第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(6)

 帝王学は不完全な理論だ。そう告げた錬金術師の言葉が頭の中に反響している。そんなことは分かっている。帝王学だけでは少年を帝王へと導くことはできない。少年に鎧として装着させる帝王学は、魂を象り、心を縛り、感情を飾り立てるだろう。だが、その心の内側から燃え盛る『何か』がなければ、帝王は帝王たりえない。それは常人の持ちえぬ翼のような意思。天高く舞い上がり、全てを俯瞰することのできる帝王への渇望、世を統べる支配者への憧憬、世を変えようという革命者への切望、それらは帝王学が生み出すものではない。意思を生み出すのは、器たる個人としてのバックボーン、経験である。理論や書物では得られない、生々しい体験。魂に刻み込まれるような、そんな過去こそが未来の帝王を生み出すのである。帝王への意思に必要とされる過去とは何か。帝王学は帝国末期にそれを理論化することに成功した。無数の皇帝、建国者、英雄たちを分析した結果に導かれた、一つの理論、意思を生み出す方程式。戴冠への七項式――それこそが、帝王学の極意。不完全といわれた帝王学を完成させる、最後の鍵なのだ。

 コフは七項を一つずつ思い浮かべ、空想のフラスコの中に注ぎ込んでいった。一つ注ぐたびに、七色に変化していく。六つの項式は既にフラスコの中に溶け込んでいた。それらは失われたわけではない。少年の無垢な魂に、生涯消えることのない傷として刻み込まれているのだ。

 残すところは後一つ、最後の項式を嵌め込むことで、最終的な解が導き出される。帝王への意思という解が。そのときこそ、羽ばたく翼を大地へと繋ぎ止める最後の楔が解かれ、少年の魂は帝王として大地に降臨するのだ。帝王への最後の扉は、あの子自ら開かなければならない――

 「クリフ様がお目覚めになられました」

 執務室でその報告を受けたとき、コフはクリフ戴冠にいたる夢想に溺れていた。

 目を開けば、召使長であるフランフランが、表情のない顔で立っている。連れ子であるマルコの死以来、この女は自分に心を閉ざしている。かつては私生児であったマルコに与えられた環境に歓喜し、敬意と感謝に入り混じった視線で私を見ていたというのに。

 感情の失われたその瞳に、コフの頭に一つの疑念が浮かんだ。

 もしや、クリフ様を殺害しようと裏で糸を引いていたのはこの女ではないのか。コレッタはこの女を庇っているのでは。マルコの死の原因であるクリフ様を、フランフランは憎んでいるのではないだろうか。

 クリフの毒殺未遂事件はコフの壮大な野望を砂の城へと変えてしまいかねない出来事であった。コフは独自で調査を進めたが、犯人は杳として知れない。大気中に染みだした秘蜜の副作用で誰もが秘密を抱えているこの城では、誰もが容疑者としての可能性を持っていた。毒を入れられる場所にいたのは、料理人たちと給仕役であったコレッタだけである。しかし彼女が毒を入れるとはコフでも思えなかった。コフがただひとり容疑者から外している人間だった。

 そのため、コレッタが自らの罪を告戒室で懺悔したことを聞いたとき、コフはその理由の見当も付かなかった。如何なる秘密の下に、互いに心を通わせていたクリフ様に毒を盛ろうとしたというのか。

 コレッタが罪を告白し、牢に幽閉されたと聞いたクリフは顔色を失い、

 「嘘だ」

 そう叫んだのだという。

 「コレッタがそんなことをするはずがない、彼女にできるはずがないんだ」

 うろたえ、必死になって侍従に何度もそう言い、

 「コレッタに会わせてよ、ぼくが話をしてみる」

 と訴えたのだという。

 「罪人であるコレッタは裁きを待つ身、お前に会わせることはできない」

 そう伯爵から告げられたクリフは、その夜から高熱を出して寝込んでしまった。それから三日間、クリフは眠り続けていた。顔をゆがめてうなされる少年を見かね、侍女や医師が起こそうとしても、目覚めようとしない。昏々と眠り続け、どんなに呼びかけても、体をゆすっても、一向に目を覚まそうとしないのだ。

