第2話①

 足の動かしにくさに耐えながら、アリサは必死に走る。そうしないと、シロウのことを見失ってしまいそうだから。

 ツヤツヤのエナメルのストラップシューズは、アリスにぴったりだけれど走るのには不向きだ。物語の中でアリスは平気そうに走っていたけれど、この服装は動くのに適していない。それでも、走るしかないのだけれど。

 目的を達成せずに目覚めるのはまずいこと、目的を達成するのには時間制限があること、そのために時計を手に入れたいこと――走り出してから、シロウはアリサに説明した。

 本当に急いでいるらしく、それ以上の説明はなかった。アリサも「わかった」と返事をするのがやっとで、長々と質問を重ねるのは無理だった。

(アリスがウサギを追いかけるのは当たり前だけど、これはちょっときついな)

 靴の走りにくさだけでなく、運動神経の差もここにきて大きく影響している気がする。

 元々シロウは運動神経がよくて、走るのも速かった。そんな彼がウサギになっているのだから、アリサはどうにかその背中を見失わないようにするしかない。

(昔からシロウは何でもできて、私のことを守ってくれたよね。それなのに、私は……)

 ふと幼い頃の記憶が蘇り、甘やかな気分になる。それと同時に、苦い思いも胸に広がった。



 アリサとシロウの出会いは、うんと幼い頃にまで遡る。


「同い年、背格好も一緒。よし、仲良くするんだよ」


 そう言ってユウダイがひとりの男の子を連れてきたことがきっかけだった。まだ幼稚園に入る前のことだ。

 研究者であるユウダイと技術者であるシロウの父が昔からの知り合いで親しいから、子供同士も仲良くできると考えたらしい。

 でも、女の子と男の子で、病弱な子と健康な子だ。歳が同じという以外に接点はなく、初めのうちはお互いがお互いの存在を持て余していた。

 それが変わったのは、ほんのささいなことがきっかけだった。


「これ、見せてやる」


 そう言ってある日シロウが持ってきたのは、モデルガンのカタログだった。本物も偽物も、銃というもの自体を見るのが初めてだったアリサは、最初はシロウの意図がわからなかった。

 彼は、戸惑うアリサの横でひとつひとつの銃について説明していった。これはかっこよくて憧れだけどガス銃だからまだ持つことができないとか、十歳になったらこのエアコッキングの銃を買ってもらえるからこっちのマガジンと組み合わせたいとか、アリサにはさっぱりな話だ。

 でも、彼の表情を見れば好きなものの話をしているのはわかった。どうやって一緒に遊んだらいいかわからないから、自分の好きなものを披露しようと考えたのだろう。

 それを理解してからは、二人が打ち解けるのは早かった。

 アリサはシロウがかっこいいという銃を褒め、さらに自分の好みのものを伝えた。体力が許す限り、早撃ちごっこにも付き合った。

 その代わりシロウも、アリサのお気に入りの絵本を一緒に読んだ。たまにだけれどお人形遊びにも、花や緑を眺めるだけののんびりすぎる散歩にも付き合ってくれた。

 そうして親しくするうちにお互いを理解し合うようになり、アリサはシロウを頼りになる男の子だと思うようになり、シロウはアリサを自分の相棒で守るべき女の子だと思うようになっていったようだった。

 けれども、二人がお互いの存在だけで完結して楽しく過ごしていられたのは、うんと幼少の頃だけだった。

「オノデラさんってお姫様ぶってるよね」「身体弱いっていうのも、シロウくんに構ってもらいたいからでしょ」小学生になってしばらくすると、そんなふうに言ってくる女の子たちが現れた。優しくしてくれる子がほとんどだけれど、一部の子たちは悪意剥き出しだった。

 理由は簡単だ。シロウがアリサを大切にするのが、その一部の女子たちの鼻についたらしい。

 子供のときは、わかりやすい美点を持った男の子がモテる。物腰ソフトで褒め上手だったり、ピアノが弾けたり、足が速かったり。

 だから、とにかく運動ができるシロウが女の子の視線を集めるのは自然なことだ。それにたったひとりとはいえ、うんと優しい姿を見せつけられていれば、好意を抱いてしまうのは仕方がない。

 どんな危ないものからも悪いものからもアリサは守ると、シロウはナイトのような心づもりでいつもいてくれた。

 だから意地悪な女の子たちは真正面から嫌がらせをすることなく、アリサが体育を見学したときは聞こえよがしに悪口を言い、たまに体調がいい日に走ればわざとらしくクスクス笑うなどの行為を繰り返していた。

 足が速くないのをわかっていて、突然私物を取り上げられて追いかけっこを強要されることもあった。

 それはさすがにシロウが察知してそのたび庇って代わりに怒ってくれたけれど、病弱ゆえの歯がゆさというのは、そのとき嫌というほど感じさせられた。

 こうしてシロウの背中を追いかけていると、身体を動かすことへの苦手意識がまざまざと蘇ってくる。走っても走っても、隣に並ぶことはない。いつも背中を見失わないようにするのが精一杯だ。

(夢の中だから思い切り走ってもいいはずなのに、どうやって身体を動かしていいかわからない……って、あれ?)

