第一幕 魔女マリィ 火の異端審問(5)

 悪夢、それがコレッタとクリフをつなぐ秘密の一つであることを、マリィは知っていた。伯爵から事前に教えられていたのだ。彼女は自身とクリフのことを、悪戯を考える共犯者だと口にした。しかしその言葉からマリィがイメージしたのは悪夢という秘密を共有し、互いに隠し通そうとする二人の絆だった。事件の被害者であるクリフもまた、何らかの秘密を隠している。そしてその秘密を彼女だけが知っている。

 「どうやら息子は、悪夢に憑かれているようだ」

 犯人を探し出すという依頼をしたあと、伯爵はマリィにそういった。

 言葉の意味が分からず怪訝な顔をするマリィに伯爵は説明を加えた

 「毒殺未遂事件と前後して、クリフが悪夢に苛まされるようになったのだ。夜番の侍従からの報告があった。事件の少し前からクリフは体調を崩していてね。原因が分からなかった。どうやらそれが、あの子の見る夢、悪夢であることに関係しているらしかった。夜中にうなされて飛び起きるということが何度もあったらしい。一度など、泣き声が隣の侍従の控え室へと聞こえてきたほどだったという。侍従が部屋に入ると、ベッドの上で涙を流して震えていたそうだ。何かに怯えるように、体を丸めて。侍従が声をかけて何があったのかを聞いても、『何でもない、大丈夫だから心配しないで』とそれしか言わない。そんなことが何度か繰り返されたあと、息子は夜番の侍従にもコレッタを付けて欲しいと言い出した。私は召使長と家令に言って、昼の仕事をしていたコレッタを夜番に変えてやった。すると、今度は昼の学問の時間に居眠りをするということが増えた。何度注意しても、眠たそうな顔を起こすと、また眠りだすのだという。あるときなど、呆れられた教師にほっとかれて眠り込んでいると、眠りながら苦しみだし、がばりと起き上がった。冷たい汗をびっしょりと掻いて目覚めた息子は、どうして居眠りしている自分を起こさなかったのかと逆に教師に癇癪を起こしてしまったという。

 息子はどうやら、夜に眠ることを拒んでいるようだった。

 コレッタに尋ねてみると、どうやら悪夢を見ているらしく、それを見るのが怖くて眠ろうとしないというのだ。悪夢とはどのようなものなのか、私は息子に尋ねたがね。「悪夢なんて見ていません」その一点張りだ。コレッタから聞いたというと「コレッタの勘違いです」そういって頑なに突き放すありさまだ。

 私は改めてコレッタにどのような悪夢を見ているのか尋ねたのだが、今度はコレッタまでもが、「あれは私の勘違いでした、ただときどきお母様や親友であったマルコ様のことを思い出して、寝付けないことがあるようです」と前言を翻すようになった。悪夢の内容どころか、悪夢を見ていることさえも、二人で隠そうとしている。それが事件の起こる少し前のことだ。

 二人がいったい何を隠しているのか、私には分からない。悪夢がどのようなものかも。コレッタはクリフのお気に入りで、尋問にかけるわけにもいかないのでね。

しかしこのままでは、体力は失われてしまう一方だ。領主としての教育カリキュラムにも既に支障をきたしている。息子とコレッタが何を隠しているのか、もしかすると、クリフは犯人を知っているのかも知れない。知っていてその人間を庇っている。どうもそんな気がしてならないのだ。

 悪夢は、毒殺未遂とも関係があるはず。マリィ、君にはその夢の秘密を暴いて欲しい」


 説教部屋、他の召使い達にそう恐れられる一室で、マリィは一組の男女を前にしている。

 その一人、侍従長であるフランフランは、王宮からカサンドラ夫人の御付として城にやってきた元侍従である。宮廷人であっただけあって、その仕草は優雅なほどに洗練され、召使長として無駄な動きなど一切ないのではないかと思わせる。三十半ばの細面に硬質な美を備えた女性であり、他の召使たちにまぎれていても、一目でわかる存在感を持っている。召使いには厳しく、神経質なほどに仕事には細かい注意を出す。しかし、その細やかな気遣いは召使いたちの私生活や精神面にも発揮されていて、彼女を嫌っている召使はおらず、陰口というものを叩かれることも殆どない。厳しさと優しさを兼ねていて、マリィの見立てでも、コレッタの話でも、文句の付けようのない理想的な侍従長である。

