アリサ イン マッドドリーム
猫屋ちゃき
第1話①
「それは黄金の昼下がり……」
懐かしい声がして、瞼が落ちていく。
強制的に眠りへ誘われる感覚。バチンと、意識が途切れる――。
薄暗くて空気がじっとりとした中を、アリサは必死で走っていた。
自分の身体が空気を切ると、まるでそれがまとわりついてくるようで不快だ。足元も悪い。地面は凸凹しているし、ところどころぬかるんでいる。くぼみに足を取られて転びそうになるうえ、体勢を保とうと踏み込むとぬちゃっと身体が沈む。
(嫌だな。靴が汚れちゃう)
そんなふうに思うと、視線は無意識に足元へ向かう。それどころではないのに。
履いているのは、パステルブルーのスニーカー。
ママの趣味ではないけれど、どうしてもと言って買ってもらったものだ。たしか、小学校二年生くらいのとき。
それまでアリサは、ママの好みが存分に反映されたピンクや赤のエナメル風のコロンとした靴を履いていた。
いつもママに心配と迷惑をかけてしまっていて、服装くらいは彼女の思うままにしてあげたかったから。
でも、外で友達と思いきり遊ぶにはお人形さんみたいな靴は不向きで、わがままを言ってスニーカーを手に入れたのだった。
本当は思いきり遊べないのは弱い身体のせいなのだけれど、スニーカーさえ手に入れれば少しは自由になれると信じていたのだ。
そのことを思い出した途端、自分の身体が小さくなっていることに気がついてしまった。
それこそ、パステルブルーのスニーカーが似合う小さな足に見合った身体の大きさだ。
どうりで、走っても走ってもなかなか前に進んだ感覚がなかったわけだ。子供の小さな身体でどれだけ走ろうとも、大して進むわけがない。
進まなければ困るのに。
背後には、はっきりとした気配と息遣いが迫っている。何かが、アリサのことをずっと追いかけているのだ。
(ここ、どこなの? 気がついたら走ってた。何で? たしか今日は面会の日で、何人かの人に会って、それから……)
判然としない記憶を探る間も、気配は近くまで迫っていた。
何なのだろう、と考えてしまうともうだめだった。
黒い影のおばけ。影なのに湿っていて、生臭い存在。
雨の日の夕方や、真夜中の窓の外に潜む悪いもの。
足音はしないのに、ものすごく移動速度が速い怪物。
幼いときに想像していた恐ろしいものの存在を、今ありありと思いだしてしまった。
自分で作り出したおばけなのに、アリサはそいつのことが怖くてたまらなかった。どんなに明るい場所でもわずかな暗がりにそいつが潜んでいるのを頭の中に思い浮かべては、いつも勝手に震えていた。
背後に迫るものがそいつなのだと気づいて、怖いと思ってしまうと、その存在感はさらに増した。
息遣いが耳に届くと同時に、生臭いにおいが漂ってきた。
濡れた獣のような、腐った土のような、香ばしさとツンとした刺激が混ざったにおいだ。
そのにおいがハァハァという音を伴ってアリサの髪をかすかに揺らし、耳元をかすめていく。
耳に息を感じるのなんて、ごく親しい人と内緒のおしゃべりに興じるときくらいだ。
そのくらいの距離にいるのだとわかって、アリサは背中がぞわっとした。
「――嫌だ!」
少しでも引き離したいと思って速度を上げた。小さな身体でどれだけの速度が出るのかと思うけれど、走らないよりましだ。
でも、小さいだけでなく走り慣れない身体だから、全力疾走もたかが知れている。
思えば、これまでの人生で思いきり走ったことなんてあっただろうか。
たぶん、ない。覚えがないほど幼い頃ならわからないけれど、少なくとも記憶の中にはない。
アリサは走ることを許されていないから。
パパやママにではない。アリサ自身の身体が、走ることを許さないのだ。
(うまく動かせない。こんなんじゃ、追いつかれちゃう……!)
焦りのせいで、背後のおばけから長い爪が伸びてきて自分の身に迫ってきているのを想像してしまった。まるでその思考を読み取ったかのように、本当に何かが近づいてきていた。
それを感じ取って恐怖がさらに増した直後、何かが炸裂する音がした。
タンタタタンタタタンッ!
音とともに小さく硬いものが、アリサの首のすぐ後ろをかすめて飛んでいく。
「……痛い!」
それに驚いて、アリサは転んだ。身体を地面に強かに打ちつけて、おばけに仕留められるのを覚悟した。
けれども、いつまで経っても新たな痛みはやって来なかった。炸裂音はまだ続いている。うつ伏せのままでいると、顔の近くに何かが転がってきた。
(……BB弾?)