 過去の嫌な記憶に囚われているうちに、気がつくとシロウの背中を見失ってしまっていた。いつの間にか、彼はいなくなっていた。

 見えるのは、ずっと続いていく曲がりくねった道。人が歩くために整えられているわけではないから、道の先は好き勝手に伸びた木々の枝に遮られて見えない。

 アリサが速度を上げるかシロウが気づいて立ち止まってくれない限り、彼の背中をもう一度見ることはできないだろう。


「シロウ! シロー! 待ってー!」


 せめて声が届けばと思ってアリサは叫んだ。必死に走っていてカラカラに渇いた喉で叫ぶのはつらかった。

 叫んだ直後、激しく咳き込んで、アリサは立ち止まらざるを得なかった。シロウの返事を期待したけれど、何も聞こえない。戻ってくる気配もない。

 早く追いかけるしかないのだとわかっているのだけれど、すぐには走り出せない。そのうちにシロウが気がついてくれると信じて、アリサは呼吸を整えながら歩いた。

(この服装からしてここがアリスモチーフの世界なのはわかるんだけど、あんまりそれっぽさはないな。ずっと森を歩かされてるだけだし)

 あまり親しみを持てない景色に、ついアリサは不満を持ってしまった。まずいと思って慌てて周囲を見回すけれど、何かが近づいてくる気配はない。

 また巨大な花たちに襲われてはかなわないから、ひとまず安堵の息を吐く。


「溜息なんて吐いてどうしたの? お嬢さん」

「え?」


 不意に声をかけられ、アリサはギョッとした。声の主を探して視線を巡らせると、アリサの頭より少し高い位置の枝にネコがいた。


「……ネコがしゃべった?」

「ボクがネコで、キミに話しかけたのがボクだから、ネコがしゃべったということで間違いないね」


 枝の上のネコは、フォルムだけで言えばネコだ。けれどその顔も体もずんぐりと大きく、ライオンやトラなどのネコ科の大型肉食獣の子供くらいある。その上、妙に人間臭い顔つきをしてニヤニヤ笑いを浮かべている。おまけに小難しい口調で人間の言葉を話す。


「あなたは、チェシャネコ?」


 アリスの世界でしゃべるネコといえば、おそらくチェシャネコだろう。でも目の前にいるのはよくあるキジトラ模様のネコで、あの有名なピンクとムラサキのネコとは似ても似つかない。


「キミね、他人のことを聞く前にまず自分から名乗りなさいって教わらなかったのかい? それに『チェシャネコか?』と断定して尋ねるのは一体どういうことなんだ。正しくは『私はなになにと申す者。あなたはどなたですか?』と聞くんだ」

「そうでした……ごめんなさい。私はアリサです。あなたはどなたですか?」

「ボクはチェシャネコだ」

「……だったら最初から言えばいいじゃない」


 一度はネコの主張に正当性を認めたアリサだったけれど、結局ネコがチェシャネコだったとわかって苛立ちを覚えた。どんな話題であれ会話がまっすぐに進まない相手というのはいるけれど、今みたいな状況のときに遭遇したい相手ではない。


「あの、チェシャネコさん。ウサギを見なかった? オレンジ色っぽい茶色の毛並みで、ツナギを着たウサギなんだけど」


 早く追いつかなくてはという思いと何か手掛かりを掴めればという思いの間で揺れ動き、悩んでからアリサは尋ねた。せめてどっちに向かって走っていったのかがわかるだけでも、シロウに追いつける可能性が増してくる。


 そう考えたのだけれど、チェシャネコは嫌そうに顔をしかめた。


「ネコにウサギのことを尋ねる道理は? ネコもウサギもふわふわな動物だからひとくくりに考えているの? じゃあ、アリサちゃんはサルのことを尋ねられても平気? 同じ霊長類というくくりだけれど。というより、ネコとウサギよりヒトとサルのほうがよほど近い存在だね。だったら、今ここでボクがサルについて質問しても答えられるよね?」


 アリサに尋ねられて、チェシャネコはひどくヘソを曲げたらしい。返答がさらに輪をかけて面倒くさいことになっている。

 機嫌を損ねると面倒くさくなるというのに自分の父であるユウダイのことを思い出し、アリサはうんざりした。おそらく、このネコの物言いを面倒くさくしている原因は自分にありそうだとわかったのだ。

 夢の序盤でオバケに追いかけられたのはたぶん、それがアリサの恐怖だったからだ。どうやら恐れているものは夢に反映されてしまうらしい。

 シロウを追いかけなくてはならない今、こうして足止めされるのは避けたかったことだ。だからこそ、現れたチェシャネコは父のユウダイに似てこんなに面倒くさいのだろう。


「ネコだからウサギのことを何でも答えられるはずだなんて思って尋ねてないよ。私はただ、走っていくのを見かけなかったか、もし見かけたのならどっちに走っていったのか答えてほしかっただけ! 知らないならもういいよ」


