第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(5)
――一人の錬金術師を雇うつもりだ。
そう伯爵がコフに告げたのは、近隣直轄領地の視察と森林裁判へ出かける前日だった。いつもはコフの職務であるその仕事に、伯爵自らが出向きたいというのである。確かに伯爵が各地を巡って威厳を示すことは、領地を統治する上で大切なことである。伯爵が名領主と呼ばれるようになったのも、他の貴族や領主とは違い、彼が自ら領民と接し、権威を示し、優しさを見せるからであった。
しかし秘蜜に溺れるようになってからは、伯爵はそれらの職務をコフに一任して城に篭るようになっていた。それが、突然城を留守にするというのである。そして留守の間に、一人の錬金術師が城を訪れるはずだ、そういうのである。
なぜわざわざ城を留守にするのか不可解に思ったコフだったが、まず何よりも、どうしてその錬金術師とかいう胡散臭い輩を雇うのかを尋ねた。
「どうやら、錬金術とは秘蜜の精製技法にも通じるものらしい。秘蜜は錬金術の副産物であるという説もある。その真偽を確かめたい。秘蜜はいまだ我々にも謎が多い。秘密を快感へ変えるという効能は分かっているが、原理そのものは分かってはいないのだ。彼によって秘蜜の別の利用法が明らかになるかもしれない」
伯爵はそう答え、
「留守中に紹介状を持って我が城を訪れるだろう。そのときは、よろしく頼む」
と言い置いてそそくさと城を後にした。深く追求されることを拒んでいることは明らかであった。
伯爵の言葉どおり、伯爵の留守中に一人の男がやってきた。その錬金術師は、背が曲がり、髭で顔を覆われ、目の光だけがやけに強い男だった。
城に滞在するようになって、その男が最初の印象以上に奇妙で不気味な男であることが分かった。男は神出鬼没で、どこにいるのか分からないが、どこかからか見られているような視線を感じるのだ。コフは幾度も彼と会おうと部屋を訪ねたが、いつも不在であった。おかしなことに、彼は食事さえとっていないのである。
彼がコフの前に初めて姿を現したのは、城の隠し部屋、帝王学の書物が収められていた書庫でのことであった。倉庫の隠し階段から下りる地下室、かび臭い紙とインクの香りの漂う、書物で埋め尽くされた小部屋である。
コフと伯爵しか知らないその小部屋で、コフは帝王学の書物を読み耽っていた。ふと、何か空気が揺らいだような気がした。ランプの炎が揺れている。空気の流れが変わったのだ。振り向くと、扉の前にハインが立っていた。髪と髭に顔を覆われ、落ち窪んだ目はどこか虚ろである。年齢は定かではないが、恐らくは初老の男であろう。
「ようやく姿をお見せになりましたね。私はずっと貴方を探していたのですが」
彼の噂を聞いていたコフは、落ち着き払ってそう尋ねた。
「私はずっと見ていたがね、私を探そうとする貴方を。気付かなかったのかね」
不適な笑みを浮かべる男に、コフは寒気を感じた。動揺を悟られないように聞き返す。
「それにしても、まさこここに現れるとは。なぜここが分かったのです。私の後をつけたのですか、それとも伯爵が貴方に教えたのでしょうか」
「どちらでもない、私はこの隠し部屋を、最初から知っていたのじゃよ」
最初から――そんなはずはない、いや、最初とはいつのことだというのか。
「別に驚くことじゃない。私はこの城を訪れる前からこの部屋のことを知っていた。この部屋の書物は、二百年ほどの昔にさる錬金術師が残したもの。貴方がさっき耽読していた帝王学の書物も、そもそも一人の錬金術師のコレクションの一つじゃ。焚書から逃れるためにこの部屋に保管しておいたのさ、いつか後継者が現れるまで」
「それをなぜ貴方がご存知なのです」
「錬金術師は時を越えて記憶を共有するもの。二百年の昔のことも、私とっては昨日のことのようさ。古びるのは埃に埋もれた部屋ぐらいのもの。記憶は鮮明でも、懐かしくはあるがのう」
記憶を共有する。その不思議な言い回しにコフは軽い眩暈を覚える。
「私もお聞きしたかったのですが、錬金術とはどのような学問なのですか」
「そうだな、一言で言い表せるものではないが、あえて言葉にするなら、『一人の人間を造り出す学問』と言える」