 そして彼女と少し離れて後ろに立つのが、カタストロプ領の家令、コフである。家令とはこのウロボロス城の実務および領の統治の一切を取り仕切る役職であり、領主に次ぐ地位と権限を有している。コフもまた病的なほどの細面と痩せた長身の体をしており、背筋はピンと伸ばされている。しかしフランフランと違ってどこか控えめな佇まいをしている。髪と髭は黒々として整えられているが威圧感はなく、どこかやわらかな雰囲気を持った学者風の男である。

 コフは怜悧で優秀な家令として近隣の領主の間でも名高く、その手腕の巧みさは、伯爵の魔法のステッキとも呼ばれている。ただ一部では陰謀家としても噂され、伯爵の仕込み杖という二つ名も持っている。飴と鞭をいかに使い分けるかだけでなく、領内での裁判における法律、荘園及び家の経営、地代や森番など配下の人心掌握など、実に多種多様な才能と教養を必要とされる家令という職務において、コフは一種の芸術家といってもいいほどの才覚を有していると言われている。

城の切り盛りに関しては侍従長であるフランフラン、領地の統治はコフの任ぜられるところであり、このウロボロス城の二大権力者といっていい。

 城に来て以来、この二人とマリィとの接触は殆どといっていいほどなかった。家令であるコフはともかく、侍従長であるフランフランがマリィとわざと距離をとっているのは明らかであった。どこか遠巻きに仕事を眺め、注意もコレッタや他の召使を通された。彼女のマリィに対する強い警戒心は、他の召使以上のものであった。

 二人を前にし、マリィは極めて冷静に努めようとしていた。ただならぬ雰囲気が、二人から漂っているのをはっきりと感じていた。

 フランフランに呼び止められたのは、昼餉の仕度で他の召使たちが出払っているときのことである。名前を呼ばれただけで召使たちの背筋は伸びるというのは本当のことで、マリィも思わず姿勢を正しながら返事をしてしまった。質問を許されない空気にただ後を付いていき、小さな鉄製の扉の前に立ったときは身のすくむ思いがした。他の召使たちから説教部屋と呼ばれているその小部屋は、かつては懺悔のための告戒室であったとも、虜囚のための拷問部屋であったとも言われている。他の部屋と異なり防音が施されていることから、それらの噂のどちらが本当のことであることは間違いがなかった。

 コレッタや他の召使たちの話では、その場所でフランフランから一対一でされる説教は延々二時間は続くもので、理路整然と説き伏せられることによって心身ともに疲弊してしまうのだという。そして説教が終わった後も、数日間はフランフランの声が呪詛のように頭の中に反響し続けるのだと。

 何を失敗したのだろう、覚悟を決めて中に入ると、そこにはフランフラン以上に怜悧冷徹だという家令のコフが待っていた。

 椅子に腰掛けたマリィを見下ろし、両腕を後ろに組みながら、コフは低い声で言った。

「マリィ、君には明日の夜から、クリフ様の侍従を務めてもらいたい。伯爵様からの直々のお達しだ。クリフ様がそれを望んでおられるということだ」

 そこでしばらくの沈黙が降りた。マリィは二人が故意に作り出した静寂のなか、彼らの何かを探り出すような視線をじっと受け止めてそれに耐えた。

 コフは片手を前に持ってくると、小さな咳払いをしてこう告げた。

 「マリィ、伯爵様にどんな裏の仕事を頼まれたのだね」

 裏の仕事のことは家令や召使長にさえ秘密のはずである。しかしマリィは、コフやフランフランの自分への視線から、二人が伯爵と自分の秘密の契約に勘付いていることに気付いていた。そのためマリィは慌てることなくコフの質問に受け答えすることが出来た。それは、沈黙という手段である。下手な受け答えをすれば、尋問のペースを握られてしまう。しらを切りとおすには白々しすぎる。こんなときに最も賢明なのは、沈黙によって答え、まっすぐに眼差しを返し、逆に相手の心を探ろうとすることである。