転がってきたものが何かわかった途端、誰かがアリサを呼んだ。
「アリサ! 立て! 立って走って逃げろ!」
男の子の声だ。知っている、懐かしい声。
この子はいつも、エアガンでおばけからアリサを守ってくれるのだ。
愛用の銃はコルトのパイソンを模したもの。かっこよくてお気に入りの銃なのだと、よく自慢していた。
立ち上がり走り出してから少し振り返ると、薄暗がりの中にキラリと光る銃が見えた。それを握る男の子の姿は、見えない。
でも、その子のことをアリサは知っているはずだ。頭に霞がかかったみたいで、すぐには思い出せないのだけれど。
足を、腕を、必死で動かしながら、アリサは記憶の糸をたどった。思い出すことに集中したいけれど、走らなければ。せっかく男の子が足止めして、時間稼ぎをしてくれているのだから。
これは走るのが遅いアリサのための足止めだ。
男の子はいつも、アリサがおばけから逃げ延びられるように、銃で戦って守ってくれるのだ。
そのことを思い出すと同時に、別の声も思い出す。『アリス。そんなに怖がらなくていいのに。僕のほうへおいで。そしたら簡単に助けてあげる』――そんなことを言う、優しくて意地悪な声を。
彼は夢の主だから、夢の中のおばけを出すのも消すのも思いのままだ。夢の世界に招いて楽しく遊んだあと、ときどきおばけを出してアリサを脅かすことがあった。
まるでアリサの愛情と信頼を試すように。
(……そう、これは夢)
さんざん走ってから、ようやくアリサは気がついた。
これは夢だ。小さな頃から馴染みのある夢だった。
気がついてから、アリサはうんざりした。
アリサは夢が嫌いだ。眠っているときに見る夢も、未来に抱く夢も。
病気の都合で入院するようになってからは、一日の大半を眠って過ごしているから、夢なんて見たら疲れてしまう。
夢は記憶の整理だというけれど、これまでの経験の中には突拍子もないものを見せられたり、脈絡なく展開していく支離滅裂なストーリーを体験させられたりするのは意味がわからない。
整理するならするで、もっと秩序正しくやってほしいと思う。とはいえ、過去の出来事を淡々と再生する夢も、起きたときに微妙な気分になるけれど。
将来の夢なんてものも、わざわざ強く意識したり口に出させられたりするのは馬鹿げていると思っている。
健康な身体だったら、違う考え方になっただろう。
でも、自分の身体がポンコツなのだとわかっていて、そのせいで実際にいろいろと行動が制限されているのに、その状態で一体どんな夢を抱けばいいというのだろうか。
幼くてまだ自分のことが理解できていなかったときは、周りの子と同じようにケーキ屋さんになりたいとかお花屋さんになりたいとか考えていた。
けれども、まともに生きるのが難しいと知り、大人になれないとわかってからは、夢なんて持たなくなった。
それでも学校に通っていた頃はことあるごとに将来の夢なんてものについて考えさせられ、ひどいときはそれをクラスメイトの前で発表させられる。付き合いきれないと思ってあるとき白紙で提出したら担任教師に叱られ、「健康で長生き」と書いたら泣かれたという経験をして以来、嫌いな事象になった。
夢や希望を抱くのは勝手だけれど、すべての人間がそれらを持つべきと押しつけるのも、持っていて当たり前だという風潮なのも間違っているとアリサは思っている。
夢も希望もなくても、命がある限り人生は続いていく。夢や希望を抱いたとしても、それが叶わない人生もある。それなら、そんなもの抱くだけ無駄だというのが、アリサのたどり着いた答えだ。
そんなわけで、自分の人生に夢も希望も抱けないから、眠っているときに見る夢も嫌いなのだ。
間違って楽しい夢なんて見てしまった日には起きたときの虚しさが尋常ではないから、できれば夢など見ずに眠りたい。
小さな頃は夢の世界に招かれてそこで遊ぶことも多かったけれど、成長してからはいつの間にかそういうこともなくなった。
従兄が自分の夢の世界に他人の意識を招くことができるという不思議な能力を持っていて、幼いときは特に何も思わずに遊んでいたのだ。
従兄のルイとアリサ、幼馴染の男の子のシロウ。
メンバーはいつもこの三人で、夢の中でたくさん遊んだ。夢の中ではアリサの身体は自由で、日頃そばで世話係と化しているシロウもアリサを気にせず遊ぶことができた。走り回るのにも飛び跳ねるのにも何の制限もなく、シロウとアリサはそこで平等だった。
年長者のルイは二人を優しく見守り、冒険へ連れて行ってくれた。アリサが大好きな絵本を模した世界でピクニックをしたり、お茶会をしたりするのも楽しかった。
