第一幕 魔女マリィ 火の異端審問(6)
それは、明くる日の昼のことであった。昼餉の仕度をしているマリィに、クリフが心配そうに話しかけてきた。
「マリィ、コフに叱られたんだって、大丈夫?」
どうしてそれを知っているのかを尋ねると、他の召使いたちから聞いたのだという。
大したことじゃありませんよ。そう笑いながらいうと、クリフは突然、咳き込み始めた。それも奇妙な咳を、調子を変えて繰り返すのである。不安になって尋ねると、また笑顔を浮かべて断続的に咳をする。喘息だろうか、声が出せないのだろうか。背中をさすながら、「お医者様をお呼びしましょう」と慌てると、
「違うよ、コフの真似をしたのさ、今のは『怒られてもめげずにがんばれ』っていう意味さ。コフ語だよ」
「コフ語、ですか。それは何ですか」
コフは咳をする、という意味だが、そのまま家令の癖ともなっている。彼は召使や騎士たちなど城仕えの者達に、言葉を使わずに小さく咳をすることで何かを咎めたり、何かを促したりするのであった。コフ様の咳払いは注意の合図、そう召使たちの間では言われている。クリフはその癖について面白おかしく話し始めた。
「コフは僕の教育係でしょ。だから小さい頃からコフに叱られたりしてきたんだ。コフはいつも言葉じゃなくて咳をしてぼくを怒るのさ。ぼくなんて何百回叱られたか分からないや。いまじゃ、コフの咳の意味が細かく分かるようになっちゃったよ。咳の仕方や調子、音の出し方だけで何十種類もあるんだ。『落ち着きなさい』『お静かに』『集中なさい』『頬杖禁止』『足をぷらぷらさせない』『きびきび動きなさい』『廊下は走るな』ってね、これでもほんの一部さ。咳をつなげてみれば、きっと文章だって表わせるし、会話だって出来るはずさ。だからそれをコフ語って名づけたんだ。一回試しにフランフランとコフ語でやり取りしてみたことがあるんだ。話が通じるから、最後はもう大笑いさ。フランフランなんてお腹抱えて笑い転げていたよ」
そういうとクリフはコフの真似を始めた。様々な咳をしながら、マリィの前で演技して見せるのだ。それがコフに叱られたマリィを元気付けるためであることは明らかだった。召使長が笑い転げるというのも想像するのが難しかったが、仕込み杖と呼ばれるコフも、クリフにかかればヒステリックな家庭教師でしかないのだろう。
「二人ともいい人なんだよ。どっちも厳しいけれど、それは仕事に一生懸命だからさ。それに、いつも僕のことを考えてくれているのが分かるんだ。フランフランはお母様の親友だったっていうし、コフはお父様の優秀な右腕なんだ。まあ冗談はあまり通じないけど」
そのとき、クリフの笑顔が悲しみに翳るのをマリィは見た。
おそらくは自分の母と、フランフランの息子であり、自分の親友であった一人の少年を思い出したからであろう。その少年の名はマルコといった。マルコはクリフの幼馴染であり、唯一の友達であり、兄弟のようにして育てられた親友であった。そして今はもういない。クリフは親友と母親を同時に亡くしていた。
クリフの母であるカサンドラ夫人と親友であるマルコが死んだのは一年前のことである。気が触れ塔の一室に長く閉じこもっていたカサンドラ夫人が、あるとき何を思ったのか、塔から飛び降りた。偶然その場に居合わせたマルコ少年は、落ちてくるカサンドラ夫人を受け止めようと、十歳の小さな体を投げ出した。それは早朝のことで、掃除をしようとカサンドラの部屋にフランフランが入ったとき、二人とも中庭ですでに事切れていたのだという。
クリフの笑顔が儚げなのは、体調や毒殺事件だけのせいではない。それは、度重なる悲劇と複雑な人間関係のなかで、彼が必死に笑顔を取り戻そうと道化ているからであった。それも自分だけのためではなく、自分を取り巻く城の住人達のために。マリィが感じ取ったのは、少年の幼い笑顔に透けて見える大人びた痛々しさであった。少年にとってコレッタとの時間がどれだけ日々の慰めになったか知れない。そう思うときマリィは、自分がどれだけ少年の力になれるのだろう、そう寂しい心で自問するのだった。
マリィがクリフ少年の微かな悲鳴を聞きつけたのは、その夜のことであった。
