シャルラタンの劇薬

八咫朗

開幕 ウロボロス領へ

 二頭の漆黒の馬に引かれ、幌馬車が枯れ草に覆われた大地をゆっくりと走っている。秋の夕暮れ、曇り空に褪せていた灰色の風景が、雲の切れ間から地平へと沈みかけた太陽で俄かに赤く染め上げられている。濃淡の異なる幾重もの草原が滑らかに広がり、細くなだらかに伸びた旅道は、踏み固められて乾いた砂に埋もれている。

 馬車の中、一人の少女が寝台兼長椅子の上に座っている。黒のスカートに白いシャツ、肩幅の小さな女物の外套を羽織り、古びた大きなトランクに腕をもたせている。長く艶やかな黒髪がうなじに垂れ、袖口から覗く手首はシャツより白く、か細い。大人びた旅装が小柄な少女には不釣合いな印象を与える。少女は小さな茶色の靴をつまらなそうに揺らしながら、背をそらすと幌の窓から顔を出した。

 頬に風の揺らぎを感じ、冷たい空気を小作りな鼻に吸い込むと、夕暮れ時の土と草の匂いが鮮やかに感じられた。小石を砕きながらガタガタと揺れ動く馬車の中、固い木製の寝台の上で、凝り固まった体の向きを十数度目かに変える。馬車の速度が落ち、前方の垂れ幕が鞭を握った手で捲られると、顔の半分を髭に覆われた中年の御者が顔を覗かせた。

 「もうそろそろ暗くなるようで、ここいらで一晩を明かすことにしましょうや」

 御者の鼻は皮が剥けたように赤く、浮かんだ笑みは皺と髭の中に埋もれて見えた。口ひげが油染みて強張りてらてらと光り、張り上げた声はしわがれて聞こえづらかった。

 最後の宿場町を出てからほぼ半日ものあいだ、馬車は走り続けている。

 「あとどれくらいで着くのですか」

 「そうさな、明日の昼前には領内に入れるだろう。城にたどり着くのは夕方近くになるでしょうが」

 腰の痛みに細い体を捩りながら、マリィは小さくため息をついた。旅慣れたマリィの体も、久方ぶりの馬車での長旅に悲鳴を上げているようだった。馬車を乗り継いでの旅はもう五日間にも及ぶ。三日目を過ぎる頃から生気を失った草原と一本の旅道以外のものは視界から消えた。向かうのは王国の最果て、点在する無数の森に囲まれた辺境の地、ウロボロス領である。豊穣神より見捨てられた地――如何なる作物も実らないことから、かつてはそう呼ばれていた。その痩せた土地のさらに向こうは、王の支配すら及ばない未開の地であり、言葉を知らない蛮族達の棲む広大な森が、草原を飲み込むようにして広がっているという。

 夜になり、星明りの下で二人は熾き火を囲んでいる。木箱に腰掛けたハンスという御者が、固くなった黒パンを、小さな鉄鍋から出る湯気に当てている。

 「お嬢さん、いったいどうしてウロボロス城へ」

 火を挟んで座るマリィに興味深げに尋ねた。口元が好奇心で歪み、目尻の下がった瞳がマリィの長く垂らした黒髪を無遠慮に撫でている。

 「お聞きになっていらっしゃらないのですか。伯爵様が召使として雇ってくださることになりましたので」

 「まさか、ご冗談でしょう」

 御者は鼻で笑い、馬鹿馬鹿しいといわんばかりにマリィの瞳を覗き込んだ。

 「年端もいかない小娘を、召使いとしてわざわざ馬車で五日もかけて呼び寄せるかね。しかも馬車賃も旅費もすべて伯爵様が出して、城から私を迎えに遣すほどだ。伯爵様は確かにおっしゃっていましたがね、召使を一人雇うことにしたのだ、と。親しい知人の娘だそうだが、そりゃ、城の住人達に向けた表向きの説明だろう。迎えに出る私に下されたのは、丁重に客人としてお守りするように、という命令だ。これで裏がないと思わないほうが変ってもんだ」

 御者は一呼吸を置くと、目前の少女の全身を眺めながら、沈黙を弄ぶようにして熾き火を掻き混ぜている。

 ――いったいどんな事情があって、伯爵直々に招かれたのか。

 マリィに向けられた好奇の眼差しには、少女の秘密を暴こうという欲望が滲んでいた。

 そういった視線に慣れているマリィは、少しも動揺することなく、にっこりと微笑を返して答えた。

 「私にもよく分かりませんが、この黒髪が珍しいからではないでしょうか」

 「確かに、黒髪とは珍しい。というより、隠すこともなく堂々と黒髪を伸ばしているお嬢さんが珍しい。世が世ならすぐに教会裁判に引っ張っていかれて火炙りの刑だ。まだ魔女は悪魔の使いだと信じているものも多い。不都合も多いでしょう。ここ十数年のことだ。王府の科学者によって魔女が悪魔崇拝とは関係がないと証明されたのは。そう、何て言ったかな、いで、いで…」

