第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(4)
帝王学とは、王によって禁じられた反逆者の学問である。帝国が滅びて以後、各地で細々と受け継がれていた帝王学が、その探求が死罪に値すると定められたのは、現在の王国が建国されて数年後のことである。その後、『帝王学者狩り』と称する一斉弾圧によって、その異端の学問に関する書物はその尽くが焚書の劫火に消え、学者達は捕らえられ、その学問を捨てることを強制的に約束させられた。その摘発と弾圧は異常なほどに苛烈であり、しかも不仲である近隣諸国までもがこの弾圧に関しては互いに協力し合って情報を分かち合い、国内外に潜む帝王学の継承者達、その弟子達までも探し尽くして捕縛、殺害したという。
学院の地下学生組織でその学問の存在を知り、ベゴニア老師との出会いにより帝王学を学んだコフであったが、それを隠すため、彼は常に神経を尖らせていなければならなかった。もしも政府に見つかれば、弁解の権利さえ与えられず、たちまち牢獄に繋がれてしまうからだ。そして、恐らくは生きて牢獄を出ることはできなくなる。かつて捕縛された帝王学者達は、その殆どが弁明も許されず、牢獄内で獄死しているのである。
そのため、帝王学はコフの胸に秘められていた。ウロボロス城でその書物を偶然発見して、その解読に没頭するようになってからも、誰にもその存在を明かすわけにはいかなかった。それは叶うはずのない夢想であり、その中で細部まで緻密に造り込まれていく理想郷に、コフは遊ぶようになっていた。
帝王学がたった一人の人間を器とする学問であり、伯爵の息子であるクリフが類稀な聡明さを持っていることに気付いた頃も、それを少年に施すことは夢であるにすぎなかった。伯爵にも帝王学のことを気付かれるわけにはいかなかった。伯爵は誠忠の名君として名高く、王に確固たる忠誠を誓っており、信頼も厚かった。もし自らが反逆者の学問である帝王学を学んでいることがばれれば、間違いなく極刑に処される。それも帝王学のことは秘されたまま、秘密裏に暗殺されるであろうと予想された。
しかしある頃から、その伯爵に異変が起こり始めたのである。
それは伯爵が蛮族の襲撃を、自ら指揮を執って打ち破り、その名声が更なる高まりを見せるようなった後のことであった。
それまで年齢に比して精悍であった心身が、急激な衰えを見せ始めたのである。政務に対する気力を失い、コフに職務を丸投げすると、城内に閉じこもるようになった。虚ろな表情に苦痛を滲ませながら、ひたすら物思いに耽るようになった。やがて食欲は失せ、目は落ち窪み、体はやせ衰えていった。深刻な気鬱病、心の病であろうと医師は診断したが、その原因は分からず、様々な治療も一切効果をあげなかった。
周囲の家臣や家族が心配する中、今度はある日を境に一転して快活になった。何がきっかけとなったかは分からないが、まるで昼夜がひっくり返ったかのような変調であった。食欲は増し、心身は以前にも比べ躍動的になり、感情も表情も豊かになった。政務に対して精励するようになり、幾つもの新たな斬新な政策を打ち出すようになった。その復調を周囲が喜んだのもつかの間、数ヵ月後には再び気鬱病を発症してしまう。それから伯爵は、気鬱病と躁病を周期的に繰り返すようになった。
奇妙な症状はそれだけではなかった。鏡の中に見知らぬ人間が映ると言い出し、自分の部屋の鏡を始めとして、城内の鏡を壊し始めた。妻が描いた自らの肖像画を燃やし尽くした。夜毎の悪夢にうなされるようになった。みなが寝静まった夜に、城内をふらふらと徘徊するようになった。逆に、昼の間は昏々と眠り続けるようになった。