 食事もとれず、水分だけを僅かに水差しで与えていたが、体は目に見えて弱ってきていた。ただ時折、弱弱しい声で、母の名と親友であったマルコの名を呼ぶのである。

 母と親友を同時に失った後、最も心を開いていたコレッタが犯人であったという事実が、クリフ様に大きな衝撃を与えたのだろう。また七つの項式はその一つ一つが、彼の幼い精神に強烈な負荷をかけているはずだ。この悪夢は帝王へ至るまでの必要な痛み、心に帝王への意思が芽生える生みの苦しみのはず。そうコフは考えていた。だとすれば、全ては計画通りに違いはない。しかし、想像以上に悪夢はクリフを苦しめており、しかも捕らえたまま離そうとはしない。目を覚ましてもらわねば、このまま命があぶない。

 落ち着かないコフに、クリフが目を覚ましたとの知らせが入ったのは、眠りについて四日目の朝のことであった。

 知らせに来たフランフランに詳しく聞くと、今は水とスープをゆっくりと食べているという。体力は失われているが、意識ははっきりして落ち着いているということだった。

 「悪夢は、いったいどんな夢をご覧になっていたのかは話されたかね」

 「いえ、お聞きしても、教えては下さらないのです。顔を曇らせるばかりで」

 「今は誰が側に」

 「マリィだけがお側に、クリフ様がそう望まれましたので」

 あの心を覗き込むという、伯爵の雇った間諜か。コフは舌打ちをした。

 あの黒髪の少女が侍従として城を訪れたときから、伯爵の子飼いのものであることは分かっていた。問題はなぜ少女が城に雇われたのか、である。コフの集めた情報では、少女が人の嘘を見抜くことのできる魔女である、そんな報告がされた。彼女もまた、クリフを守るために雇われたのかもしれない。秘蜜の作用によって、伯爵はもはや家令である自分さえも信用しないようになっている。しかしそれだけだろうか。

 警戒は必要だが、クリフ様に危害が及ばない限り、マリィとやらは泳がしておいていいだろう。結局そうコフは判断した。それよりも、今度の一件、コレッタの殺人未遂をどう処理するか、彼にとってそれこそが問題であった。

 これまで、七項式は順調に進んできている。奇跡、そういってもいいほどに、全ての状況が七項式のために推移してきている。これが運命というものではないのか、そう思うほどに、歯車がかみ合い始めていた。そもそもそろうはずのない困難な条件、有り得ないシチュエーション、起こりえないシーンが、コフの思い描くままに整っていくのである。

 その始まりは、クリフの母であるカサンドラの発狂であった。地下への螺旋階段の途上で意識不明で倒れていたカサンドラは、二日間の昏睡を経て目覚めたとき、気が触れてしまっていた。それは奇妙な症状となって彼女の心を狂わせていた。地上恐怖症、いや地下恐怖症とでも言おうか、とにかく彼女は、階段を上るという行為に執着し、逆に階段を降りることに異常なほどの恐怖を感じるようになっていた。心がすくみ、筋肉が強張り、全身が引き付けを起こしたように震えだす。彼女は一段たりとも階段を降りることが出来なくなってしまった。そしてうわ言のように「地獄が地上へと噴き出してしまう」と繰り返すようになり、城でも最も高い塔、かつては牢獄であった見張り塔に逃げ込むと、その一室に閉じこもり、決して下りてこなくなってしまった。

 それだけではない。彼女は、あれだけ溺愛した息子を、人形として錯覚するようになったのである。見舞いに訪れたクリフ様を見て、「まあよく出来たお人形ね、クリフにそっくりじゃない」といったのである。

