第二幕 司祭チェプストー 秘蜜の由来(1)

 「毒を入れたのは、私なのです」

 城の聖堂付きの司祭であるチェプストーがその告白を聞いたのは、告戒室でのことだった。告戒室は礼拝堂の左奥にある。その中央をガラスの仕切りと厚い黒のカーテンで隔てられた小部屋である。聖職者に自らの罪を告白し許しを得るための場所として、聖堂や教会には必ず設けられている。

 王宮の衛星都市の祭司として二十年、城付きになって三年。老境に差し掛かり、様々な罪の告白になれているチェプストーでさえ、その告白に一瞬思考を麻痺させた。内容はもちろんのこと、それを告げた人物の正体に彼は驚愕したのだ。城仕えをしているものたちで彼がその声を聞き分けられないものはいない。カーテンで仕切られているとはいっても、告白しているのが誰であるのかはすぐに分かる。

か細く思いつめた声は、いまだ年若い少女のそれであった。小さいけれど、震えることなくはっきりと自らの罪を告白した少女が、自らが還俗させた元修道女、コレッタであることは間違いがなかった。

 その一言の告白をしたきり黙り込むコレッタに、チェプストーは軽く咳払いをすると、乾いた口に粘ついた唾を貼り付けたまま聞き返した。

 「それは……先日の事件のことですね」

 「はい、そうです」

 「なぜそのようなことを?」

 そして静寂。

 「伯爵は名君として領民に慕われ、クリフお坊ちゃんはその伯爵を越える大器と讃えられるお子、何があなたにそのような悪魔の所業を……」

 再度の沈黙。なぜ彼女が……憤りの思いが司祭の心を支配していた。

 「理由を話してもらえなければ、私としても戒めの言葉を授けるわけにはいかない」

 「司祭様、私が告白できるのは、ここまでです。罪を許していただこうとも思いません」

 「そんな、それでは貴女は地獄へと落とされてしまう。救済を求めないのであるのなら、なぜここを訪れたのです」

 「私はただ聞いていただきたかったのです。自らの秘密を、重すぎる罪を」

 それだけを告げると、コレッタは一切の発言を許す間を与えず、告戒室を出て行った。

 口を開きかけたまま、呆然とした思いでチェプストーは静寂に取り残された。

 告戒室での告白は、如何なる大罪の懺悔であれ、それを聞いた聖職者一人の胸に秘めておかなければならない。それは教戒律として定められている。それを破ることは、司祭としての地位の剥奪は愚か、聖職者たる権限さえも失ってしまう、神の御使いとして犯してはならない大罪である。司祭の役割は、懺悔に訪れたものたちを諭し、神の言葉をもって道を示し、許しを与えることにある。

 しかしコレッタが去った後、チェプストーが真っ先に夢想したのは、「密告」という聖戒律を冒す行為であった。彼がコレッタの告白を伯爵に密告すれば、それは疑うべくもない真実として受け入れられる。嘘をつくことを禁じられている司祭の告白には、それだけの権威があった。そうなれば、コレッタは即座に牢へ監禁される。恐らく裁判による死罪は免れ得ない。領地の慣習法でも、王宮が制定して進めている法律でも、領主への反逆、暗殺を企てたものには例外なく無残な死が待っている。

 チェプストーはその光景を想像し、自らの中に湧き上がった衝動に打ち震えていた。それは快感であった。密告をする自分、磔に処される愛らしい少女……かつての自分ならば、このような想像を嫌悪し、思い浮かべることもなかったはずだ。そう、この城の奇妙な香気に侵される前の自分ならば。

 想像するだけで、艶かしい官能が自らの全身を這い回っていく。これが秘蜜という霊薬の効能であることは分かっていた。自分もまた、伯爵と同様に秘蜜に侵されてしまっているのだ。「秘密の所有」という感覚を目くるめく快感へと変えてしまう霊薬「秘蜜」に。

 ――まただ、私はまた秘密を売り渡そうとしている。それも、極上の。麗しい娘を死臭のこびり付いた刑場へと引きずり出す秘密だ。

 この快感への衝動に耐え切れずに、チェプストーは、ここ数年の間に告戒室で得た秘密という秘密を、伯爵へと売り渡してしまっていた。城に住むものたちの暗部、心の闇を、告戒室で聞いては、伯爵へと密告していたのだ。

 対価は秘密の質にともなって伯爵が値段をつけた。コレッタの告白は、恐らく最大の値段が付くであろう。だが、チェプストーは金が欲しかっただけではない。彼は他人の秘密を抱くことに快感を覚えずにはいられなくなっていた。そしてさらに、それを伯爵と共有するという行為に、抑えがたい衝動を感じずにはいられなくなっていたのだ。

