第3話①
一旦もと来た道を引き返してそれから再びシロウを追いかけようと思っていたのに、お茶会のテーブルから遠ざかって森の中に入ると、景色は様変わりしていた。
水辺のほっそりとした木々の森だったものが、何だかにぎやかなキノコの森に変わっている。
赤地に白ドットのザ・毒キノコ、シメジのような形なのに真っ青なキノコ、茶色の地味なキノコなのに黄色の糸で編んだレースのドームをまとっているようなもの、白くてころんとした形なのに棘のような突起に覆われているようなもの。
とにかく、森を埋め尽くすのは派手なキノコばかりだ。しかもそれが手頃なサイズなのではなく、どれもアリサと並ぶほどの大きさなのだ。
キノコはただそこにあるだけで、何もする気配はない。けれども存在感が尋常ではないほどあるし、キノコが好む土質のためしっとりとして歩きにくい道が続いていて何となく油断ならない。
湿気をたっぷり含んだ道を歩くこと自体気持ちのいいものではないのだけれど、アリサはこういうふかふかの土の下にいる生き物のことを考えて気持ちが萎えていた。
「こういう大きなキノコの上にいるんだよね……会いたくないから早くこの森、抜けなくちゃ」
顔をしかめたアリサが頭に思い浮かべているのは、水煙草をくゆらす大きな芋虫。
物語の中でアリスは芋虫から重要なアドバイスをもらうけれど、アリサは別にいらないかなと思っている。
というより、無理だ。いろいろ苦手なものはあるけれど、中でも虫が本当に苦手なのだ。今歩いている足の下の土中に何か虫がいると思うからずっと鳥肌が立っているし、自分の身体と同じ大きさの芋虫と対峙するなんて考えたら卒倒しそうになる。
それに物語の中でアリスはうんと小さくなってしまったからこそ、大きくなるための方法を探して芋虫と出会うことになる。今のアリスはルイのせいで子供になっているだけで、小さくなっているわけではない。
だから芋虫なぞ探さず、なるべく早くこの森を抜けるつもりだ。キノコの森には、用はない。用はないというより、できれば長居したくない場所だ。だから、足早に黙々と歩き続ける。
「わあ、すごい」
しばらくジメッとした森を歩き続け、気がつくと小高い丘に出ていた。
眼下に広がるのは、見事な庭園だ。
広大な敷地の中に、整えられた生け垣が迷路のように続いている。生け垣によって分けられた各区画には、それぞれいろとりどりの花が植えられている。
庭はどこまでも続いているように見えるけれど、きっと奥には大きなお屋敷なりお城があるのだろう。
どのみちシロウを追いかけるにはこの丘を下らなければならないからと、アリサは庭園を目指すことにした。
庭園がきれいに見下ろせたほどだ。丘はなだらかに見えても、結構な高さがあった。そこから真っ逆さまに落ちたらと思うと、少し血の気が引ける。
アリサは身を屈め、腰を落とし、慎重に斜面を下っていった。
けれども――。
「うっ、わぁーっ!」
足を草の根に引っ掛けて、身体がつんのめってしまった。アリサはそのまま、ボールのように坂を転がり落ちていく。
これが十六歳の身体ならまだマシだったのだろうけれど、子供の小さな身体はよく跳ねる。いつの間にか斜面に対して横向きになってしまった身体は、何にも阻まれることなくゴロンゴロンと転がっていく。
「あっ、うっ、い……やー!」
草をちぎり、土埃を巻き上げ、転がるアリサは勢いを増す。どうにかどこかに引っかかろうと思うけれど、空と地面とが高速回転する視界では、何も掴めない。
アリサにできることといえば、恐怖を軽減するために叫び続けることだけだ。
こんなことは初めてだ。転んだら痛いことは知っていたけれど、坂を転がり落ちることがこんなに痛くて怖いことだなんて知らなかった。
そしてついには何かにぶつかって、ようやく止まることができた。
「ぎゃっ!」
「わあっ! ……ああ……」
アリサがぶつかって悲鳴を上げると、ぶつかられたほうも叫び、そして絶望したような声を漏らした。
「……あの、ごめんなさい……」
大変なことを仕出かしてしまったのだとわかって、アリサは恐る恐る身体を起こした。
目に入ったのは四角い身体をした人物と、散乱したペンキ缶だった。ペンキ缶の中身は赤色。それが散乱した地面は、さながら何かの事件現場のようになってしまっている。