 その異常な台詞に侍女や医者達が凍りつく中、

 「でも、人形じゃなくて本物のクリフはどこ。会いたいわ、連れてきてちょうだい」

 本気でそういったのだ。

 実の息子が笑顔を引きつらせ、

 「僕は人形じゃないよ、ここにいるじゃないか」

 といっても、

「まあ、このお人形はよくできているのね、言葉までしゃべるなんて。でも貴方は本物のクリフじゃないわ。よくできたレプリカね。早く本物に会いたいのよ。どこにいるの。おふざけはやめて頂戴」

 人形と決め付けたクリフには目もくれず、伯爵にそう訴えるのだった。

 呆然とするクリフは伯爵によって連れ出され、それを見送るコフの背に、

 「なあに、今は頭を打って混乱しているだけさ、じきによくなる」

 そう慰める伯爵の声が聞こえてきた。

 しかし、カサンドラが正気に戻ることはなかった。すぐに半狂乱になって暴れだし、「クリフにあわせなさい」と叫びだしたのだ。困り果てた医師の前で、フランフランがふと思いついてクリフの肖像画を塔へと運ばせた。それを見たカサンドラは、涙を流して喜んだ。

 「まあ、やっと来てくれたのね。これまで何処に隠れていたの」

 そういって肖像画を抱きしめたのだ。

 カサンドラがクリフの肖像画を描き始めたのはそれからである。そもそもの趣味であった油絵でクリフを描き出したのだ。また同時に、天上の楽園を描いた風景画を蒐集し始めたのである。

 「楽園にクリフを連れて行くのよ。素敵な景色を見せてあげるの」

 そういって部屋の中を夥しい楽園の景色で隙間なく埋め尽くすのだった。

 何がカサンドラ伯爵夫人に起こったのか。それを知る物は誰もいなかった。ただコフには予想がついていた。それが秘蜜の過剰摂取による精神異常であろうと。一気に高濃度の秘蜜を吸入したことによって、現実と非現実の区別が付かなくなったのだろう。秘蜜には様々な副作用があり、禁断症状時の虚無感だけでなく、例えば現実と見紛うばかりに鮮明な夢を見たり、夢から醒めるのが難しくなったり、夢と現実の区別が付かなくなったりすることがある。そういった症状があることが、各地に秘蜜の常飲者を抱える伯爵とコフには分かっていた。問題は、なぜカサンドラ夫人が秘蜜を大量に摂取したのか、いや誰が彼女に高濃度の秘蜜を処方したのか、という点であった。

 それは伯爵しか有り得なかった。秘蜜の精製法を知っており、それを持ち出すことが出来るのは伯爵とコフしかいない。伯爵自らがカサンドラ夫人を狂わせたのだ。

 その頃には、コフは伯爵の不安定な心理状態に振り回されるようになっており、その真意を測りかねていた。奇妙な言動が目立つようになり、ときには人が違ってしまったかのような印象さえ受けるようになっていた。名君と呼ばれた頃とは違い、喜怒哀楽が激しくなり、感情の起伏が極端に大きくなっていた。自分が抑えられないように激怒したかと思うと、次の瞬間には感情的になってすまないと大泣きし、自己嫌悪で落ち込んだかと思うと、相手の気にしていないという言葉に歓喜するのだ。

 伯爵がどんな理由で、溺愛していた妻に秘蜜を与えるに至ったのか、それはコフにも定かではなかった。ただカサンドラが息子を遠ざけるという事態に陥ったとき、コフが抱いたのは、肩を落とす麗しい少年に対する同情ではなく、七つの項式の一つが満たされたことによる喜びであった。