 ――なぜこうなったのだ、チェプストー自身、この城を訪れる前の自分を思い出してそう思うことがある。かつては敬虔な司祭であった私が、ここ数年の間に聖職者としての戒律を犯し、密告を繰り返すだけでなく、それに対価を要求してきた。いつのまにか莫大な財産が蓄えられた。密告という穢れた行為に対し積み上げられた金貨、それを眺めることが、心地よく目覚めるための就寝前の習慣とさえなっていた。

 チェプストーはそれらの快感に抗う意思をもはや持っていなかった。とりつかれたように他人の秘密を嗅ぎまわり、伯爵に密告する犬に成り果てていた。

 ――秘蜜の蔓延を防ぐため、その謎を探るように聖教会に送り込まれた私が、秘蜜に侵されてされてしまうとは。

 その皮肉な結末に、チェプストーは苦笑いを浮かべた。

 体は夢遊病者のように伯爵の部屋を目指している。コレッタの秘密に、伯爵はいったい幾らの値段を付けるのか。コレッタは如何なる死を与えられるのだろう。体は熱く、頬は上気し、そして口元は快感でだらしなく歪んでいる。

 扉を叩く、名を告げる。天国への扉を叩くような期待感を全身に浴びながら、チェプストーは伯爵の部屋に消えていった。


 秘蜜――そう呼ばれる奇妙な霊薬が流行りだしたのは各地の大貴族の小さなサロンでのことだという。秘密にすることを約束させてその嗜好品を饗するのは、ホスト役である侯爵や伯爵、貴族連盟の盟主を中心とした大貴族たちである。その効能は、「秘密を快楽へと変える」というものであるという。その霊薬を口にした貴族達は、自らの持つ秘密に思いを馳せ、恍惚とした表情を浮かながら快楽に耽っているというのだ。

 大麻のような麻薬であるならば、貴族達の間で禁じられながらも使われ続けてきた。しかし秘蜜の中毒性は大麻の比ではなかった。各地の会員制の秘密のサロンで、夜毎に秘蜜によって秘密を味わうための宴が催され、新鮮で強烈な快楽を得るために、新たな秘密が生み出されていった。秘密は無数である。貴族達特権階級の者達にとって、秘密など幾らでも作り出すことが出来た。帳簿の操作、不義、不倫、領民への搾取、賄賂による不正裁判、商人への便宜、地位の売買、口約束の裏切り、法律違反等などなど、その権力が新たな秘密の温床として機能し始めた。さらに、秘密は少数によって共有されることでさらなる快感をもたらした。秘蜜は、地下を通してゆっくりと特権階級の間に広まり、それはやがて聖界領主などの有力な司祭たちの間にも蔓延していった。

 ――そう、二百年前と同じように。

 「では二百年前に流行った霊薬が復活し、世に蔓延し始めているというのですか」

 ウロボロス城に着任する前のことである。呼び出しによって出向した大聖堂で、チェプストーはその領地を治める大司祭と秘密の会合を行っていた。大司祭直々の話とあってどのような話なのかと緊張していたチェプストーは、その話の内容が俄かには信じがたかった。「秘蜜」と呼ばれる奇妙な霊薬が、二百年の時を隔てて蔓延し始めたというのである。

 大司祭は頷いて説明を始めた。

 二百年の昔、いまだ夥しい神と宗教が蔓延り、戦乱が絶えなかった時代のことである。各地で、「秘蜜」と呼ばれる霊薬、琥珀色をした蜂蜜状の霊薬が流行った。秘密を快楽に変えるとされるその霊薬を巡って、かつての王たちは争いを繰り広げたが、その精製法の秘密を得たのは、その地を治めていた一人の聖界領主、聖職者であった。その聖職者は、秘蜜の精製法を独占し、その霊薬を使って莫大な利益を得、秘蜜に溺れた人々を操ることによって瞬く間に信徒を増やしていった。短期間で無数の教会を建設し、資金と技術を注ぎ込んで大聖堂を建設し、神の荘厳さを建築物として具現化させた。彼は数十年の間に、王など当時の権力者を支配下に置き、彼らを操ることで無数の偽りの神々を滅ぼし、今や一大勢力となった聖教会の基礎を築いたのだという。

 しかしある日、その聖職者の死と大聖堂の焼失によって、秘蜜という霊薬は歴史の闇に消えてしまう。後を継いだ大司祭たちはその霊薬を精製する方法を何とか解き明かそうとしたが、かなわなかった。

