第四幕 侍従長フランフラン 天使のモチーフ(1)
扉を押し開けると、天窓から降り注ぐ陽光で目が眩んだ。次第に視界がはっきりしていくと、そこには天上の楽園が広がっている。灰色の石壁を隙間なく埋め尽くした無数の風景画。それらは全て楽園の景色を描いたものだ。光、空、雲、風、花、水、緑をモチーフにした天上の風景。サイズも構図も異なる無数の絵画が、壁という壁にびっしりと嵌めこまれている。床には真っ白なシーツが敷かれ、ソファとベッドは淡い緑色をしている。光は白い色に反射し、部屋そのものが輝きを放っているように見える。ガラスの天窓は天井の半分を占めるほどに大きく、見上げれば空が開けていた。その天窓の周りにも、青い空と光の風景画が、天井壁画のように飾られている。そこには伝説で語られる神話の世界、空中庭園が現出していた。
ただ一箇所だけ、石壁がむき出しになっている場所がある。それは天井に近い高さに、ぽっかりと一枚分のサイズだけ残されていた。まるで空中が切り取られ、そこだけ穴が空いてしまったかのように錯覚させた。
フランフランはその余地を見ると、ふっとため息を吐いた。水のたまった桶を下ろすと、僅かに湿らせた布で部屋の掃除を始めた。今は持ち主のいなくなった塔の頂上の部屋。かつて自らの仕えていた奥方が閉じこもっていた寝室である。
シーツを取り払い、埃をはたき、箒で掃いていく。カサンドラがいなくなってからも、フランフランは一週間に一度、この主人のいなくなった部屋を掃除するようにしていた。壁面のカンヴァスも、色褪せぬように気を遣いながら表面をはたき、一枚ずつ壁からはがすと、裏の壁まで丹念に拭き掃除していく。決して絵画の場所が変わらないように注意しながら、再び絵をはめ込んでいく。この部屋そのものが、あの方の作品だった。壁の風景画は作品のピースであり、その配置まで含めてあの方が意図して嵌め込んだものである。それをないがしろにする事など、フランフランにはできなかった。
部屋にたった一枚だけ設けられた大きな窓がある。そこに近づき、外側へと窓を開く。一週間この部屋に漂っていた澱んだ空気が逃げ出し、清涼な空気が風を孕んで流れ込んできた。この部屋は塔の頂上にあるため、風通しがよい。濡れた手に風が更に冷えて感じられた。
四角い窓は頭の高さに設けられている。厚い石壁の向こうには、切り取られた空が覗いている。フランフランは息を吸い込み、軽い動悸を覚えながら、窓の下を、ゆっくりと見下ろした。
すり鉢状をした城の底が薄暗い影の中に見える。小さな中庭が色褪せた落ち葉のように小さく、遠くに見えた。最近ようやく、この下を覗き込めるようになった。かつてはこの部屋に入っただけであの日の光景を思い出し、眩暈を覚えて気分が悪くなったものだ。
そうあの日、この部屋へ胸を躍らせながらフランフランは訪れた。ところが、奥方様がいないことに、まず混乱し、不安を抱いた。あの方がこの部屋から出られるはずがない。階段を降りることを異常なまでに怖がるあの方には、この部屋から出る術がないのだ。最初は昔のようにかくれんぼをしてからかっているのかと思った。気のふれた奥方様は、ときおり童心に返ることがある。ベッドの中も、その下も確認した。不自然なことに、前日に描きあげたといっていたあの最後の一枚も見当たらなかった。あるのはそのカンヴァスを立てかけていた三脚と、絵画を覆っていた白いヴェールがその足元にふわりと落ちているだけであった。
不安を抑え、それを掻き消そうとして窓を開け、下を覗きこんだ。
枯れた中庭に、真っ白な夜具を身に纏ったカサンドラが倒れていた。フランフランは言葉を失った。目の前の光景が信じられなかった。余りの衝撃に現実感覚を失い、それが絵画なのか、現実の風景なのか、心が一切の思考を拒否していた。倒れていたのは、彼女だけではなかった。その傍らに、自身の最愛の息子、マルコが突っ伏していた。遠いため、その表情は見えない。ただ白い夜具に赤黒い点が散らばっているのが、やけに鮮やかに見えた。
どれほどの間、忘我となって立ち尽くしたか、フランフランは覚えていない。いつのまにか、甲高い悲鳴を上げていた。それを聞くものはいなかった。
そう、あの日、自分の親友であり妹のように思っていたカサンドラと、息子であるマルコをフランフランは同時に喪った。カサンドラはこの窓から飛び降り、そしてその下にいた息子と衝突した。二人ともほぼ即死であったろう、そう医師は告げた。フランフランはその遺体も表情も見る気にはなれなかった。がたがたと震えながら医師の報告を聞いていた。どちらも美しい姿のままで、記憶にとどめておきたかった。
