第一幕 魔女マリィ 火の異端審問(7)

 マリィが初めてその人物に遭遇したのは、クリフを子守唄で寝かしつけるようになってから一週間後のことであった。昼近くになり、壁の雨漏りを直そうと脚立に乗って漆喰を塗りこんでいるときのことだ。背後から視線を感じ、同時に悪寒が走った。ついに「彼」が現れたのだ、即座にそう思った。彼とは、城の住人達の間で気味悪がられ、様々な噂がたてられているこの城のたった一人の客人、ハインという名の錬金術師のことである。

 ハインという名の錬金術師は、王国では少し知られたものである。それは様々な逸話と物語に彩られている。だが誰も、彼が物語の架空の人物なのか、それとも実際に実在する、或いは実在していた人物なのかさえ知らない。御伽噺にも登場し、子供達に恐れられ、また憧憬の眼差しを向けられる。その一方で、各地でときおり、ハイン出現の噂が流れることもある。人々の記憶から消え去った頃を狙って流行り病のように出現しては、新たな物語を残していく。ハインは奇妙なサーカス団を率いて各地を巡っていて、気まぐれに興行を行っては再び消え去ってしまうのだという。誰もがその名を一度は耳にし、何らかの噂を聞いたことがあるものの、誰もその正体を知らないという、不可解な存在であった。

 その彼が、ある日、この城に訪れ、伯爵によって客人として遇されることになったのだという。そしてこの城に逗留し続けること数ヶ月。にも関わらず、城の住人達の間でもその姿を見たことのあるものは少ない。本当に滞在しているのかさえ分からないのだ。まさしく噂どおりの幻のような存在である。

そして彼に『遭遇』したものは皆口をそろえて言うのだ。禍々しい視線と気配を背後に感じて振り向けば、そこに立っていた、と。彼に遭遇した者はそれから常にどこかからか見られているような視線を感じ、不気味な気配がそこかしこに漂っているような思いに囚われるという。その感覚はいまだ「彼」を見ていない人々にも伝わり、いまや城の住人達は禍々しい視線だけをどこからか感じながら暮らすようになっているという。

 実際に感じるまでマリィにはその感覚を想像できなかった。しかし体感した瞬間に、それが紛れもなく「彼」の気配であることを悟っていた。

 脚立の上で強張った体を深呼吸をしてリラックスさせながら、ゆっくりとマリィは後ろを振り返った。そこには確かに彼が立っていた。眩暈を感じてよろけそうになり、しゃべりかける前に脚立を降りた。

 「はじめまして、マリィ。もはや絶滅したかと思っていた魔女に出会えて光栄だ」

 マリィが脚立を降りて向き直るのを待って、彼はそう声をかけた。しわがれた声は、廃墟の鉄錆びた扉のような音をしていた。

 男は黒々とした髭に顔の半分を覆われていた。ぼさぼさの油染みた髪、隙間から覗く目は落ち窪み、瞼の下には隈が黒々と縁取られている。背筋は曲がり、体そのものが変形して、捩れて小さく縮こまっているように見えた。髭と髪と曲がった背中で年齢はよく分からないが、一見して七十を越えているようにも見えたし、或いは五十を過ぎたばかりで遥かに若いのかもしれなかった。

 「お客様としてご逗留中のハイン様ですね。城仕えをして一ヶ月も経たないうちにお会いできるなんて、こちらこそ光栄です。錬金術師なんて噂の中にしかいないと思っておりました」

 「錬金術師という名前自体が流行り病のようなものだからね、仕方がないさ」

 髭の動きでハインと名乗った老人が笑っているのが分かる。

 「私としてはもっと早く君とは話をしてみたかったのだ。希少種である魔女、しかも火の心理学の能力を継いでいるとあっては、錬金術師としての好奇心を騒がせずにはいられないからね。絶好の研究対象だ」

 研究対象――その言葉にマリィは鳥肌を立てた。ぞわぞわと視線で体を撫でられるような不快感に襲われた。

 「ではなぜ一ヶ月も? それとも一ヶ月間、私を何処からか観察していらっしゃったのですか」

 「いや、そうではない。私もそれほど暇じゃないのだよ。色々と他の研究もあるのでね」

 「どのような研究をされていらっしゃるのですか、この城に篭って」

 伯爵以外の誰もそのことを知らないのだ。なぜ錬金術師であるハインがこの城に客人として招かれたのか、いったいこの城で何をしているのか。いや、そもそも、彼が本当にあの伝説のハインであるのか。家令であるコフやフランフランが伯爵に尋ねても、彼は「研究のために城を貸している」という説明しかしないのだという。研究者としての存在も目的も不明であることが、彼という人間をいっそう不気味なものとして演出していた。