城の住人達が寝静まった深夜。城中の灯が落とされ、僅かな燭台だけが点々と城を照らしている。城内では昼でも香り付きの蝋燭が灯されているというのに、どういうわけかこの城では、深夜になると灯が消されてしまうのだ。燭台は遠くにポツリと浮かぶ程度にしか配置されず、返って闇を際立たせている。もしもこの闇が続けば、誰もこの迷宮のような城から出ることはできないだろう。マリィはそう思う。風のざわめきも、鳥のさえずりも聞こえない夜は、沈黙に包まれている。
ランプを片手に、マリィはこつりこつりと音を立てながら回廊を歩いている。足元に広がる闇に飲み込まれてしまいそうで、壁に手を這わせる。
すり足でゆっくりと少年の寝室の前にたどり着くと、耳を当てて様子を伺う。
微かにうめき声が扉の向こうから漏れてくる。幼く、甲高い声が、何かをひそひそと囁くように聞こえてくる。侍従の鍵で扉をそっと開ける。中に入ると、僅かな月明かりの下、天蓋付きのベッドが浮かび上がる。うめき声はそこから聞こえている。そっと近づき、ベッドを覗き込むと、クリフが苦悶の表情を浮かべながらうなされていた。
マリィはじっと少年の顔を観察する。白皙の顔には汗が浮かんでいる。まぶたがひくひくと動き、口元は歪んでいる。痛みに耐えるため奥歯をかみ締めているように見える。うめき声が辺りに呪詛のように反響している。ときおりその声に言葉らしきものが混じる。マリィはその言葉を聞き取ろうと耳を澄ます。
――いやだ、見るな、近づかないで、こっちを、ぼくは…
間をおきながら、かろうじて聞き取ることの出来るそれらの言葉は、クリフの見ている悪夢、その断片である。
クリフは体をよじらせ、ときに足をばたつかせるような動きをする。何もない場所を踏みしめようと不安定に空回りさせる。シーツを握り締める小さな手は小刻みに揺れている。
少年が苦しんでいる姿を見かね、マリィは何度も目覚めさせたいという欲求に駆られた。しかし、マリィに課せられたのは悪夢の内容を解き明かすという仕事であった。苦痛に歪む幼い顔に胸を痛めながら耳をそばだてると、マリィはそっと心の炎を開いた。
寝ているときの人の心は、火で例えるならば熾き火の状態である。その一日に疲れ果てた心を休ませるために、小さくそして硬質な炎へと変化する。ただ夢を見ているときだけ、その炎が揺らぐことがある。炎はどんな夢を見ているかによって異なる揺らぎを見せる。
悪夢にうなされているという少年の炎を覗き視たマリィは、その目を疑った。そこに視得たのは、暗闇だった。それが炎であることに、最初は気が付かなかった。それは真っ黒な炎だった。そしてその真っ黒な炎の中心に、黒雲に飲み込まれようとしている小さな陽炎が灯っていた。暗黒の火の真ん中にぼやけて見える小さな光点は微かに揺らめきながら、黒い闇に必死に抗おうとしているように見えた。
あの黒い炎が悪夢だというのだろうか。それまでに見たことのない、底知れない黒雲のような炎が。そしてその脅威にされされている小さな頼りない灯りが少年の心だと。マリィはもっとよく視ようと心の扉を開こうとしたが、本能が恐怖を感じて止めた。開きかけたマリィの心へ黒い炎の熱気が揺らいだからである。黒い炎が放っていたのは灼熱の熱さではなかった。凍てつくような寒さ、痛いほどの冷たさだった。マリィは慌てて心を閉ざしたが、内側から寒気が広がり、がたがたと体が震えていることに気が付いた。自分の炎が寒さで凍りついてしまったのではないかと思われた。
少年の口が僅かに動くと、うめき声の合間に掠れるような声が漏れた。
マルコ…お母様…ごめんなさい。
その言葉とともに、一筋の涙が頬を伝うのを見た。
この少年を守らなければ。その儚げな表情を見ながらマリィはそう思った。どれほどこの幼い子が寒さに晒されているのか、飲み込まれそうな闇に怯えながら、それでも必死に抵抗しているのが分かった。
少年の心の炎は風で吹き消えてしまいそうなほど脆弱で、憔悴している。このままでは黒い炎に飲み込まれてしまうだろう。悪夢をとりのぞくか、自らの炎で吹き飛ばしてしまわない限り、幼い心は焼き尽くされてしまう。少年期の後半とはいっても、一度心の炎が完全に消されてしまうと、もはや取り返しがつかないことになる。周囲の人や欲望によって如何様にでも操られ、バランスを失って容易く狂気に陥ってしまう。欲望に操られるようになった人間がいかに恐ろしいものか、マリィは知っていた。そして権力の座にあるものほど、そうなってしまう危険性は高い。一人の王や領主、或いは聖職者が狂気に走ったため、数千という命の炎が絶望の劫火となって燃え尽きてしまったこともある。