 もうこれ以上はここに留まっている猶予も理由もないと、アリサはチェシャネコから視線を外して走り出した。

 今さら追いかけたってもう遅いかもしれない。でも、追いかけるしかない。この夢の世界でアリサが頼れるのは、シロウしかいないのだから。


「ねえアリサちゃん。何をそんなに急いでるの?」


 どこまでも似たような景色が続く道を再び走っていると、また不意に声をかけられた。今度はすぐそばからだ。


「わっ」


 アリサは自分の肩の上にあの大きすぎるチェシャネコが乗っているのに気がついて、飛び上がらんばかりに驚いた。


「……驚かさないでよ。何をって、ウサギを追いかけてるの」

「何で追いかけるの?」

「用があるからよ」

「用って何? 急がなきゃいけないこと?」

「もうっ! ついて来ないでよ」


 ニヤニヤ笑いを浮かべるチェシャネコに腹が立って、アリサは肩から払いのけようとした。けれどもするりとかわされ、今度は反対側の肩に移動される。


「そんなに急がなくたっていいのに。お茶でも飲んでゆっくりしなよ」


 アリサの怒りをわかっているだろうに、チェシャネコは邪魔するのをやめない。

 からかわれているのだと理解しても、走り疲れたアリサはついお茶のことを考えてしまった。


「どこにお茶があるっていうの?」

「お茶といえば、お茶会でしょ」

「……お茶会なんて、どこでやってるのよ」


 チェシャネコはどこまでもチェシャネコらしいし、お茶会という単語も不思議の国のアリスらしいと思った。でも、アリサの服装と肩の上のいやらしいネコ以外にアリスらしさを感じられなくて、また苛立ちが募った。


「お茶会といえば、帽子屋のお茶会さ。行ってみるといい。きっと歓迎されるよ」


 チェシャネコは得意げな顔で言うけれど、まったく答えになっていない。

 それに“帽子屋のお茶会”と聞いて良いイメージは浮かばなかった。

 帽子屋といえば、チェシャネコと同じくらい相手にするのが面倒くさそうな人物だ。物語の中では存在しないお茶を勧めたり、答えのないなぞなぞを出したりしてアリスを怒らせている。

 怒りならチェシャネコが十分味わわせてくれたし、これ以上時間を無駄にしたらと思うと気持ちが焦ってくる。

 無視をすることに決めて、アリサはもう何も答えずに進み続ける。疲れたし、足は痛いけれど、休んでいる余裕はない。


「だめだよ、アリサちゃん。そのまま進み続けたって、どこにもたどり着けないよ。まずはお茶会に行かなくちゃ」


 走るのには疲れ小走りになり、それがやがて早歩きになった頃、肩の上のチェシャネコが言った。飲めるものなら何か飲みたいと思っているアリサは、その言葉にイライラする。


「お茶会お茶会って言うけど、どこでやってるって言うの? どうやって行けばいいの?」

「お茶会に行くんだと思って進んだらいい。ここでは、きちんとどこに行くのか強く頭に思い描くのが大事なんだ」

「どういうこと? え、ちょっと待って!」


 苛立ち混じりでもようやく話を聞く気になったのに、チェシャネコの姿は薄くなってきた。

 神出鬼没な、ひねくれたネコ。気が済むまでからかったからか、どうやら退場するらしい。


「適当に進んでいるだけじゃどこにもたどり着けないのは、人生と同じさ」


 それだけ言い残すと、チェシャネコは本当に煙のように霞のように消えてしまった。

 取り残されたアリサは、しばらく呆然と立ち尽くす。でも、気を取り直してもう一度歩きだした。

(シロウを追いかけるにしろ、お茶会に行くにしろ、とりあえず進み続けなくちゃ)

 シロウとはぐれた直後は落ち込んで心細かったけれど、チェシャネコにイライラさせられたおかげでそういった気持ちは吹っ切れてしまった。

 シロウに追いつくためには進むしかない。その途中でもしお茶会を見つけたら立ち寄って、シロウを見かけたか聞いてみよう。

 そんなふうに開き直ったからか、景色のほうも開けてきた。

 うねうねした巨木の群から白っぽくてすらりとした木立に変わり、森の中に光が射してきた。そして水の気配を感じてそちらに視線をやると、木立を抜けた先に湖が見えた。


「あ……」


 湖畔には白いクロスをかけられたテーブル。その上には美しい茶器とカラフルなお菓子と軽食。

 でも、それを囲む客人たちの姿はなく、テーブルに着いているのはひとりだけ。

 そのシルクハットをかぶった紳士然とした青年が、おそらく帽子屋なのだろう。

 カップを手に静かに座っている姿に、おかしな様子はない。もしかしたらイカれた帽子屋ではなくて、普通の帽子屋なのかもしれないと思って、アリサは吸い寄せられるようにテーブルに近づいていった。


「おや、お嬢さん。一緒にお茶でもいかが? ……って、アリスじゃないか。僕の小さなアリス」

「……ルイくん?」


 青年がアリサに気づき、カップから視線を上げた。

 その顔を見て、その呼びかけを聞いて、アリサの記憶は呼び起こされた。

 

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