 「それは秘密だ…と言いたいところだが、私も君の秘密を伯爵から聞いてしまった負い目もある。君には教えてあげよう。

 ――私が研究しているのは、この城そのものさ」

 「城? このウロボロス城を調べていらっしゃるのですか」

 「そうとも。素人の君だってこの城がどれほど奇妙なものかは分かるだろう」

 マリィは頷く。

 「なぜこのような場所に城が建てられたのか、どうしてこのような奇妙な形の城を設計したのか。いつ、誰が、何のためにこの城を建造したのか。それを研究しているのだよ」

 「それは錬金術学なのでしょうか。歴史学か何かではございませんか」

 「確かにそうだ。しかし少し事情が異なるのだ。この城は他の城と違う。城自体が錬金術という学問に深く関係しているのだから」

 ハインが何を言おうとしているのか、マリィには分からなかった。聞き返そうとして、

 ――ところで、と男の視線と声で発言を遮られた。

 「伯爵から聞いたのだが、君は人の心が炎として見えるそうだね」

 「はい」

 「人の心や感情の動きが、炎の変化や揺らぎによって視える、と」

 「はい、そのとおりです」

 「これまでどれだけの人間の炎を?」

 「数え切れないほどです」

 「では、自分の炎も視ることはできるのかね?」

 「感じることはできますが、はっきりと視ることはできません」

 「ほう、それは面白い、他人の心は視えるが、自分の心はそういかないということか、確かに、自分の心ほど直視することは難しいからな」

 「そうでしょうか、他人の心を視ることほどではないかと思いますが」

 「いや違うね、誰もが自分のことほどよく知らないものさ。なぜならば、誰もが君のように、『自分のことぐらいは分かっている』という錯覚を抱いているからだ。他人のことは分からない。それが普通であり、そのことを人は理解している。ところが自分のこととなると、驚くべきことだが、理解しようとさえしないんだからね。考えてもごらん、他人を眺めている時間のほうが、自分を見ている時間より遥かに長いのだよ。自分を見つめるのなど、化粧をしたり、髭をそるときに鏡を見るときぐらいのものさ。

 君の能力にも同じことが言えるのではないかね。他人の心ばかり視ていると、自分の心の炎を見失ってしまう。たまには鏡を覗き込んで、自分の炎をよく視てみるといい。まあ、そんな鏡があればの話だがね」

 不気味な男の言葉に、マリィは少なからず驚いていた。なぜならその台詞は、以前マリィに「炎の心理学」を教授してくれた恩人の言葉と殆ど同じであったからだ。

 ハインはふっと視線を外し、遠くを見るようにしてマリィに問いかけた。

 「鏡男の話を聞いたことがないかね。『この世で唯一の真実とは鏡だ』そう言った男の物語だ」

 「いえ、存じません」

 ハインは得意げにマリィに話し始めた。

 ――ある日、一人の男が奇妙なことを言い出した。鏡に自分ではない別の人間が映る。鏡に映っているのは自分ではない。会ったこともない、全く見知らぬ人間だ、そういうのだ。周囲の人間は、妻も子供も、彼が狂ってしまったのだと思った。彼女達からみると、男自身は別に変わったところはなく、鏡にも彼しか映し出されないからだ。しかし、男は言い続けた。おれはこんな顔ではない、おれはこんな体ではなかった。気味悪そうにそう主張する男を、周囲の人々もまた気味悪がるようになった。

 男は、鏡の中に映る自分を見ても、まるで見知らぬ他人を見るような感覚であり、どうしても自分であるという実感が湧かなかった。男は髭を生やしたり、髪型を変えたり、化粧さえ施して自分であるかどうかを確認しようとした。しかし鏡の前でどんなパフォーマンスをしても、鏡の中の男が自分であるとは思えなかった。鏡を見るたびに、拭い去れない違和感が男を悩ませた。