 「遺伝子異常です」

 「そう、それだ。黒髪は遺伝子異常で神の思し召しなんだろう。黒死病に耐性ってやつがあるらしいが、本当ですかい。羨ましいね。衛生通行証を持っているんだろ、それさえありゃ何処へだって検疫なしにいける。今の世の中、どんだけの人間が黒死病に怯え、縛られているか分かりゃしねえ。ありゃ命を奪うだけじゃねえ、家族や恋人を引き裂く最悪の病だからな」

 御者は言葉を切り、にやりと頬を歪めると楽しげに尋ねた。

 「噂は本当なんですかい。黒死病に耐性のある魔女の血肉は、黒死病の薬になるって」

 マリィは御者の表情に、背筋に悪寒が走るのを感じた。かつて黒死病に冒された人々の間で駆け巡ったその迷信は、血生臭い残酷な生贄を無数に生み出したのだ。

 「とんでもない、ただの噂ですよ。病への恐怖が生み出した迷信です」

 そう口にしながら、マリィは冷たい汗をかいていた。

 「そりゃあよかった。私としても、貴女のように美しく若いお嬢さんが、年老いた伯爵様の晩餐に饗されるのは見たくない。しかし、それならなぜ伯爵様は貴女を遠方から雇ったのか」

 その目は明らかに、自らの下卑た言葉へのマリィの反応を楽しんでいるものだ。

 「噂でお聞きしたのですけど、伯爵様はとても物好きな方なのでしょう。奇妙なものを集める癖がおありだそうだとか。この黒髪が珍しいからではないですか」

 御者は首を傾げ、少し考えるような仕草をした。

 「そんな噂は初耳だな。確かに黒髪は珍しいものには違いないが、奇妙なもの…例えばどんなもので」

 「私が耳にしたのは、『秘密』です」

 「別に秘密にすることでもない、噂なんだろう」

御者は苦笑交じりにそういう。

 「違います。伯爵様が集めているものが、『他人の秘密』である、という意味です。噂では王都周辺の大貴族様たちはみな、辺境の一貴族である伯爵に秘密を握られ、傀儡にならざるを得ない状況だとか」

 御者の笑みが引きつり、それを見てマリィは言葉をつなげる。

 「もう一つ、最近、大商人や貴族達の間では、奇妙な薬が流行っている、とも風の噂で耳にしました。人を狂わせ、溺れさせてしまう甘美な蜂蜜が、秘蜜という名で闇のルートで出回っていると」

 「いったいどこからそんな噂が? 確かに伯爵は蜂蜜伯爵と呼ばれる、蜂蜜の生産で財を成した辺境の貴族だが、そんな名前の蜂蜜など聞いたこともない。滅多なことを口にするものではないな」

 御者の口調が強張りを含んでいる。

 「ただの噂ですけど出所は確かみたいですよ。一滴が宝石ほどの値で売買されるその糖蜜は、取引どころか存在さえも秘密にされ厳重に隠されているといいます。しかし運び手の中に横流しをして儲けている人がいるらしく、その間抜けた運び手経由で情報が漏れたようです。それが誰か――それは分かりませんけれど」

 マリィはそういって視線を御者に向けると、その顔をまっすぐに覗き込んだ。御者と視線がぶつかり、瞳をそらさずにそれを受け止めた。御者の口元が僅かにひくつくのを見た。

 「ハンスさん、私も伯爵様にお聞きしたいのです。私をいったいいくらで金貸し商人から買ったのか。あの業突く張りの商人のことですから、さぞや値段を釣り上げたと思うのですけれど。自分の値段を知っておくのは大切なことでしょう。もしそれに見合う仕事をしなければ、私たち平民は貴族にどう扱われても仕方がないですもの。

 ご存知ですか? ある領主は、帳簿を誤魔化した家令を一族もろとも奴隷に落とされたとか。カタストロプ伯は名君として名高いですけれど、信頼する部下に領地経営の生命線である蜂蜜を粗悪な混ぜ物にして横流しされたと知ったら、いったいどのような裁きを下されるのでしょうね。私としては、貴方の勇気に感心せずにはいられません。ところで、私のお値段、ご存知ありませんか」


 かつてマリィが雇われていたのは、新興の商業都市に住む豪商の商館だった。彼女はそこで、表向きには召使として働いていた。織物商人として名を挙げた雇い主は、リスクの高い金貸し業を始めるにあたり、とある筋から聞き入れた彼女の能力を買い上げたのだ。彼女を雇い、一年ほどの間に莫大な財を築いた豪商は、召使として法外な給金を出していた。マリィの持つ不思議な力に気付いた他の大商が、隠れて彼女に接触し、給金を倍する金額で競り落とそうとしたが、能力に固執する豪商の監視は厳しく、すべて追い払われていた。金貸し業を行う商人にとって彼女の能力は至上の宝石に等しく、金の卵を産み落とす鶏のようなものだった。また、彼女の能力が知られては商売に支障が出る。豪商はその能力を隠すためにあらゆる努力を払った。

