第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(3)

 コフが伯爵に拾われるまでの記憶、それは忌み子へ向けられる母の憎悪に満ちた視線と、天使と崇める信徒達の眼差し、そしてその天使を穢そうとする、欲望で粘ついた男達の瞳だった。

 娼婦である母と、司祭である父の間に生まれたコフは、生れ落ちたときより背徳の落とし子であった。与えられたのは祝福ではなく、厄介者への憎しみであった。司祭は戒律を犯したことにより職を奪われ、母は食い扶持を失ったその夫を捨てた。コフが捨てられなかったのは、赤子は物乞いをするときに役立つからだ。コフは生まれつき人を惹き付ける美貌を備えていた。愛くるしい笑顔は女達の母性を刺激したし、弱弱しい泣き声は男達の同情を引いた。苦しげな表情は聖職者達に受けたし、悲しそうな微笑は金持ちの貴婦人達の胸を打った。

 赤子の頃から、コフは徹底的に自らの表情を変えられるようにしつけられた。母親は物乞いをしようとする相手によってどんな表情が彼らの心を打つかを見抜き、そしてコフに指示を出した。わずか二歳にも満たないコフは母の言われたとおり、言われるままに泣き、笑い、愛嬌を振りまき、苦しげにうめき、無数の仮面を自在に使い分けられるようになった。

 コフの最も古い記憶、それは、「もっと陽気に楽しそうに笑いなさい」そういって頬を繰り返し叩く母の憎憎しげに歪んだ顔である。もっと、もっと、楽しそうにするのよ。コフの精一杯の笑顔に、「そうじゃないわ」といって強く横面を叩き、「さあ、もう一度、にっこり、これ以上の幸せは、これ以上の喜びはない、そういう笑顔を作るの」といって練習を繰り返させられた。

 楽しかったことなど、嬉しかったことなど、一度もなかった。悲しみも、憎しみも、よくわからなかった。それらはただの言葉だった。ただ怯えながら、コフは言われるままに顔をゆがめ、表情を作り上げようと必死になっていた。感情を封じたまま、顔だけが無数の表情を演じられるようになっていった。コフの美貌から生まれる表情は、母によって彫り上げられた仮面であり、自在に操られる木偶人形のそれだった。コフは金を生んだ。母はコフを数人の物乞いに貸し出し、荒稼ぎをするようになっていた。

 三つになると、赤子ではなくなったコフはもはや貸し出すこともできなくなり、同情を引くために母によって片腕を切断されることが決まっていた。母は冷たい表情で選ばせた。

 「片手を失うか、足を失うか、両目か、どっちがいい? お前が好きなほうを、笑顔で答えるんだよ」

 そのときでさえ、コフは満面の笑顔で答えた。

 「腕がいいです。足がなくなったら、歩けなくなっちゃうから」

 心の奥底では恐怖が荒れ狂っていた。しかし、それを微塵にも表情には出さなかった。

 コフにとって表情とは言われるままに作り上げるものであり、自分の感情を表現するものではなくなっていた。感情そのものから、少年は遠ざかるようになっていた。

父親がコフを迎えに来たのは、腕を切断される三日前のことである。やつれた顔で訪れた元司祭は、一袋の金貨で母親から息子を引き取った。少年は父親に会うのは初めてあったが、母親から散々聞かされていた悪評、罵りが記憶にこびりついており、そこには何の感慨もなかった。ただ、腕を切断されずに済むという安堵感だけがあった。

 父親がコフを迎えに来たのには理由があった。その美貌を聞いていた父親は、ある筋に連絡をとり幼子を生贄として捧げることを約束していた。それは聖教会にカストラートとして売り渡すことである。カストラートとは、去勢した男性声楽者のことである。聖歌隊に美貌の少年はつきものであるが、声変わりまでの僅かな期間しかその中性的な美声と美貌を保つことはできない。それを永らえるために生み出されたのが、去勢によって男性器を切除されるカストラートである。

 その当時の記憶は、コフからは消滅している。気が触れるほどの恐怖と痛みが、彼の脳に緊急回避の処置を施した。少年に残されたのは、心の奥底に淀む、暗澹とした深い闇の塊である。それを覗き込むことは恐ろしくてできはしない。ただその存在を消すことはできなかった。いつも心の片隅で、その闇から覗かれているような、そんな気がしていた。

 覚えている手術前の最後の記憶、それは諭すような父親の言葉である。

 「お前は穢れた娼婦と我が欲望の下に生まれた、罪の申し子なのだよ。だから、その体は生まれながらにして穢れてしまっているのだ。その身を清めなければならない。そうして一生を神に捧げなければ、お前の罪は消えないのだ」