 やがて男は半狂乱になり、家にあるあらゆる鏡を壊してしまった。鏡という存在を怖がり、遠ざけるようになった。一方で、男は自分を思い出そうとし、また自分の真実の姿を映し出してくれる鏡を探し出そうとした。

 そしてある日、男は一つの結論に達した。このままではいつまで経っても自分の真実の姿になどたどり着けそうにない。鍵は、鏡に映る別人が握っているはずだ。それまで遠ざけようとしていた鏡の中の他人、彼が自分ではないならば、ではいったい……

 鏡に映る彼は、誰なのだ。

 男は問うたのだ。鏡の中の他人に、「お前は誰だ」と――

 「さて、この物語に結末は存在しない。語り部は、ここまで語り終えると、聞き手に向かってこう聞くのだ。

 彼はいったい誰だと思う、真実の姿を映し出す鏡とは何処にある、とね。

 マリィ、君ならどう答えるね」

 「鏡の中に映った他人こそ、自分であるということでしょう。鏡に映る男は、自分というものを見失ってしまった男の妄想でしかないということです。つまり、男が探している『真実の姿を映す』鏡など存在しない。鏡こそが真実なのだから」

 「その通り。人は他人を視ることはできても、自分のことは視ることが出来ない。鏡がなければね。人は鏡を通してしか、『自分』を知りえない。つまり、真実とは鏡であり、鏡に映った自分だ、ということだ。

 ところが、この男はここで話をやめない。最後に不適な笑みと共に付け加えるのだよ。鏡の中からね。

 『この世で唯一の真実とは鏡だ。しかし鏡は嘘をつく。真実とは嘘つきなのだ』と。

 真実は嘘をつく――それこそが、鏡にとっての、鏡の中に棲む男にとっての真実なのだよ」

 マリィはハインの話を聞きながら、心が彼方へ連れ去られていくように感じていた。

 どこか夢の中での出来事のような浮遊感があった。マリィはこの謎の男の正体探ろうと、危険とは知りながら、慎重に心を解いた。

 浮かび上がったのは、予想に反して何の変哲もない、一人の人間の炎だった。おとなしやかでこじんまりとした、怯えるように小さな揺らぎを持った炎の形をしていた。

 「よく目を凝らしてごらん、君はこの炎をよく知っているはずだ」

 くらくらした頭に、遠くからハインの声が聞こえてきた。マリィは催眠術にかかったようにその言葉に従った。

 ぼんやりとした頭に鈍い閃きが走った。私はこの炎をよく知っている。私はこの錬金術師の炎と全く同じ炎を感じたことがある。いや、これは……

 これは私の炎だ。

 錬金術師の心は鏡のように、マリィの心を映し出していた。マリィはかっと体が熱くなるのを感じた。覗かれている。私の心が。恥ずかしさに自分の炎が身を捩るような動きを見せる。そして目の前の炎がそれと同じ動きを左右対称にして繰り返した。と、幕が下りるように目の前が黒く染まった。マリィは暗闇に包まれたようになり、一切の視界を奪われた。混乱し、自分の炎の揺らめきが色調を動揺させる。圧し掛かってくるような重い闇の中で、自分の炎が心細げに翳った。

 慌てて心を結ぶと、瞬間、幕が剥ぎ取られたかのように光が溢れ、ようやく目の前に風景が開けた。

 そこにはもはや誰もいなかった。マリィが先ほどまで掃除をしていた部屋である。さっきまで錬金術師が立っていたところには、何の気配も残されていなかった。時間が剥ぎ取られてしまったかのように、彼は姿を消していた。

 いま見たのはなんだったのか。現実のことなのか、それともこの甘い香りにやられて夢でも見ていたのだろうか。いや、確かに現実だった。あの男はわたしの前に立ち、鏡男の話をし、私の心を鏡に映して見せた。心で黒い炎のカーテンを引くと、私の視界を奪った一瞬の間に、姿を眩ませてしまったのだ。彼は心の炎の扱い方において魔術的な手腕を発揮し、魔女である自分を出し抜いたのだ。そう理解するまで、しばらく時間がかかった。