 「君が伯爵様によって何らかの密命を帯びていることは分かっている」

 コフは瞬きすらせずに、マリィの目を覗き込んでいる。強い意志の込められた瞳に、マリィは怯みそうになる。

 「未遂に終わったクリフ様の暗殺かね」

 と、コフは恐ろしいことを告げた。それはマリィの想像の外にある疑いであった。彼はマリィのことを暗殺者ではないかと疑っているのである。しかも、伯爵自らが指示を出して息子を亡き者にしようとしている、そう考えているのだ。

 「いえ、逆です。私が依頼されたのは暗殺者の内偵調査です」

 マリィはあっさりと白状した。

 「ほう、では君は探偵として雇われたわけか。とてもそうは見えないが」

 「ええ、探偵がそれらしい格好をしていているのは物語の中だけですわ。犯人だってまさか暗殺者の格好をしているわけございませんでしょう。仕事になりません」

 「しかし、それならば私に秘密にする必要はないはず」

 「そうでしょうか、伯爵様は、この城の住人の誰も信用してはならない、そうおっしゃっていましたが」

 「ということは、この私を疑っているということか。この私が伯爵様と子息を暗殺しようとしていると?」

 「さあ、どうでしょう。ただ、信頼されていらっしゃらないから、伯爵様は私の仕事を秘密にされたのではないでしょうか」

 「ふむ、なかなか気丈なお嬢さんだ。伯爵様がどこから雇ったからは知らないが、その黒髪、めったなことはしないほうがいい。人間には、ヒステリーが行き場を失うと、目に付く迷信に縋りつく習性がある。迷信が晴れた後も、魔女として処刑された者達は多い」

 コフはそういうと、マリィから視線を外さないまま軽く咳払いをした。

 「それにしても、君のような黒髪の小娘を内偵役として雇うなど、伯爵様もどうかしている。しかも尋ねられてすぐに自分の仕事を白状してしまうとはね」

 片頬を軽くゆがめ、コフは苦笑した。マリィが裏の仕事をすぐに告白したのは、あらぬ疑いをかけられるよりも、動きやすくなるからである。嘘を嘘で塗り固めていけば、いずれほころびが出る。十の真実に一つの決定的な嘘を紛れ込ませることができればいいのである。自らが人の心を炎で視ることのできることは隠し、そして的確な質問をすることができればいいのだ。

 マリィはコフを見据えると、心の火をわずかに解放した。そこには以前見たのと変わらない、球体の火が光を放っていた。

 コフの心の炎を初めて見たときマリィは感心したものだ。それは「揺らがない」炎であったからだ。それは炎というより、火の玉、球状をしていた。それもとても小さく、かつ熱量と密度は強烈であった。高熱にして高密度の光を放っていたのである。

 炎が揺らぐのは様々な感情の表現であり、他者との会話や出来事などを燃料として火が燃え上がるからである。燃料によって炎は黒煙をあげて燻ることもあるし、小さくなってしまうこともある、逆に一瞬にして燃え上がることもある。怒りが爆発になることも、絶望が炎をかき消してしまうことも、悲しみが炎を液状化してマグマのようになることもある。常に炎は揺らぎながら、内部からの感情であれ、外部からの言葉であれ、何かを燃やし続けているのだ。

 それがコフの炎は殆ど揺らがない。球体の表面が僅かに波打つぐらいで、それも湖面の漣程度である。ただ感情の起伏が少ないというのとは違う。感情がないのでもない。その熱量と光から考えれば、感情は他のもの達よりも激しく、その総量は夥しいほどである。これに近い炎をマリィは数度だが見たことがある。一人は悪魔に生贄を捧げ続けた悪魔崇拝者、一人は三つの大聖堂を建設した大司祭、一人は名も知れぬ老詩人であった。共通しているのは、所有する炎と同じく揺るぐことのない「誓い」を立てている点である。その誓いの前では、如何なることも些細なことでしかない。ただただ誓いに寄り添うことのなかで充足することのできる人々だった。ただその「誓い」を外部から脅かされそうになったとき、球状の炎は内側に溜め込んでいた炎を外部へと向ける。それは指向性の伴う銃弾のような炎となって、標的へと向けられるのである。マリィが見た三人の所有者は、一人は進んで生贄になり、一人は背信で処刑され、一人は自殺している。

