第3話②

「パイを盗んだのは、ハートのジャックである!」


 アリサが裁判所に到着したとき、ちょうど訴状が読み上げられていた。読み上げているのは、白いウサギだ。たぶん、これがアリスの物語でアリスが追いかけていた白ウサギ。

 ウサギの高らかな宣言のあと被告人席へと引き立てられてきたのは、ひとりのトランプ兵だった。でも、彼の体に描かれているのはスペードが四つだ。

 ハートでもなければ、ジャックですらない。


「この者は、女王が一日かけて作ったパイを丸ごと持ち去ったのだ」

「違います! そもそも自分はハートのジャックではありません!」

「静粛に! 被告人に今、発言は認められていません」


 ウサギの言葉にスペードの四は必死に反論するも、裁判官によって封じられてしまった。

 こんなくだらない茶番なのに、裁判としての体は保とうという姿勢にアリサは苛立った。


「異議あり!」


 アリサはありったけの大声で叫んだ。あの日声に出して言えなかった代わりに。



 あの日の学級裁判を遮ったのは、またしてもシロウだった。


『誰が犯人だなんだって言う前に、いっぺん真面目に探してみろよ。それこそ各班に分かれてさ。いつまでこんな馬鹿げたことに時間使うんだよ。同じ時間使うんなら、みんなで探すほうがケンセツテキってやつだろ』


 シロウの発言にぱらぱらと拍手が上がり、やがてクラスのほとんど全員が拍手することになった。誰かを評価するとき、賛同の意思を示すとき、みんなで拍手しましょうと担任が定めたクラスのルールだ。

 結局その空気に飲まれて班に分かれて探して、その盗まれたというものは発見された。本人はそこに置き忘れたのだと言い張ったけれど、見つけた人曰く、明らかに隠してあったということだ。おそらく、騒ぐだけ騒いでアリサに罪を着せたら、さっくり回収して帰るつもりだったのだろう。

 肝心の失せものが見つかってしまったせいで、学級裁判はうやむやになって終わってしまった。それでも最後まで意地悪女子も担任も、謝ることはなかった。そのせいでアリサもおとなしい女の子も罪を着せられずに済んだけれど、気持ちはすっきりしなかった。


 今思い出して何より嫌だと思うのは、自分の無実も、とばっちりを受けたおとなしいクラスメイトの潔白も、あのとき主張できなかったことだ。おかしいことをおかしいと言えなかったことは、他人に傷つけられたことより心に深く残ってしまう。

 それを晴らすために、今こそ叫ぶ。


「異議あり! こんな裁判、間違ってる!」


 アリサの声に、裁判所内はざわついた。傍聴人席や被告側のいる場所より高い位置にいる女が、立ち上がってアリサを睨みつける。


「誰だ! その小娘をつまみ出せ!」


 怒りに歪んだ顔で叫ぶ女の頭には、金ピカの冠が引っかかっている。つまり、この女が赤の女王ということだ。

 赤の女王の顔は、あの担任にも、意地悪な女子にも似ていた。とにかく、アリサのこれまでの人生の中で出会った悪意にまみれた人たちの顔に。


「嫌だ! つまみ出されない! 私は赤の女王のしてることが間違ってるってわからせるまで、絶対にここから立ち去らないから!」


 女王の指示で走り寄ってきたトランプ兵たちが、アリサの啖呵にびくりとして足を止めた。アリサにまっすぐな視線を向けられ、戸惑うように視線を泳がせる。

 これまで強烈な恐怖によって支配されていたから、それとは別の強い意思を前にしてどうしたらいいかわからなくなったのだろう。それがわかるからこそ、アリサの怒りは倍増する。


「そもそも、誰かを裁くときにはきちんと手順を踏むべきでしょ? パイが盗まれたっていうんだったら、まず警察とかしかるべき機関が捜査をして、それで犯人と思しき人間を探し出して、その人が犯人たる証拠を揃えて、それで裁判するのが筋ってもんじゃないの? それに、犯人はハートのジャックだなんて言っておきながら、連れてきてるのは違う人じゃん! 仮にハートのジャックが犯人だったとしても、ここにいるのが別人なら裁判として成立してないでしょ! そもそも起訴すらできない! こんな茶番、さっさと終わりにして!」


 アリサが正論をぶちまけると、あたりはしんと静まり返った。けれどすぐに、ほうぼうから声が上がる。


「そうだそうだ! こんな裁判、無効だ!」

「ちゃんとハートのジャックを連れて来いよ!」

「パイが盗まれたってこと自体、でっちあげじゃないのか!」


 これまでの不満と怒りが一気に噴出したように、いろいろな声が上がる。まだ声を出せずにいる人たちも、頷いたり手を叩いたりして意思表示をしている。


「うるさい! 黙れ! 今口を開いた者たちの首を刎ねろ!」


 女王も負けじと叫ぶけれど、すべての人々の口を封じることはできない。トランプ兵たちは、どうすればいいのかと顔を見合わせている。


「大体、何かあるとすぐに首を刎ねるっていうのもどうかと思う! 何の権限があってそんなことしてるの? 何のために? 女王って、国を治める人よね? 国って、そこに暮らす人たちあってのものなのに、その人たちを簡単に殺して、恐怖で抑えつけてるなんてどうなの? あなたの機嫌で首が飛ぶような世界で、法もルールもないようなものじゃない。それなのに裁判なんて、本当におかしいよね。そんなおかしなことをする人が国のトップに立ってるのって、間違ってるよ!」