 マリィはぐったりとして脚立に腰を下ろすと、夢と現の境に蹲り、頼りなさげに揺らめく陽炎をきつく抱きしめるのだった。


 ――なるほど。悪夢の中で、息子は母と親友の名を呼んだのか。

 マリィの説明を聞き終えた伯爵が、誰に言うでもなく呟いた。

 「はい、ご本人は隠していらっしゃいましたが。二人の影が、ご自分を夢の中で責める、そうおっしゃっていました」

 「二人が責める、か。もしかすると息子は、二人の死を自分の責任のように考えているかも知れん…だから、己が悩まされている悪夢を隠そうとしているのかも」

 午後の政務室である。マリィは椅子に座り、目の前で顎に手を当てて頷く伯爵の横顔を見ていた。十日ぶりに遠方の領地から帰ってきた伯爵は、事件解決の進展具合を聞くためにマリィを呼び出した。一通り城の住人との接触を終えたマリィは、その中間報告を行っていた。

 「失礼ですが、奥様のカサンドラ様は幽閉されていた塔から飛び降りたのだと聞いています。それを抱きとめようとして、友人であるマルコ様も巻き込まれてしまったと」

 「そう、あの子は大切な二人を同時に失ってしまったのだ」

 「しかし、なぜカサンドラ夫人は塔から飛び降りたのでしょう」

 「以前も説明したが、妻は気がふれて何年もあの塔に閉じこもっていた。別に私が幽閉していたわけじゃない。彼女自身が望んだのだよ、あの場所を。そしてあの部屋から決して外へ出ようとはしなかった。どういうわけか階段を下りることを異常なほどに怖がるのでね。私にはなぜ彼女が死を選んだのか、見当もつかない。狂人の心理などさっぱり理解できんのでね」

 伯爵の自分の妻に対する冷たい物言いに、マリィは不快感を覚えた。

 「では、なぜカサンドラ様の気がふれてしまったのかもご存じないのですか」

 「ああ、ある日行方不明になり、一日してから階段で気を失って倒れているのが発見された。それ以来、彼女の心はおかしくなってしまった。原因は不明だ」

 なぜクリフ様が、二人に対して責任を感じているのか、それは分らない。だが確かに、二人の死に少年が関わっているのかもしれない。

 カサンドラ夫人の狂気と塔からの跳躍、悪夢の真相、毒殺未遂事件の犯人、それらの輪郭が少しずつはっきりとしてきただけで、まだ何一つ解明されていない。いまだ全ては幻の中にあるようだ。ただマリィの直感が、それらが無関係でないことを告げていた。

 「あのハインという方のことなのですが」

 マリィは彼と遭遇した場面のことを思い出さずにはいられなかった。

 「いったいなぜこの城に? どこで何をしていらっしゃるのですか」

 「君もその名を聞いたことがあるだろう。あの噂に名高い錬金術師、ハインその人だ。一説には噂だけの存在、実体のない蜃気楼とさえ言われる、幻の人物だ。彼は研究者としての好奇心からこの城に逗留しているのだよ。この奇妙な城について調べている、そう君にも話したのだろう。だが、彼は毒殺事件には無関係だ。それは私が保証しよう。確かに何かを企んではいるようだがね」

 伯爵の表情に、マリィはハインと同じ不気味さを感じた。

 「どうかしたかね」伯爵は黙り込んだマリィの視線に気付いてそう尋ねた。

 「いえ、ただ不思議に思ったものですから」

 「何をだね」

 「伯爵様が、これらの事件を愉しんでいるように見えたものですから」

それを聞いた伯爵はマリィに向き直り、姿勢をゆったりと構え直した。

 「そうとも、私は今の状況を楽しんでいる」

 伯爵は演技じみた仕草で両手を広げる。

 妻が自殺し、愛する息子と自分自身の命を狙われ、息子は悪夢に苛まされ、得体の知れない男が城を徘徊しているにも関わらず、伯爵はそう断言した。

 「昨今流行の探偵小説ではないがね、面白いじゃないか。この城で誰かが私と息子の命を狙っている。それがいったい誰で、どんな目的を持っているのか。また謎の男が神出鬼没に城を徘徊し、我が子でさえ悪夢を秘密にして私から隠そうとしている。そして君もまた……何かを私に隠しているのだろう」

 マリィに動揺を与える時間すら許さず、伯爵は話し続ける。

 「この城はいまや、無数の秘密に覆われているのだ。誰もが何かを隠している。

 ――だが、私は知っている。

 この苦痛に満ちた人生において、秘密ほど甘美なものはないことを。罪を隠し、愚かさを隠し、醜さを隠し、知恵を隠し、陰謀を隠し、裏切りを隠し、憎悪を隠し、才能を隠し、好意を隠し、過去を隠し……。

