第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(2)

 城で二番目の高さを備えた東塔は、灯台と呼称される見張り台である。その回廊は螺旋状に上へと伸びており、石造りの手すりから覗き込めば長い吹き抜けが見通せた。

 コフはその回廊を上りながら、次第に空気が清浄になっていくのを感じていた。上に行くにつれ、次第に甘いべたついた空気が薄れ、柔らかな風を含んだものへと変わっていく。どこかしら体も軽くなったような気がする。それが錯覚ではないことをコフは知っていた。空気中に含まれる秘蜜の含有量が減っていくからだ。

 いま大貴族達の地下茎を通って流通し始めている秘蜜は、隠し階段を通った城の地下深くに、樽となって収められている。それでも、満月の夜ごとに、秘蜜の成分は、ゆっくりと樽から染み出していく。秘蜜は、微小な、塵や埃よりも遥かに小さな成分、匂いとなって城に漂っているのである。その量はほんの僅かであり、濃度は樽に収められた蜜液の三十万分の一程度に過ぎない。しかし城に長く暮らしていると、少しずつそれは体内に取り込まれ、そのうちに慣れていく。やがて住人たちは秘密に淫するようになり、それとともに心を狂わせ始めるのだ。

 コフは自らも既に秘蜜に冒されていることを知っている。それは軽度ではあるが確かに秘密の所有という快楽をもたらしてくれている。

 靄を抜けるようにして塔の上階へとたどり着く。

 久方ぶりの清浄な空気を、コフは薄い胸に吸い込んだ。

 気体に溶けた秘蜜も若干の重さを持っているため、ゆっくりとではあるが、下へ下へと溜まっていく性質を持っている。そのため城の上階にいくほど濃度は薄くなる。逆に城の階下ほど濃密な秘蜜がたゆたっている。コフは秘蜜依存症になることを恐れ、城の底部には殆ど近づかないように気を遣っていた。重度の秘蜜依存症になると、もはや抜け出すことは困難であるからである。いまや城の底部に住んでいるのは、錬金術師ハインと、城主カタストロプ伯爵だけである。

 塔の頂にあるのは、かつて秘蜜に心を狂わされた奥方の幽閉されていた部屋である。扉を開けると、真っ白な光で視界が覆われた。まばゆさに目を細める。今は住人を失ったその場所には、楽園の風景が広がっていた。それは無数の絵画。天上の世界、楽園の風景画、翼を持つ天使たちが舞い、青い空と白い雲、美しい花々に彩られた楽園が、無数の絵画となってそこに出現していた。大きな天窓は円形であり、ガラスの向こうには丸い空が開けている。そこから差し込む陽光で部屋そのものがまばゆく輝いていた。白と空色を基調にして部屋に光が反射していた。

 真っ白な空間の片隅、暗黒の影が屹立している。禍々しい黒い塊のように見えた。黒いサーコートにマントを羽織ったこの城の城主、カタストロプ伯爵が楽園を切り裂く漆黒の刃のように立っていた。

 コフは伯爵に秘蜜の密売に関する報告を行った。誰にどれほどの量が流れているのか。誰からどれだけの注文が入り、何人の新規の顧客が増えたのか、その収入、経費などについて簡潔な報告をする。

 罪悪感を快楽へ転化する秘蜜は、中毒性を考慮して濃度を薄められた三流品であっても、豪商や大貴族の間で熱烈な愛好者を増やしていた。普通に流通させては、恐らくは全貴族や王族へと爆発的な広がりを見せることは間違いなかった。しかし、それでは王府から目を付けられてしまう。そのため秘蜜はその一滴に宝石一個ほどの値段を付けている。ために、秘蜜を買うことができるのは、大貴族か豪商、王族、高位聖職者だけであった。更に、買うためにも幾つかの条件がある。まずコフや伯爵によって認められた人間でなければ、買うことは出来ない。次に会員制をしき、その秘密を守るとの契約を交わさなければならない。あくまで秘蜜は裏ルートを流通させるのだ。そうしなければ、莫大な資産が転がり込んでくることで王府から目をつけられ、圧力を掛けられてしまう。そして最も重要なルールとして、会員となるためには、自らの秘密を差し出さなければならなかった。

 貴族や豪商ともなれば、自他のものに関わらず無数の秘密を隠し持っているものである。彼らの秘密を差し出させ、その秘密が契約に足りると見なされれば、ようやく会員となって秘蜜を購入する権利を得ることが出来るのである。その会員制の地下倶楽部の名を『裁かれざる罪』という。倶楽部の会員はみな、国境を越えて名がとどろく大貴族や、王族、商人ギルドの大商や、高位の聖職者などの権力者達である。数年前に発足したこの地下組織を通し、いまやアンダーグラウンドであらゆる秘密が行きかい、売買されるようになっていた。そして全ての秘密はこのウロボロス城、カタストロプ伯爵へと集められるのである。この数年で蓄えた秘密は諸国の体制を揺るがすものから、家名の存続を左右するものまで実に多様であり、それはすなわち弱みとなって伯爵とコフに握られているのである。