 彼自身はカストラートに美貌の息子を捧げる事で司祭への復職と法外な金貨を受け取ることが決まっていた。母親に与えたのはその前金であったのである。

 その美声と硬質な天使の美貌は、信徒の関心を引いた。コフは自分の表情を他人の望む様に変えることができるようになっていたし、聖歌と聖衣は少年の持つ美貌を更に際立たせた。中には彼を天使の使いとして崇めるものたちも出てきた。聖教会はその人気に目をつけ、聖歌劇に天使の降臨という謳い文句をつけ、広告塔として少年を使うようになる。

 コフは人々の視線や信仰が集まることに、快感を覚えるようになっていった。自分の歌で人々が涙を流し、歓喜する。聖堂を出るときはみな、今日の充実感、明日への希望、神を讃える良心、そういったものを胸に抱きながら出ていくのである。聖歌の歌詞と旋律は美しく清らかで、世のあらゆること、喜びや楽しみ、苦難や哀しみを切々と綴ったものであった。信徒達を前に、歌に表情を乗せて歌い上げるとき、コフは自らが天上のものであるかのような得もいわれぬ思いに駆られるのであった。

 美しいものは言葉の中にしかない。真実は言葉の中にしか存在しない。調べだけが、その言葉をはっきりと際立たせてくれる。それを口にする人間が如何に愚かで醜く歪んでいることか。

 しかし次第に名声を得ていったコフには、少年愛に狂う大司祭たちの慰み者になるという末路が待っていた。信徒達から天使と崇められる少年を穢すことは、その手の司祭にとって至上の快楽となった。父親はそもそもそれを条件として息子を買い取ったのであり、全ては契約のうちであった。少年に抵抗する権利はなかった。汚辱と神性が絡まりあうような日々が続き、やがて少年の心は死に体となっていく。聖歌の旋律と歌詞の美だけに縋り、心を殺し続ける毎日。感情を置き去りにしてくるくると目まぐるしく変わる表情のなかで、ただ大きな瞳だけが苛烈な光を放つようになっていった。

 コフの心を繋ぎとめたのは、文字であり、言葉であった。コフは文字を読むことが出来なかった、というより、文字を習うことを禁じられていた。彼は口伝で聖歌の歌詞や教義、説教を覚えさせられていた。彼は修道士としての教育は一切与えられず、ひたすらに歌うことだけを強要された。彼は文字に焦がれていた。聖堂の書庫に所蔵された夥しい書物に囲まれ、聖歌の楽譜や神の詩、物語、歴史書、それらを眺めながら、いったい何が書かれているのか、そこから何が始まるのか、色々な想像を巡らせることが好きだった。文字を習わせてください、そう頼んだことも一度ではない。

 司祭の言葉はこうであった。

 「奴隷に文字を学ぶことは許されていないのだ。神聖なる聖歌を歌えるだけでもありがたいと思いなさい。聖歌を歌うことが出来るのは、そもそも神の祝福を受けた者達のみ。お前のように罪を購った体を持っていても、生まれついての魂の穢れは消えやしないのだから。罪の子は奴隷としての一生から逃れられない」

 絶望の縁でコフをとどまらせたのは、その手に持った一冊の書物であったかもしれない。聖歌手としての小道具として所有を許された、たった一冊の書物、天使の歌。コフは文字も読めないままにその書物を眺め続けた。一文字一文字指でなぞり、一ページ一ページを心に刻み付けた。繰り返し繰り返し、コフはいつの間にか全てのページ、全ての文字の配列を意味も分からぬままに暗記するようになっていた。

 コフが伯爵と出会ったのは、とある宮殿での宴席でのことだった。カストラートとしての美声を披露したコフは、男女の区別の付かぬ美貌へ向けられる好奇の視線から逃れるようにして、中庭の壁に背をつけ、暗がりで書物を眺めていた。月明かりの影で文字など読めるはずはなかった。しかし書物を開き、頭の中で文字を反芻し、描き出すことは可能だった。それだけで安らぎを得ることが出来た。

 「暗闇の中で、文字が読めるのかね」

 声にはっとして顔をあげると、そこには見知らぬ壮年の男が立っていた。

 「いえ、文字は見えませんが、書物を開いていると、落ち着くものですから」

 「文字を知らないのに?」

 その言葉に、コフは赤面した。コフは文字を読めないことを、文字を禁じられる奴隷の烙印として恥じていたのだ。それにしても、どうしてこの男がそのことを知っているのか。

 「いや、すまない。君を蔑んだわけではないのだよ。ただ気になったのだ。文字を知らないのに一冊の書物を完璧に暗記しているカストラートがいると、そう聞いたのでね。

 ――文字を知りたいかね」

 「ええ、しかし、禁じられていますので」

 「文字を禁じることなど、誰にもできはしないのだよ」

 「でも、司祭様は神の忌み子に文字は理解できないと」

 「文字は理解するものではない。心と体で感じるものだ。望むのなら教えてあげよう。時間がないから、知りたい言葉の文字でもいい。何かあるかね?」

 コフは一つの言葉に思い当たった。暗記した書物は、どこで文字を言葉として切ればいいのかさえ分からなかった。ただ、頻繁に出てくる言葉を、文字の配列としてコフは記憶していた。それはいたる箇所、殆ど全てのページに記される、七つの文字による文字列。それがどんな発音のどのような意味の言葉であるのか、コフは以前からずっと知りたいと思っていたのだ。