心の病が深刻であることに誰もが気付いていたが、誰一人としてそれを解決する手立てを持たなかった。聡明で誰もが敬意を抱いていた伯爵の突然の変調に、城の住人達は不安を覚えずにはいられなかった。
コフが伯爵に政務室に呼び出されたのは、伯爵の精神がバランスを失って半年ほど経ってからのことだった。
満月の夜、城の住人達も寝静まった深夜のことである。鬱の周期であり、昼に眠り続けた伯爵は、毎日を夜の住人として過ごしていた。といっても、城の地下に設えた部屋に、ランプを片手に閉じこもっているだけであった。
突然の呼び出しに、コフは慌てて着替えて政務室の扉を叩いた。
そこには濃密な甘い香りが漂っていた。数箇所に置かれた燭台に蝋燭が灯され、暗闇の中に、伯爵の姿が赤々と浮かび上がっていた。
椅子に腰掛けた伯爵は、目の前に立つコフを相手に他愛無い会話を続けた後、じっとその目を覗き込んだ。コフは沈黙の中、その目に宿る赤い光に、心の中を見透かされるような不快感を味わった。と、伯爵は真剣な眼差しで、おもむろに言ったのだ。
「コフよ、私と夢を見ないか。そなたの帝王学を我が息子クリフに施し、地上に新たな帝国を築き上げる夢を。王への反逆という秘密を分かち合い、我が子を帝王として君臨させる、壮大な夢を」
突然の告白に、コフは心臓を鷲づかみにされたかのような衝撃を受けた。思考が麻痺し、混乱した。
「……ご存知だったのですか、帝王学のことを」
コフが辛うじて言いえたその台詞に、伯爵は微笑を湛えて頷いた。
「私も王都の学院では書物の虫だった。そなたほどではないがな。その禁じられた学問に、私も一時期は熱病のようにとりつかれたものだ。だが、そなたと同じく、それは過ぎた若かりし夢、そう思うようにしていた。何しろ、見つかれば死罪は免れず、一族郎党まで厳格に調査され、秘密裏に処罰される。帝王学はその継承者に至るまで根絶やしにされてしまう。ただの好奇心で学ぶにはリスクが大きすぎる。私には、そなたのように師匠との出会いもなく、学ぼうにも史料さえなかったのだよ。だから熱病から冷めてしまった。それが、まさかこの城に大系全書が遺されているとはね。君の部屋でその書物を発見したときには、私も言葉を失ったよ。そしてあの熱病が、再び私の心を焦がし始めた」
全てを知られていることを悟り、コフは、決意の一言を口にする。
「伯爵、では、帝王学をクリフ様に施す許可を頂けるのですか」
それはコフが夢に見続け、夢に押しとどめることを余儀なくされた危険な妄想。
「我が息子が王国を倒し、新たな君主としてこの地に平和をもたらす。親としてこれに勝る願いはあろうか」
伯爵の自信に満ち溢れた清清しい宣言に、固く閉ざした理想郷への門が轟音とともに開く音を、コフは確かに聞いた気がした。
その日から、クリフに対するカリキュラムの全てが、帝王学を修めるものへと換えられた。無論、全ては秘密裏に行われた。クリフという器を育てる一方で、コフは伯爵とともに、叛乱への下地作りを画策し始めた。膨大な資金、有力貴族や豪商への根回し、近隣諸国の高官との友好関係の育成、信頼に足りる内通者たちの教育と潜入、辺境の一貴族である伯爵が叛乱を成功させるには、慎重で綿密な計画を作り上げなければならなかった。それは、コフには余りに遠い道のりに思えた。
しかし、その心配は杞憂に終わる。伯爵がコフに奇妙な薬品を見せたのは、どうやって王府の目を逃れ、秘密裏に資金を調達するかを話し合う席であった。
「これは、実験養蜂場で採取された新種の蜂蜜だ」
小瓶に入った琥珀色の糖蜜を見せ、
「この奇跡のような蜂蜜が膨大な資金の源となり、我らに権力をもたらすことになる」
そういったのだ。
コフは最初、伯爵の言っていることが信じられなかった。それはただの蜂蜜にしか見えなず、とても膨大な資金を生み出すとは考えられなかった。だが、それは誤りだった。その新種の蜂蜜の奇妙な効能を知るにつれ、コフにもまさしく奇跡の薬だと思えてきたのだ。