 その男が辺境であるウロボロス領への行商と取引を終えて帰ってきた日、めったなことでは顔色一つ変えない豪胆な商売人が、青い顔をして彼女に告げたのだ。お前を手放さなければならなくなった、と。聞けば、次の雇い主は噂に名高い蜂蜜伯、カタストロプだという。国境の太守、辺境領域の王、誠忠の名君、蜂蜜伯、様々な二つ名を持つカタストロプ伯爵の名は、半ば生ける伝説として王国では語られている。中でも一般的に知られているのは、蜂蜜伯という呼び名である。

 そもそもウロボロス領は、古代に繁栄した史上最大の帝国の中心であった地である。帝国の滅亡後、度重なる戦乱と長い時を経て、王国建国当時には荒廃した広大な不毛の大地となっていた。そのため力を蓄えすぎた大貴族が私財をはたいて持ち回りで治めなければならない、いわば辺境の左遷先とされていた。それを、二百年ほど前、地方の小貴族であった一人の伯爵が、莫大な寄進と引き換えに、王府から直轄の領地として譲り受けたのである。かつての領地に比べて面積だけは数十倍に広がったものの、作物など育たない痩せた大地に住む領民は僅かであり、殆どが森の近くに住む森人達であった。他の貴族はそれを愚行だとせせら笑ったが、その初代の領主は蜂蜜という高級品の安定生産と養蜂村の誘致によって一代にして財を築き、自由民の優遇と市民権の授与よって領民の数を増進した。開拓者達から見捨てられた辺境には無数の森があり、そこでは良質の蜂蜜がふんだん採取することができた。初代の領主が目をつけたのは、かつて切り開かれた森から追い出され、迫害と差別を受けながら流浪の旅をしていた養蜂業を生業とする遍歴職人であった。領主は彼らを保護し、土地を与えた。長い苦難の旅をしてきた遍歴職人達は新天地を築こうとし、安住の地を求める彼らの情熱と伯爵の思惑が化学反応を起こした。初代領主は神に見捨てられた土地で、養蜂の技術と職人を独占して一代産業へと育て上げたのだ。

 ここ数十年の間に、貴族や豪商達の甘露を求める嗜好、或いは志向は偏執的で狂騒の域にまで達している。市場に溢れる夥しい香辛料とは違い、甘露とは果実か蜂蜜しかなかった。また一匹の王を中心に、他の兵隊蜂が多用な仕事を分担するように構築された蜜蜂の社会システムは、創造主たる神の意思による造形美の極地とされた。古来より王を戴く国々はこぞって蜜蜂を紋章や家紋として象っており、その琥珀色のとろりとした蜜は王宮の貴人のみが食することの出来る食宝であった。

 その志向がこの時代になって熱狂的な過熱ぶりを見せていた。森を領有する貴族達は領民の立ち入りを禁じ、狩人を雇い、森の番人を配して蜂蜜の採取に励んだ。織物産業や金貸し業で私財を膨れ上がらせた豪商達や貴族達の間で奪い合いが起こり、値段が釣り上げられた。採れる森の気候や風土によって蜜の味が区分され、さらには同一種の花だけから採取した蜂蜜が純度を表示されてもてはやされた。何百種という原液の蜂蜜が生み出され、そこから糖度、純度、香気、混合成分、混合比によって細分化された。貴族達の嗜好品という地位を獲得した蜂蜜は、数十段階にランク付けされ、稀少な蜂蜜ほど仲間内で自慢でき、値段は高くなった。味を置き去りにして値段だけがどこまでも上昇した。一瓶が帆船一隻に相当するほどの値段が付けられるようになると、投機目的の豪商達の失笑を尻目に、大貴族たちは値札に記されたゼロの数を至上のスパイスとして、琥珀色をしたダイヤモンドの美味を競って堪能した。

 中でも貴族の奥方達の間での熱狂は、過熱を通り越し、沸騰しているといっていいほど常軌を逸したものになっていた。新しい品種のお披露目会や蜂蜜パーティーが連日催され、自己表現に飢えた奥方たちはここぞとばかりにその味わい深さを自分自身の言葉で表わそうとした。蜂蜜を味わったあとの言語による表現技法を詩文の専門家を雇って必死に習得するようになった。大貴族の奥方ともなれば、一つの蜂蜜の味を口にするのに、表情と仕草と言葉を駆使して表現しなければならなかった。表現もオリジナリティがなければならず、詩情を絡ませ、気の利いたエスプリをやんわりと含ませなければならない。妙な感想を言おうものなら、後日に笑いものにされるのは必定であった。

 貴族お抱えの蜂蜜詩人なる職業が出現するのもこの頃である。そもそも吟遊詩人とは旅かける語り部であり、時代の持つ空気を反映するパフォーマーである。彼らは街の祭りや宴席、祝祭などに、サーカス団などと一緒に催しの一つとして呼ばれる。街に吟遊詩人が現れると、来訪を待ちわびていた子供たちが歓声を上げてついていき、遠い異国の物語や、古い言い伝え、伝説や歴史物語を情緒豊かに語る。それまで騎士と奥方の恋物語や、王の英雄伝説、貴種流離譚など言祝ぎの歌を捧げる旅をしていた吟遊詩人たちが、この頃には各地の蜂蜜を味わい蒐集しながら旅をするようになり、客人として招かれた宴席で、土地土地の風景や風情を歌い上げるように描写するようになった。蜂蜜の持つ地方特有の香気と味わいをその地での思い出や出来事を絡めて語り、館から出ることのできない貴族の奥方たちのうっとりとした視線を浴びるのだった。

