第2話②
ルイ。オノデラルイ。
父方の従兄で、アリサの四歳上。
黒髪に黒目の整った顔をした少年で、ルイは会ってすぐアリサのママのお気に入りになった。
両親の仕事の都合でイギリスで生まれ育ったという彼が日本に帰ってきたのは、十一歳のとき。
知的でおとなしく面倒見の良いルイのことを、アリサのママはアリサの子守役としてだけではなく、ひとりの少年としてひどく気に入ったらしい。
ことあるごとに彼を自宅に呼んだり、アリサと一緒に彼の家へお邪魔するようになったり、とにかく交流を持ちたがった。
「アリサとルイくんってお似合いよね」
いつしか、お気に入りの美少年と自分の娘がうんと仲良しにならないかと、気の早い夢まで見るようになった。
そんな夢見がちな母親に付き合うつもりはないのだけれど、アリサもすぐに従兄のことを好きになった。
出会ったのは七歳のときで、小学生になっていくらか世界は広がっていたものの、その頃も一番の仲良しはシロウだった。そういうアリサにとって歳上の穏やかな遊び相手というのはなかなかに刺激的で、仲良くするのは楽しかった。
その頃のアリサとシロウのハマっていた遊びは、おとぎ話の世界観を模した人形遊びとスパイ映画や西部劇の真似をした銃撃戦が融合した極めて過激なものだった。
ルイはさすがにその前代未聞のごっこ遊びに加わってはくれなかったけれど、代わりに新しい世界を二人に提供してくれた。
それは、物語の世界。それまでお話といえば絵本か簡単な内容の児童書しか知らなかったアリサたちに、ルイは様々な物語を読み聞かせてくれたのだ。
古い難しい言葉遣いで書かれたものや、まだ翻訳されていない海外文学など、その日の気分に応じて読んでもらえるものは違った。でもいつも、何を読んでもルイの朗読は見事で、二人が引き込まれなかったことなど一度もない。
ルイはあるときは勇敢な少年で、あるときは可憐なお姫様で、あるときは狡賢い老婆で、あるときは倒されるべき悪い竜だった。彼の巧みな演技にアリサもシロウも驚き、怯え、手に汗握って聞き、いつしか自分たちも物語の登場人物のような気分になっていった。
だからだろうか。
じきにルイの遊びは次の段階へと進み、さらに新たな世界に二人を誘った。
それが、夢の世界だ。
ルイは自分の夢を夢の庭と呼び、そこにたびたびアリサとシロウを招いた。
足跡ひとつない白銀の雪原、いろとりどりのガラスの花が咲き誇る花畑、小舟で渡っていける星のきらめく川――夢の庭にはいろいろな美しい景色があった。
そこでルイたちは駆け回り、ピクニックをして、まどろみを楽しんだ。
そんな刺激的で魅惑的な遊びは、しばらくの間は続いていく。
「久しぶりだね。さあ、こっちにおいで」
「うん。……あれ?」
柔和な笑みを浮かべてルイに言われ、アリサも懐かしい気持ちで頷いた。けれど、その途端に目の前を何かに遮断される。
一歩引いて確かめると、それは壁だった。マカロンピンクの、可愛らしい壁。それがアリサとルイを阻んでいる。
「大丈夫だよ。ドアから入っておいで」
壁が出現したのは局地的なものだ。大きく回り込んでからルイのものへ向かおうかと考えたけれど、どうやらドアがあるらしい。
「ドアって、これ? ちょっと通れそうにないな」
アリサは壁を眺めて、下のほうに金色のノブを見つけた。よく目を凝らしてみると、そこに若干色味の違う部分がある。それがドアで間違いなさそうだ。
ドアならドアでもっとわかりやすくしてよとアリサは思うものの、問題は存在のわかりにくさではない。
そのドアは、ノブが低いところにあるだけあって小さかった。小さいといってもアニメや絵本なんかに出てくるネズミや小動物の家のようなミニチュアのドアではなく、子供部屋に置くプレイハウスの出入り口くらいの大きさだ。
「小さくなればいいんだよ。小さくなれば通れる」
「小さくなるって、どうやって?」
「早くこっちにおいでよ」
壁の向こうからルイににこやかな声で急かされ、アリサは困った。どうしたとのかとしゃがみこんで、地面に籠が置いてあるのを見つける。
その籠の中には、ガラス細工の美しい小瓶。しかもわかりやすく“Drink me”などと書かれた札がついている。
(『飲んで』か……不思議の国のアリスだもんね)
小さくなったり大きくなったり首が伸びたり、自分だったら真っ平ごめんだとアリスの絵本を読んだときは思った。けれども、今はそんなことを言っている場合ではないのはわかる。だからアリサは意を決して、瓶を開けて中身を飲み干した。
「ん……?」
