第二幕 司祭チェプストー 秘蜜の由来(3)

 遥か遠い時代に滅びたという学問、いかがわしい伝説に彩られた禁術――錬金術についてチェプストーが知っているのはその程度でしかなかった。伯爵からその言葉を聞いてからも、すぐに意識から消え去ってしまった。しかしある日のことである。一人の錬金術師がこの城を訪れたのだ。伯爵が荘園の視察で城を不在にしている時のことである。その男は、伯爵自身の筆跡による紹介状を携えて、城へとやってきた。紹介状には、彼は旅先で見つけた優秀な学者であり、客人として遇する旨が簡潔に記されていた。

 男の背は曲がり、ぼろぼろに汚れた学衣らしきものを身に纏っていた。ぼさぼさの髪に黒々とした髭で顔を覆い、目だけが爛々と強い光を放っていた。瞳の深さに、心の奥底を覗かれたような気になり、チェプストーは視線を外した。

 男は無口であり、城を案内している間も口を開かなかった。ただハインという名を告げただけであった。ハインという名が、噂に名高い錬金術師であることは、知っていた。だが、それを信じる気はなかった。それほど男はみすぼらしかったし、そもそもハインとは噂だけの存在、物語の登場人物だというのが定説であった。紹介状に記されていた伯爵指定の客室は城の底部にあり、殆ど誰も近寄ることがない場所であった。男はそこに通されると、そのまま閉じこもってしまった。

 紹介状には不気味な客人への世話について記されていたが。食事さえ用意する必要はないということであった。研究のために城への逗留を許すということで、伯爵はその流浪の学者のパトロンとになったというのである。

 最初の印象の通り、その奇妙な男は城の住人達に不気味がられるようになった。いつも、どこにいるのか分からない。はっと気づけば後ろに立っていたり、かと思えば意味不明な学説を展開したり、異国の言葉を呟いたりと、奇怪な行動が多いのである。なぜこんな男のパトロンになったのか、誰もがそのことを不思議に思っていた。ただ、チェプストーはぼんやりと考えていた。伯爵は、純粋な蜜を精製させるために、この男を雇ったのではないか、と。

 伯爵が城に戻ってからも、ハインという錬金術師は殆ど姿を見せることはなかった。部屋に居るのかどうか、研究をしているのかも分からなかった。彼に会った者は皆、そのことを幽霊にでも出くわしたかのように吹聴し、いまだ出会ったことのないものは羨ましがった。まるで幻のような存在であった。

 彼はチェプストーの前にも姿を現さなかった。最初に城を案内したきり、数ヶ月というものその影さえ踏ませなかった。噂で誰々がどこそこであったということは耳に入ってくるが、チェプストーは気配さえ感じないのだ。

 彼と二度目に遭遇したのは告戒室のなかであった。しかしいつもとは違い、チェプストーが懺悔者として自らの罪を告白しているときのことであった。

 その日、チェプストーは告戒室の懺悔者の方から入り、腰掛けていた。いつも自分が座っているガラスの向こう側には、誰も居ないはずであった。チェプストーは、無人の部屋に向き合って、罪を告白していた。それは、決して他人に漏らしてはならない告戒室での告白を、伯爵に売り渡したことである。

 それが聖職者として大罪であることは分かっている。しかし、自分は、伯爵の要求を断ることが出来なかった。まるで悪魔に憑かれてしまったかのように、伯爵に言われるまま、他人の秘密を明かしてしまったのである。しかも、一度だけではない。何度も何度も、チェプストーは定期的に秘密を話していた。

 「金が欲しかったわけではないのです」

 そんな言葉を黒いカーテンの向こうに投げかけた。口にしながら、言い訳じみた言い草だと自分自身で呆れてしまった。しかし、確かにそうなのである。秘密を告白する度に、伯爵は金銭を渡した。チェプストーは金銭というものをどちらかといえば毛嫌いしているところがあった。聖教会が露骨な拝金主義にまみれてしまうことを憂慮していたといってもいい。それが、いまや金を受け取らずにはいられないのだ。使うあても、目的もないのに、寄付としてではなく、自らの財布に入れずにはいられない。秘密を売り渡して金を貰うという行為そのものが目的ではないのか、自分でもそう思わずにはいられなかった。自分で自分が分からないのである。確かなのは、その行為が甘美な快感を自らにもたらすということ。自分が自分でいることを実感できるのである。