 秘密とは人生における刺激的なスパイスであり、至福の甘露であり、馥郁たる香水なのだ。下々の者たちにはそのような複雑な思考や美味は分かりえぬであろうが、それらの秘密を前にうっとりとするのは、高貴な人間の嗜みだといってもいい。自分自身の秘密はもちろんのこと、誰かが秘密を持っていると想像するだけで、私はぞくぞくするような快感を覚えるのだよ。

 想像してみて欲しい。秘密を持っているものはそれを隠さなければならない一方で、同時に自らの秘密を曝け出してしまいたいと思っている。それは時として叫びだしたいほどの衝動を伴うこともある。しかし叫べば全てを失い、奈落へと突き落とされてしまうだろう。叫びだしたい思いをこらえ、その場面を想像しながら断崖の縁にたって奈落の闇を覗き込む。想像できるかね、そのような快感が。

 私は探偵小説のような謎解きには興味がない。私が蒐集しているのは秘密さ。自分自身の秘密だけではない。他人の秘密を蒐集することは、私の趣味なのだよ。

 生きていくのは退屈だ。日々にも相応の緊張感がなければつまらない。最近はちょっとした秘密では効果がなくてね、阿片と同じさ。次第にもっと強い刺激が、もっと鮮烈な秘密が必要になる。やがて秘密なしでは生きていけなくなるのさ」

 伯爵の表情が熱を放ち、詩を読み上げるように朗々たる声が響いた。伯爵の顔は歓喜に満ちていた。いや、伯爵は自らの言葉に欲情しているのだ。マリィにはそれが確かに分かった。そしてこの地を訪れる前に聞いた、一つの病名が頭には浮かんでいた。

 ――秘密依存症。

 遠い昔に流行り、謎のまま滅びたという貴族階級者特有の病。二百年の昔、高貴な身分の者達は皆、この病に罹ったという。かつて病の発生地とされたのもこのウロボロス領だった。その奇妙な病は、この地から大陸へと広がったのだ。そして二百年という時を越え、再びこの病は復活しようとしている。かつて大陸各地に飛び火し、数多の悲劇を産み落としたという伝説の奇病が。

 その歴史の影に埋もれた病がいかに禍々しいものであるか、マリィはある男から聞いて知っていた。その病の、埃にまみれた記録こそが、マリィをこの地に呼び寄せたといってもいい。

 やはり発症地はこの城、そして広めているのは城主カタストロプ伯爵のようだ。では、いったいどこに感染源はあるのか。この城のどこかに巧妙に隠されているはずだ。いま各地の大貴族達を中心に密かに蔓延し始めた霊薬が。彼らの間で『秘蜜』と呼称される、狂える神への供物が。


 『――伯爵が秘密依存症に冒されていることに疑いはありません。ただ、いまだその所在は突き止められていません。この病の源である霊薬「秘蜜」が、この城から各地へと出荷されていることも間違いがないようです。その秘蜜の精製方法、成分、原材料などについては一切が隠されています。

 影に侵された錬金術師が鍵を握っているようです。ハインの名を騙るその男は、この城そのものについて調査し、研究を行っていると話しました。二百年前と同じく、発症の源がここであるならば、やはりこの城そのものに何らかの秘密が隠されているのではないでしょうか。奇妙な城の見取り図をこの手紙といっしょに送ります。

 この城では、何か大きな胎動が感じられてなりません。大きな陰謀、或いは実験が進行しているのではないか、そんな気がするのです――』

 

 マリィは手紙を書き終えると、窓際にたって小さな笛を吹いた。人間には音の聞こえない、魔女が製法を受け継いでいく特殊な笛である。と、小さな遥かな天空から一羽の大鴉が滑空してくると、軽く羽根を羽ばたかせながら窓辺に降り立った。その足に結わえられた筒へと手紙を入れると、再び鴉を空へと放った。

 迷い無く飛び去った鴉が消えていく不穏な曇天を眺めながら、鴉の行く先にいる、自身をこの地へと送り込んだ男の声を思い出していた。

 「――君にはこの城に潜入し、秘蜜の所在を探ってもらいたい。古典悲劇は舞台の上で十分だ。過去の過ちを現実に再演させるわけにはいかない」








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