第一幕 魔女マリィ 火の異端審問(1)
あたりには濃密な甘い香りが立ち込めている。広々とした部屋の中央に、大きな木製の円卓が置かれ、縁に金色の刺繍の施された赤いテーブルクロスが掛けられている。日暮れ前だというのに、日の光が射さないのか、室内は薄暗く、石造りの壁には幾つもの燭台が灯されている。侍従に迷路のような城内を案内され、階段を昇ったり降りたりを繰り返したどり着いたのは、日の射さない、淀んだ空気が充満した政務室だった。マリィは先ほどその全貌を視界に入れた城のどのあたりに自分がいるのか分からなくなっていた。方向感覚を失ったのはもちろん、地上にいるのか地下にいるのかさえ分からないのである。
椅子に腰掛けた初老の男が、書物や書類束などが山積みになった円卓を前に、マリィをじっと見つめている。この辺境の地を治める領主にして奇妙な城の城主、カタストロプ伯爵である。肌は染みもなく艶やかで、皺らしいものも殆ど目立たない。血色もよく、僅かながら紅潮しているように見える。丁寧に撫で付けられた髪と形のよい太い眉には多分に白いものが混じっているが、眼差しは強く、漆黒の眼光は鋭い。髭は生やしてはおらず、剃り跡は綺麗に整えられている。年齢は五十を越えていると聞いていたが、十歳は若く見える。椅子に座っていても、伸びた背筋と広い肩幅から、痩身ながら確かな巨躯であることが分かる。両手を肘掛に乗せ、優雅に足を組み、傲然と胸を反らし、表情を消した眼差しでマリィの目を射抜く姿は、辺りを睥睨するたくましい鷹のように思え、まさしく威厳溢れる城主のそれであった。
「手紙は読んでいただけただろうか」
ゆったりとした口調で問いかけた伯爵の声は低く、弦楽器のように辺りに響いた。
「はい。ただ手紙には、仕事の内容は書かれていなかったように思うのですけれど」
出発直前に豪商からマリィ宛てに渡された手紙には、伯爵のサインと家紋が記されていた。そこに記されているのはマリィへの挨拶と、魔女である貴女の能力を貸して欲しい、といった内容の簡素な文章だけであった。
「当然だ、君の能力が本物であるかどうかも分からないうちから、依頼内容を伝えるわけにはいかないだろう。君の能力と同様に、秘密の任務なのだから」
射すくめるような伯爵の視線にマリィは少し体を硬くした。それに合わせるかのように、伯爵の体がすっと背もたれから起こされた。
「人の心が読める、そう噂では聞いている。本当かね」
「それは、厳密には違います。私には人の心の在り様が、炎として視えるのです」
そう、それがマリィの持っている能力だった。
「ほう、なかなか興味深い能力だ。人の心が、炎に変化するのかね」
もう少し詳しく説明して欲しい、マリィは伯爵の表情がそう告げているのを読み取った。
「そうです。人は誰でも心に炎を灯しています。その炎は心の動きとともに揺らぎ、形を変え、大きさも、温度も、色も変化させます。ときには燃え盛り、ときには小さく萎み、ときには渦を巻いて立ち昇り、ときには弾けて爆発します。様々な感情が心に表れたとき、炎もまた感情を反映してその姿かたちを変えるのです。私には人の心がそのような炎となって視えるのです」
「ふむ、俄かには信じがたい力だ。いまひとつどのようなものなのか実感が沸かないが、人の心や思考を、言葉にして読む、のではなく感情という炎の変化として視る、ということかね」
「その通りです。それは文字や言葉のように正確に表現できるものではありません。そのため複雑な思考や思索などは読み取ることはできません。しかしそれ以上に確かな、現実の炎のように熱量や質感を伴ったものとして、私には捉えられるのです」
「では今も、私の心が炎となって見えている、ということかな」
「いえ、普段は心を結んで炎を見ないようにしていますので。必要なときだけ心を解いて人の炎を視るようにしています」
「心を結ぶ、解く、とは何だね」
「他人の炎を視る能力を発揮するには、自分の心を解放しなければなりません。その感覚が、心の炎の入った袋の口紐を解くのに似ているので、私はそう表わすようにしているのです。そして再び口紐を結ぶことで、炎は隠れてしまいます」