夢の主たるルイはそこでは何でもできて、何でも出すことができた。
でも、年齢を重ねるごとに遊ぶ頻度は下がっていった。やはり、大きくなるにつれておかしなことに気づくのだ。
おかしいことだと気づき出したからか、ルイがおばけを出現させて脅かすようになったからかわからないけれど、いつしかアリサは夢の世界へ行かなくなった。アリサが行かなくなると、シロウも行かなくなった。もっとも、彼の場合は夢の世界にエアガンなんて無粋なものを持ち込むから、ルイに締め出された可能性はあるけれど。
アリサたちが興味を失くしてからも、アリサの父のユウダイだけはルイの夢に関心を持ち続けている。
ユウダイはアリサのためと称して、眠っているときの脳の研究に没頭しているのだ。
眠っているときに仮想空間で何らかの疑似体験ができればいいと考え、VRによる体験を勧められたこともあった。けれど、夢の中で自由に動き回った経験のあるアリサには、ヘッドマウントディスプレイが与えてくれる体験は偽物に過ぎなかった。見ることができるのも触れることができるのも、そこにあるだけのオブジェクトだ。
それに何が悲しくて、3DCGの同級生たちを相手に学校生活を送らなければならないのだ。
アリサは白けていたもののユウダイの作ったものは素晴らしかったらしく、その後どこかの国にこの技術は買われ、兵士たちの訓練用プログラムとして採用されたそうだ。できればアリサも、敵を倒すシミュレーションのほうを体験したかった。
それからユウダイは甥であるルイの能力に目をつけていたようだけれど、自分を実験台だと思っている父親に反抗心を抱いているアリサは、詳しいことを知らない。
(……さっきのが夢だっていうのはわかった。それなら、今いるのは?)
走り続けて、意識がパチンと切り替わると、明るい場所に立っていることに気がついた。おばけの気配はない。助けてくれた男の子――シロウの姿も。
夢から醒めたのはわかったけれど、どうやらここもまだ夢のようだ。さっきのは夢中夢というものか。
記憶をたどって思い出したのは、今日が週に一度の面会の日で、シロウが来てくれていたということだ。
眠る直前まで彼と話していて、あるいは彼に何かを言われて眠くなって、気がつくとおばけに追いかけられて走っていた。
そこから目覚めたのなら、病院の天井を見つめていなければならないのだけれど、今アリサは立っている。しかも、森のような場所に。おまけに、身につけているのは水色の簡素な病衣ではない。
「……これはまた、すごいな」
自分の姿をしげしげと眺めて、アリサは思わず呟いた。
釣り鐘型の大きく広がった膝丈のスカート、履き口にレースのついた白いハイソックス、黒いエナメルのストラップシューズ。
パッと視界に入るだけでも情報が多い。
周辺を見回し水溜りを見つけて姿を映すと、さらに詳しく見ることができた。
頭には黒の大きなリボンカチューシャ。身につけているのは白い、袖口が大きく広がった姫袖のブラウス。
水溜りに映るのは、レースとフリルたっぷりの装飾過多な、いわゆるロリィタファッションに身を包んだ自分の姿だ。水色のエプロンスカートを中心としたコーディネートを見る限り、どうやら不思議の国のアリスを意識した組み合わせのようだ。
「ママが喜びそうだな……」
言ってから、アリサはげんなりした。
アリサが自分の意思で服を選ぶようになるまでは、母の趣味でこれと似たような格好をさせられていたのだ。まだ幼かった頃は似合っていたと思うし嫌いではなかったけれど、十六歳の今は似合うとか好き嫌い以前に、この服装の持つあまりの非現実ぶりに恥ずかしくなる。こういうのは気持ちや気合いで着るものだというのを耳にしたことがあったけれど、それが今ならよくわかる。
(それに、動きにくいなあ。夢の中だっていうなら、せめてもう少し利便性の高い格好がよかった。誰に見せるわけでもなく森の中にいるっていうのに、何でこんなひらひらなの……)
とりあえず歩き出しながら、アリサは内心で不満に思った。
夢の中とはいえ、森の中を歩くのは嬉しい。日頃はずっと病院にいるし、外出許可が下りても研究都市からは出られない。
だから、夢だとしてもどうせ森の中を歩くなら、それに適した格好がいいと思ってしまった。せめてスカート部分がもう少しおとなしくて、靴が歩きやすければなあ、と。
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