第三幕 家令コフ 帝王学者の残夢(1)
――チェックメイト。
幼いながらも凛とした声が響き、光沢のある白と黒の盤上で、象牙細工の駒がかちりと音を立てた。細く白い指先で摘んだ『魔女』を象った駒が、一回り大きなコフの『城主』の横へと移動した。
コフは目を見開き、しばらく盤面を見つめた。
「お見事」
そう言葉をこぼして大きく息を吐いた。顔を上げるとクリフが照れくさそうな笑顔を向けていた。
書斎とされている部屋は大広間といっていいほどに広く、部屋の半分が書棚で構成されていた。書棚には夥しい書物が収められていて、古いインクの香りが漂っている。ここだけが城中に漂う甘ったるい香りから隔てられ、香水などとは異なる種類の香りが立ち込めていた。それは書物の放つ香り。如何なる香水でも再現できない、文字とインクと紙、そして書物が放つ時間の匂いである。
小窓からは赤い日差しが差し込んでいる。二時間に及ぶ対局を終えて、辺りは夕暮れ時にさしかかろうとしていた。
「まさかあの盤面からひっくり返されるとは、もはや私では如何なる局面からであっても勝てそうにはありませんな」
そう笑いながらコフがいうと、少年は少し気恥ずかしそうに答えた。
「いや、十一手前には、まだコフにも勝てる筋が残されていたんだよ」
と、瞬く間に盤面をそこへ戻そうとする。コフは感嘆していう。
「ということは、十手前ですでに私の負けは決まっていたということですかな」
「そう。十手前で勝負は付いていたんだ」
一見して儚げな外見とは異なり、少年は躊躇なくそう断言する。
その圧倒的な才気に感動すら覚える一方で、末恐ろしい子だ、と一種の危惧も覚える。
二人が指していたのは、クロニクルというチェスに似たゲームである。だがその複雑さ、難解さはチェスの比ではない。貴種の遊戯と呼ばれるチェスは、この時代に貴族を中心に広く浸透して親しまれ、ゲームとしてそのルール、形式はほぼ定まっていた。二人が指していたのはそれとは異なり、遥かに時を遡った帝国の時代に栄えた、チェスの原型となったものだ。帝国の時代、このクロニクルという盤上のゲームはどこまでも複雑化し、難解になり、その形が中々定まらなかった。専門の学者達が集って日夜の研究に明け暮れ、その一定の形を整えるまでに数百年という時間を費やしたという。しかしそれでも究極的な完成はみなかった。今では考えられないが、それほどまでにクロニクル熱が高まったのには理由がある。それはクロニクルが世界の真実の姿を表現するとされ、いわば帝国の曼荼羅として機能していたからである。盤上は帝国だけでなく、この世の森羅万象、宇宙までも内包した天象儀。そう考えられていた。帝国の時代の法律学者、社会学者、数学者、天文学者、建築学者、自然学者…あらゆる学問のトップが集まり、クロニクルを統一学問として体系化することを目指していたのである。
クロニクルは学派にも拠るが、総駒数は三百以上、駒の特性、動きによって無数のルールがある。小宇宙とされたクロニクルは、その駒の種は五百にも及び、対局者は一定のルールに従って自らの手駒の数と種類を選び、エレメントと呼ばれる初期形に仕上げなければならない。まずはそこから勝負は始まるのである。駒の種類も実に多様で特徴的である。奴隷、商人、裁判官、提督、狩人、暗殺者、奥方、詐欺師、道化師、馬車、武器商人、占星術師、薬詩、金貸し、楽士、学者、騎士、司祭、修道女、農夫、自由民、遊牧民、門番、影武者、賂役人、代理人、傭兵、詩人…などなど無数に存在し、駒の特性も、代表的なものでも裏切り、寝返り、買収、忠義、脅迫、拷問、懐柔、改宗、退位、継承、簒奪、捕獲、陰謀、などなど、覚えるだけも一苦労である。
遊び方も多様であり、学者達の研究によって作り上げられた『局面』という定められた対戦途上の盤面があり、それには史実などに沿って様々な名前が付けられている。代表的な『百八基本局面』から上げると、『帝国暦204 東方の陰謀』『帝位継承権を巡る一週間』『ヴァンローゼ家の内乱』『帝都の暗黒』等などが局面の傑作として名高い。特定の局面からいかにして定められた勝利条件を満たすか、という形で勝負をする形や、『縛り』と呼ばれるいくつかの特殊ルールを組み合わせた対戦(例えば、城主は決して動かしてはいけない、や、一方が百手以上守りきれば勝利、王を守ったままある地に導けば勝利等など)もある。
一般的なクロニクルのルールでは、まずは王を生み出すところから始めなければならない。どの駒でも成り駒というルールに従ってその特性や種類を変えることができる。そしてその中で、例えば王子から王へと成り駒したり、王妃から女王へと成り駒したりとの過程を経て王を目指さなければならないのである。極端な話、手順や展開によっては奴隷から十数回の成り駒を経て王へとランクアップさせることも可能である。盤上での世代交代、王位継承、対局者との闘争を経て、最終的に覇王、帝王へと導くことが最終目的なのである。