「なかなか詩的な言い回しだな。しかしなぜいつもは結んでいるのだね。私なら、ずっと心を解いておくがね。そうすれば――
他人の心を覗き、その秘密を盗み見ることができる」
口調が変わり、伯爵の表情がにんまりとした笑みへと変わった。それまでの無表情が嘘のように顔面の全ての筋肉が緩み、感情と直結しただらしない笑顔へ、城主としての威厳も、領主としての知性も一瞬にして弾け飛び、掻き消えてしまっていた。その直裁で極端な変化は、心が別の人間のものへと取って代わったようで、マリィは薄気味悪さを覚えた。
「人の炎を覗き視るということは、大きな危険を伴うものですから」
そう、人の心の炎を視ることは、自分の炎を無防備に曝け出すということでもある。それは吹雪の吹き荒れる極寒の地で、被っている衣服を全て脱ぎ捨ててしまうようなものだ。よほどしっかりとした炎を持っていなければたちまち風によって消されてしまうし、他人の炎に呑み込まれてしまう。むき出しの炎は他人の炎の影響を受けやすく、荒々しい心の炎があれば、そこからすぐに飛び火してしまう。他人の感情が自分の心の炎に引火し、自らの感情が染まってしまうのである。時に大きな他者の感情の炎が弾けると、それに心を乗っ取られてしまうこともある。
自らの心の炎を曝け出せば、他人の炎が覗ける代償に、己の炎が侵食されるという危険を生じさせる。マリィは過去の経験から、それがどれほど危険な行為であるかを知っている。不用意に覗いた他者の炎に、自分の心を焼き尽くされそうになったこともある、人の炎を視続けているうちに、いつのまにか自分の感情が制御できなくなっていたこともある。その逆に、自分の心の炎が他者に飛び火し、引火して大暴発を引き起こし、周囲に大きな災いが降りかかったこともある。過去、この能力の乱用がどれほど自らを苦しめ、周囲の人々を傷つけてきたことか。どれほど強く自分の炎を保つための意思を持とうと、それは他人の炎に対しては無防備で、弱弱しく、いとも容易く影響を受けてしまう。マリィは辛く悲しい出来事を繰り返しながら、いつしか心を結び、炎を凍らせる手段を身につけていった。いかなる感情も、興味も激しく起こらないように、湖面の漣程度に押しとどめる技術を身に付けてきたのだ。
「だから私がこの能力を解き放つのは、依頼があった限られたときだけにしているのです。伯爵様のご依頼であっても、いつでも使用できるというものではないものですから。お分かりいただけましたでしょうか」
マリィの説明に、伯爵は再び元の冷たい表情へと戻ると、軽く頷いた。
「しかし、その能力でいったいどのようなことが分かるのか、抽象的でよく分からんのだ。聞けば、前の雇い主の商人が新興の金貸しとして、僅か一年であれだけの財を成したのはお前がいたおかげだというではないか。いったいそこでは能力を使ってどのような仕事をしていたのだね」
「私の以前の仕事は、お金を借りに来た商人や貴族達を『視る』ことでした。彼らが嘘をついていないのか、信用に値するだけの人間であるかを、心の炎の揺らぎから判断するのです」
「嘘を見抜く、ということか。しかし炎が嘘という感情を表現するのかね」
「嘘とは感情ではありませんので、正確には違います。炎が表わすのは、不安、緊張、動揺、虚勢、興奮、快感、覚悟、後ろめたさ、そういった心の揺らぎ。嘘という行為を構成する感情の成分なのです。前の雇い主は私を傍らに、顧客や商談相手との会話に交えて、幾つもの質問をするようにしていました。的確な質問であれば、相手の炎の変化で嘘を見破ることが出来ます。上手く探ることができれば本音と建前の境界を見極めることも、何より、憎悪、嫉妬、疑念、敵意などを伴わない、敬意と信頼を兼ね備えた商売仲間を得ることが、どれほど難しいことか。私は様々な商人や貴族の方々を鑑定しながら思ったものです」
「確かに、いまや商人や貴族達にとって、信頼などというものは売買されるものになってしまったからな」そういうと、伯爵は軽く咳払いをして間をおいた。
「幾度も商人の危機を救った、とも聞いている」