 蜂蜜は甘露としてだけでなく、万病に効く薬としても効果を発揮したし、女性達の化粧品としても流用された。また蜂の巣からは蜜蝋も重要な副産物として採取された。蝋燭の原料となる蜜蝋は、教会において必要不可欠なものであり、拡大し続ける聖教会の需要に対して慢性的な不足状態で、安定した供給が必要とされていた。

 ある種の芸術として形式化され、同時に大産業として成長した蜂蜜は、その産地が切り立った山麓の峰であったり、秘境の谷であったり、魔物の棲む森だったりと、特徴的な背景を持った品種ほど持てはやされた。そうした蜂蜜には語り部である吟遊詩人によって名前が付けられ、その蜜に纏わる物語が添えられるようになった。貴族やその奥方達は付加価値としての物語を楽しむようになっていた。言葉だけが独り歩きし始めたのだが、実際に、魔物の棲む危険な森ほど濃密で鮮烈な香りを放つ蜂蜜がとれるとされ、一攫千金を求めた数多くの貧農が迷い込み、命を失うことになった。

 貪欲に品種の発見と改良が行われたのは蜂蜜だけでなく、蜂の種も同様であった。異なる種の蜂が掛け合わされて新たな品種が生み出され、莫大な資金が投入されて遥か東方や南方の地から新種の蜂が船に積み込まれて輸入された。豪商や大貴族達の秤では、名高い蜂蜜一滴の重みは領民一人の命より重く、新種の蜂一匹の重みは小作人一人の命より重かった。

 各地で養蜂が盛んに行われるようになったが、現在でも、ウロボロス領での蜂蜜の生産量は、王国全体の三割を占めるほどであった。開拓民に捨てられた辺境であるため森が多いこと、多種多様な蜜蜂が生まれ、良質の蜂蜜が大量に取れること、そして受け継がれていく養蜂技術が更なる発展を遂げたこと、精製法において秘密とされる過程が数箇所あり、領内で採れる蜂蜜はどこか高貴な香りが漂っていること、それらの理由から、カタストロプ伯爵は蜂蜜産業において、他の領主や豪商達の追随を許さない利益を上げていた。

 ただ、私財を投じて国境を守り続ける誠忠の名君としても名を上げていた伯爵に、ここ数年、不穏な噂が囁かれるようになっていた。

 カタストロプ伯爵に叛乱の兆しあり――というものである。そういった賞賛も、不穏な噂もマリィは耳にしたことがあった。

 マリィが伯爵に雇われたのはそんな頃である。伯爵が豪商から自分を買い上げたのであれば、それが自分の持つ能力に関係するであろうことは間違いなかった。

別れの朝、豪商は伯爵からマリィ宛の手紙を渡すと、憔悴した顔でこういった。

 「すまない、私はお前の秘密を伯爵に売ってしまった。私としたことが、分の悪い取引をしたものだ。これからどうやって商売をしていけばいいのか。もはや蜂蜜伯の蜜蜂となって集めた蜜を捧げていくしかなさそうだ」

 マリィは、カタストロプ伯と豪商の間で何があったのか詳しく話してくれるように頼んだが、首を振るばかりであった。マリィの能力によって彼から見て取れるのは、後悔、恐怖、憔悴、諦めという感情であり、かつて彼を内側から燃え上がらせていた野心、野望といった炎は消え去ってしまっていた。

 「マリィ、今度お前が仕えることになる伯爵は、巷で讃えられている辺境の名君ではない、彼はどうやら狂気に憑かれてしまったようだ。あの城は彼からにじみ出た狂気に侵されている。いやあの城が人に眩暈を起こさせ、見えざる狂気に誘いむのかもしれない。あの奇妙な形をした城にいればいるほど正気を失っていくような気がする。お前もくれぐれも気を付けておきなさい」

 ざわざわとした胸騒ぎが、マリィを不安にさせずにはいられなかった。


 ウロボロス城。それがマリィの行く先であり、カタストロプ伯爵が城主を務める城の名である。領地の南西部にあるその城は、二百年という歴史を持つ古城だという。豪商の怯えた顔を思い出しながら、マリィはハンスの隣に座って移り変わる景色を眺めている。秋の日差しに風が心地よく白い頬を撫でていく。肩までかかる黒髪がさらさらと揺れ、ゆっくりと規則正しい馬の歩調に眠気が訪れる。

