第4話②
***
「……ハァ……ハァ……」
激しく呼吸を乱して、シロウは目覚めた。心臓は激しく脈動し、全身汗をじっとりとかいている。
それなのに頭はどこかぼんやりとしていて、覚醒しきった自信が持てない。まるで高熱で寝ついたときの真夜中のような自分だ。ここがどこなのか、自分が誰なのか、束の間わからなくなる。
「……やばいな……本当に、現実に戻ってきちゃったのか……」
手探りで左手首のスマートウォッチを操作して手元を明るくした。そうすることで、自分の今いる場所を確認する。そして、目覚めた拍子に思いきり上体を起こさなくてよかったと思う。そんなことをしていたら、ベッドの底板に頭を強打していただろう。
「これじゃあ、ルイのことを変態だなんだって言えねえな」
ベッドの下から這い出しながら、自分のこの行いを客観的に見たときの変態さ加減にうんざりした。面会時間以降をやり過ごしてこの病室に居続けるためとはいえ、幼馴染女子の眠るベッドの下に潜んでいるだなんてあんまりだ。
今のこの状態を誰かに見咎められたら、弁解のしようがない。問答無用で変質者の烙印を押されてしまうだろう。
いくらアリサのためとはいっても、こういうのはフェアではない気がする。シロウのことを友達と思っていたとしても、一気に信頼が揺らぐ行為だ。わかっていつつも、これ以外の方法が今は見つからなかったのだけれど。
今夜、シロウはある計画を実行するために、面会時間を過ぎてからも病室に残る必要があった。そのために、十七時過ぎには病室を出たように入退室記録を改竄したし、病院の廊下やエントランスのカメラの映像もちょちょっと弄った。入退室記録でもカメラの映像でも、シロウはすでに病院から出ていったことになっている。
これでシロウが今ここにいることは誰も知らない。ベッドで眠る、アリサさえも。
こんな犯罪スレスレ――いや、犯罪そのものな行為をしてまで病室に残ったのは、すべてアリサを救うためだ。
アリサをここではない、どこか遠くに連れ出してやるために。もう夢見ることを忘れた彼女に、もう一度夢を見せてあげるために。
『ねえ、シロウ。遠くに行きたいね。うんとうーんと遠くへよ』
シロウは幼馴染のアリサが、目を輝かせてそんなことを言うのが好きだった。可愛いから。そして何より楽しそうだから。
親が知人というだけで引き合わされたときは正直、仲良くできる気がしなかった。質の悪いことにシロウは自身が子供であるにも関わらず子供が嫌いだったし、さらに女児が苦手だった。
話が通じないし、行動が予測できないし、女児にいたっては自分の要望や横暴を貫き通すために泣く、というのがシロウの、自分以外の子供に対する評価だった。
けれどアリサは、そんな子供ではなかった。
こちらが話しかけなければ不必要に話しかけない、気を引こうと無意味に音を立てたり叩いたりしない、そしてシロウが好きなものを否定しない、そんな子だった。
試しにと思ってお気に入りのモデルガンのカタログを見せると、アリサはただじっくりと眺めた。「変なの」とか「これのどこがいいの」なんて無粋なことは言わず、黙ってシロウの好きなものを受け止めてくれた。
思えば、こんなふうにシロウのことを丸ごと受け止めてくれるのは、家族以外ではアリサが初めてだったのだ。
それ以降、シロウはアリサのことを見直した。というより、初めて友達と認めた。
アリサもそうだったらしく、お気に入りの絵本を見せてくれるようになったし、そのうちお姫様や可愛い生き物の絵本ばかりでなく恐竜や働くクルマの絵本もラインナップに加わるようになった。男の子といえば恐竜とクルマだろうというのを安直だと思ったものの、それを自分と一緒に読みたいとアリサが思ってくれたのが嬉しかった。
そうやって丸ごと自分を受け入れてくれ、嬉しいことをしてくれるから、アリサはシロウにとって大切な人になった。
それから、ずっと一緒だった。幼稚園も、小学校も。
アリサは何かと僻まれていじめられやすいタイプだったから、守ってやるのが大変だった。けれど、それすらも誇らしいと思っていた。身体さえ丈夫であれば、きっとシロウの助けなんて必要としなかっただろうから。