その質問にマリィは記憶を辿る。
「何度か、探偵まがいのようなことをしたことがあります。そのことでしょうか」
「商人を裏切ろうとしていた部下を見抜き、間諜である浮気相手に情報を横流ししていた奥方を告発した、と。事実かね」
「はい、事実です」
答えながら苦い感情が思い出された。
「詳しく話してくれないか」
「長くなりますので、それに、話して気持ちのいいことでもありません」
伯爵は視線をじっとマリィに注いで呼吸をおいた。口の端の微かな笑みが、マリィの心理的動揺を面白がっているように思えた。
「ふむ、では結構。確かに商人が強情に君を手放したがらないわけだ。その力を知れば、豪商の殆どが競って君を手に入れようとするだろう」
伯爵は立ち上がると、両手を後ろに回し、再び冷たい表情へと戻った。
「しかし、今の話が本当かどうか、まだ私には判断することができない。『嘘』をついていないことを証明してもらいたい」
「と、おっしゃいますと」
「その能力を見せて欲しい。この私を『視て』もらいたいのだ」
マリィは自分の心臓が小さく跳ねる音を聞いた気がした。この目前に立つ男、奇妙な城の城主は、得体の知れない不気味さを漂わせていた。濃密な香気も、こめかみを刺激する違和感も、この男から発散されているかのようだった。過去の経験からしても、この男の炎を覗き見ることは、マリィにとって恐怖だった。自分の心を守るためにも、異常な炎の持ち主は敬遠することにしていた。心を解いた途端、相手の肥大した炎が一瞬にしてマリィを包み込んだこともあるからだ。
マリィの躊躇を見て取った伯爵が苦笑を浮かべながらいった。
「仕事の内容はデリケートで重大、しかも他の者達には秘密なのだ。こちらとしても、君が信頼に足りうる人間であるか、確かめなければならないのだよ。大丈夫、一瞬でいい。それに私は自分の心を扱うのに長けている。感情を抑えているよ」
「……分かりました」
そういうと、マリィはまず自分の心の炎を確認する。炎を見つめ、感じ、ゆれる輪郭をなぞる様な想像を働かせる。息を整え、伯爵に視線を移すと、そっと心の口紐を解いた。
予想に反して、それはささやかな炎だった。まるで暖炉の熾き火のような、持続的な熱を持った、揺らぎの極端に小さな炎。それが逆にマリィを不安にさせた。これまで様々な炎の視てきたマリィは、経験から炎をパターン化している。この炎のパターンは、眠っている大人の炎に近いものだった。目覚めているのにこのような炎を宿しているのは、不自然だったからだ。炎は小さく、色は赤々と内側から滲み出ているように放たれている。くすんだ炎の色は、マリィが「秘めた情熱」と名づけている色に近いものだ。チロチロと揺らぐ炎の動きと変化する色彩から、マリィはいくつかのはっきりとした感情成分を読み取った。
「懐疑、興味、好奇心、期待感、それらの小さな感情が混ざり合いながら見え隠れしています」
「一番大きいのはどれだね」
「それほどの差はありませんが好奇心が大きな揺らぎを見せています」
「ほう、確かに。だが、そんなことはそこいらの詐欺師にだって分かる」
マリィはそういった伯爵の眼差しに強い光が宿るのをみた。
「では、これではどうだね。分かるかね、私がいま、どのような感情を抱いているのか」
言い終わるか終わらないかのうちに、伯爵の炎が動きを見せた。それは爆発といってもいいほどの劇的な変化だった。炎の揺らぎが十数条の細い炎の迸りとなって扇状に広がった。マリィはのけぞり、恐怖に悲鳴を上げそうになった。炎はそれまでの数十倍の熱気と範囲を持って広がったが、しかし次の瞬間には収縮してもとのささやかなものへと落ち着いていた。
マリィは自分の鼓動が早鐘のように激しく打っているのを感じていた。背中からは汗が噴出している。膨れ上がった炎は自分の炎の目前で収縮へと転じたが、その衝撃波と余熱でマリィは軽いショック状態に陥った。
「どうかね、上手く抑えたつもりだったのだが。分かったかね、炎の変化が」
マリィは乾いた口内から唾を無理やり飲み込み、震える声で答えた。
「――明確な殺意です」