コフの心臓が大きく打つ。
「錬金術とは数学や科学とは違って理論だけの学問ではない。それはすなわち体験なのだよ」
「一人の人間を作り出す為の?」
「そう、だが、貴方の学ぶ帝王学とは違う。錬金術が造りだそうとするのは、アインだ」
この男は帝王学のことも知っているのか。それに――アイン。それはいったい。
「よろしい、教えてあげよう。錬金術とは既に完成した学問なのだ」
怪訝な顔をして質問を決めかねるコフに、男は話し始めた。
「――かつて一人の天才が世に生まれた。彼は錬金術という学問を生み出し、一代にして体系化して完成させた。いわば創始者にして究極の錬金術師だ。彼は一人で錬金術という学問を完成させてしまったのだ。到達者とも呼ばれるその人物の名を、アインという。彼は旅をしながら研究を続け、錬金術を完成させた。最後に究極の物質を生み出すと、世から姿を消したのだ。いや、消したのは姿だけではない。人々の記憶からも、その存在を消し去ってしまった。彼は因果律を覆して人々の記憶を書き換えてしまったのだ。残されたのは、その研究書や実験施設、彼が為した因果で引き起こされた結果だけだ。その後に錬金術師を名乗ったものたちは、皆、アインの研究を行う者たちさ。彼らはその一生を費やしても、アインの影さえ踏むことは出来なかったがね。それほどに、アインは傑出していた。
錬金術を学ぶということは、各地に残されたアインの残骸、破片から彼自身ついて学ぶこと。錬金術とはアインの思考の軌跡、過程であり、彼そのもののこと。すなわち錬金術とは、この世で唯一、自我を持つ学問のことなのだ」
「学問が自我を……つまりは人格を持つ、ということですかな」
「その通り。錬金術はアインという人格の所産であり、それを学ぶことはアインを目指すということだ。思考も、理論も、記憶も、アインと同じ軌跡を描き、過程をトレースすることになる。それはアインの追体験であり、錬金術を学べば学ぶほどにアインに近づいていく。脳にアインそのものが組み込まれていくのだと想像してもらえばいい。錬金術とはアインに関して記された書物であり、長大な物語なのだよ。それを読み終えることが出来たのは、到達者であるアインだけだ。他の者達はせいぜい二、三ページをつまんで読むことしか出来ない。物語はいきなり結末を読んだり、途中を読んでも決して完成することはない。全てを順序どおりに読み進めていかなければ、最後まで読み終わったときの境地にはたどり着けない。最後の結論だけを聞いても全く感銘などを受けることはできまい。錬金術とはそのようなものなのだよ。
アインの遺した書物には、書物ごとに分断されて一人の人格が閉じ込められている。それを解読することによって人はアインに目覚める。アインに感染するのだ。すると、菌が増殖していくように脳に独自の思考が生成されていく。脳に組み込まれた錬金術の体系は、その人物の持っている自我を覆い尽くして乗っ取ってしまうのだ」
「ふむ、聞いていて気持ちがいい話ではありませんな。吐き気がしてくる。要するに頭の中にアインが生まれるということですかな」
「そう、全く出来損ないではあるがね。信じられないと思うが、これは真実なのだよ。数十年前に王府主導で極秘に錬金術の専門研究機関が設立され、錬金術師達が流行り病のように蔓延ったことがあるのは知っているかな。各国がこぞって錬金術師を招聘し、その力を崇めていたのだ。これは裏では有名な話だ。そのとき錬金術師を名乗ったやつらは、自らをアインだと勘違いした模倣者さ。紛い物とも呼べない愚かな輩達は、いわば出来損ない、といったところだろう」
「ほう、では貴方自身もそうなのですか。アインに及ばない出来損ないの錬金術師だと」
「その通り、私もまた不完全で未熟な模倣者。アインに到達しようとする旅の途中さ。巷間に流れる錬金術師ハインの噂や伝説は、実は全てが本当ではない。アインになろうとした者達の悪あがきの爪あと、正体のない夢の残滓さ。更にはその残り滓を人々が勝手に解釈し、意訳し、口伝えに伝えられるうちに歪んだものだ」
コフの辛辣な質問にも、ハインは躊躇なく答える。声はどこか楽しげである。
「で、なぜこの城に?」