 マリィはコフの持つ「誓い」を探ろうと質問を考えた。どのような質問がコフの心に大きな波を立てるのか。外部からの干渉に殆ど感情を起伏させることなく、内側から心を燃やし続けるいわば内燃機関を持っているはずだ。その内燃機関の動力源を探ろうとしたのである。

 伯爵はコフに関してこういっていた。

 「忠実な家令にして理想主義者、私以上に息子に夢を抱く帝王学者。彼は私の息子を次代の領主として育て上げようとしている。いや領主にとどまらず、王へと押し上げようとしている。自らはその宰相として王国に君臨しようとしているのだ」

それは途方もない夢だった。王族とは神の血を引くものたちであり、王とは血の継承者である。如何なる領主でも、王族でないものが王になどなれるはずはないのである。

 「帝王学という学問を知っているかね」

 首を横に振るマリィに伯爵は説明を始めた。

 「帝王学とは、この世を統べる唯一無二の王を生み出すための学問だ。古代、この大陸を支配し、史上最大の勢力を誇った帝国で栄えた学問だよ。世の理を一人の人間に凝縮させるために編まれた十二の学問体系の総称だ。しかし完成する前に帝国は滅びてしまった。言い伝えに寄れば、各地に散った帝王学者達によって、今の諸国は建国されたのだという。無論とうの昔に滅びた学問であり、現在の研究者にすれば、英雄神話が生み出した幻想の学問だということだ。

 それだけではない。今の学府では帝王学を学ぶことそのものが禁じられている。歴史学者たちの研究によって、陰謀と叛乱の歴史の裏には、決まって帝王学者の残像が見え隠れするという調査報告がなされている。帝王学者は叛乱の種子であり、革命の種火である、とね。そのため王への反逆罪だとみなされるのだ。王宮の法務官に捕まれば終身禁固刑は免れまい。ある知人はこうも言っていたな。帝王学とは時代が生み出した異形の生き物、怪物なのだ、と。コフがどこでその学問に魅せられたのかは分からないが、彼はその古代の怪物の信奉者なのだ。帝王学を復活させることで、新しい世界を生み出せる、そう信じているのだよ。そして彼は我が息子に帝王学を施そうとしているのだ――」

 マリィは伯爵との会話を思い出して問いかけた。

 「コフ様こそ、何をお隠しになっていらっしゃるのですか。噂ではとうに滅びた怪物を復活させるおつもりとか」

 それは軽い揺さぶりのつもりであった。帝王学という禁じられた学問を研究していることへの。そして、どのように炎が変化するのかを視ようとしたのだ。

 マリィの質問に、コフの火の玉の表面に炎が波打つのが見えた。しかしそれも僅かなものでしかなかった。炎から読み取れるのは、マリィへの好奇心、疑念、微かな危機感、ただそれだけであった。恐怖や怯えの欠片さえ見出せなかった。ほんの刹那湧き上がったコ炎の漣は、眠っている竜が寝ぼけて首をもたげた程度のもので、その炎の色が表わすのは、愉快という心理作用であった。コフはマリィの質問にも動揺せず、やりとりを愉しんでいる余裕さえ見せているのだ。

 「いいだろう。君が伯爵に何を吹き込まれたかは分からんが、クリフ様に危害を及ぼそうとするのなら、私は許さない。もし君がクリフ様を損なおうとするなら、私は如何なる手段に訴えることも出来る。これは死を前提とした脅しだ。心しておくことだ。君が目を光らせているように、私たちもまた無数の目を持って君を監視し続けていることを」

 淡々とそう告げると、コフはフランフランに軽く目配せをして、マリィに出て行くように促した。

 「すまないわね、マリィ。コフ様は家令として全ての人間を疑わなければならないのよ。あんな事件があったばかりですもの。許してね」

 回廊を歩きながら、フランフランは無理やりの笑みで頬を引きつらせて謝った。彼女の心は怯え、コフへの恐怖を明らかにしていた。マリィに対しては申し訳なさを表していて、それが真心からきていることが分かった。

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