領民の命が権力者によって売買され、運命が気紛れに扱われるこの時代にあって、マリィはこの優しい小公子の未来に希望を抱くようなっていた。炎に弄ばれながら無数の悲劇を見てきたマリィにとってその希望は拙く、少年の笑顔と同じく儚いものであったけれど、それでも自分の炎が美しく彩られたような気がして心地よかった。
マリィが口を開きかけたそのとき、クリフは両目を見開き、がばりと起き上がった。髪が汗で額に張り付き、ぜいぜいと息を荒げている。小さな肩が上下し、体は小刻みに震えている。月明かりの映し出したマリィの影に気付くと、ひっ、と声を上げて軽い引き付けを起こしかけた。
「クリフ様、私です。マリィです。すいません、驚かせて」
「マ、マリィ? どうしてここに」
「悲鳴が聞こえましたので、入ってみるとクリフ様がうなされていました」
少年は汗をぬぐい、安堵のため息をついた。
「何か悪い夢をごらんなっていたのですか」
「いや、大したことじゃないさ、ありがとう。もう大丈夫、部屋に帰ってもいいよ」
とてもそうは思えなかった。体の震えはまだ続いている。
「クリフ様がお休みになられるまで、お側についていますよ」
「眠りたくないんだ。このまま起きているよ」
「そんな、しっかりお休みになられないと、体もよくなりませんよ」
俯きながら少年は口を閉ざし、少し躊躇ってから小さくつぶやいた。
「怖いんだ。眠るのが」
「どうしてですか」
「……夢を見るから」
マリィはハンカチで少年の汗を拭いながら、その目を覗き込んだ。すると潤んだ目で見つめ返された。思いつめた表情で、クリフは告白した。
「今日も、ずっと眠らずにいたんだ。眠るのが怖くて。眠れば、きっとまた夢を見てしまうから。うとうとしてくると、体をつねって眠るのを堪えるんだ。だけど、すぐにまた眠くなる。それを何度も繰り返して、僕は朝が来るのを待つんだ。朝や昼だったら、居眠りをしていても夢はこないから。だから今じゃ、夜が怖くて仕方がない」
「どんな悪夢をごらんになるのですか」
クリフは口を開きかけ、縋るような視線をマリィに向けた。しかし、一瞬の躊躇いの後、再び口を閉ざした。
「よく……分からない。覚えていないんだ」
嘘だ。やはりクリフは悪夢の内容を隠そうとしている。
「二つの影が、僕を責めるんだ」
「責める? 何をですか」
弱弱しく首を横に振ると、「いや、やっぱり、よく、分からないよ」そうぶっきらぼうに口にする。
「クリフ様、今日のお昼、私を元気付けて下さいましたね。今度は私がクリフ様を元気にして差し上げます。子守唄を、歌って」
「子守唄? いやだな、ぼく赤ん坊じゃないよ」
「あら、私、子守唄得意なんですよ。悪い夢なんて見ることなく、ゆっくりと安らかに眠りにつけますわ」
マリィはとっておきの笑顔を浮かべると、そっと小声で旋律を奏で始めた。同時に心の炎を曝け出し、旋律にのせて解放する。見えざる炎は旋律に寄り添い、するすると絡まりあいながら伸びて広がっていく。
聞いたことのない旋律と言葉にクリフは気を留める。
「どこの国の言葉なの、ぜんぜん意味が分からないや」
そういいながら、既に瞼は閉じ始めている。
マリィは声で旋律を奏でながら、歌に乗せた炎を操り、歌声で少年の心を包んだ。そっと、やさしく、弱りきった心の炎を温め、風通しを良くし、新たな火種を入れるように。
やがて少年はすうすうと安らかな寝息を立て始めた。マリィはその横顔を見つめ、この歌の歌い方を教えてくれた人との遠い日の思い出に自らも浸りながら、子守唄をいつまでも歌い続けていた。
翌朝、クリフは久方ぶりの爽快な目覚めに驚いていた。ベッドの傍らにはマリィが頭を乗せて規則正しい寝息をたてている。黒髪が白いシーツに映え、朝の光をきらきらと反射している。
マリィを起こさないようにそっと体を動かしたが、衣擦れの音が聞こえたのかマリィはすぅーと瞼を開けると、そのまま首を持ち上げた。
「おはようございます、クリフ様。よくお眠りになられましたか」
寝ぼけ眼でマリィは挨拶をする。
「おはようマリィ、久しぶりに気持ちよく眠れたよ。自分でもびっくりしちゃった」
「それはよかった。いった通りでしたでしょう。私の子守唄は効果抜群です」
