第二幕 司祭チェプストー 秘蜜の由来(2)

 秘蜜とは特殊な蜂蜜の一種ではないか。それが大司祭の推測であった。ウロボロス領が豊富で多彩な蜂蜜の産出地として独自の経済体制を整え始めたのも、二百年ほど前のことであったし、それとともに秘蜜は広まったとされるからである。そして今、再び蔓延しはじめたという秘蜜は、貴族の嗜みとされる蜂蜜の一種として、小瓶の形で莫大な金額によって裏取引されているという。

 常に新しい品種の蜂が輸入され、新たな蜂蜜の銘柄が生み出されるカタストロプ領で、突然変異的に発見された新種の蜂蜜、それが秘蜜の正体ではないだろうか、そう考えたのである。

 しかし内偵者として城に着任したチェプストーは、調べるうちにそれが誤りである事に気づいた。確かに秘蜜は蜂蜜の一種として地下取引をされている。広大な領内の各地に養蜂村があり、森があり、花畑があり、それぞれの地で特色のある蜂蜜が生産されている。しかし、秘蜜という名の蜂蜜はどこにもなかった。全ての蜂蜜は都市へ、そして城へと集められ、そこから出荷されることになっている。しかし数ヶ月をかけて全ての銘柄を調べ尽くしても、城の外部からは秘蜜という蜂蜜は入ってきていないのだ。ということは、答えは一つしかない。この城の内部で秘蜜は生産されている。

 さらに秘蜜に関する情報は、告戒室からももたらされた。秘蜜の謎を狙っているのは、聖教会だけではなかった。城にやってくる商人、騎士、召使たちの中に、雇い主の異なる何人もの内偵者が紛れ込んでいることが、城仕えの者達自身の告白によって明らかになったのだ。大商人ギルドは、秘蜜が琥珀の宝石と呼ばれ、高値で売買されていることにいち早く気づき、その精製方法を盗み、利益を独占しようと目論んでいた。彼らによって大金を詰まれて雇われたものが城内に三人、王宮から「秘蜜という害悪の蔓延を防ぐ」という目的の元に送り込まれた間諜が二人、辺境の田舎貴族から大貴族へと成り上がった伯爵を警戒する貴族連盟の手先が一人、この城でそれぞれ秘蜜の在り処を調査していることが判明した。その誰もが、いまだ真実には辿り着いていないのである。

 秘蜜の謎を知るのは、チェプストーから見て二人に絞られた。一人は城主であり、重度の秘蜜中毒とも言えるべき症状を示すカタストロプ伯爵であり、もう一人は家令として伯爵家を仕切り、領地経営の一切を任されている辣腕家、コフである。

 伯爵は名君として名高く、王への忠誠心、信仰心も厚いといわれている。そんな老伯爵が、実は精神的に狂気じみた一面を持つことを、チェプストーはこの城に来て程なくして知るようになった。

 まず伯爵は、病というものを異常なほどに恐れる潔癖症であった。病と疫病は感染するものと信じ、それを得た者には妻や子であっても近づこうとはしなかった。病を得たものは治療と称して城門の外、遠く離れた隔離施設に送り込んだし、彼らの衣服や所持品でさえも、瘴気の感染源になりうると焼却してしまわねば気がすまなかった。

 一方で、伯爵は地獄という存在に強い興味を示した。着任当初は、罪人が落ちるという地獄が如何なる場所であるのか、繰り返し、しかも詳細にチェプストーに尋ねた。その地がいかに苦しみと後悔、悲しみで溢れた絶望の地であるのかを、愉悦の表情を浮かべて聞き入る伯爵に、チェプストーは薄ら寒さを感じずにはいられなかった。それだけではない、彼は地獄絵と呼ばれる宗教画と、死者の顔を蜜蝋によって象ったデスマスクを、チェプストー自身に命じて蒐集し始めたのだ。地獄と死をモチーフにした、暗黒の芸術作品。それらを秘密裏にコレクションしていたのである。

 集められた作品が城の何処に収蔵されているのか、チェプストー自身は知らない。いやおそらく城の誰もそのコレクションのことは知らないだろう。それは伯爵の密やかな趣味であり、チェプストー自身も秘密にするようにきつく戒められていた

