起きられず発見されたときのことを考えるほうが怖い。


「あのさ、もしアリサのほうが先に目が覚めたら、俺のこと起こしてくれるか?」

「いいけど、電話かけるしかできないから、シロウの家族が気づいて起こすほうが早くない?」

「いや、電話じゃなくて、直接。すぐ近くにいるから」

「どこ?」

「……お前のベッドの下」


 アリサが赤くなった顔を両手で隠すのと、羞恥に耐えかねたシロウがそっぽを向くのは、ほぼ同時だった。シロウとしてはできたら隠しておきたいことだったし、アリサとしても明かされたところでコメントしづらいだろう。

 しばらくの間、ふたりの前にはただ沈黙が横たわっていた。


「もうしょうがない! 絶対に帰ろう。失敗とか、そういうことは考えない感じで! 私もシロウも自力で起きるの。そうじゃないと、ベッドの下から見つかったりなんてしたら、シロウ、出禁だよ……」

「お、おう。そうだな」


 アリサの口から出禁という言葉を聞いて、シロウは俄然やる気になった。というより、背筋を伸ばすしかない。


「昔、ルイの夢の中で怖いものに追いかけられたときみたいに、ああいったものが現れたら倒せばいいんだよね? それが、敵を倒すってことよね?」


 アリサもやる気になったらしく、勢い込んで言う。


「そうだな。というよりあれはルイが出してたわけじゃなくて、アリサが怖いと思うことによって出てきてたと思うんだ。だから、アリサがここで『病気を倒す』と決めたら、そういうのがうまいこと現れるはずだ」

「……何かテキトー。ふわっとしすぎじゃない?」

「最初はどんな技術でもそんなもんだろ! 飛行機だって、まだ解明されてない部分があってもちゃんと飛んでるくらいなんだからさ!」

「ま、いっか。じゃあ行こう。あっち、うっすらとだけど道が見えてきた」


 決意が固まったからか、真っ白だった世界にぼんやりとではあるが景色が浮かんできた。まるで霧に包まれているようで周囲全体を見渡せるわけではないから不安ではあるものの、進むしかない。


「そうだ、シロウ。手を繋ごう」

「うん、いいよ」


 張り切って一歩先を歩いていたアリサが振り返る。てらいもない様子で差し出された手を、シロウは握り返そうとした。

 でも、それはできなかった。


「……え?」


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