「巡礼、といったところかな。アインの遺産を巡る旅をしているのだ。各地に遺されたアインの破片、断片、それらを巡って旅をしているのだよ」
「ということは、この城にかつてアインという錬金術師が逗留し、何かを遺したと?」
「そう、遥か昔、アインがこの城で何らかの研究を行っていたと思われるのだ」
「しかし、そんな記録は残されていません。私は城の家令が受け継いできた日誌や年代記を全て調べましたが、そんな客人の名は記されてはいなかったように思います」
しかしコフは、アインという名がどこか記憶の奥底に引っ掛かっていることに気付いていた。確かに日誌や年代記にその名はなかったはず。だが私はその名を、この城に残された史料の中で目にしたことがある、抜群の記憶力を持つコフはそう確信していた。では、いったいどこでアインという名を目にしたというのだろう。記憶を手繰り寄せるが、靄がかかったように思い出すことは出来なかった。
「彼はこの城で如何なる研究を行っていたのですか。ここで、錬金術によって何を生み出したのでしょう。この城でその遺産とやらは発見されたのでしょうか」
「錬金術は実に多様な学問で、その成果は無数に存在する。彼の大きな研究テーマとして伝えられているのは三つ。究極の物質の精製、完璧な言語の創造、至高の自我への到達だ。彼は錬金術を完成させる過程で、この三つを成し遂げたという。この城でそのうちの一つを研究していたのだ」
「――完璧な言語」
その言葉がコフを刺激した。では、あの帝王学関連の書物も、彼が遺したものだというのだろうか。
「いや帝王学は錬金術とはまた別の学問だ。あれを集めたのはアインの趣味だろう。彼はコレクターでもあったから」
ハインはコフの心を見透かしたようにそう告げた。
「アインの生み出したのは、言語そのもの。文字も、名も、文法も、言語体系も、発音も、全てをゼロから創り上げた、全く異なる新種の言語。彼は自らの研究を完成させるには、現行の如何なる言語でも不可能だと判断したのだよ。言語とは不完全なものの一つだ。彼が生み出そうとしたのは、如何なる歴史と時間の変転を経ても、度重なる言語の淘汰にも決して揺るぐことのない言語。現実をあますことなく正確に再現することのできる完璧な言語。一文字一文字にアインの記憶が秘められており、思想が、経験が、思考の軌跡が、編み出した方程式が些かも磨耗することなく反映されている。それも文字でありながら驚くべき鮮明さを保ったまま、現実の経験と鮮烈さを減じることなく、音楽や、風景や、味わいの美醜、そして感情の一切を味わうことが出来る。いや現実などより遥かに鮮やかな体験となって読者の五感と心を震わせることを可能にしてくれる言語。貴方が認識している言語とは次元の異なる存在だ。そんな完成された言語の創造を彼は目指していたのだ」
言語体系そのものを創造する、その想像はコフの常識の範疇を越えていた。
「到底信じられることだとは思えません。まるで妄想病者の戯言ですな」
「妄想病者の戯言? 私こそ、それが帝王学者の言葉とは思えんがね。貴方こそとうに滅びた怪物を復活させようとしているだけだ。怪物を天使と見誤ったのかどうかは知らんが、帝王学という狂った方程式の妄想に憑かれているのは貴方ではないのかね」
コフは眼光を鋭くしてハインへと叩き付けた。
「帝王学は未完成であっても妄想ではない。いまだ帝王学を実践したものはいないのだから。私をもって帝王学は完成し、この世へ初めて君臨するのだ。錬金術師のようにフラスコの中で奇妙な薬品を掻き混ぜて悦に入るような輩に、何がわかる」
「貴方の信仰する帝王学も、クリフという滅菌されたフラスコに言葉を入れて振るようなものだろう。『帝王を生み出す七つの項式』か、次に入れるのはどのような触媒だね。
『父への強烈な憎悪』か、それとも『幼児体験による母への変わらぬ憧憬と喪失感』かな」
コフはハインの言葉に驚愕した。
――なぜお前が帝王学の極意について知っているのだ。それは帝王学の中でも秘伝とされ、帝王の核となるべき奥義。それを知るのは私だけのはず。伯爵にさえ秘められているというのに、どうして……。