 チェプストーは伯爵に、蜂蜜について質問したことがある。蜂蜜が収められる城内の蜂蜜蔵、六角形をした蜂蜜の貯蔵庫でのことである。

 「それにしても、これだけの蜂蜜が採取されるとは驚きですな。蜂蜜伯と貴方が呼ばれるのも当然です。他の大産地でも、ここの十分の一も採れないでしょう」

 「そうですな。質、量、種の全てにおいて、我が領の蜂蜜は群を抜いているのですよ」

 「私は養蜂や蜂蜜採取には疎いのですが、何か特別な秘密でも? 養蜂技術や、採取法など、何が他の地とは異なるのでしょう」

 「いや、確かに長い歴史の中で、養蜂村は独自の技術を積み上げてきたが、やはりこの土地そのものが豊かだからでしょう。ウロボロス領は開拓者達に打ち捨てられた辺境の地、農作物の収穫には向かないが、あちこちに無数の森が散らばっている。そこで良質な蜂蜜が豊富に採れるのですよ。魔物や蛮族なども多いため、それなりの犠牲もありますが」

 「味や香りなども、この領地の蜂蜜は別格という評判です。やはりそれは土地の持つ力なのですか。噂では、採取した蜂蜜の特別な熟成法や、不純物の混ざった蜜からエキスだけを抽出する、特殊な精製方法があるとも聞きますが。実際はどうなのですか」

 「確かにそういった技術を私たちは持っています。しかし、それは公にする訳にはいかないのですよ。それらの技術を盗もうという輩があまりに多いのでね。近頃では、ある大司祭が、聖騎士の称号と引き換えに養蜂技術を明かして欲しいと言って来たほどです」

 チェプストーは気まずさから軽く咳払いをした。

 「伯爵はあらゆる貴族が羨むほどの財と名声を、辺境にいながらにして得ていますからな。恥ずべき事ですが、欲に目が眩んでしまう聖職者も多いでしょう」

 「確かに我が蜂蜜は、人を狂わせる力を備えていますから。我が領地の蜂蜜を味わったものは、もはや他の蜂蜜など三流の粗悪品としか思えなくなるのですよ」

 「それほどに違うのですか。特殊な技術とはどのような……」

 そう再び質問をしかけてチェプストーはやめた。自分もまた秘蜜の技術を盗もうとしていると警戒させてしまうからだ。しかし伯爵はチェプストーの様子など意に介さず、自分から話を繋いだ。

 「最大の違いは、純度と密度なのですよ」

 興味深げに伯爵を見つめるチェプストーに、伯爵は続けた。

 「蜂蜜とは、蜜蜂が草花から少量ずつ採取したものを集めたもので、甘露の塊です。一般的に蜂蜜は、純粋な甘露と思われています。それが実は違うのです。蜂蜜とは、夥しい不純物の混じった混合物なのですよ。その混合物の中に、僅かな『甘露』のエキスが含まれているのです」

 「そうなのですか、わたしはまた蜜とは甘露そのものだとばかり」

 「それが違うのです。蜂蜜の中に、甘味を与えるエキスが溶けているだけなのです。それも、その量は驚くほどに微量なものです。それではお聞きしましょう。一樽の蜂蜜のなかに含まれる純粋な蜜のエキス、その量はどれほどのものだと思います」

 「そうですね、不純物をとりのぞいたとして、半分ぐらいにまで量は減ってしまうのではないですか。そうすれば、単純に比較して他の産地に倍する甘さと風味の蜂蜜ができる計算になります」

 伯爵はその答えに片頬を緩めて答えた。

 「とんでもない。一樽から抽出できる蜜のエキスは、ほんの一滴にも満たないのですよ」

 チェプストーはぎょっとして伯爵を見返した。わずか一滴のエキスが、一樽もの蜂蜜を生み出しているというのか。

 「信じられないようですな、では証拠をお見せしよう」

 伯爵は蜂蜜蔵の奥へとチェプストーを誘うと、一箇所に積み上げられた十数樽の蜂蜜樽の前に立たせた。樽の蓋を開けると、たっぷりとした蜂蜜で満ちていた。だが不思議と、甘い香りや蜂蜜の癖のある匂いはしないのだ。

 伯爵に促されるまま、それを指につけて一舐めしてみた。

 ――なんだ、これは。

 違和感を感じ、すぐさまに気持ちが悪くなって吐き出してしまった。慌てて伯爵のほうを見やると、彼は意地の悪い笑みで微笑んでいた。

 「どのような味がしましたか」

 「これは蜂蜜などではない。甘味がない。気持ちの悪い風味と苦味、辛味、酸味だけだ。まだ舌がしびれていますよ。伯爵もお人が悪い、これは何なのですか」

 「いえ、これも蜂蜜なのです。いや、蜂蜜だったというべきかな。純粋な蜜のエキスを抽出したあとの絞り粕なのですよ。この中に一滴足らずのエキスが溶けて蜂蜜になっていたのです。そのエキスを抽出したことによって、これは甘みも風味も失った不純物の混合物に成り下がってしまったのです」