「ああ、大変だ。ハートの女王に殺される」
「ただでさえ間に合うわけなかったってのに……ああ……」
四角い身体の人物――トランプ兵は二人いた。二人は頭を抱え、憔悴しきっているように見える。
「もしかして、白いバラを赤のペンキで塗ってるんですか?」
不思議の国のアリスの物語の中では、女王に首を刎ねられることを恐れたトランプ兵たちが、追いつめられてバラを塗っていた。この展開は、間違いなくそうだろう。
「ああ、そうだ。そんなに赤が好きなら最初から赤のバラを植えればいいのに、こうして俺たちひ塗らせるのが楽しいから白バラを庭師に植えさせてるんだ」
「違う。あの女は赤が好きなんじゃない! 血が好きなんだ! だから、俺たちの首を刎ねること前提で無理難題をふっかけてくるんだ……」
「どのみち五が逃げ出したんだから、俺たちもどうせ連帯責任で首を刎ねられるんだよ! 今さら! 何をやったって無駄なんだ!」
もう絶望しきっているのか、トランプ兵たちは刷毛を手にすることもない。間に合わないにしても必死に手を動かすものではないのかと思ったけれど、そんな気にならないほど心を折られているのだということにアリサは思い至った。
アリサにも覚えがあった。
世の中には、恐怖や焦燥で人の心を操り、支配下に置くことを生き甲斐にする人間というのがいるのだ。
アリサの小学校中学年の頃の担任が、まさにそういう人間だった。連帯責任が好きで、罰を与えるのを何よりの喜びとしていた。
班を作り、ちょっとした目標を設定し、それが達成できなければ罰を与えるのだ。最初の頃は、一週間無遅刻無欠席を目指そうとか忘れ物ゼロを目指そうとか、そんな健全な内容だった。
それが徐々にエスカレートしていき、『班員全員で漢字テスト満点を目指す』や『長縄跳び連続百回を目指す』といったものに変わっていった。
それらを達成できなければ、できるまで帰らせてもらえない。当然、漢字を覚えることも縄跳びも向き不向きがあるため、苦手な者がいる班はいつまで経っても帰れない。
そんな連帯責任制の日々の中で生まれるのは助け合いの心ではなく、相互監視による険悪な雰囲気だ。足を引っ張る者はおのずと決まってくる。そういった者は他の班員につらく当たられるようになり、厳しく叱責されるようになり、自信を失い萎縮して、ますますできないことが増えていく。
担任の中年女性教師はそんな殺伐なクラスを危ぶむどころか、大いに楽しみ、嬉々として目標と罰を与えていった。
目の前のトランプ兵たちを見て、アリサの脳裏には当時の嫌な記憶が蘇った。
「ねえ、そんなに絶望してるなら、逃げたらいいんじゃない……? 律儀にバラを塗ることも首を刎ねられることもないと思うんだけど」
絶望して、もうどこにも退路がないと思っている様子のトランプ兵二人にアリサは声をかけた。ぶつかってペンキをぶちまけてしまった立場としては、そのせいで彼らがあきらめて殺されてしまうのは何だか嫌だった。
けれど、二人は揃って首を振る。
「だめだ。この世界に逃げ場なんてない。みんな女王に首を刎ねられたくないから、こぞって密告するんだ」
「敵は女王だけじゃない。みんな自分は助かりたいから、自分の身代わりに誰かを差し出す。命を少しでも永らえさせようと思ったら、何か女王が楽しめるような娯楽を差し出せばいいってみんな気づいたんだよ。そうやってお互いがお互いに潰し合うことすら、女王の楽しみだ」
「そんな……」
うなだれる二と七の札たちの言葉に、アリサは絶句した。でもその直後、理不尽に対する憤りが沸々と沸いてくる。
「間違ってる! そんなの絶対におかしい!」
自分の中の感情が抑えられず、アリサは思わず叫んでいた。
「女王って国を治める人だよ? そんな立場の人が自分の楽しみのために国民を殺してるなんて、許されるはずがない!」
小学生の頃の担任にぶつけられなかった思いと女王への怒りがないまぜになって、アリサを激しく突き動かす。他人からおとなしいと評される顔に、はっきりと怒りの表情が浮かんでいる。幼馴染のシロウはアリサが内面は活発なことも決して気弱ではないことも知っているけれど、そんな彼にも見せたことがない表情だった。
