第一幕 魔女マリィ 火の異端審問(3)

 冷たい水盤で軽く顔を洗うと、召使い達はそれぞれの仕事の持ち場へと散っていく。かまどや暖炉から灰を掻き出し、新しい火を入れる。それから城内の掃除をはじめる。汚れたイグサをどけ、箒で掃き、床を磨く。手洗い鉢の水を取替えるもの達、カーテンやタオル、シーツをなどの洗濯をする者たち、便器を洗浄するものたち、新たなイグサを運び込むものたちなど、召使い達の朝は忙しい。そのほかにも、夜番を終えた騎士や守衛などの兵士達が交代のために城内を行き来し、馬丁、鍛冶屋、パン職人、料理人たちも掃除から始まる自らの仕事で、城内は俄かに活気付く。

 マリィは朝の静寂の中でそういった喧騒が生まれるのが好きだった。欠伸交じりに挨拶を交わし、すれ違いざまに軽口を叩き、白い息が浮かぶ。抑えた笑い声がそこかしこで聞こえる。それぞれが自分の職務をてきぱきとこなしていく。不気味な雰囲気の漂うこの城で、朝だけは奇妙なほどに爽やかで、澄み切ったもののように感じられていた。

 ただ、新入りであるマリィへの他の召使い達の視線は、想像以上に冷たいものだった。コレッタが人懐っこく、黒髪への偏見もなく受け入れてくれたため、他の召使いたちにもすんなり入っていけるのではないかと淡い期待をしていた。コレッタも濁りのない瞳で、

 「みんなとってもいい人たちよ、仲もいいし。ときどき人をからかったりすることもあるけど。それは私だからで、マリィなら大丈夫。綺麗だし、黒髪なんてとっても珍しいし」

 そう言ってくれたからだ。

 だがやはり、コレッタに案内されながら受けたのは、おざなりな自己紹介、引きつった作り笑い、あからさまに胡散臭げな眼差し、なかには強い敵意さえその瞳に込める召使いさえいた。全ての人に共通するのは、その黒髪への奇異な視線と、どこかしらマリィを恐れているという怯えだった。冷たいというよりも、新参者への強い差別意識や不審者への疑いの眼差し、そして異端者に対する怯え、そういったものが絡み合って、マリィとの間に大きな壁を作り出しているのだ。目を合わせた途端に視線を外されるなんてことはしばしばのことで、背後からは痛いほどの視線を感じながら仕事をすることになった。これでは打ち解けて上手く召使い達の中に入っていくことさえできない。仕事の合間の井戸端会議に参加しようとしても、途端に召使い達は黙り込んでしまう始末で、そこにはマリィに対する強い警戒心が存在していた。

 すぐにコレッタがその異様な空気に気付き、何とか他の召使い達との間を執り成そうとするのだが、努力は虚しく空回りするばかりであった。

 午前中の仕事が一段楽した後である。いまだ打ち解けないマリィと他の召し使い達に、

 「おかしいわねえ、みんなどうして余所余所しいのかしら」

 コレッタは残念そうな表情をしていった。

 「ごめんなさい、いつもはとっても親切なのよ。私が失敗しそうになったら手伝ってくれたり、見なかったことにしてくれたり、召使長から隠す手伝いをしたり、ごまかしてくれたりするのよ。みんな優しい人たちだもの」

 そういって他の召使い達の弁護をしようとした。それから力なく俯くと、コレッタは小さくため息を吐いた。

 「最近、嫌な出来事が多いから、みんな怖がっているのよ」

 「嫌な出来事? 何かあったの」

 マリィは何気ない風を装ってそう尋ねた。実際には、この城でここ一年ほどの間に起こった事件をマリィは既に伯爵から聞かされていた。ただ、召し使いであり関係者でもあるコレッタ自身から聞いてみたかったのだ。マリィの質問にコレッタの表情が曇り、口ごもる。一瞬の躊躇のあと、コレッタは顔を上げると無理に笑顔を浮かべていった。

 「ううん、何でもないわ。ただちょっと近頃…何ていうか、城の雰囲気が変なのよね。重苦しいっていうか、気味が悪いっていうか。城に住むみんながそう感じていると思う。それなのに、そのことを誰も口にしないの。みんなで何かを隠そうとしているみたい」

 ――いったい何を隠そうとしているの。みんなも、そして貴女も。一年前の奥方さまの自殺? 私が来る直前に起こった伯爵とその坊ちゃんの毒殺未遂事件? それともさらに背後に隠された何か?