 幼少時での母の喪失とそれに伴う永遠の憧憬――それは、帝王学の精髄、数百年の研鑽、練磨の極みとして導き出された戴冠への七項式の一つであった。

 七項式は他の十二科とは異なり、書物ではなく経験として体感しなければならないものである。その七つの体験は、幼少時での母の喪失とそれに伴う永遠の憧憬、支配者である父への強烈な憎悪、巨大な権力機構への挫折感、近親者の不幸に対する自責の念、他者の幸福に寄与することによる自己陶酔、などを含めた七つの体験である。全てを経験することによって帝王学という器のなかで心理的な化学反応が起こり、確固たる帝王への意思が炎の中から羽ばたくのだという。

 その項式を導き出したのは、帝国で最後に生き残った十二人の帝王学者達である。あらゆる学問の統合学として一つの極致に到達したという帝王学が弾き出したのは、常人が聞いたなら狂人の妄想としか思えない理論であった。しかしコフはこの理論を、些かの疑いもなく信奉していた。帝王学体系の書物に耽溺するうちに、もはやこの理論がまぎれもない真実であると確信していたのである。

 ただその七項は何れも実現出来る可能性が低く、それにはもはや謀略ではなく神の意思が必要ではないのか、そう思われるようなものばかりであった。ところが、いまやその大半は叶いつつあった。母や親友などの犠牲を払いながら、確実にクリフは階段を上っていた。残すところはあと二つ、しかしその二つが最も困難で実現が難しいことであった。コフは身もだえしていた。あと二つの項式さえ満たすことが出来れば、クリフはやがて世に君臨する魂を完成させるであろう。それは炎のような意思となってクリフを跳躍させ、羽ばたかせるであろう。それを想像するだけで、コフは自らが至上の演出家であり脚本家であるような充実感に浸ることが出来た。

 そんな繰り返される妄想の果て、コレッタによる自白をいかに処理するか考えていたコフの頭に、一つの閃きが弾けた。

 クリフが目覚めたという知らせを受けたコフは、逸る気持を抑えて寝室へと向かった。

 「お加減はいかがですか、クリフ様」

 「うん、とってもいいよ。ただお腹が減って喉が乾いてるってだけさ」

 その笑顔はやつれており、どこか少年らしからぬ影がさしていた。

 傍らにはマリィが控えている。先ほどまで二人で話をしていたようだ。

 コフはマリィを下がらせると、クリフと二人きりになった。出て行くのを躊躇するマリィに、クリフは何か言いたげな顔を見せた。

 「二人で話をしなければならないのですよ」

 コフがいうとマリィは表情を強張らせ、少年に向け軽く目配せをして部屋を出た。

 クリフは残念そうにその背を見送った。コフを見る目に僅かに怯えが含まれているのが分かった。

 「熱も下がって大変よかったですね。ただ、また帝王学のカリキュラムに遅れが出てしまいますね」

 ため息をついたクリフは、鬱陶しそうな表情をコフに向けた。

 「いいよ、別に。それどころじゃないし」

 そう不機嫌そうに言い捨てた。

 コフはため息をつく、近頃のクリフは帝王学に対して拒絶反応を示し、コフにも壁を作るようになっていた。仕方がないかもしれない、様々な不幸な出来事により、もはや耐え切れないほどの精神的負荷がかかっているのだ。だがコフは、その精神的な負荷こそが、クリフが殻を破るための内部からの圧力だと考えていた。

 「ねえ、コレッタはどうしてる? 牢の中は寒くはないの、食事はちゃんととっている。さっきマリィに聞いたら、誰も会わせてもらえないって言ってた。牢にいるのかどうかも知らないって」

 狂える帝王学者は、絵画の最後の一筆を描くような恍惚感に浸りながら、少年に告げた。

 「先日の裁判において、伯爵はコレッタの処刑を裁可しました。お二人を殺害しようとした罪を認めたのです」

 七項式の最後の一つ――『支配者としての権力への渇望』が注ぎ込まれる。フラスコの中で全てが混ざり合って反応し、帝王への意思が生まれる悲鳴のような音が響いた。

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