それに、アリサを守るヒーローだというのは、シロウにとって大事なことだった。
教師や母親は時々シロウの激しい性分や行動を持て余して問題児扱いしようとしていたけれど、アリサのヒーローだという自負が、シロウの心を守ってくれている。それは、ずっと変わらないことだ。
可愛いアリサを守るのが、気がつけばシロウの使命だった。
アリサは可愛い。身体が弱く、あまり日の光を浴びられないせいか肌は白く、長い睫毛に縁取られた目は大きく、ちょんとした鼻や小さな口が人形じみていて愛らしい。
でも、可愛いお人形さんなだけでないところが、シロウは何より好きだった。
可愛い見た目に反して、アリサは好奇心旺盛だ。気も強い。遠くを見ようと木登りをしたがったし、シロウに負けたくないとむきになってかけっこや運動をしたがった。シロウの父が洋凧(カイト)を与えたときは、自分で走って揚げられないことを悔しがって泣いた。
神様なんてものがいて、そいつがもし愛らしい顔の代わりに丈夫な身体をアリサに与えていたら、きっともっと魅力的な女の子になっていたに違いない。
そう思うからこそ、シロウはアリサの病気が憎かった。
ウイルスによって身体の指揮系統が奪われ、激しい痛みや怠さに苛まれる病――シロウはまだ幼い頃、アリサの病気を両親からしう説明された。原因のウイルスは特定されていてもまだ治療法は確立しておらず、痛みを抑えるなどの対症療法しかないのだということは、成長するに従って理解した。
その病は身体が弱ると症状がひどくなるため、常に元気でいることが大事だった。身体を動かして疲労すると、痛みと怠さに苦しめられ、浮腫や手足の強張りと闘わなければならなかった。
そのせいで、アリサは思いきり走ることも遊び回ることもできない。病気が、彼女の持つ本来の活発さを封じ込めてしまっていた。
それでも、まだ幼い頃はよかったのだ。
いつの頃からか、アリサは夢を語らなくなった。遠くへ行きたいと、言わなくなった。
中学校へはあまり通うことができず、高校は治療に専念するという名目で通信制のところへ進むことになった。そういう進路が決まったあたりから、目に見えて元気を失くしていったように思う。
そして、全日制の高校に通うことになったシロウとは、進路が分かれた。離れ離れになるのは、出会ってから初めてのことだ。
それでも、シロウはせっせとアリサに会いに来た。彼女の入院している最新鋭の病院は研究都市の中にあって少し遠かったけれど、週にニ三度は電車に乗ってやって来ていた。もっと気軽に通えるようにと、原付バイクの免許を取ることもした。
そうしなければ、大事なアリサとの繋がりが切れてしまいそうで嫌だったから。シロウが手を伸ばし続けなければ、きっとアリサはシロウを諦めてしまうのは目に見えていた。それが、怖かったのだ。
アリサは病気のせいでいろんなことを諦める癖がついてしまった。でも、健康でわがままなシロウはアリサの代わりに諦めないことを選んだ。
そのことをアリサも彼女の母も感謝してくれているけれど、その繋がりにしがみついているのはむしろ自分なのだと、シロウは知っている。
守るべきものがあるからこそのヒーローだ。
だから、アリサを病気から救ってやりたいと思ったのだ。医学がやっとのことでアリサを“今”に繋ぎ止めておくことしかできないのなら、自分が彼女に“未来”をあげるしかないのだと。
アリサを救うために人殺し以外何でもしようと決めてから今回の決行まで、本当にあっという間だった。
アリサの父ユウダイの研究データにハッキングしてしっかり読み込んで、研究概要を理解したあとは決行日の病院の入退室記録を書き換えるためのプログラムを用意して……と、実際には時間も労力もかかったけれど。アリサを自由にしてやれるのだと思えばどうということはない。
この計画は、ユウダイが夢の領域の研究に力を入れていると聞きたときに、まるで天啓のように降りてきたのだ。おそらく、アリサと一緒に子供の頃、“夢の庭”で遊んだことがあるシロウだからこそひらめいたことだ。
アリサの従兄のルイは、他者の意識を自身の夢の中に引き込むことができる不思議な力を持っている。