 「もうここいらから領内だ」

 その声にマリィは軽く伸びをして、欠伸をかみ殺した。

 馬車が進むにつれ、森の姿が目に付き始めた。大きな森ではない。離れてみれば全体を視界に入れることの出来るような小さな森が、ぽつりぽつりと遠くに散らばっている。森の近くには、十数軒の民家が建てられている。森に寄り添うようにして養蜂村が存在しているのだ。

 その民家の歪な造りが、マリィの興味を引いた。

 石切り場の近い都市部や王宮を除き、一般的な家は木材と土によって建てられている。森が多いということは、豊富な建築資材が採れるということ。目に映るのもすべて木造の建物である。視覚的な違和感の正体はその形である。家といえば四角く長方形をしているのが一般的である。目に付く民家をじっと眺めていて、違和感の正体に気付いた。その造りは、角張った六角形をしているのだ。

 「変な形をしているだろう」

 ここいらの家はみんなそうさ――マリィの困惑を読み取ったハンスが楽しそうにいう。

 「どうしてあんな形をしているのですか」

 「魔除けやまじないの類さ。ウロボロス領では六角形は魔を払う神聖な形とされているからな。蜂蜜伯に相応しいだろう。まあ起源は帝国の時代にまで遡るってことだから、カタストロプ家の領地になるずっと昔から、ここいらの土地で建造物は六角形の造りをするよう定められていたらしい。その風習が今でも残っているのさ」

 「みんなそれを信じているですね」

 「いや、ここいらの領民は新しく入ってきたやつらさ。そんな風習なんて知らない。信じているのは伯爵さ。伯爵が消えかけていた風習を古い書物の中から引っ張り出して、領民に広めたのさ。『六角形は瘴気を遠ざける聖なる力を備えている。黒死病の被害を防ぐために、領民の家は正六角形を基本とする』ってな。ここいらじゃ有名な話なんだが、知らないのかい」

 「初めて聞きました、そんなこと」

 「まあ、黒死病の対抗策は地方によって違う。誰にも何が原因かわかりゃしないんだ。不安に怯えながら暮らすより、家そのものが瘴気から守ってくれると思えば、夜も安心して眠れるってもんだ。家を守ろうとするから、領地を逃げ出そうとするもの減る」

 王国だけでなく大陸全土を覆う恐怖の一つが、黒死病と呼ばれる疫病である。かつて何度もその流行によって夥しい死者を生み出し、幾つもの国家を荒廃に追い込んだ。原因は分からず、感染ルートの特定さえいまだできていない。瘴気、そんな言葉が黒死病の根源であるとされるが、実際には誰にも解明されていない。その土地土地の教区や領区によって異なる予防法が存在し、信じられている。それは薬だけでなく、呪いや儀式、生贄、しきたりなど様々な様式を持つ、土着のものでもある。また、黒死病蔓延の噂ととともに、新たな予防法が流行のように広まっては消えていく。そのたびに流行の予防法と、それに伴う妖しげな職業、そして成金が生まれることになる。それらは黒死病に乗じて一儲けしようとする商人達や呪い師たちが仕掛けたものであるとも言われる。

 各地方の予防法はそれなりに効果を上げているというが、それは予防法に関わった学者、聖職者、医師がもっともらしい理由付けや妖しげな口上で主張するところであり、実際の効果のほどは結果論でしか判断できない。十数年に一度、嵐のように押し寄せる黒死病の暴風によって、予防法は淘汰され、新たに生み出されては消えていくのである。

 「だが確かに、今の伯爵が城を継いでこの命令を出してから、黒死病は一度も領内に入ってきていない。検疫制度も整っているし、痩せた土地にも関わらず養蜂業で領民は潤っている、伯爵様様さ。領民はみな領主を尊敬しているし、感謝している。まあ名君だな」

 そうハンスは嬉しそうに話す。

 「城も六角形をしているのかしら」

 尋ねると、ハンスは驚いたような顔をマリィに向け、

「聞いたことがないのか、ウロボロス城のことを」

 そう大げさに言った。マリィが、知らないと答えると、

 「こりゃあんたに城を見せるのが楽しみだ。あんな奇妙な城はどこにもありゃしない。見れば度肝を抜かれること請け合いさ」

 そう楽しげにいった。

 「奇妙? いったい何が、どのような城なのですか」

 「なあに、見ればすぐ分かる」

 勿体付けるハンスに軽い苛立ちを覚えながら、マリィは口を閉ざした。

 「まあ、巷では蜜蜂の巣なんぞと呼ばれているらしいがね。私が見たところ、ありゃ蟻塚、いや、蟻地獄みたいなもんだ」

 ハンスは皮肉っぽい笑みを浮かべていった。

 「お、話している間に見え始めたぞ」

 マリィがハンスの視線の先を追うと、前方に石の壁のようなものが広がるのが見えた。

 「あの市壁の向こうが蜂蜜産業の一大都市バロウズだ。そしてその中央に、領主が住むウロボロス城がある。それは実に壮観な眺めだ。まあその前に面倒な検疫所があるがな」

 「検疫所では何を?」

 「十日間の退屈な監禁、後は匂い付けだな」

 舌打ちの音に目をやると、ハンスの横顔が忌々しげに歪んでいた。

 「これも伯爵さまの政策さ。彼によれば、瘴気は匂いと密接なつながりがあるらしい。臭気の中に黒死病を発生させるものが含まれているってことだ。だからその臭気を打ち消し、追い払うために、香水を使って体や服に匂いを染み込ませるのさ。そうすれば黒死病が逃げていくって話だ。本当かどうか知らんがね。まったく貴族様じゃあるまいし、男が花の香りなんぞどの面下げて振りまけって言うのかね。まあ命あってのものだねだが仕方がないが」

