第1話②

「……え!?」


 エナメルシューズを履いた足で慎重に歩いていると、突然何かが足首に巻き付いてきた。

 それは、緑色の細い縄のようなもの。その先をたどっていくと、大きな花のようなものがあった。


「ひっ……」


 足首に巻き付いているのが植物の蔓だと気がつくのと、辺りの景色が一変しているのに気がつくのはほぼ同時だった。

 いつの間にか、アリサは周りを花に囲まれていた。静かな森の中には似合わない、異様に大きな花たちだ。

 赤、ピンク、白、黄色。いろとりどりの花々は、アネモネやポピーに似ている。けれど、それらの花はこんなに大きくないし、何より蔓を巻き付けて攻撃などしてこない。

 敵視されている――花を前にそんなことを思うのは変だけれど、取り囲まれてアリサはそう感じていた。そのくらい、花々はアリサを排除しようという意思を気配に滲ませていた。

 それはアリサの思い違いではなかったらしく、気がついたときにはたくさんの蔓が伸びてきていた。


「きゃっ!」


 逃げようにも、四方八方を囲まれていて無理だった。手足を絡め取られて、あっという間に身動きが取れなくなる。しかも、それぞれの蔓が思い思いの方向に引っ張るから、アリサの身体は地面から浮かび上がってしまった。


「やだ! やめて!」


 蔓から逃れようと、アリサは全身をジタバタさせた。けれど蔓は一向に緩まらず、それどころか手足の一本でももいでやろうかという決意を感じさせるほどに、ギチギチと巻き付きを強めた。


「痛い……」


 足首の関節が軋むほどに締め上げられ、アリサは恐怖した。このままでは脱臼させられるか、もっとひどければ引きちぎられてしまうだろう。

 それがわかっているのに、アリサの身体は自由に動くことができない。

 夢なら醒めてと何度も念じるけれど、こういうのは自分の意思ではどうにもならないことがほとんどだ。今も必死で念じるけれど、花たちは容赦なくギチギチと蔓を締め上げる。

 血が通わなくなったのか、手足が冷たくなってきている。


「アリサを離せ!」


 もうだめだ、と思ったそのとき。

 何かが勢いよく飛んできて、空気を切り裂く音がした。その直後、右手首を縛り上げていた蔓が切れる。次いでタタタン、タタタン、タタタンという音がして、残りの部位も自由になる。

 何事かと周囲を見回すと、何か小さな影がこちらに近づいてきていた。子供かと思ったけれど、それはウサギだった。

 オレンジ色の毛並みで耳がピンとした、つなぎを着たウサギだった。

 燕尾服を着た白ウサギではないの?とアリサが思ったのは、一瞬のこと。次の瞬間には、そんなことはどうだってよくなっていた。


「させるか!」


 走り寄ってきたウサギが立ち止まったかと思うと、銃を構えてアリサめがけて撃ってきたのだ。

 けれど、すぐにアリサを狙ったのではないとわかる。弾はアリサの顔の横をかすめて、背後に届く。


「気をつけろ! また捕まるぞ!」


 ウサギは勇ましく言うと、勢いよく花たちへ突っ込んでいった。

 後ろ足で力強く跳躍すると、空中で銃を撃つ。タタタン、タタタンという小気味良い音と共にBB弾が飛び出していく。

 リボルバー式の銃をどうやって連射しているのだろうと思ったら、右手でトリガーを引いた直後、左手で撃鉄を起こしていた。まるで早撃ちガンマンみたいに。

 ウサギの前足で器用にやるものだなと感心はするものの、飛び出すのは所詮BB弾だ。至近距離で当たれば痛いけれど、それで相手の動きを止めるのは難しそうだった。


「ああっ! クソッ!」


 おまけに、撃ち切ってしまって次の銃を取り出してトリガーを引くと、飛び出したのは弾ではなく花だったのだ。手品でで使うような、雑な造りの造花。それを見て、ウサギの顔に焦りの表情が浮かぶ。

 ウサギが脅威でないとわかったからか、花たちは調子を取り戻し、勢いづいて蔓を伸ばしてきた。アリサに対してとは違い、明確な攻撃の意思を持って蔓を鞭のようにしならせている。


「だー! もう!」


 ウサギは地に伏し、飛び跳ね、花たちの攻撃をかわす。かわしながらポケットをあさって別の武器を探しているようだけれど、出てくるのは花の出るオモチャの銃やナイフの形をしたニンジンばかり。手榴弾を見つけそれを投げたものの、炸裂して中から飛び出したのは小さな小さなふわふわヒヨコだった。


「何でなんもかんもオモチャになっちまうんだよー!?」


 ウサギは叫びつつ、近接戦闘に切り替えたらしい。

 軸足で回転しながら力強く地面に踏み込むと、飛び上がってもう一方の足で蹴りを繰り出す。ウサギのキック力は伊達ではない。蹴られた花はポッキリ茎を折られ、うなだれるように倒れた。

