第4話①
ガクンと身体が落ち込むような感覚がして、アリサは慌てて頭を振った。
まるで眠りに落ちるような感覚だった。自分は眠っていたのだろうかと目を開けてみて、アリサは驚いた。
クスクスとした忍び笑い。からかうように見つめてくる複数の瞳。おそろいの制服に身を包んだ少女たち。
そしてそれらを収めているのは、整然と小さな机の並ぶ四角い箱のような空間。
自分のいる場所が学校の教室なのだとわかって、アリサは混乱した。
なぜ、学校になどいるのだろう。意味がわからない。他の子たちとおそろいの制服を着て、机に向かっているなんて。
身につけているのは、紺のブレザーにチェックのプリーツスカート。
こんな服装ではなく、ここではないどこかにいた気がするのだけれど、意識に霞がかかったようにぼんやりしていて、思い出せない。
でも、とりあえず見られているのが恥ずかしくて、立てた教科書の陰に顔を隠した。
「アリサー。さっきの何だったの?」
授業終了を告げるチャイムが鳴って教師が出ていった途端、二人の少女がニヤニヤ笑いを噛み殺しながらアリサのもとにやってきた。
すごく親しい、打ち解けた人の笑顔だ。でも初対面のはずのその少女たちのフレンドリーさに、アリサは戸惑う。
「……えっと……ここ、どこ?」
親しげな二人に対してこんなことを聞くのは、すごく変だということはわかっている。けれども他の人に尋ねるのはもっとおかしいだろうし、すぐにでも確認したいことだった。
少女二人は一瞬目を丸くして、それから顔を見合わせて大笑いした。どうやら、アリサが冗談を言ったと思ったらしい。
「ちょっと、寝惚けてる? それとも、記憶喪失ごっこ?」
髪をお下げに結った少女が、アリサの目を覗き込んで言う。
「もしかして、『ここはどこ? 私は誰?』とか言い出しちゃう? そんなの流行んないよー」
そう言ってアリサの肩を叩くのは、ショートボブの少女だ。
(……友達、なんだろうな。わからないけど)
アリサはぼんやりする頭で考えるけれど、何も思い出せないしわからなかった。目が覚めたらここにいた気がするものの、自分が眠る前までどこにいて、何をしていたのかが思い出せない。
頭が変になってしまったのかと不安になる。
「え? 本当に忘れちゃってるとか言う? 自分の名前はわかる?」
「アリサ」
「名字は?」
「オノデラ」
「じゃあ、あたしの名前は?」
「……」
ショートボブの子に矢継ぎ早に聞かれ、アリサは答えに窮した。思い出せないのではなく、やはり知らない気がする。でも、そんなことは言い出せそうになかった。
「ちょっとちょっと! 何があったか知らないけど、友達の名前は忘れないでよね! あたしはチカ」
「私はホナミだよ」
「チカと、ホナミ……」
アリサが呟くように言えば、活発なチカもおっとしたホナミも安心したように笑った。二人を安心させることができて、アリサも何だかホッとする。
「三人ともー。今から移動教室だよ」
「あ! そうだった。アリサもホナミも行くよ!」
クラスメイトのひとりに声をかけられ、チカが慌てて自分の席に戻って荷物をまとめた。ホナミもそれに倣う。
「美術の教科書とペンケースね」
「う、うん」
チカに言われ、アリサも机の引き出しを漁って用意する。それから、出入り口で待ってくれていた二人と合流して廊下を歩きだす。
「確かさ、今描いてる絵って今日の授業中に完成させて提出しなきゃなんだよね?」
「そうそう。できなかったら放課後までねばって描いて出しなさいってよ。でも、今日の放課後はみんなで遊びに行くんだから、絶対居残りはなしだからね!」
チカに笑いながら肩を叩かれ、アリサは曖昧に頷いた。
「さすがに今日のアリサがぼーっとしてるとはいえ、描き上がるでしょ。だって友達の顔だよ?」
そう言ってホナミが自身を指差すから、今描いているものがクラスメイトの肖像画なのだとわかる。描いた記憶がないから、自分のぶんがどれだけ進んでいるだろうとアリサは気になった。遊びに行く約束にも覚えがないけれど、居残りは嫌だなと思う。
「あ、ちょっとやばいよ! 走ろう!」
時間がないことに気がついたチカが走りだした。ホナミもそれに次いで走りだす。置いていかれないように、アリサもあとを追った。
(こういうの、久しぶりだ)
授業と授業の合間の休憩が短いこと。理科室や美術室への移動教室のとき、ちょっと億劫だし焦るけれど楽しいこと。渡り廊下を歩くときの何だか特別な気分や、そこから見える景色。
「あ……」
渡り廊下のガラスの向こうの青空を見て、アリサの胸がかすかにざわついた。何かを思い出しかけたような、懐かしいような、そんな感覚。
「アリサー。置いてくよー」
「え、待ってー」
でも、その感覚が何だったのかと考える前に。それはシャボン玉のようにパチンと弾けてしまった。
古い油とか埃とかインクとか、そんなものが混じり合った空気が満ちる教室の中に、シャッシャと鉛筆を動かす音が響いている。時々、ひそやかなおしゃべりの声と笑い声も。
きっとこれがいつもの授業中なら、もっとおしゃべりの声は大きいのだろう。けれど教室が課題の提出日だから、みんな真面目にやっているに違いない。
アリサは自分の前のイーゼルに立てかけたスケッチブックを見つめて、どこをいじろうかと考える。スケッチブックの中のホナミはほとんど完成していて、もうあまり描き足すところがない。
(髪のツヤを描こうかなあ)
ホナミは見事な黒髪で、お下げに結っていてもツヤツヤとしている。それを何とか紙の上に表現できたらと思って、アリサは試行錯誤してみることにした。
「アリサ、何してんの? さっきからめちゃくちゃ眼球動いてんだけど。ちょっとじっとして」
「ごめん。ホナミの髪のツヤを表現きたくて、スケッチブックとホナミを交互に見てた」
「何それ。見せてー。え、すご!」
忙しなく動いてしまったお詫びにスケッチブックを見せると、チカは目を丸くした。
「ホナミの髪のきれいさがめちゃくちゃよく描けてるよ。このツヤの線みたいなの、どうやってやったの?」
「えっとね、消しゴムの角でスーッて消すの」
「やってみよ! ……って、消しゴムがなーい」
自分のペンケースを漁って慌てるチカを見て、アリサもホナミも笑った。消しゴムなしでどうやって今まで絵を描いていたのだろうか。
(消しゴム、もうひとつあったらいいんだけど……)
アリサは自分のぶんは貸せないからもうひとつあればなあと、ダメ元でペンケースをゴソゴソしてみた。すると、まるで自己主張をするかのようにコロンと消しゴムが転がり出てきた。
「チカ。私、消しゴムふたつあったからひとつどうぞ」
「ありがとー!」
「アリサもチカと、急がないと授業、残り半分切ってるよ」
「やば!」
消しゴムの受け渡しを済ませて、チカとアリサは自分のスケッチブックに向き直った。都合よく二つめの消しゴムが現れたことは不思議だ。でも、課題の提出のことを考えると、その不思議に拘泥している余裕はなかった。
それから三人は黙々と鉛筆を動かし続けた。そしてチャイムが鳴る直前に描き上がったそれぞれの絵を見せ合って、感心したり笑ったりした。
出来栄え云々よりも、無事に描き上がったことが嬉しい。その達成感と喜びを分かち合うのは、何だかとても心地よくて、久しぶりに思えるその感覚をアリサは噛み締めていた。
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