 黒死病の原因は不明であり、いまだ何から病が発生するのかは解明されていない。ただそれが何らかを媒介にして人へと感染していくものであることは経験則として知られている。潜伏期間は一日から一週間とされる。発症すれば、致死率は八割を超えた。高熱が続き、体内の至るところで出血を起こし、皮膚が黒く染まっていく。同時に臓器の機能は低下し、生きながらにして腐っていく。その腐臭は死の香りそのものだった。

 黒死病による死の嵐が断続的に吹き荒れた頃、王府は衛生局という部局を新設し、検疫所というものが各都市の市壁の外に設置されることになった。旅をする行商人や都市を訪れた訪問者は、その旅程を調べられ、黒死病に感染していないかを確かめるため、市壁の外で十日間を過ごすことになっている。その間に発症してしまうと、市壁の裏門へと回され、黒死施療院という名の施設に隔離される。致死率の高い黒死病患者を押し込められるこの施設は、施療院とは名ばかりのサナトリウムであり、墓と火葬場が併設されている。施療院へ続く裏門は近隣の者達から地獄の門と呼ばれ、都市内部からは誰も近づこうとしない、死へと続く道であった。

 どの都市でも人口の多い発展した都市ほど黒死病は発生の可能性が高く、蔓延しやすい。人ごみと道の脇に積み上げられた排泄物、腐った食べ物、吐き気を催す悪臭など、空気が色づくほどに澱んだ不潔な場所は、発生する確率が高いとされた。感染者の死体は瘴気を放つとされ、その瘴気が黒死病の感染源だ、という説が一般的には根強い。ただ瘴気を見ることなど誰にも出来ず、せいぜい死骸の腐臭を感じることができる程度である。そのため、黒死病は匂いによって感染すると思われていた。空気ではなく、匂いである。この頃、誰もが鼻をひくつかせながら生活するようになっていた。どこからか黒死病の匂いが漂ってこないか、病で死んだ家畜や糞尿から香ってこないのか、気を尖らせるようになっていた。ひとたび発生してしまえば街ごと死神の鎌で殺されてしまう。瘴気は瘴気を呼び、死がそこら中に溢れ出す。墓を掘るのが追いつかず、市壁の外へ放り出され、積み上げられる。それは司祭たちが言葉巧みに語る地獄の風景そのものであった。そして度々、地獄は地上へと現出していた。

 死に怯える貴族達の間では部屋に焚き染める御香と香炉が大量に消費されるようになった。匂いを部屋に満たすことで、黒死病をもたらす匂いを遠ざようとした。平民達でさえ、匂いの強い香辛料を体に振りまいたり、食事に大量に混ぜたり、或いは香草で朝晩と体を叩いたりすることがよく見られた。香水もまた蜂蜜とともに飛ぶように売れていた。高貴な香りは魔を遠ざけると思われたからだ。そんななか、養蜂家とともに隆盛を誇ったのが調香師という職業である。様々な香りを混ぜ合わせて香水を生み出す調香師は、そもそもは薬草学に長けた薬剤師でもあり、同時に様々な薬品を扱う化粧師でもあった。それまで化粧師としての仕事の一部であった調香という作業が、専門職として独立したのである。香りには高名な詩人によって名と詩が与えられ、精製者の銘とともに売り出された。街の各地に調香師が店を出すようになり、女たちは殺到した。「匂い」が「言葉」とともに鮮烈なイメージを持って人々の間に伝播していったのだ。

 検疫所に入ると、マリィは衛生通行証を提示した。所有者が疫病への耐性を持った人間であり、あらゆる検疫を免除できることを証明するものである。これを所有できるのは、黒髪の遺伝子を持つものと、神の加護を受けたとされる聖人、聖職者だけである。

 「ここいらでお別れだな」

 ハンスが不機嫌そうな顔でいう。

 マリィが挨拶をすると、

 「残念だよ、あんたが城を見て驚く顔が見られなくて」

 無理やり笑顔を作っていった。

 「どうしてそんなに気分が悪そうなのですか」

 「なあに、香水の匂いが嫌いなだけさ。これだけは我慢ならねえ。だからおれは市壁の外に住んで送り迎えなんてやっているんだ」

 「でも、たいしたことないじゃないですか、匂いなんて。臭いほうがよっぽど嫌ですよ」

 「あんたはまだ城に入ったことがないからそんなことを言うのさ」

 ハンスは最後にマリィの耳に唇を寄せ、検疫官に聞こえないようそっと囁いた。

 「いいか、城に充満した香りは少しずつ人を狂わせる。そして人は狂っていくことに気がつかない。匂いに慣れてしまうように、狂気にも慣れてしまうのさ。気をつけな、もしも自分を見失いそうになったら、旅の間に嗅いだ草と土の匂いを思い出せ、まあ、今お前さんが鼻を顰めているわしの匂いでも構わないがな」