動悸を静めると、コフはゆっくりと手を胸のうちに入れようとする。そこにはナイフが隠されている。知られた以上は計画の妨げになる可能性が高い。ならば、殺すしか――
と、コフの体が突然重さを増したように、その動きを鈍くした。如何なる異変が起こったのか、全身が重さを感じて緩慢な動きしかできなくなった。コフは全力で腕を動かすが、まるで意思の伝達が上手くいかず、手は震えながら蛞蝓のように僅かずつしか動かない。立ち上がろうとしても同じであった。
筋肉を強張らせるコフの胸元に、そっと手が伸びてきた。ハインの思いのほか若々しい力強い手が内ポケットからナイフを取り出す。コフは声さえ出せず、視線でその手を追うことしか出来ない。何が起こっているのだ、催眠術、いやまさか毒か、コフは自分のうかつさを呪った。
ハインはナイフを取り出すと、その表面を指で撫でる。
「家令ともあろうものが早まってはいけないな。私はあなたの計画の邪魔をするつもりはないのだよ。むしろ歓迎して見守りたいほどだ。確かに帝王学を完成させたものはいない。造り掛けのまま放置された巨大な遺跡は、今となっては存在さえ知られない廃墟となっている。それを復活させるというのは、じつに興味深い研究テーマだ。手伝ってもよいぐらいさ。成功か失敗かはともかくね」
そう言うと、ハインはナイフをコフの首筋に当てると、腰に下げた小さな香炉を取り出した。そこから漂ってくる何かによって、香炉周辺の風景が陽炎のように揺らいでいる。
「今、何が起こっているかわかるかね。この香炉から、空気中にある物質を溶け込ませたのさ。匂いに変えてね。すると、大気は水のように重さを含んだものに変化する。見えない大気が、粘土ほどの質量をもって体に纏わりつくのだ。いまや貴方の全身にかかっているのは、海面下百メートルにも匹敵する重力だ」
ハインがナイフを手から離す。空中に静止したナイフがゆっくりと下降していくのが見えた。
「物質の質量圧縮と性質変化は錬金術師の基礎だ。どうだね、信じる気になったかね」
その言葉もハインの口から伝わるまでに大気に波を立てて近づいてくるのが目に見えて分かった。時差を経てコフの耳に言葉が届いたときには、すでにハインは口を閉ざしていた。
扉の前にハインが立ったとき、コフはようやく立ち上がる動作を終えようとしていた。
錬金術師の口が動く、しかし声はすぐには伝わらない。ゆっくりとコフへと近づいてくる。彼が扉を開いた瞬間、部屋の大気が外へと流れ出した。止まっていた時間が動き出したかのように、コフの体が自由に動かせるようになる。生み出された強風で部屋の書物が書棚から落ち、紙の史料は扉の外へと吸い出されていった。
発言者の消えた室内に、声だけが遅れて反響し、消えていった。
――私は貴方の邪魔をしない、だから貴方も私の研究を妨げないで欲しい。そうすれば、互いの望みは適うであろう。
コフは椅子に倒れこむように腰を下ろすと、全身に吹き出た汗が流れるのを感じていた。
散らばった史料を一瞥すると、その中に心に引っ掛かる一枚を見つけた。それは古びた、半ば焼け落ちた書物の残骸、数枚だけが焚書を免れて生き延びたものの一枚。
その一枚を拾い上げる。そこに記されていたのは、紛れもなく『アイン』という名、そのサインであった。
それは二百年ほど前に記されたものであった。城の史料の中でも最も古い。描かれているのはこの城の全体図、緻密な線が無数に引かれ、数字と記号で埋め尽くされている。コフはそれを見て驚嘆する。これは二百年の昔に描かれたこの城の設計図の一部。この設計図を元に、この奇怪な城は建造されたのだ。そしてその設計者の名が――
この城そのものがアインという名の錬金術師の手になるものなのだ。この城こそがアインの遺産、彼の研究施設であったのだ……
コフはそのとき、一つのイメージを抱いていた。
巨大なフラスコの中に浮かぶウロボロス城。その中に注がれる言葉、出来事、そして人間たち。そのフラスコを揺らし、ガラス越しに興味深げな視線を向けるのは、一人の錬金術師。閉ざされたガラス球の中でどのような変化が起こるのか、運命を弄ぶようにフラスコを振る、気紛れな神の姿を。
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