数百年以上の歴史があるだけに無数の著作、論文、研究書があり、学説や流派などによってクロニクル学は混沌とした複雑な様相を見せている。『クロニクル、盤上の諸身分』という記録は、残存するクロニクル学の学問体系の一つであり百年の総論でもあるが、分厚い書物で五十巻もの全集である。
さらにチェスのようにただルールに従って勝てばいい、というものでもなかった。勝ち方にも美学が要求された。ルールに則っていても邪道とされた手、騎士道に反するとされる手、年長の対局者に対して礼儀を欠くとされる手、逆に相手への敬意の表れとされる手、不利な手と分かっていながら騎士道精神を貫くとされる好手もあったし、それらは『盤上のエチケット』と呼ばれる冗漫な解釈論として発達していった。実際に王位継承や家名の相続がクロニクルによって決められるのは不思議なことではなかったし、それも勝敗よりも終局した盤面の検討によって分析される対局者の人間性、将来性、精神性が重視されるたのである。
クロニクルは様々な変遷と発達、進化、退化、革命、理想化、単純化を繰り替えしてその形を変えていった。帝国はゆるがせに出来ない真実の宇宙図の完成を目指していたのだが、それが完成する前に帝国そのものが滅びてしまった。
今の時代となっては継承するものは殆ど皆無で、複雑であるがゆえに対局の呈を為すことさえ困難とされる。それがクロニクルである。しかし、この城で、クロニクルは復活を遂げていた。コフという帝王学者と、その忠誠の対象であるクリフという少年によって。クロニクルは、帝王学者の提唱する基礎科目、帝王学十二科の一つであった。
『奴隷とグリフォンの翼――078年の奇跡』――そう名付けられた『局面』は、クロニクルの初心者が有冠者と対戦するためのハンデ戦として考案された一局である。片側に極端に不利に盤上が組まれた、いわば大人と子供のための『局面』である。
しかしそのハンデをものともせず、少年は師匠であるコフを子供のように手玉にとって見せたのである。しかも、コフが盤上の変遷に見出したのは、少年の王としての芳醇な美意識、統治者としてのロマンチシズム、軽妙洒脱な少年の遊び心、悲しみを湛えた慈愛…言葉に尽くせぬ覇王の大器であった。対局しながら、コフは少年の一手一手からにじみ出る情感に、いくたび感動を覚え、涙を零しそうになったことか、その指し筋はクロニクルと呼ぶに相応しい、滔々と流れる雄大な大河、幾多のドラマを生み出す悠久の時の流れを思わせた。
王府中央学院において神童と呼ばれたコフを遥かに凌ぐ、クリフ少年の才気。
クロニクルに限らず帝王学における他の科目に関しても、クリフは信じがたい理解力と想像力を示している。
――間違いなく帝王の大器を備えている。そしてその器はいまだ成長期にあるのだ。
自らの手で育ちつつある新世界の種子に、コフは高揚感を覚えずにはいられなかった。
コフに完勝したクリフは、詰らなさそうに駒を指で弄びながら、窓から差し込む夕日を眺めている。
「それにしても、私で相手にならないとは、いったい次からは誰を招いて対戦すればいいのでしょう」
「一度城を訪れてくれたベゴニア老師は?」
「我が師匠ですか。確かにあの方ならばお相手できるでしょう。というより、他にいらっしゃいませんね。しかしおあの方は流浪の旅人で、どこにいるのやら分からないのです。こちらから連絡が取れないのですよ」
クリフは以前クロニクルの手ほどきを受けた老学者の名を上げた。彼はコフに帝王学を授けた男でもあった。
「では、カリキュラムを変更して、法律学の科目を増やしましょうか。革命学や謀略学を先に進めるのでも、恐怖統治論や飴と鞭の理想比率でもいいですし。荘園経営に関してでしたら、私がすぐに資料と教材を揃えられます」
「それでもいいけど、クロニクルが一番面白かったんだけどな」
クリフは少し不満げにそうつぶやいた。
コフは途方にくれた。十二歳にしてもはや教師がいないのでは、これ以上の成長は望めない。いったいどうすればいいのか。
と、クリフは瞬く間に十一手前まで盤面を戻すと、台座の上でくるりと回転させた。
「じゃあ、ここから対局再開だね。自分で追い詰めた盤面を、今度は自分で打開しなきゃならない。面白そうでしょ。今度からは自分との戦いだね。追い詰めたところで、盤をひっくり返せばいいんだから。こうすればいくらでも上達するよ。
数時間の対局もものともせず、クリフはそう楽しそうにいった。
――もはやこの子は既に我が手を離れ始めているのかもしれない。コフは感嘆し、秘めた思いを巡らせた。
器の成長は順調だ。問題は、器に備える供物。それがなければ、器は空っぽのまま、やがては朽ち果ててしまうだろう。帝王の祭壇へと捧げる最高の生贄。それこそがクリフ様を真実の帝王へと導くはずだ。そのときこそ、我が夢は叶う。
この城を胎内に、この少年を器にして、今の世の殻を破る理の王を生み出すのだ――
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