 怒りのためか、叫んだ興奮からか、アリサの身体は震えていた。今になって恐怖を感じたというのもあるだろう。

 間違っているとわかっていても、それを力を持つものに訴えるのは勇気がいる。立ち向かうのと暴虐に耐え忍ぶのとでは、後者のほうが楽だと思えてしまうこともある。

 アリサもまた、トランプ兵たちのように心に深く恐怖を植え付けられているのだ。 

 上に立つ者の邪智暴虐によって、当たり前の日常や平穏は簡単に奪い去られてしまうという恐怖を。

 あの学級裁判が誰のことも裁くことができずうやむやに終わった日からも、担任は変わらずクラスを支配し続けた。到底達成できない目標も、それに伴う連帯責任制もなくならないどころか、より過酷なものに変わっていった。

 誰も声を上げることができず、かといって子供の心がそんな理不尽に耐えられるはずもなく、一人二人と学校に来なくなった。クラスの半数近くが登校拒否をはじめてようやく学校側が事態に気づいて対処するまで、つらい日々は続いた。

 担任は突然の病気休養という形でいなくなってしまったから、結局アリサは自身の力で何かできたわけではない。そのせいで、未だに恐怖心を克服できないでいる。


「女王を退位させろ! あの女に王位は相応しくない!」


 人々が好き勝手に女王を糾弾する声でざわめく中、ひと際大きな声で誰かが叫んだ。

 啖呵を切ったはいいけれどどうしたらいいかわからず胃を痛めていたアリサは、その叫びによって場の流れが変わったことを察知した。

 一人が言い出したことをきっかけに、女王の退位を望む声が次々に上がる。けれども、それらの声に別のものが混じっているのをアリサは聞いた。


「アリスを次期女王に!」

「勇気ある彼女こそ女王に相応しい!」

「ここで声を上げた彼女の行動を讃えて王位を!」


 最初は数人のものだったそれらの声は、徐々に膨らんでいき、やがて裁判所中に響き渡るような大合唱になる。

 思わぬ話の流れの変化に、アリサは足が竦んだ。

 女王降ろしが、いつの間にかアリサを神輿に乗せる流れに変わっている。

(……何これ。変な感じがする)

 新女王を望む声の熱気は、どんどん増していく。一体どんな顔をして人々は叫んでいるのだろうと思って周囲を見回して、熱狂する人々の中に思わぬ人物の姿を発見した。


「……ルイ」


 ルイはアリサを見つめて、優雅な笑みを浮かべている。周囲の熱狂とは明らかに違うその様子に、アリサはゾッとした。


「アリス。僕の女王」


 人々の叫びにかき消されることなく、ルイの囁きが耳に届く。甘く優しいのに、ねっとりまとわりつく声。

 嫌だと思うより先に、意識の中にするりと入り込まれてしまった感覚がある。ルイの声は、蛇のように、触手のように、絡みついてくる。


「口車に乗せられるな!」


 身体の自由を奪われるかと思ったとき、誰かが大声で言った。

 裁判所内に転がり組んでくる小さな影。その頭に長い耳がついているのを見て、アリサはその正体に気がついた。


「シロウ!」

「アリサ、ルイの言葉に耳を貸すな! 仕組みに取り込まれるぞ!」

「きゃっ」


 ようやくシロウを発見し、彼に駆け寄ろうとするも、突然アリサの身体はふわりと浮かび上がった。


「ねえ、アリス。不思議の国のアリスの物語は嫌い?」

「……っ!」


 ルイにお姫様抱っこされていることに気がついて、アリサは声も出せないほどに驚いた。

 ルイはアリサを抱えたまま、高く高く上昇する。いつの間にか裁判所の屋根はなくなり、二人の身体は空高く上っていく。


「アリスのお話が嫌なら、白雪姫はどう? 君が姫で、僕が君を目覚めさせる王子様だ。眠っている君に優しく口づけてあげる」


 アリサの怯えに気づかない様子で、ルイはうっとりして言う。アリサが断るなんてことは、まるで考えていないようだ。


「ルイ、離して」

「アリスは恥ずかしがり屋だね。でも、恥ずかしがらなくていいよ」

「違う! そんなんじゃない! 離してよ!」


 アリサはルイの胸を必死になって殴るけれど、子供になってしまった小さな拳では、大した痛みを与えられない。


「お兄ちゃんを叩くなんて、アリスは悪い子だね。だめだろ、僕のアリス」


 グッとルイに顔を近づけられて、アリサは目を逸らそうとした。目を見たらまずいと咄嗟に気がついたのだ。

 けれど、金縛りにあったかのように身体が動かない。目を閉じることさえ、もうできなくなっていた。


「アリス、怖がらないですね。僕にすべて委ねて? ここでなら、僕は君を幸せにしてあげられる」


 ルイは吐息がかかるほどの距離でそう囁く。じっと目を覗き込まれ、アリサは身構えた。狂気の瞳に見つめられるのが怖くて。それなのに、そこにあったのは切実さを滲ませる目だった。