苦かったり臭かったりと、とにかく不味いものを想像していたのに、瓶の中身は無味無臭で何の引っかかりもなく喉を滑り落ちていった。そのことに拍子抜けしているうちにアリサの身体は縮んでいき、気がつくとしゃがみ込んだその姿勢でちょうどドアと目線が合うようになっていた。
「小さくなるって、こっち……?」
しげしげと自分の手を眺めてみれば、すっかり子供サイズだ。小人になるものだと思っていたから戸惑うけれど、ひとまず目的を達成したから四つん這いになってドアをくぐった。
「来たね、アリス。うん。小さくて可愛い、僕のアリスだ。服もそのほうが似合ってるよ」
改めて目の前に現れたアリサに、ルイは満足そうに笑みを浮かべる。彼に言われて自分の姿を確認すると、いつの間にか服装まで変わっていた。
パステルブルーのギンガムチェックのワンピースに白のエプロンドレスを合わせた、よりアリスっぽいスタイルだ。それは小学校低学年くらいの大きさになってしまったアリサにぴったりフィットしている。
「座りなよ。お茶にはミルクと、お砂糖を四つでよかったよね?」
「うん。ありがとう」
促されて椅子に座りながら、アリサはルイが自分の好みを覚えてくれていたのかと思って一瞬喜んだ。
でもすぐに、帽子屋がルイの姿をしているだけなのだと気がついた。
チェシャネコがユウダイに似て面倒くさい性格をしていたように、おそらく目の前のルイもアリサの記憶が作り出したのだろう。だから、アリサの紅茶の好みを知っているのは当然だ。
「あ、ウバだ。私、ウバの濃いめの紅茶をミルクティーにするのが一番好き」
「アリスは甘い紅茶が好きだものね」
「ルイくんは、キーマンとかラプサンスーチョンが好きだったよね」
特に何の思い入れもなく出されたものは何でも飲んでしまうシロウと違って、アリサは濃厚な味でミルクと合う紅茶が好きで、ルイはスモーキーな香りが独特の紅茶が好きだった。まだ子供でジュースのほうが美味しいと感じる歳なのに、聞き茶の真似事をしたこともあった。
五年ぶりくらいの再会が懐かしくて、アリサは嬉しくなった。記憶からうまく想像できているらしく、目の前のルイは二十歳くらいに成長している。アリサが最後に会った十五歳のルイより、大人になっている。
「ほら、お菓子もたくさんあるよ。何でも好きなものを食べるといい」
「うん」
こんなふうに寛いでいる場合ではないと思いつつも、キラキラしたお菓子を前にその誘惑に抗うのは難しかった。
「……おいしい」
マカロンをひとつつまんで、アリサは自然と笑顔になる。ピンク色のマカロンにはクリームと甘酸っぱいラズベリージャムが挟んであった。
黄色のはレモン、グリーンのはピスタチオ、ラベンダーのはブルーベリーだ。
走って疲れた身体に甘いものが染み渡っていくようで、ついパクパク食べてしまう。
その様子を、ルイが穏やかな笑みを浮かべて見ていた。
「アリスは、最近調子はいいの? 学校は楽しい?」
ルイがにこやかに尋ねてくる。このお兄さんっぽい話し方も、アリスという呼び方も、すべてが懐かしい。
アリサが一時期アリスの絵本がお気に入りだったから、ふざけてそう呼ぶようになったのだ。ルイという名前も、作者のルイス・キャロルと偶然の符号だと、そのときものすごく喜んだ記憶がある。
「調子は、まあまあかな。学校も……楽しいよ」
夢の中で自分が作り出した虚像だとしても、ルイに本当のことを言うのは気が引けた。五年前に会ったときはまだ今よりマシな健康状態だったから、もし現状を知れば心配するだろう。
長期の入院中で、高校はオンラインの授業を受けて三ヶ月に一度登校するだけだと言ったら、驚くに違いない。ルイの記憶の中のアリサは、まだランドセルを背負って自分の足で毎日学校へ行っていたのだから。
「そうか。楽しいのはいいことだね。勉強はどうかな? 宿題とかで困ってない? アリスは算数が苦手だからなあ」
「今は大丈夫だよ。むしろ習い事とか部活をしてないから、他の人よりゆっくり勉強できてるもん」
「本当かなあ。九九が覚えられなくて泣いたりしてない?」
「……ないよ」
一体いつの話をしているのだろうと思い、アリサは苦笑した。
確かに、九九を唱えるのが苦手だったことはある。けれどそれは計算が苦手というよりも、唱和させられることや大勢の前での暗記テストに対する嫌悪感が原因だった。
そこを通り過ぎて普通に黙々と計算する段階になってからは、そんなに躓くことはなくなった。ルイの前でも、算数の宿題で手こずるところなど見せていないはずだ。
「あのね、ルイくん。聞きたいことがあるんだけど」
お茶を飲んだし、甘いものも食べた。そろそろ本来の目的を果たさなばと、アリサは話を切り出した。