 信じがたい思いでチェプストーは樽を見つめた。これがそもそも蜂蜜だったというのか。一樽の蜂蜜から、たった一滴しか純粋な蜜のエキスはとれないというのか。では、一滴の純粋な蜜とは、どれほどの甘みと風味を備えているのだ。一樽の蜂蜜を一滴にまで凝縮させた純蜜とは、いったいどのような味がするのだ。

 「殆ど知られてはいないことですか、蜜とはどこまでも純粋に、どこまでも密に濃縮されていくものなのです。ご覧の通り樽に満ちた蜂蜜も、不純物を取り除いて濃縮すれば、一滴まで純度を高めることが出来ます。しかしそれでもまだ不十分なのです。私は抽出したエキスのことを純蜜と呼びますが、それはまだ本当に純粋ではない。今、私たちの持つ技術での限界だというだけです。技術さえあれば、蜂蜜はその純度、密度を際限なく高められるのですよ。私たちの抽出した純蜜のエキスを更に精錬し、濾過を繰り返すことで、一樽の純蜜から更に百分の一まで純物質を取り出すことができます。しかし、我々の技術ではそこまで。これ以上の純化は錬金術師でなければ不可能ですがね」

 「錬金術師? なぜ錬金術師が」

 突如出てきた言葉に違和感を感じた。

 「蜂蜜の精錬技術と精製法は、そもそも錬金術師によって編み出されたものなのですよ。錬金術師とは物質の専門家ですからね。物質の性質変化と密度圧縮は彼らの基礎科目。かつて熟練の錬金術師は、蜂蜜の純度をどこまでも高めていくことができたそうです。湖ほどの蜂蜜を小瓶にまで精錬することができた、そういわれています。逆に湖に一垂らしの純蜜を流すことで、湖をとろりとした蜂蜜に変えることもできた、とも」

 「信じがたい話ですな。いま、この蜂蜜の絞り粕を見るまでは。それにしても、それほどに純化された蜂蜜は、いったいどのような甘美な味わいをもたらしてくれるのでしょう。想像すらできません。伯爵はご存知なのでしょう。いったいどのような美味なのですか」

 その質問に伯爵は目を細め、甘い思い出に浸るような陶酔の表情を見せた。

 「それは至上の美味だと。いや、味覚などといった範疇に収まるものではないのです。味覚など、ただ舌という一器官で感じられる不完全なものでしかありません。純化された蜜は、舌覚だけでなく五感の全てを刺激し、官能的、感動的な歓喜を与えることができるのです。それは想像など及びもつかない、尋常ではない圧倒的な快感です。精神も、肉体もどこまでも開放され、情感と五感が極限まで研ぎ澄まされ、あらゆる感覚が鮮明になります。細胞の一つ一つが悦びに震えると思っていただきたい。一瞬が永遠に引き伸ばされ、永遠は一瞬に凝縮される。いつまでも終わることのない絶頂感、刹那。繰り返し終わり続ける日常、永久。永遠に達し続けるということ。その余韻だけで一生を幸福に生きていけるような、そんな一瞬を味わうことが出来る――と言います」

 そんなものが本当にあるのだろうか。それはもはや蜂蜜の範疇に入るものではない。秘蜜という霊薬さえも及ばない、神の雫だ。

 「いったいどれほどの値段でその純蜜を売るのですか。買い手も、そこいらの豪商ではないでしょう」

 「まさか、純蜜は売りになど出しませんよ。商品にするとしても、数百倍に薄めて香り付けした合成蜜としてです。余りに危険すぎるのです。純蜜は常軌を逸した甘美さで、人を狂わせてしまいますからね」

 「狂わせる、というと、どのようにですか?」

 「まあ症状は人それぞれでしょう。際限なく肥大し鮮鋭となった自我が、自分という肉体の殻を破ってしまうのです。自分と他人の区別がつかなくなり、やがては廃人になる」

 それでは、人を狂気へと導く毒薬ではないのか。

 「まあ、私はそこまで純粋な蜜を精製する技術を持っていません。せいぜい忘我の境地に至る程度の濁った純蜜ですよ。先ほど言った極限の純蜜は、とうに滅びた技術なのです。錬金術師とともにね」

 楽しげに話す伯爵の瞳に愉悦の光が波打つのを、チェプストーは確かに見た。

 「もしそのような物質ができたとしたら、その一瞬、神の相貌をはっきりと見ることが出きるかもしれません」

 独り言のように呟いた伯爵の声は震えていた。瞳には狂気が滲んで見えた。

 「神の相貌……それはいったい――」

 最後まで言い終わることを許さず、伯爵は眼差しを隠すように体を翻すと、一言も残さず足早に立ち去った。一人残されたチェプストーはその場に立ち尽くし、伯爵が最後に残した言葉、神の相貌という言葉について考え続けていた。

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