 それからもウサギは畳み掛けるように次々と攻撃を繰り出していた。

 けれど、花たちもやられるだけではない。仲間が倒されてまずいと思ったらしく、ウサギに苛烈な攻撃を仕掛ける。

 ウサギは掴みかかろうとする蔓をかわし、前足で逆立ちするような姿勢を取ると、ブレイクダンスの要領で回転した。花が怯んだ隙に姿勢を立て直し、今度は前足で高速で突きを打ち込んでいく。

 ウサギはまるで、荒ぶる獣だった。

 蹴る、突く、噛み付く、爪で引っかく――全身が武器で、あらゆる動きが攻撃だ。高速で動くウサギの前になす術なく、巨大な花たちは屠られていく。

 ディズニーやピクサーの作品に出てくる動物みたいだなと、目の前のウサギの格闘を見てアリサは思っていた。そのくらい、嘘のようにコミカルに動き回っていた。そして、危なげなく強かった。

 アリサが驚いているうちに、ウサギは花たちをみんな倒してしまった。


「うわー……べっとべと。でも、とりあえず全部やっつけたな」


 飛び散った草の汁を拭いながら、ウサギはアリサに向き直った。それから、安心したようにニッと微笑む。

 親しげな笑みを浮かべられ、アリサは戸惑った。

 助けてくれたのはありがたい。このウサギが来てくれなかったら、今頃ひどい目に遭っていただろう。けれども、これだけ親切にされる理由がわからない。小さな体で必死に戦って、アリサを守る理由などあったのだろうか。

(夢に整合性を求めても仕方ないんだろうけど)

 ひとまず笑い返しておくべきだろうと思って、アリサは笑みを作ってみた。すると、そのへらりとした笑みを見てウサギは今度は顔をしかめた。


「お前、これが夢だってちゃんと理解してるのか?」


 アリサの笑顔に難しい顔になったウサギが尋ねてきた。しゃべるウサギが何を言うのかと思って、アリサは笑ってしまった。

 けれどそれはジョークでも何でもなかったらしく、ウサギの顔には真剣味が増した。


「お前、今さ、『ウサギがしゃべってんのに何言ってんの?』とか思っただろ? 呑気なもんだ。さっきの質問は『これがどういう類の夢かわかってんのか』って意味だ。これが現実じゃないのは誰でもわかるだろうけど、普通の夢じゃないこともわかるよな?」

「普通の夢、じゃない……」


 言われて、アリサは周囲を見回した。

 周囲は、森だ。鬱蒼とした森。以前、高原の別荘地に連れて行ってもらったことがあるけれど、ああいった木々の手入れがされた森とは違って大きな木が多く、まるで今にも歩きだしそうなうねうねしたものばかりだ。

 アリサの知っている日本の森ではない気がした。


「何か、変なことに気づいたか?」

「うん。……私の見覚えのない景色だなって。そのわりに、ちゃんと細かいし」

「うん、そうだな。まあ、夢ってのは実体験の記憶だけじゃなくて映画とか本とかから受けた影響も色濃く反映されるから、知らないものを見ることもある。でも、この夢には他にも変なところがあるだろ?」


 ウサギはさらに質問を重ねる。このやりとりがまどろっこしいなと思いつつも、アリサは考えを巡らせた。


「……もしかして、“夢だと自覚していること”と、“夢の中なのに自由に動けること”?」

「そうだ。いわゆる、明晰夢って状態だな」


 アリサが正解を導き出せたことで、ウサギはホッと表情を緩めた。どうやら、アリサが考えて答えを出すことが大切だったらしい。


「明晰夢っていうのは、条件さえ揃えば誰でも見ることができるものだ。でも、その夢の中で好きに行動するっていうのは訓練がいることなんだ。つまりこれは、普通の明晰夢でもないってことだ」

「こうやって、会話のキャッチボールが続くってことが、何だか不思議だもんね」


 言いながら、アリサはこれまで自分が見てきた夢について思い出していた。

 夢といえば、長いものにしろ断片的なものにしろ、観客視点で見せられることが多い。たまに一人称視点の夢もあるけれど、それもどこか映像的で、こんなふうに自由度の高い体験型の夢ではなかった。

(そういえば、小さい頃はこういう夢じゃない夢、よく見てたっけ。見てたっていうか、遊びに来てたっていうか……)