「ほんと。嘘みたいだけど、すぐに眠くなってそのままぐっすりさ。夢も見なかったし。夢を見ない夜でも、朝起きると頭が重たい感じがするんだけど、今日は頭が羽根みたいに軽いんだ」
クリフの弾ける笑顔にマリィはほっとし、寝不足の疲れが吹き飛んだような気になった。
「不思議な歌だね。よく覚えていないけど、異国の歌でしょ」
「ええ、私の大切な人が教えてくれた歌です」
「大切な人? お母さん」
躊躇った後、マリィは正直に頷いた。
「そう、僕のお母さんも、昔は色々なことを教えてくれたよ。絵の描き方とか、楽器の弾き方とか、ダンスの踊り方とかね。今でも覚えてる」
昔は、というのは、気が触れて塔に幽閉される以前のことであろう。
「あの歌、異国の言葉だったけど、どんな意味なの」
「それが、私もはっきりと分からないんですよ。何処の国の、いつの時代の歌なのか。古代の遊牧民に伝わる、心の炎の扱い方を歌った詩だと聞いています」
「心の炎? 何だか面白そうだね。教えてよ」
「人の心とは、炎のようなものなのだそうです。人によって大きさや形の異なる炎。その炎は光を灯し、闇を払う。そして体を温め、魔物を遠ざける。炎の灯し方、扱い方育て方によって人の心は無限に変化するといいます。その炎の御し方に長けた人ほど、自分を上手く発揮することができて、周囲の人たちに大きな影響を与えることができるそうです。自分自身は恐怖を克服したり、勇気を奮い立たせたり。他の人には凍えた体を温めてあげたり、闇を払ってあげたり、魔物から守ってあげることができるのですよ」
「何だか素敵だね。英雄の物語みたいだ」
「ええ、物語とは炎の揺らぎが生み出すものですもの。でも、英雄だけの物語ではないのですよ。心の炎は誰もが持っているものなのです。ただ多くの人たちがその使い方や育て方を知らないのだそうです。それを学ぶことはとても大切なのです、私はそう教えてもらいました」
「僕の夢も、心の炎の扱い方が上手くなれば消すことができるかな」
「もちろん、でも心の炎を扱うのはとても難しいこと。人は一生かけて自分の炎を見詰め、育てていかなければならないといいます。それには、クリフ様はまだ若すぎると思います」
唇をかんで悔しそうな顔をするクリフに、マリィは付け加えた。
「一つ、簡単なお呪いを教えて差し上げます。私も小さい頃に教わったのですけど。心の炎を扱うための初歩で、まずは自分の炎が確かに存在することを信じなければなりません。その作法の一つです」
真剣な眼差しで聞き入っているクリフに、マリィは語りかけた。
「心の炎は現実の炎と同じように、色々なものを燃やし続けることで火を保ち続けます。焚き火は薪や落ち葉で燃えますが、では心の炎はどうでしょう。心の炎はその所有者の生の中で、周囲の人々、家族、友達などの出会った人や、彼らとの出来事、経験、思い出、未来への希望、過去への切望、そして感情、そういったあらゆるものを燃やしながら今を繋いでいくのです。自分の炎が何に強く反応し、熱く燃え上がるのか。それを探し出すこと。それが何かを知ることが大切です。自分にとって本当に大切なものは何なのか、それを思い浮かべるのです。それを望む心、それを守りたいと思う心、それを愉しませたいと思う心、様々な感情が炎となって生まれるでしょう。それを繰り返していくうちに、やがて心の炎は強く、そして優しく育っていくのですよ。そうして、いつも自分の中に自分だけの炎があることを感じること。そのことが炎を形作っていくのです」
「大切なもの、か。それが自分の炎を燃やし続けるってことだね」
「ええ」
「じゃあ、大切なものを失くしてしまった時はどうするの。他のものを探すの?」
マリィは少し言葉に詰まったが、はっきりと諭すように答えた。
「大切なものは、無くなったりしないのですよ。忘れてしまわない限り、いえ、例え忘れてしまったとしても、いつも心の何処かにあって、炎を彩り続けるのです。そして新しい大切なものを見つけ出すための灯台となって、闇を照らしてくれるのです」
クリフは俯くと、何かを思い出しているかのように考え込んだ。
「何となくだけど分かったよ、マリィ。ありがとう、また教えてくれる」
「ええ、いつでも」
そう答えながらマリィは、少年のガラス細工のように繊細で脆弱な炎が健やかに育ってくれることを、願わずにはいられなかった。
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