 各国の策謀、政治的な駆け引き等の裏側等の他、政府中枢の権力者、特権階級の者達の顔を背けたくなるような醜聞、汚職、賄賂、罪悪の数々など、反吐を吐きそうな人の欲望に纏わる秘密が集められていった。それらに塗れていくうちに、コフは自分の体が腐臭を放っていくような不快感を覚えるようになった。人の負のエネルギー、多様な粘液に塗れ、悪臭の混合したどろどろとした何かが、自分の体に纏わりついているような気がするのだ。

 それでもコフは仕方がないと考えていた。全ての汚辱、汚濁を引き受けるのは自分でいい。今は幼い器が完成を見るまで、自分は影となり闇となり、器が戴冠を迎える準備を整えなければならないのだから。

 コフの報告を聞き終えた伯爵は満足そうに頷いた。

 「つまり、いまや貴族連議員の過半数は私たちの手の内に落ちたというわけか」

 「そうです。彼らはもはや私たちの操るままの木偶人形です。絶対王政を進めようとする王府とは敵対関係にありますし、国境を越えて支配力を持つ大商人ギルドからも王府の転覆を条件に莫大な資金の提供を取り付けております。先だっての王府による借金の法的な踏み倒しや、強引な財産没収、ギルド解体と産業の国有化などの制度化が押し進められる中で、彼らも王族の我侭には耐えかねているようです。いまや我らの支配力は王族に迫り、財力は小国家に匹敵し、傭兵を軍として雇えるほどに膨れ上がっております」

 「僅か数年で、秘蜜というのは我ながら恐ろしいものだ。それとお主の手腕も、まさしく悪魔も青褪めるほどの悪辣さ、策謀の神も呆れるほどだな。それも帝王学の一つかね」

 伯爵はそういって鼻白んだ。

 「陰謀学は帝王学十二科の一つです。だが全ては貴方様を貴族連盟の盟主に押し上げ、やがてクリフ様を帝王として降臨させる祭壇を造りだすため。伯爵も納得してくださったではありませんか」

 「ふむ、確かに。我が子を帝王として君臨させることは、我が悲願。しかし息子をそなたの木偶人形にするのは本意ではないのでな」

 「ご冗談を、私はそのような気などさらさらございません。私の本懐は帝王の降臨による新たな理の世界の誕生、そのためにクリフ様は最高の人材なのです。正直に言いますと、帝王学を継承することができる者が存在するならば、クリフ様でなくとも構わないのですよ。私は人形の操者ではなく、製作者でありたいのです。それも最も優美で、力強く、機能性に優れた、神の手になる造形美を備えた人形。クリフ様はその人形に不可欠な、類まれな魂の持ち主なのです」

 「神の手、か。無神論者であるそなたからそのような言葉出てくるとは驚きだな。以前は私の神への寄進など馬鹿らしいと言っていたのに」

 「私は確かに神など存在しないと思っております。しかし、私にも信仰は存在する。それは、言葉。現実に神はいないが、言葉に神は宿る、そう考えているのです。私に神がいるとするならば、それは言葉そのもののこと、そして帝王学という学問のこと。全ての理を整然と組み込んだ新たな世界の設計図、揺ぎ無い方程式、完璧な証明。古い時代、一度は完成を間近にして劫火の炎に消えた叡智の結晶。それこそが、私の信仰の対象なのです」

 伯爵はふっと眼差しを緩めると、懐かしそうに遠くへ視線を移した。

 「まさか、奴隷同然で拾ったそなたがここまでやるとは。しかし私が惹かれたその瞳の強さは、昔と変わらぬ。運命などというものを信じているわけではないが、そなたには生まれつき革命の遺伝子とやらが組み込まれていたのかもしれん。私はその種子を、このウロボロス城に胚胎させてしまったのだ。そう考えると――」

 伯爵は天を仰いで大きく息を吐いた。ため息ではない、運命の悪戯への感嘆の吐息。

 「確かに、この城でなければ、我が野望も芽吹くことはなかったでしょう。この城には全てが揃いすぎていた……。とうに失われたとされていた帝王学の書物も、かつて蔓延して謎のままに消え去った秘蜜という霊薬も、継承者を待つようにこの城には眠っていたのですから。馬鹿らしいとは思いますが、運命という言葉を信じたくなるのはこんな時でしょう」

 感慨深げに伯爵は目を細め、優しく語りかける。

 「最近はよく思い出すのだよ。そなたの瞳を見ていると。幼い頃と些かも変わらない、いやそこに宿る炎は以前よりも強く、そしてなお静かな瞳が、私に思い出させるのだ。初めてそなたに会った日のことを。そのときのそなたの言葉を」

 「ええ、私も一日たりともその日を忘れたことはございません。私の人生はそこから始まったのです。腐臭の漂う王都で、貴方に出会った日に私は生まれた。そう思ってさえおります」

 「覚えているのかね、あの日の言葉を」

 「ええ、無論。あれこそ、私の産声であったのですよ」

 コフは思い出す。

 全ての力を振り絞って全身で慟哭した日のことを。

 少年でありながら、赤子のように泣き叫んだ日のことを。世に生れ落ちたことに対して、怒りも、憎しみも、感動も、喜びも、恐れも、全てを込めて、言葉にして叫んだことを。

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