「アリサを離せ! このクソロリコン野郎が!」


 思わぬルイの表情にアリサが戸惑っていたところに。

 何かが、シュッと空気を裂いてアリサの顔のすぐ横をかすめた。

 声と何かが飛んできたほうを見ようとそちらに視線をやると、眼下にはシロウがいた。


「お前にアリサが救えるか! 汚い手で触るんじゃねえ!」


 シロウはオレンジ色のパチンコを引き絞り、ルイに向かって小石を飛ばす。きっとあれは、ニンジンを削って作ったのだろう。この世界では、武器はすべてオモチャかニンジンになってしまうから。


「相変わらず、野蛮なやつだな」


 飛んでくる小石を浮遊したまま避けながら、ルイは苛立ったように片手を振る。するとフォークとナイフが出現し、空を切ってシロウめがけて飛んでいった。


「うわっ……ぶねーな! どっちが野蛮だよ!」


 シロウは身体を仰け反らせ、すんでのところでナイフを避けた。そして再び、パチンコを構える。

 キンキンキンキンッ!

 シロウが小石を飛ばす。ルイがカトラリーを放つ。

 激しくぶつかり合う音に、アリサは気が気ではなかった。

 シロウはアリサを気にして大した威力もない小石での攻撃しかできないのに、ルイは強気だ。本気でシロウを傷つけようと、放つ武器の数を増やしていった。

 必死で避けてはいるものの、無数に飛んでくるナイフやフォークの何本かはシロウのウサギの毛皮をかすめ、毛を撒き散らさせていた。


「もうやめて! 放して! シロウ! シロー、逃げて!」


 もう見ていられなくてアリサは必死にもがいて逃げようとするけれど、体格差の力の差がありすぎてうまくいかない。むしろ、抱える腕にさらに力を込めさせてしまった。


「……何でいつも、あいつの名前ばっかり!」


 ルイは吐き捨てるように呟いて、宙にかざした手を二度三度大きく振った。

 ヒュンヒュンッ!

 勢いよく飛び出したフォークとナイフが、意思を持ったかのようにシロウを貫こうとする。スピードも違う。今までとは比べものにならないほど、殺気がこもっている。


「当たるか、バカ!」


 ウサギのシロウは、それらの軌道を読んだかのように素早く避ける。そして隙を見て、ポケットを探る。


「もう容赦しねえ。――頭撃ち抜いてやる!」


 シロウの手の中に、何かがキラリと光る。それは、お気に入りのコルトパイソン。


「昔から夢に実弾(リアル)を持ち込むから、君のことは嫌いだったんだよ!」


 シロウが銃を構えたのを見て、ルイは焦ったようにカトラリーを出現させた。数十本のそれらを高速で回転させ、盾のようにする。いざとなったら、攻撃に転じることもできる構えだ。


「そんなんで、防げるか、よ!」


 シロウは地面を強く蹴って、宙へと飛び上がった。そしてそのまま大きく腕を振りかぶり、手の中のパイソンを勢いよく投げる。

 パイソンはクルクル回って、鋭い放物線を描き、まるでそれそのものが武器のようになって飛んでいく。そしてカトラリーの盾を超え、アリサを離さないルイの額に、ガツンとぶつかった。


「うっ」

「シロー!」


 ルイの力が緩んだ隙に、アリサは腕から逃れた。でも、今まで宙に浮いていたのだ。落ちるのはわかっていたけれど、シロウを信じて飛ぶ。


「アリサ、来い!」


 落下予想地点に向けてシロウは走り出した。アリサも腕を伸ばして、宙を泳ぐようにもがく。


「……人の夢に上がり込んで好き勝手するなんて、本当に行儀の悪いやつだな!」

「――!?」


 あとわずかでシロウの広げた腕の中に飛び込むと思ったとき。アリサの身体はまたグッと宙に戻された。

 すぐ背後に、ルイがいた。

 怒りに燃える目でシロウを睨みつけるルイの言葉に、アリサは驚く。

 けれどルイの手に大きな鎌が握られているのを見て、驚きよりも恐怖が上回った。


「シロウ、逃げ」「僕の夢からさっさと出ていけーッ!!」


 ルイが大きく腕を動かし、鎌を振るう。鎌はシロウの身体を乱暴に薙ぎ払っていく。


「いや―!」


 なす術なく刃の餌食となるシロウを見ていられず、アリサはギュッと目を閉じた。

 そこでブツンッと意識は途切れた。

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