 そっとマリィから体を離すと、ハンスはにっこりと笑った。

 別の部屋へと連れて行かれる後姿を、マリィはそっと心の炎を解放して視た。その背中に柔らかな温かい炎が透けて見えた。それは幼い子を心配して見守る父親の炎と似ていた。何かを仕方なく置き去りにしてしまう寂しげな心の動きが、チラチラとした陽炎になって揺らいでいた。


 市壁は長大で、石造りの門は高く聳え立っていた。マリィの背の三倍はあろうかという正門の前に立って左右を見渡せば、僅かに湾曲して伸びているのがわかった。

 「あの市壁は蛮族や敵襲から守るためのものじゃない。都市に住む人間を閉じ込めておくものなのさ」

 ハンスの言葉を思い出しながら見ると、それは確かに堅牢な檻のように思えた。

 門が軋む音を立てながら開いていく。門は短いトンネル状になっていて、ランプに照らされた暗闇の少し先に、光が差し込んでいるのが見えた。一歩中に入ると、マリィはほんの微かな、しかし確かな質感を伴った甘い香りが漂って来るのを感じた。逃げようと頭を振り、歩みを進めた。しかし鼻先を擽ったその甘い香りが、塊となって押し寄せてマリィの全身を包み込んだ。空気が重さや粘性を持って体に纏わりつくような気がした。背後で門が閉まる。吹き返した風が香気を吹き飛ばしたが、それも一瞬のことだった。門番に紹介状を渡し、その案内でトンネルを抜ける。

 目前に開けた光景に、マリィは息を呑んだ。かつて見たことのない奇妙な大地の造形。そこに存在したのは、大地に穿たれた巨大な穴だった。枯れ草色の広大な大地がすり鉢状に窪んでいる。それも美しい円の造形を形作って。石造りの道が交差する斜面が緩やかなカーブを描いてすり鉢の底へと降りている。その大地の椀の中に、無数の建物が犇く街が広がっているのだ。

 マリィはその椀の縁に立って、都市の全貌を眺めることが出来た。それは壮麗にして緻密な箱庭の風景。ただその馬鹿馬鹿しいほどのスケールだけで、これほどまでに人が圧倒されることを、少女は初めて知った。その、一目で街全体を見渡せるという初体験の感覚に、ある種の感動さえ覚えていた。それは初めて海というものを見たときの衝撃に似ていた。ただ違ったのは、視界にすっぽりと包みことの出来る一個の造形物を、自分が所有しているという錯覚を得たことだ。どういった経緯でこんな場所に城が建てられ、街が生まれたのかは分からない。感じ取ったのは、ここを建造した時の権力者の、所有欲を満たすことへの強烈な意思だった。

 建造物は底に向かうほど密度を高めている。そしてその建築群もまた異貌の態をなしていた。石造、木造に関わらず全ての建築物が六角形をしているのだ。道中で見かけたのは横からの眺めであったため、視覚的な違和感は軽いものであったが、上から覗き込むようにして眺める無数の六角形の屋根群。その連なりは、この街そのものが一つの造形美をなした新様式の芸術作品であるかのようだった。別世界、市壁に隔たれたその地には、そんな言葉が当て嵌まるような気がした。蜜蜂の巣、蟻地獄、ハンスの言葉の意味するところが理解できた。

 その別世界の中央、つまりはすり鉢状の大地の底にウロボロス城はあった。永遠を象徴する幻獣の名を冠された古城。狂気の充満するという城、ウロボロス。しかし縁から見えるのは、ひときわ深く落ち窪んだ中央の穴から突き出る、数本の塔の上部だけだった。城そのものが大地に沈み込むようにして建てられているのだ。

 城塞と呼ばれるように、城とはそもそも国や領地の要所に戦の拠点として建造されるものである。敵の来襲を迎え撃つためには、崖を背にした小高い丘の上が望ましいとされる。大地が岩石であれば土中からの侵攻も防げるためなおよい。ところが、ウロボロス城はそんな地形状の通念と全く異なる場所にあった。これではいったん市壁を破られてしまえば、侵攻する敵兵の勢いは傾斜を駆け下りてくることによって倍増され、逆に迎え撃とうとする側の勢いは極端に削がれてしまう。そのことを知っていたマリィは、ハンスの話によって聞いていた古城の持つミステリアスなイメージを更に増幅させていた。誰が何のために、このような場所に城を建造したのか、そもそもこのような奇怪な地形は神の御手になるものなのか、或いは強大な力を誇った時の権力者によるものなのか、と。いまだ城の全体像を見る前から、すでにそれは奇妙な城であった。