「ねえ、女王はどこにいるの? 私、文句言ってくる!」
トランプ兵たちの答えを聞いた途端、アリサは走り出していた。
トランプ兵たちに言われてアリサが向かったのは裁判所。
女王は首刎ねだけでなく裁判も好きで、しょっちゅうくだらない罪状で誰かを訴えているらしい。ちなみに今日は、女王のパイを盗んだ犯人を訴えるのだという。
(くだらない! ……でも、訴えられたほうはたまったもんじゃないよね)
女王への怒りが募ると共に、アリサの脳裏にはまたも嫌な記憶が蘇っていた。
『犯人はオノデラさんだと思います!』
帰りの会の最中に響き渡る、よく通る声。
声の主は、シロウに恋心を抱き、アリサのことを嫌ってせっせと嫌がらせをしてくる女子のひとり。
その女子が、自分の私物がなくなった、誰かに盗まれた違いないと、帰りの会で言い出したのだ。
昼休みに使って、教室に帰ってくるまでは確実にあった、掃除の時間に盗られたと思う、などと事細かに説明していた。
学校に不要なものを持ってくるのが悪いのに一体何の茶番だ、なんて思っていたら突然名指しされ、アリサは心底驚いたのを覚えている。でもそのときは、特に焦りは感じていなかった。
『どうしてそう思うんですか?』
学校に不要なものを持ってきていたことを咎めず、担任に女子に尋ねた。その真面目ぶった顔つきの下にほくそ笑むような表情を見つけて、アリサはまずいと気がついた。
突然始まった学級裁判に、担任は新しい楽しみを見出したらしい。
『オノデラさんは、あたしたちが遊びの仲間に入れてあげないから、僻んで盗ったんだと思います』
担任が面白がっているのに気がついたようで、女子は得意げな顔で言う。
アリサがまずいと思ったのは、この女子が担任のお気に入りだからだ。性根がねじくれた同士で気が合うのか、その女子はアリサに対する嫌がらせをはじめ問題行動が多かったけれど、担任はほとんど不問としていた。
『そうね……確かにオノデラさんは素直に「仲間に入れて」と言えないところがあるかもね』
担任はそう言って、女子の発言を肯定した。つまり、アリサを犯人だとする部分も含めて女子の言い分を認めたということだ。
アリサにとっては、到底許容できることではなかった。そもそも盗んでなどいないし、女子たちの仲間に入れてほしいなどと思ったこともない。それなのに僻んでいるだとか素直になれないだとか、言いがかりをつけられては黙っているわけにはいかなかった。
けれど、アリサより先に口を開いたのはシロウだった。
『アリサの家は金持ちなんだから、そんなことするわけないだろ。人から盗るなんて発想、あるわけないじゃん。それに、誰が嫌がらせするようなやつと遊びたいと思うんだよ。「仲間に入れてあげない」とか「素直になれない」とか、アリサが仲間に入りたいって前提で話すな』
シロウの言い分はもっともで、女子も、担任ですらもぐっと黙るしかなかった。
アリサの家が比較的裕福だというのを大きな声で言われるのは居心地が悪かったけれど、仲間に入りたがっていないというのは周知の事実だ。それに意地悪な女子に爪弾きにされても困らない人間関係が構築されているのも、クラスの誰もが知っている。
『じゃあ、一体誰が盗ったんでしょうね』
シロウの発言によって気まずくなった空気の中、まるで仕切り直すかのように担任は言った。こんな状態でも、まだ学級裁判を続けようというのだ。
いたぶり足りない、ということだろう。
ここで引き下がるわけにはいかないと思ったのか、意地悪な女子が顔を真っ赤にして次に名指ししたのは、クラスの中で若干存在を持て余し気味の、おとなしい女子だった。シロウの発言に発想を得たらしく、名指しされたのはあまり裕福ではない子だ。
指差され、震えるおとなしい子。新たなターゲットを見つけてほくそ笑む担任。
もう何年も前のことなのに、こうして記憶を反芻するだけで何とも言えない苦々しい気持ちになる。
折り合いをつけて心の中にしまっていたつもりだったけれど、単に嫌すぎて記憶に蓋をしていただけだったようだ。
女王に対しての怒りと激しい嫌悪は、確実にあの担任につけられた心の傷も影響している。
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