そのほとんど魔法みたいな、奇跡のようなものに、ユウダイは脳科学の見地からアプローチして、アリサの治療に役立てようと考えているのだ。
とはいえ、それは治療というよりも“生き直し”だとシロウは研究を読んで感じていた。ユウダイはルイの夢の庭をもとにした新たな世界を構築し、そこにアリサの意識を移送して元気に過ごさせようと考えているようだ。アリサの他にも身体が動かせず生活に支障をきたしている人や、眠ったまま意識のない人のための利用も検討しているらしい。
つまり、現実世界で生きるのが難しい人たちのために、仮想空間の中に新たな人生を提供しようという試みだ。そこで学び、遊び、生きることがアリサたちの幸せだろうと考えての計画なのである。
でも、シロウはこのユウダイの考えは夢の庭の力を十分に活かせていないと考えている。なぜなら、夢の庭では望めばある程度のことは叶えられてしまうから。それを活かさないなんて、わざわざ夢に潜る意味などない。
夢の庭では、空を飛びたいと思えば飛べたし、イルカのように泳ぐことも、獣のように速く走ることだってできた。「夢見る力がそれを叶える」とルイは言っていたから、おそらく強く望み、信じることが大切なのだろう。
ということは、信じれば夢の中でアリサは病気を治せるはずなのだ。夢の庭で病魔と戦って、無事に打ち倒して帰還すれば、アリサは健康な身体を手に入れられるはずなのだ。
そのひらめきに突き動かされて、シロウは今日まで走ってきた。
「イヤホンよし、薬剤のアンプルよし、アリサの位置捕捉よし」
もう一度ベッドの下に潜ってから、骨伝導イヤホンを耳に引っ掛け直し、首にアンプルを刺す用意を整え、手元のタブレットを見つめた。
ルイの妨害を受けて存在を遮断されてしまう前に慌てて一旦避難しようとしたときに、シロウは誤って覚醒してしまったのだ。でも、その直前にアリサを別の場所へ逃してやることができたのはよかった。そこはたぶん、ユウダイがアリサのために用意した空間だ。おそらく、そこはルイに感知されていないし、干渉もされないはずだ。
その代わりに、たぶんユウダイには観測されている。今シロウが使っているアプリも、ユウダイの研究データから拝借して利用しているものだ。アプリ上には簡単な地図のようなものと、その中を移動する点が表示されている。この点は、アリサがいるところを示しているのだろう。
ユウダイがこの点をリアルタイムで見ているとしたら、シロウの侵入にも気づかれているに違いない。泳がされているのか、見逃されているのか。後者だと信じて祈るしかない。
シロウはタブレットを操作して、数字の羅列を表示させる。黒い画面に蛍光色の文字が光る、視神経に障る画面だ。そして、スマホからはセットしておいた自分の声をイヤホンに飛ばす。
視覚と聴覚から神経細胞へ働きかけて、夢の庭へと意識を飛ばすのだ。
ユウダイの研究データに書いてあった通りにやっているだけだ。祖父、父から続く工学畑な脳みそのシロウにはさっぱりで、見様見真似で魔法を発動させるような気分になる。
実際に、シロウの今やっているのは魔法という神秘の領域に力技で踏み込んでいるようなものだ。そのせいで魔法使いには嫌われ、野蛮呼ばわりされた。
(クラッキングに不法滞在に薬品泥棒に幼馴染のベッドの下で一晩過ごす……か。犯罪者で変態じゃねえか)
自分の状況を客観視して、シロウは自嘲した。でも、たとえ変態と罵られようとも、犯罪者として捕まったとしても、アリサを救えるのなら構わないと思っている。そのくらいの覚悟をした。だからこそ、反吐が出そうなほど嫌いな男の夢に潜るなんて真似までできたのだ。
『それは黄金の昼下がり、気ままにただようぼくら……』
首に鎮静剤のアンプルを刺し、イヤホンから流れる自分の声に耳を傾けるうちに、シロウの目蓋は落ちていった。
夢の庭へ飛ぶことをイメージして、祈る。
向こうへ行ったら、時計を手に入れなければならない。それからアリサと合流して、彼女の敵を倒さなければならない。
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