 伯爵の手紙と招待状を確認した門番によって一台の馬車が呼ばれ、それに乗せられたマリィは城へと向かった。緩やかな傾斜の石畳を馬はゆっくりと進んでいく。

 「この甘い香りは何の香りかしら」

 マリィは御者にそう尋ねた。どこまでいっても付き纏う、いや、市壁の内部に満ちている甘い香りに軽い不快感を覚えていた。

 「やはり貴女も何か匂いますか。私は何も感じませんが」

 若い御者は横顔を向け、不思議そうな表情をしてそう答える。

 この香りに気がつかないはずはない、それにやっぱりとはどういうことだろう。マリィは不自然に思った。

 「門を抜けたところから、ずっと甘い匂いがしているのよ。すぐに気がついたわ」

不審そうな声に、御者はばつの悪そうに説明を加えた。

 「客人の方はみなさま同じことをおっしゃいますよ。行商人なども。おそらく蜂蜜の香りではないですか。ご存知ですよね、この領地が蜂蜜で潤っているということを。

 領地で採取される蜂蜜は全てこの城に集められることになっています。つまり大量の蜂蜜がこの都市には溜め込まれていることになります。二百年もの間この産業は続けられてきました。それに黒死病対策として様々な場所で蜂蜜を溶し込んだ香が焚かれていますし、香水を付けられるご婦人も多いですからね。きっとこの都市そのものに、蜂蜜の香りが染み込んでいるのですよ。ただ私自身はここで生まれ、ずっとこの中で仕事をしているので、その香りが全く分からないのです。これが普通ですから。

 ――大丈夫ですよ、貴女も客人の方々のように、すぐに慣れます」

 ところが御者の言葉とは裏腹に、馬車が進んでいくと、香りはますます強くなっていった。僅かに香る程度だった匂いが、ねっとりと肌をべたつかせるようになった。ただ甘いだけの香りではない。色々な香気が交じり合ったもので、一区画進めばまた異なる香気と混ざった別の匂いに包まれた。空気が彩色されてしまっているように錯覚され、地の底へと近づくにつれ、マリィは軽い眩暈さえ覚えるようになっていった。

 ウロボロス城はその半ばを大地に埋めていた。傾斜が次第に緩やかになり、香気に濡れた馬車が辿りついたのは、鉢の底にもう一段深く掘られた巨大な穴の縁であった。馬車から降りて縁から城を見下ろすと、城は地の底から生えてきたようにその半身をのぞかせている。城の構造も、マリィが見たことのある幾つかの城とは全く異なっていた。石造りの城壁、城壁と城壁をつなぐ塔、それらは確かに城を構成してはいたが、実に奇妙な配置をしていた。一般的に城の構造とは、兵の侵攻に備えるために一定の機能美と必然性を持っているものだ。そのため地勢による多少の違いはあるものの、どの城であっても同じような造りにならざるをえない。ウロボロス城は、その基本構造というものを全く無視して造られているようだ。

 城は統一感のない無数の建造物で構成されていた。円形の平たい建物が幾つも点在していた。塔と塔をつなぐ空中回廊は無数の柱で支えられ、階段状になって一方の塔の上階へと繋げられていた。何本もの細長い尖塔が横並びに固まって建てられていた。中でも目を引くのは、斜めに傾いている何本かの塔、傾斜角度も方角もばらばらに、無秩序に交差して大地から突き出ている。そして完全なる球体の形をした基底部と、煙突ほどに細長い上部を持つ、花瓶のような造りの建造物である。

 これは一体何なのだろう。それが城を見たマリィが抱いた思いであった。マリィにはこれが城だとはとても思えなかった。統一性も法則性もない、いや、統一性も法則性も多様に混在した、奇妙で不自然な物体の塊、幼子が積み木で組み上げた稚拙なオブジェ。そんなイメージを抱かせた。傾斜して交差する塔は崩壊して大地に飲み込まれていく遺跡を思わせたし、等間隔を保って並び立つ細い尖塔は壮麗な神殿の一部のように見えた。点在する円形の建造物は大きさも高さもまちまちで、いまだ建造過程にあるようだった。完全な球体型の底部を持つ巨大な花瓶は、二百年もの昔にいったいどのような技術で建造したというのだろう。

 何よりも不可解なのは、それらの建物がそれぞれどのような属性を持つ建造物なのか全く分からないことである。一般的な城は城を守るための城壁と塔、そして中庭に建てられた本丸、見張塔、兵舎、獄舎、武器庫、鍛錬場、馬小屋、鍛冶屋、礼拝堂、食糧倉庫、洗い場などで構成される。それらは建物を一見すれば分かるのが普通である。ところが、この奇妙な建築群は、それぞれの建造物が何のために建てられたのか、どのような役割を担っているのか分からないのである。

 地に埋もれた奇妙で巨大なオブジェへの強烈な違和感、得体の知れないものへの恐怖感、そして纏わりつく濃密な香気、異貌の風景が与える眩暈、ありえないものを見たかのような幻惑のイメージ。目前で城門が開かれていくのを意識の端で眺めながら、マリィは頭痛を引き起こし始めていた。

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