 自分はいったいどうしてしまったのか。チェプストーはうろたえた。しかし時が経つにつれて慣れてしまい、やがてどうでもよくなっていった。心のどこかが麻痺し、酔ってしまったような感覚が、いつしか普通のものとなっていった。

 奇妙なことに、自身も告白せずにはいられなくなった。誰もいないカーテンの向こうに、神の姿を思い浮かべ、一人の罪人となって、自らの罪を懺悔せずにはいられなくなったのである。

 「私は神の掟に背いた、罪深い男。そちら側に座る資格などないのです」

 そういつものように告白したときであった。いるはずのない仕切りの向こうから、声が聞こえたのだ。しわがれた、古い楽器を奏でるような響きの声が。

 ――悔いているのかね。罪を犯したことを。

 チェプストーはびくんと体を起こすと、心を震わせた。神の声――後から思えば不思議なことだが、彼はそう信じ込んだ。

 「無論です。聖職者として、司祭としての大罪を犯したのですから」

 ――ではなぜ、告白しながら、なぜそのような顔を?

 何を言われているのか、すぐには分からなかった。――そのような顔? いったい神は何をおっしゃろうとしているのか。

 ――気付いていないのかね、自分自身で。告白するときの貴方の表情が、歓喜と愉悦で歪んでいることを。口元も、頬も、目尻も、皺という皺が、皮膚という皮膚が、これ以上はないほどの笑みを湛えていることを。サーカスの道化師のように、罪を懺悔しながら笑顔が溢れていることに。

 「そんな馬鹿なっ」

 そう叫ぶと、椅子を蹴立てて立ち上がった。

 ――手を当ててみるといい。自分の顔に。

 言われるままに両手を顔に当てて見る。手のひらで顔の表情を確認しようとする。確かに、笑顔を浮かべているような気がする。頬は緩み、口元は丸くなり、目尻は下がっている気がする。しかしそれでも、チェプストーには信じられなかった。心と表情が別の形を取るなどということが。

 ――鏡を見てみればいい。この城には殆ど鏡というものは置かれていないがね。

チェプストーは告戒室を飛び出ると、鏡を探してきょろきょろと辺りを見回した。しかし、鏡というものがこの城には数えるほどしかないことを思い出した。自らの顔を見てみたかった。如何なる表情を浮かべていたのか、苛立ちが募った。

と、神がいたはずの場所から、一人の男が姿を現した。それがハインだった。

 呆然として男を見つめた。自分は神と話していたのではないのか。今の言葉は、全てこの男が発したものなのか。動転したチェプストーは、鏡のことも忘れて立ち尽くした。

 「それ、ここに鏡がある。見てみればいい。告白の余韻で今も貴方の表情には笑顔が張り付いている」

 男が差し出した小さな手鏡をひったくるように奪い取ると、チェプストーは自分の顔を覗き見た。そこには、満面の笑みを貼り付けた自分自身がいた。驚愕で心は衝撃を受けていたが、それは表情には表れていないのである。まるで仮面のように、自分の顔は笑い続けている。

 鏡を持つ手が強張り、チェプストーは後ろによろめいた。

 「き、貴様、神のふりをするなど、どれほどの大罪であるのか分かっているのか。伯爵の客人とはいえ、その罪を見逃すわけにはいかない」

 「笑止だな。自ら聖職者たる資格などないと懺悔していたではないか」

 「それは……神へ懺悔していたのだ。貴様に対してではない」

 「神へ、か。神を信じてるのだね」

 「当たり前ではないか。私は司祭だ」

 「ふむ、司祭か。では司祭に一度聞いてみたかったのだが、いいかね」

 慌てふためくチェプストーとは対照的に、ハインは落ち着き払っている。

 「神は、如何なる顔をしていると思う」

 その質問を乾いた口内で噛み砕こうとしているうちに、ハインは続けた。

 「神とはどのような顔をしているのだろう。男か、女か、美貌なのか、醜いのか。世に神は無数に存在するが、君の信じる神は、いったい如何なる顔をしているのか、説明できるかね」

 ――神は如何なる顔をしているのか、ふと考え込み、チェプストーはその質問に答えることが出来ないことに気付いた。教会では神の説かれた教義や、神の残された言葉を教えられる。神は言葉に宿る、そういわれるほどである。しかし神の尊顔について記されてはいない。神は実に様々な顔で偶像化されているが、言葉のように、これ、といった顔はないのである。

 「私はね、顔こそが神を定義する最大の要素だと考えているのだ。言葉や教義ではなく、如何なる表情をしているのか。神はどのようなときに微笑み、或いは怒り、或いは喜び、或いは嘆き、或いは悲しむのか、それこそが神の真実の姿を現していると思うのだよ。教えてくれないかね」