「……合格だ、君を正式に雇おう」
伯爵の声がマリィの虚ろな心に響いていた。圧倒的な恐怖が心を鷲掴みにしていた。
殺意を自在に御するなんて――俄かには信じられなかった。吹き出た汗はすでに冷たくなって背中を伝っていた。
殺意とはその多くが突発的なもので、制御することは殆ど不可能に近い。抑えきれない怒りや膨れ上がった憎悪などの感情が何かをきっかけに転じるものであるからだ。しかもそれは一瞬のことで、殺意を持続的に保つのはそうできることではない。殺意とは憎悪や怒りの複合物、その突然変異であって、殺意という感情のみで存在できるものではない。にもかかわらず、伯爵はその感情を自在に操ってみせた。怒りや憎悪といった何の前触れも見せず、突然、殺意という純粋な意思を感情にして出現させた。しかも表情一つ変えず、姿勢すら微動だにせずに。マリィの経験では、そんなことができるのは、怒りも憎悪も介さない殺人を生業とする者達、冷たく静かな殺意を秘めた暗殺者ぐらいであった。
それに、あの一瞬の炎。数十条の炎が蛇のように伸び、その細長い舌をチロチロと動かしながら蠢いていた。怖気が全身に走った。それは想像上の怪物、ゴルゴンを想起させた。マリィは知っている。人の心が、時に怪物のような形を伴って変化することを。心の中に怪物を飼っている人間が、極まれにいることを。
「それでは、仕事の説明に入ることにしよう。実はこの城の住人に、私達親子を暗殺しようとするものがいる。その犯人を探し出して欲しいのだ。話は少し長くなる。椅子に掛けたまえ」
伯爵の声が嵐を予感させる遠雷のようにマリィの心に反響していった。
◆ ◆ ◆
扉が閉まり、マリィが政務室を出て行ったのを見届けると、伯爵は背もたれに深く沈みこんだ。羽根ペンを指の先で弄びながら、少しの間、思考を巡らせる。
伯爵は甘い香りを吸い込むと、その香気を全身の隅々まで行き渡らせた。陶然として眉をひそめ、頭の中が極上の甘露に浸されたかのような感覚に陥った。自らの心の中で甘美な官能が際限なく膨れ上がっていく。
伯爵は夢想した。実験が成し遂げられた瞬間のことを。官能の彼方に一瞬だけ垣間見えるそのおぼろげな輪郭、イメージ。それはいまだ誰も象ることのできない「神の素顔」。実験が成功したとき、私はあらゆる仮面を剥ぎ取り、その相貌を見ることができるのだ。
しばらく快感に酔いしれていた伯爵は、ゆらりと立ち上がると扉を開けて隣の書斎へと入った。荘園の帳簿に目を通そうとしたのだ。
すると、そこには一人の男が立っていた。自分よりずっと若い、四十がらみの血色のいい男だ。伯爵はその男を知っていた。この城を棲みかとするただ一人の客人であり、彼の計画の共犯者であった。
「いつもながら神出鬼没だな、ハイン。いつどうやって潜り込んだのだ」
「私は錬金術師だ。好奇心のためなら、どこへだって現れるさ」
ハインと呼ばれた男は、弾むような声でいった。
「聞いていたのかね、いまの新しい召使いとの話を」
「もちろん。なかなか面白かったよ。奇跡の遺伝子異常者、進化の申し子、新たなる人類、運命の希少種、月の裏側に棲まうもの……伝説は無数に残されているが、魔女なんてそうそうお目にかかれるものではないからな。実に興味深い」
「では彼女は本物だと? 人の心を炎にして視るなど、最初は信じられなかったが」
「それは、心を覘かれた君が一番よく分かっているだろう。私も一度じっくり話をしてみたいものだ」
伯爵が椅子に腰掛けると同時に、男も向かい合わせた椅子に腰を下ろした。この男はいつも自分の真似をするような仕草を見せる。まるで自分の心を見透かしたような動きをするのだ。伯爵は神出鬼没の男を前にすると、いつもざらついた不快感を受けた。