 当時の大司祭の手になる機密文書にはこうあるという。

 ――秘蜜こそ、我ら聖職者たるものがその源を独占すべきものである。秘蜜の謎は王にも貴族にも、もちろん民にも明かしてはならない。秘蜜とは我ら神を信ずるものたちの手によってのみ与えられるべきものである。その権利を王や時の支配者に渡してはならない。そのとき、世は秩序を失い、人々の欲望によって神さえも駆逐されてしまうであろう。しかし一方で、この秘蜜が教会にある限り、私たちはどの地でも栄えていくことができる。われらが尊き教義を、世界中へと広めていくことが出来るであろう。

 「かつては少数派であった聖教会がいまのような勢力を持つようになったのは、二百年前に、秘蜜を手中に収めていたからなのだよ」

 大司祭の言葉にチェプストーは戸惑った。そんなことを聞いたのは初めてであった。

 「秘蜜とはいったいなんなのです。もしや薬物なのですか。我ら聖教会は薬物を用いて信徒を増やし、教区を獲得したと?」

 だとするならば、聖教会の根幹そのものが揺らいでしまう。その土台が卑しい呪い師の幻覚剤のような代物で築かれたというのか。

 「いいかね、チェプストー君。秘蜜とは、神が我ら聖職者に与え給うた霊薬なのだよ。呪い師がもっともらしい言葉で人々を幻惑して処方する紛い物とは違う。聖水と同じさ。秘蜜を与えることは、かつては洗礼の儀式の一環であった。確かに秘蜜は精神そのものに作用をもたらす。それを我ら神の代行者の名において行うことで、神の顕現、その秘蹟として崇められるのだ。しかしこれが王や権力者、他の忌むべき神々の処方するところとなれば、災いの源、悪魔の霊薬となって争いが起こるだろう。事実、二百年前にはこの源の所在を巡って夥しい血が流されたという。秘蜜は、我らが所有し、管理しなければならないものであり、他の誰にも渡してはならないものなのだ」

 「その効能とは? 秘蜜とはどのような精神的な作用をもたらすのですか」

 「詳しくは記録が焼失しているため定かではない。伝え聞くところでは、『秘密』を快感へと変えてしまうのだという」

 「秘密を?」

 「そう、秘密を持っていることが、強烈な快感となって五感を刺激するのだという」

 「それがなぜ秘蹟に転化されるのでしょうか」

 「秘密とは必ず、誰かに話したいという強い衝動を伴う。告戒室での告白は、聖職者達の掟で守られて漏れることはない。必然的に人々は聖教会の告戒室へと導かれていく。秘密の告白、共有とは共犯者の獲得であり、新たな秘密を生じさせるからだ。やがて人々は、告戒室に通わざるを得なくなる。秘密の告白そのものが官能を刺激するのだ。秘蜜の効果だと知らないものたちは、その官能を神の秘蹟と思い込むようになる」

 そう聞いた当初は、チェプストーは半信半疑であった。本当にそんな奇妙な効能の霊薬が存在するのだろうか、そう思っていた。

 だが、城に着任して一年後には、チェプストーは秘蜜という言葉も耳にしない領内で、それが存在することを確信していた。城での聖務のなかで、告戒室の利用が次第に増えていったからだ。

 着任当初は一週間に数件程度であった告白が、やがて一日に数件の告白が行われるようになっていった。些細な罪や欲望の告白であるが、その内容も次第にエスカレートしていっているのだ。しかも、それは城内だけではない。ウロボロス領内に設けられた各地の教会で同じような報告が為されているのだ。大貴族を中心に蔓延している秘蜜が、領内では領民にも広がり始めているようだった。

 「二百年の時を経て秘蜜が精製され、大貴族を中心に流通し始めたという。内偵によれば、出所はやはり二百年前と同じ。かつて聖界領主であった大司祭が支配していた地、ウロボロス領。蜂蜜都市として名高いその地で、神の霊薬は復活を遂げたのだ。

 君にはウロボロス城に赴いて、秘蜜の所在を探って欲しい。誰の手で、どのようにして秘蜜が精製されているのか、突き止めて欲しい。二百年前に焼失した秘蜜の精製法を、我らが聖教会に取り戻して欲しいのだ」

 こうしてチェプストーはウロボロス城の聖堂付き司祭として着任することになった。

 「もし再び秘蜜を手にすることができれば、我ら聖教会は如何なる国境も越えて世界に覇を唱えることができるであろう。そのあかつきには、君にも聖界領主の座を約束しようではないか」

 大司祭の下卑た甘言に不快感を覚えながらも、チェプストーは着任を了承した。二百年前に聖教会の栄華のきっかけとなった秘蜜という霊薬に、好奇心と信仰心を同時に刺激されたからであった。まだそのときは考えもしなかった。秘蜜を探そうと暗躍するうちに、自分自身がその霊薬に溺れるようになるなどとは――

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