 「神は様々な顔をしているのだ。そして様々な人間に姿を変えて我々の前に顕現し、道を指し示してくださるのだ。たった一人の人間であるような我々の考えの及ぶようなところではない」

 「ほう、では神は様々な顔をして我らに接するというのか。まるで仮面だな。神は素顔を隠し、色々な仮面を被って我らを欺こうとしている、そういうことかね」

 「愚かな。神を愚弄するなど、許しがたいことだ」

 そう吐き捨てたチェプストーに向かって、ハインは手を伸ばした。何のことか分からず、後ずさりをして、その手をじっと見つめる。

 「鏡だよ、返してもらおうか」

 鏡のことを思い出し、乱暴に差し出した。

 「鏡のない世界、というものを想像したことはあるかね」

 その質問に再びチェプストーは戸惑う。ハインは手鏡を弄びながら、チェプストーに胡乱な視線を浴びせる。この男の言葉には、奇妙な力、強制力がある。痺れた頭でそんなことを感じる。

 「鏡のない世界、自分を見る手段が、失われてしまった世界。自分を映し出すものがそもそも存在しないとしたら、この世の形はどのように変化すると思うね。自分の顔を見ることができないということは、他人によって語られる言葉でしか、自分の相貌を知ることはできないということ。そしてその言葉は、鏡のような真実にたどり着くことは決してないのだ。

 私は思うのだがね、神とはそういった世界の住人ではないか、と。神は自分の相貌を見ることができない。他者によって語られるだけの存在であり、語られることによってのみ存在を許される存在なのだよ。考えてみたまえ、貴方と同じく、神の尊顔を物質として実際に見たものなど生きていないのだから。全ては模倣品、よくて複製品といったところだろう。語り継がれ、複製されるたびに形は変わっていくのだ。もはや原型など留めていないはずだ。

 だが一つだけ、鏡のない世界の住人である神にも、自らの顔を見る手段がある。それは仮面を被ることだよ。神の尊顔を象った仮面さ。そしてそれを自らの顔に嵌めればいいのだ。自分の顔を見たくなったら、それを外して眺めればいい。付け替えるのも、新たな表情の神を作り出すのも自在だ。

 貴方のように他人の秘密に淫するような輩は、神の名を騙るだけでなく、司祭という仮面を貼り付けているにすぎないのではないのかね。

 人は仮面を被ることで、自分以外の「何者か」になろうとする。演じようとすることによって役者が役になりきるのと同じだ。そして精巧な仮面には魂が宿ることさえある。こんな話を知っているかな。魂の宿った仮面の物語だ。とある錬金術師の手になる仮面が魂を持ってしまう、そんな筋立てなんだがね。仮面が人格を持ち過去を備え、それを被った人間を乗っ取ってしまうのさ。

 司祭という仮面はさぞかし心地よいことだろう。だが、どうかな。その仮面を剥ぎ取ってしまえば、そこに表れるのは如何なる顔なのか。私の渡した鏡で見ただろう。自らの秘密を告白したときの顔を。それは神に懺悔するものの顔であったかね。今もそれ、私に自らの醜さを突きつけられ、神への大罪を暴かれ、自分がどんな表情を浮かべているのか、分かっているのかね」

 ハインの手鏡が煌めき、チェプストーはその中に自らの顔を見出した。剥ぎ取られた仮面の下に映りこんでいるのは、神を愚弄する男への怒りの表情ではなく、自らを貶められたことへの恥辱の表情でもなく、快感に溺れる者の見せる、愉悦、歓喜の表情。

 それを見た瞬間、チェプストーは更なる鮮烈な感覚が全身を突き抜けるのを感じた。

 「チェプストー、君も気付いているはずだ。秘蜜を探し出そうとするうちに、すでに貴方自身が秘蜜の毒に冒されていることに」

 僅かに残された理性の片隅で、一つの推理が閃いた。

 ――秘密は幾つもの感情によって構成される混合物。

 その成分は、優越感、恐怖感、緊張感、そして……罪悪感。

そうか、秘蜜とは秘密を快楽へと変えるのではない。

 それは背徳の美味。

 秘蜜とは罪悪感を快感へと転化する、悪魔の霊薬なのだ――

 自らがたどり着いた秘蜜の真実を、荒れ狂う官能に流されるに任せ、チェプストーは湧き上がる絶頂感、目くるめく快感に耽溺していった。

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