それにしても、いつの間に私の書斎に入り込んだというのか。彼の不可解さに慣れたとはいっても、伯爵は不思議でならなかった。マリィを部屋に通す少し前、伯爵は書斎で養蜂村の報告書に目を通していた。政務室に移動してほどなく、侍従の案内でマリィがやってきたのだ。その間、伯爵は政務室から出ることはしなかった。政務室には誰も入ってこなかったし、無論、書斎に入っていった人間もいないはずだった。にもかかわらず、錬金術師であるハインはマリィのとの会話の一切を聞いていたという。何もないところから、いきなり書斎へと出現したとしか思えなかった。しかも、このようなことは初めてではなかった。ハインがこの城に姿を現してから、彼は自由自在に城の各地に出没するようになった。そして逆に探し出そうとすると、どこにいるの全く分からず、決して見つけ出すことが出来ないのだ。それは伯爵であっても同様であった。
伯爵に招かれた客人という立場でありながら、彼は城の住人達に不気味な存在として恐れられていた。客室を与えられているものの、そこにいることは殆どない。だが、城のどこにも見当たらない。城の住人達はそれぞれの持ち場で仕事をしながら忙しく立ち動いているが、彼がこの城に来てからというもの、常にどこからか見られているような視線を感じるようになっていた。その視線の圧力が強まるのを感じて振り向くと、いつのまに忍び寄ったのか、まるで影を踏むように真後ろに立っているのである。それも不気味な笑顔を貼り付けて。彼の気配だけが、そこらじゅうに残されているような、そんな違和感を誰もが抱くようになっていた。影に潜む者、監視者、彼は城の住人達に、そんな二つ名を与えられていた。
「ここにいたのなら、隠れずに君も会えばよかったのではないかね。召使いとはいえ、同じ客人同士、紹介する手間も省けた。話もできたはずだ。それとも私がいては不都合だったのかね」
「人に心を読まれるなど、気分のいいことではないだろう。それに、君の殺意で彼女は酷く怯えていたじゃないか。私の炎にまで耐えられるとは思えない。姿を現さなかったのは彼女に対する思いやりだよ。そして、大人気ない君に対するあてつけだ。彼女と私を会わせて、私の心を覗かせようと考えているだろう」
彼の声は、どこか遠くから響いてくるような違和感を感じされる。目の前にいるはずなのに、頭の中に直接騙りかけてくるようだ。彼との会話はいつも砂を噛むような実体のないものだ。利害のために目的が一致したもの同士の、腹の探り合い。互いにどこかに真意を隠し、互いにその正体を偽ろうとしている。伯爵はそれをよく自覚しているし、相手も同じであろうことも知っている。
「貴方に彼女は必要なさそうだな。彼女の能力に頼らずとも、人の心を見透かすことができるようだ」
男は視線を叩きつける伯爵の言葉を無視して話を進めようとする。
「黒髪の魔女か、彼女なら探偵としても、視線を引き付けるためのスケープゴートとしても申し分ないだろう。実験の完成は近い、しかし成功にはほど遠いのだ。あと一歩の所で全てを無為に帰してしまうわけにはいかない。機会は一度きり、失敗は許されない」
「彼女も計画には不可欠なのだろう」
「そうとも。小さいが、彼女は設計図のキーパーツだ。しかも非常にデリケートな部品だ。こちらの思うように機能してくれるといいのだが」
「これでようやく部品は揃ったのではないかな」
「いや、肝心の実験器具の修復が未完成だ」
「あとどれぐらいの時間が必要だね」
「進行具合から見て、あと二月といったところだろう。城仕えの者達の視線があの黒髪に集まっている間に、急いで仕上げなければならない」
「ふむ、しかし気持ちとしては待ちきれないな。完成間近の二ヶ月は、あまりに長い。今すぐにでも計画を実行に移したいというのに」
「たった二ヶ月だ。それまでにやらねばならぬことは多い。あっという間さ。それに伯爵、私など二ヶ月どころではない。二百年もの途方もない時間、ずっと待ち続けてきたのだからな。もうすぐ訪れるであろう至高の瞬間を。その時まで、今のこの緊張感と期待感を、存分に楽しもうではないか」
男は伯爵の目の前で、ワインをグラスにそろそろと注いだ。ゆっくり飲み乾すと、視線を虚空に彷徨わせ、陶然とした表情をして語りかけた。
「熟成され純化された時間ほど甘美な味わいを持つものはない。そう思わないかね」
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