それは人の官能、五感、感情を爆発的に高める薬であった。摂取した人間に、圧倒的な全能感をもたらしてくれるのである。その官能はひとたび経験してしまえば、もはや忘れることは不可能であり、その薬の虜になってしまう、中毒性の高いものであった。また、その薬は、禁断症状時には、人の精神のバランスを多様に狂わせてしまうという副作用も持っていた。
「それだけではない、この蜂蜜は、人や世界の持つ秘密を官能へと変換する薬なのだ」
そう伯爵は陶然とした顔でコフに説明した。
「秘密を? 秘密を持っていることが、快感となるというのですか」
「正確には少し違うな。そもそも秘密とは快感をもたらすものなのだ。この蜂蜜は、その官能を数千倍に高めるのだよ。摂取したものはやがて小さな秘密では物足りなくなり、より新鮮で、より大きな秘密を所有したいと思うようになる。これを貴族や豪商相手に用いれば、莫大な資金を得るとともに、理想の地下組織を短時間で形成することができる。この蜂蜜は未知な部分も多く、その性質を理解するための研究と実地調査が必要だがね」
「いったい何処の実験養蜂場で開発されたものなのですか。何の植物から、どんな種類の蜜蜂が採取したのです。そのような報告は、私にはなかった」
確かに、養蜂場では新種の蜂蜜が研究されていて、全ての情報はコフに届けられることになっている。しかし最近では新種など発見されていなかった。
「それは明かすわけにはいかない。この蜂蜜の精製法は極秘中の極秘なのだから」
そう口にする伯爵の口元はだらしない笑みで歪み、眼差しは恍惚として空中を彷徨っていた。それを見たコフは、伯爵の変調の原因がこの新種の蜂蜜であることを確信した。この蜂蜜が、伯爵の精神を狂わせてしまったのだ。
「この蜜の名は、秘蜜だ。人が胸に抱える秘密を、至上の甘露へと変える、神の霊薬だ」
不意に一つの想像がコフの脳裏で像を結んだ。伯爵が帝王学を息子に授けようと決意したのも、この秘密を快感へと変換する蜂蜜の作用ではないのか。それまで王の忠実な家臣であった伯爵にとって王への謀反の計画は、これ以上ない大きな秘密となる。つまりは大きな快感へと変換されるのだから。
だが、もはやコフにとって、それはたいした問題ではなかった。彼はクリフに帝王学を授けることができるのなら、如何なる大罪も厭わないと覚悟を決めていたのである。
秘蜜という蜂蜜は、伯爵一人の厳重な管理化に置かれ、どこから城へ運び込まれるのか、その一切は、コフにさえ隠されていた。地下に運び込まれた秘蜜の樽は、小瓶に小分けされてコフに手渡された。コフは伯爵とその流通経路を探り、少しずつ権力者や豪商へと売り込んでいった。静かに、密やかに、そして熱狂的に広まっていった。やがて、裏ルートで厳選された会員達に販売されるようになった。
継続して秘蜜を買い求めるには、資金だけでなく自らの大きな秘密を伯爵へと差し出さなければならず、有力者達の秘密が伯爵のもとへ集められた。それを心の中で弄びながら、伯爵が快感にだらしなく震えるのを、コフは、軽蔑の目で見るようになった。自らも少しずつ秘蜜の残り香に蝕まれていくのを感じながら、コフは伯爵に秘めた嫌悪感を、やはり快感へと置き換えるようになっていたのである。そのことに気付いたコフは、自身は秘蜜の甘い香りから遠ざかるようになった。クリフを導くための道のりは長く、伯爵のように秘蜜に溺れ、自分を見失うわけにはいかなかった。
城に集められる膨大な金貨と、高貴なものたちの虫唾の走る秘密を管理しながら、コフはクリフへの帝王学の講義に全力を注ぐようになっていった。
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