 月明かりの下に歩み出ると、コフはページの中のその文字列を指差し、伯爵に尋ねた。

 指先は震えていた。何か大きな禁忌を冒すような罪悪感、真理が解き明かされるのではないかという期待感、それが胸の鼓動を速めていた。

 伯爵は微笑んで答えた。その文字列を読みあげた。

 知っている言葉だった。有り触れた、どこにでもある、聞きなれた言葉。あの穢れた司祭たちでさえ都合よく口にする言葉だった。

 しかし、何を意味しているのかは分からなかった。それはたった一言の意味不明の名詞、物の名前でしかなかった。そのもの自体がいったいどのようなものなのか、コフは知らなかった。

 「知りたいかね、この言葉の意味を」

 聖なる書物に散りばめられたその言葉を、しかしコフは知らなかった。少年の中で、切望、熱情の想いが燃え上がった。

知りたい。この言葉を。誰もが切望してやまないこの言葉、誰もが語りたがるこの文字列の正体を。

 ――教えてください。

 言葉と共に、頬には涙が溢れていた。そこいらに石ころのように転がっているその言葉が、燦然とした輝きを放ちだしていた。それまで目を向けなかった、幻でしかないないと目を反らしてきたものに、手を伸ばせば手が届くのではないか、掴もうとすれば掴み取れるのではないか、そんな気がしていた。

 コフは繰り返し、その言葉をつぶやき続けていた。それはやがて叫び声になり、泣き声になっていった。その言葉を叫ぶたびに、言葉は輝きを増し、そして遠ざかっていくような気がした。コフの意識は走り出し、その輝きを追いかけた。目も眩むほどのその輝きは、月明かりなどかき消していた。

 発狂したかのようにその言葉を叫び続けたコフは、異変を聞きつけた招待客たちが奇異の視線を投げかけるその中央で尽きせぬ思いを言葉に込めた。

伯爵はその夜のうちに、聖堂建設の資金提供と引き換えにコフを引き取った。コフが十歳のことである。

 コフはその後、伯爵の下で家令としての英才教育を受け、王立学院へと進み、そこで天才の名を恣にした。言葉に対して貪欲であったコフは、あらゆる書物を読み、多様な学問を学んだ。王立学院の地下学生組織で帝王学の存在を知り、それに関する書物や資料を探し漁った。しかしそこでは容易に関連資料は見つからず、書物などは一冊も残されていなかった。

 帝王学という滅び去った奇妙な学問への興味が高まる中、彼は一人の老師、ベゴニアと出会った。王府の目の避け、彼を師として帝王学を修めるようになる。流浪の旅人である師は、帝王学者であることを周囲に隠し、雇われの軍師として各地を流離っていた。ベゴニアの薫陶でコフは帝王学への情熱を燃え上がらせるが、関連書物は尽く焚書の憂き目にあっており、王立博物館の所蔵されるものか、大図書館に大禁書として保管されるものぐらいだという。そのため、師が去ってより、一度は帝王学への情熱を忘れようとし、燻らせることとなる。

 コフは学院を卒業すると、家令としてウロボロス城に戻った。数年が過ぎた頃、コフは迷宮のような城の中で、隠し部屋を発見した。なんとそこには、禁じられ、滅びさった学問である帝王学の、大系全書が残されていたのである。コフは城で帝王学の研究に没頭した。家令としての激務をこなしながら、一人書物と格闘し続けた。

 そんな文字に溺れる中で、コフは一つの考えに思い至る。

 全ては文字の配列なのだ、と。

 文字とはすなわち世界の最小単位。その配列によって神も悪魔も天国も地獄も象ることの出来る全能の素子。あらゆる物語も、真実も、理も、悪も欲望も全ては文字の配列によって表わされる。言葉とは世界の再現、書物とは体験なのだ。

 コフの頭の中に、新たな世界が確かなイメージとなって屹立する。そのイメージは何処までも鮮明に、緻密に、細部の先端まで作りこまれていく。今の世の理を解体し、新たな理による世界を創造すること。誇大妄想が今の世界を作り出したのなら、新たな世界もまた誇大妄想によって生み出されるはず。帝王学による理想郷の文字配列が、コフの思考に張り巡らされていった。

 コフは密かに帝王学という卵を温めながら、やがてクリフという少年に夢を見るようになっていった。帝王学をこの類まれなる聡明な少年に授けながら、その卵から新たな世界が殻を破るのを待ちわびるようになっていった。

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