二人を失ってからしばらくは泣きくれて過ごした。喪失感と絶望のあまり何も考えることが出来なかった。呆然としたまま葬儀が終わると、一週間ほど寝込むことになった。
何も食べることのできない一週間が過ぎ、ようやく何かしらものを考えられるようになって最初に湧き上がった感情は、なぜこんなことに、という憤りであった。
気の触れていた奥方が塔の頂上から飛び降り、それに息子は巻き込まれた。
「不幸な事故だったのだ」
伯爵によって事故はそう処理されていた。事故? そうじゃない。これは事件なのだ。そうフランフランは思うようになった。
確かにカサンドラ様は気が触れていた。現実の風景と絵画の風景の区別が付かなくなっていた、いやその認識がまったく逆になっていた。階段を降りることを怖がり、部屋に閉じこもって生活するようになった。あれだけ溺愛していたクリフ様を人形だと思い込んで遠ざけると、肖像画にむかって微笑み、語りかけるようになっていた。時折、時が逆行したように童心に返ることはあったけれど、日常生活にはなにも不都合なことはなかった。フランフランや他の召使たちとの会話にも支障はなかった。
この部屋でカサンドラの世話をしていたフランフランは、その生活に悲哀を覚えながら、それでも微笑ましく見守っていたのだ。この部屋にいる限り、カサンドラ様は平穏に暮らしていける、と。ただ毎日絵を描き続け、壁にはめ込んでいく、新たな一枚を描いては気に入らないものと取替え、少しずつ壁を天上画で埋めていく毎日に、奥方は安らぎを感じているようであった。
その彼女が、どうしてこの窓から飛び降りるような行動に出たのか、どんな衝動が、どな絶望が彼女を襲ったというのか。なぜ我が息子まで連れ去っていってしまったのか。
フランフランにとってカサンドラは自分の仕える主人であったが、同時に幼馴染の親友であり、妹のように思っていた。そしてカサンドラも同じように感じてくれていたことを、彼女は知っていた。カサンドラはフランフランにとって唯一無二の友人であった。
そのカサンドラが、息子を道連れにしてこの世を去ってしまった。息子は彼女を庇おうとして下敷きになったのだろう。なぜ入ることを禁じられた中庭に息子がいたのかは分からないが、きっとそうに違いない。息子は主君に忠実であり、何よりも優しかった。
フランフランは混乱した。肉親のように感じていたカサンドラが愛していた息子を連れて行ってしまったことに。偶然や悲劇などといった言葉で納得できることではなかった。憎悪と愛惜の狭間で、どうしてよいのか分からずに、ただ深く絶望していた。一週間の療養を経て、彼女は一つの決意に至った。
なぜカサンドラ様は塔から飛び降りたのか、その理由を突き止めなければならない。後悔、憎悪、愛惜、哀しみ、憤り、いずれの感情に身を任せればいいのか分からないまま、フランフランはそう思いつめるようになった。
部屋の掃除をしながら、なぜ、そう考え続けてきた。城の住人どころか、伯爵までもその死に対して疑問を投げかけないのだ。
――気が触れていたから仕方がない。狂人の自殺に理由などない。
誰もがそう考えているのだ。
そんなはずはない。カサンドラの世話をしていたフランフランには分かる。あの方が、自ら死ぬはずはないのだ。地上を恐れて塔の頂上に閉じこもったあの方が、そして敬虔な聖教徒であったあの方が、この頂から飛び降りることなど、できたはずがない。聖教徒は自殺を固く禁じられており、それは殺人と同等の大罪なのだから。なにより、死の前日の出来事。
フランフランは思い出す。二人の死の前日を。
あの方は疲れた顔に満足げな笑みを浮かべ、ヴェールの掛けられた一枚の絵を前に、私にこう言ったのだ。
「ようやく完成したのよ」
数十枚という失敗作の後、あの笑みにたどり着いたカサンドラ様が死ぬはずはないのだ。
フランフランは問いかける。この天上画で埋め尽くされた部屋の中で、一枚一枚を手入れしながら、その日のカサンドラの心をなぞる様に。
なぜ、貴女様はこの塔から飛び降りたのですか。完成されたという絵は、いったいどこにいってしまったのですか。なぜ、私の息子まで連れて行ってしまわれたのですか。
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