「なあに、アリス? それと、ルイお兄ちゃんって呼んで」
「えっと……ルイお兄ちゃん」
美しい顔で微笑まれて、アリスは背筋が寒くなった。
脈絡のないことを言われたからではなく、その単語に薄気味悪さを覚えたからだ。
四歳差があったため、幼い頃は乞われるまま“お兄ちゃん”と呼ぶことに抵抗はなかった。けれど歳を重ねるごとにそう呼ぶのが恥ずかしくなったのと、言いようのない心地悪さを感じるようになってやめたのだ。
本当はルイが、いつまでも“お兄ちゃん”と呼ばれたがっているのは知っていた。でも、アリサは呼びたくなかった。ルイはきっと、そのことをわかっていなかったけれど。
「あのさ、ウサギを見なかった? オレンジっぽい毛並みで、ツナギを着たウサギなんだけど」
「え? ウサギ? アリスが好きなのはウサギじゃなくてネコだよね?」
「……そうだっけ? じゃなくて、ウサギを見なかった? 追いかけなくちゃいけないんだけど」
「追いかける? 走るってこと? そんなこと、アリスはしちゃだめだよ!」
「え……!?」
ルイが声を荒らげた途端、どこからかリボンが伸びてきてシュルシュルシュルッとアリサの身体を椅子に縛りつけた。身をよじって逃れようとするも、ツルリとしたサテン地のリボンは緩むどころか食い込むばかりだ。
「アリスは身体が弱いんだから、走るなんてことしちゃだめだ。いい? いい子だから、おとなしくしてるんだ」
アリサを見つめるルイの目には、ゾッとするような色が浮かんでいた。狂気の色。アリサを見ているようで、まるで見ていない目。
会話を始めたときから、違和感を感じていたのだ。でも、その違和感を一度は飲み込もうとした。その結果が、これだ。
「ルイくん……こんなこと、しないで!」
幼い顔に精一杯怖い顔を作って、アリサはルイを睨みつけた。けれどもルイは、余裕の笑みを浮かべている。椅子に縛り付けている限り、優位だと思っているのだろう。
「そんなことよりアリス。チェリーパイを食べなよ。好きでしょ?」
ルイは席を立つと、チェリーパイの皿を手にアリサに近づいてきた。
「好きじゃないよ」
「ほら、食べなよ」
「やめて!」
パイを顔に押し付けられそうになって、アリサは必死に顔をのけぞらせた。
すでにわかっていることだけれど、ルイは正気ではない。パイを無理やり食べさせようとしたことでそれが決定的になった。
「アリサはいつまでも、チェリーパイが似合う女の子でいてくれなきゃ」
「なに、それ!」
狂気に光る黒い目。ナパージュでツヤツヤとしたダークレッドのチェリー。
アリサはそれらから逃れるために、椅子ごと後方に倒れた。その際、振り上がった足がチェリーパイの皿を持ったルイの手を蹴り飛ばした。
ルイの目に驚きが、次いで怒りが滲むのと、都合よくアリサを縛るリボンが解けるのはほとんど同時だった。
「こんなことするルイくん……好きじゃない!」
立ち上がったアリサが叫ぶと、ルイの顔にはっきり傷ついた表情が浮かんだ。
その顔を見て、ルイと交流が途絶えた理由を思い出した。
ルイと疎遠になったのは、彼が何となくアリサの成長についていけていないなと感じ始めたからだ。背が伸びる、できることが増える、自立心が芽生える――普通なら成長過程の喜ばしい変化だと受け取られらそれらのことが、ルイにはどうにも耐え難いようだった。
それに、シロウのことを目の敵にするようになった。シロウと親しくすると、アリサまで“お仕置き”されるようになった。
夢の庭は平和で美しい場所ではなくなり、アリサが恐れているものが現れる場所になってしまった。
それでも完全に嫌いになりたくなくて、フェードアウトしたのだ。楽しかった思い出まで台無しにしたくなくて、封じていた記憶だった。
「好きじゃない……だって? だったら、僕を裁く?」
ルイは、傷つき揺れる瞳でアリサを見つめる。でも、その口調は挑みかかるようだ。
そんなルイを見て、悲しくなる。でも同時に何もしてこないことがわかったし、ここに何の用もないのがわかった。
だから、静かにお茶会の席をあとにすることにした。
「……裁くとか、そんなこと、しないよ」
「僕を裁きたいなら女王になるといい! 女王にしか僕は裁けない。女王になるしか僕を裁く方法はない!」
小さく呟いたアリサの声は聞こえなかったらしく、ルイは必死に叫んでいた。
その姿が駄々をこねる少年のようで、アリサは一層悲しくなった。
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