 逸る気持ちから口に出かかった言葉をマリィは全て飲み込んだ。まだその段階ではない、そう判断したからだ。

 マリィが僅かに心を解いて視た召使い達の心は、懐疑、怯え、不審と、別に心を解かずともその態度から容易に察知できる程度のものだった。ただマリィを異端視する眼差しは予想通りに苛烈であった。彼らの炎はマリィの黒髪に向けて揺らいでいて、いまだこの地方では黒髪が忌むべき存在と思われていることが分かった。

 黒髪に偏見を持たないのはコレッタぐらいで、彼女は「とっても綺麗な黒髪ね、まるで月に照らされる夜を溶かし込んだみたい」といって、何度もマリィの髪に触れたがった。そして自分の癖毛を撫でながら、櫛を使ってマリィの髪を気持ちよさそうに梳かすのだ。彼女がマリィの黒髪を見るとき、その炎は屈託のない羨望と憧憬、微かな嫉妬で彩られている。

 第一容疑者と伯爵に言われたコレッタの心の炎、それは、普段は数日をすごして感じたとおりの優しい、穏やかな、少し慌て気味で移り気の強い、チラチラと揺らぎやすい炎だった。幼いとは言わないまでも、とても若い炎だった。それを眺めていると、こっちもじんわりと温かくなってくるような好ましいものだった。彼女といるときは、自分も常に心を解いていられるのではないか、そんなことさえ思われた。しかしマリィは、そういった人の炎でさえも、刹那にして変化してしまうことを知っている。希望的観測による幻想が、残酷とも言える失望に変わってしまうことを幾度も経験していた。

 みんなが何かを隠そうとしている――そう話したときに覗き視た炎から、コレッタ自身が何か秘密を抱いていることは確かだった。力なく俯いたコレッタの心の炎は、悲しみを基調として彩られ、戸惑い、不安、心配などを含んでいたが、その一端に後悔と罪悪感のパターンの炎を大きく膨れ上がらせたからだ。マリィの経験では、後悔と罪悪感は秘密を抱いているものに共通する感情の炎である。

 「ま、そんなことをマリィに話して不安がらせたって、いいことなんて何もないわよね。気にしないで。ほら、お城って狭い世界でしょう。外から入ってきた人には好奇心と一緒に警戒心が沸くから。みんな今はまだマリィに慣れていないだけよ。一緒に仕事をしているうちにきっと仲良くなれるはずよ。だから辛いときは一生懸命お仕事していればいいのよ。それをきっと誰かが見ていてくれるし、嫌なことも忘れられるしね」

 コレッタはマリィの思案する顔を、同僚からの拒絶反応に戸惑っているのだと判断したのか、そういって力いっぱい慰めてくれるのだった。

 「さあ、マリィ、午後はクリフ坊ちゃんの所へ行くのでしょう。私は付いていけないけれど、そんな顔をしていてはだめ。笑顔を見せてあげなきゃ。そうして、お体が悪いクリフ様を元気にしてあげるのよ。ベッドに一人で一日中寝ているなんて、私なら退屈で死んでしまうわ」

 満面の笑みでマリィを送り出そうとするコレッタの心の炎が、一気に羨望の色を纏った。強い憧憬、そして僅かな嫉妬、大きな心配、炎がそれらの形と色を為す。興味、不安、痛み、後悔が、小さな装飾品のように炎を飾り立てていた。

 「それから、後でいつもみたいに坊ちゃんの様子を教えてくれる? 私が心配していましたって、伝えてくれないかしら」

 寂しさに炎が取って代わると、コレッタの目尻が少し潤んだように見えた。

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