 ふとしたことで記憶が呼び起こされ、アリサはハッとした。

 こういうのは初めてではないと、思い出したのだ。こういった体験を、感覚を、知っているということを。

 いろとりどりの眩しい世界。そよ風を浴びながらの、木漏れ日の下でのお昼寝。おままごとセットのような可愛い食器を並べたお茶会。


「おい、大丈夫か。自分が誰なのか、ちゃんと言えるか?」

「え……」


 頭の中で記憶の欠片を引き出していたところ、不意に声をかけられてアリサは我に返った。ワンピースの裾を引っ張り、ウサギは不安そうにアリサを見上げている。

 そんなふうに尋ねられると、自分が誰なのかとっさに答えられなかった。夢の中にいるのに、まるで寝起きのように頭がぼんやりしている。


「えっと……私は、アリ、サ。アリサ」

「よかった。忘れてなかったな。そうだ。お前はオノデラアリサだ」

「オノデラアリサ……そうだった」


 フルネームで呼ばれ、アリサは靄が晴れたような心地がした。身体の芯に、大切なものが帰ってきたようなそんな気分だ。


「いいか? ここでは、自分が誰であるかを忘れてはいけない。そうしないと、夢に飲まれるからな」

「夢に飲まれる?」

「気づいてるだろうけど、これは他人の夢だからな。オレの夢でもなければ、お前の夢でもない。だから、ここではきちんと自我を保っていなければならないんだ。でも、この世界を否定するようなことを考えたり、反発心を抱いたりしたらだめなんだ。そうすると、さっきみたいに攻撃を受けることになる」

「ちょっと待って……」


 次々と話し始めたウサギに、アリサは混乱した。自分が誰なのかを自覚しただけで、何もかもを瞬時に飲み込めたわけではない。


「他人の夢って、どういうことなの?」

「それは、オレの口からは言えないんだ。とにかく、アリサはここでなすべきことをなせとしか」

「なすべきことって?」

「それも、オレの口からは言えないんだ。自分で気づかなきゃいけないことだから。それに、あんまりこうして話すのもよくないっていうか、危ないっていうか……」


 言いながら、ウサギはどんどん歯切れが悪くなっていった。そのくせ、周囲を警戒するように耳をピンと立てている。

 何ひとつはっきり言ってくれないことにちょっぴり腹が立ったアリサだったけれど、夢からの攻撃を警戒しているのだとわかって文句を言うのをやめた。


「――わかった。とにかくここでは自我を保って、反発するようなことは考えず、なすべきことを見つければいいのね?」


 アリサはひとまず、ウサギに言われたことを反復するように言った。まだ飲み込めたわけではないものの、言われたことは理解できたから。

 それを聞いて、ウサギは安堵したように笑う。そのくしゃっとした顔に、アリサは既視感を覚えた。

 しゃべるウサギの知り合いはいないけれど、確実に知っているはずだ。それに彼も親しげに話しかけてくるのだから、アリサのことを知っているのは間違いないだろう。


「……もしかして、シロウ?」


 呼び慣れた名前を口にしてみると、ウサギはいたずらっぽく笑った。


「そうだよ。名前的に、白ウサギじゃなくてよかった」

「本当だね。でも、何でシロウはウサギになってるんだろ」


 目の前にいるのが姿は違っても幼馴染のシロウなのだとわかって、アリサは安心した。わけのわからない夢の中で、親しい人がいてくれるのはありがたい。


「たぶんだけど、夢の内容に合わせた姿形にされてるんだよ。ゲームで言うところのアバターだな」

「アバターか。じゃあ、ここは不思議の国のアリスを模した世界ってことなのかな。……それにしては、シロウがツナギを着てるのとか、花が攻撃してくるのとかわけがわからないけど」

「そこらへんは、適宜アレンジされてんだろ。それと、ある程度はこちらの意思が反映されるみたいだ。だから、オレも武器を持ち込めた。異物を排除するって働きが夢の中にあるみたいで、途中で使い物にならなくなったけどな」


 シロウはポケットを探ってニンジンナイフを取り出して、しょんぼりしている。ウサギがニンジンを手に落ち込んでいるのは何だか滑稽だ。でも、これでは確かに戦えないから、消沈するのも無理はないとアリサは思い直した。

 落ち込むというより、不安になる。ここは夢の中だけれど自分の夢ではなくて、何かあればすぐに攻撃されてしまうのだから。


「まあ、うまいことやれば、ある程度は自分の思うものを持ち込めるというか出現させられるはずだ。他人の夢の中っていっても、オレたちも寝てるわけだし」

「そうだね」


 アリサが不安になったのがわかったのだろう。シロウは安心させるように言ってから笑った。

(シロウも夢の中ってことは、まだ私の病室? 何で同じ夢の中にいるの? 眠る前に何か話しかけられてたのって、やっぱり催眠術か何かだったのかな……)

 シロウのことや置かれている状況について、聞きたいことはいくつもあった。でも、きっとそのどれも答えられないのだろうと思って、アリサは結局何も尋ねられなかった。

 代わりに、シロウのウサ耳にそっと触れてみる。

 いつも見上げている、自分より背の高い彼を見下ろすのは不思議な気分だ。それでもやはり、シロウはアリサにとって頼れる男の子だけれど。


「それじゃあ、行こうか。まず最初に時計を手に入れないと」


 頼もしい笑顔を浮かべたシロウに、アリサは頷き返した。

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